杉元夫婦の日常
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佐一さんは元々、ちょっとロマンチストな男性だった。
結婚してから初めて彼の私室を掃除したとき、小さな本棚にしまわれているほとんどが女学生が好むような恋愛小説ばかりだった事を知った衝撃は今でも忘れられない。
だって佐一さんは顔に大きな傷がある少々強面の人だから、優しい人だとはわかっていたけど、仕方がないでしょう。
私は驚いて、まるでいけない物を見てしまったかのような罪悪感と同時に興味が湧き立ち、なぜかそのうちの一冊に手を伸ばしてしまった。
…しかし私はそこで罠のように恋愛小説にはまってしまい、結果彼の留守のうちに本棚のほぼ全てを読破してしまった。
彼にその行為がばれてしまったのは、彼が出かけたと思って私室の隅のほうで体を小さくして読んでいた時だった。
本来なら彼が仕事に行っている日中に読むべきだったけど、どうしてもその本の山場が気になってしまい、ちょっとの隙を狙って読んでいた。
案の定、主人公の悲恋に泣く私を、忘れ物を取りに来た佐一さんが見つけてしまったのだ。
はじめは、嗚咽混じりに泣く私を見てビックリしていたが、私の手にある物に気がついて佐一さんはだんだん顔が赤くなっていった。
そして、両手でその顔をぱっと隠してしまう…この人はどこまで根が乙女なのだろうか。
そんな事件をきっかけに、私たちはまた少し親しくなった。
少し他人行儀な結婚生活だったけど、その日以降はたまに夜の寝床でお互いの昔話を語り合ったりもしている。
佐一さんは旅順で健闘された方だとは聞いていたが、北海道を旅し、そこでアイヌ民族の方々と出会った話は寝床で初めて聞いた。
ある夜、ろうそくの火を消して部屋が真っ暗になると、佐一さんはゆっくり寝返って私に言った。
「なあ、名前…さんは、好いた男はいた?」
私は彼の質問にどきりとして、「え?」と聞き返す。
「えーと、恋した人、いないの?」
色々と頭の中の記憶を探ってみたけど、大して思い当たる節はなかった。
ただ唯一、小さいころから近所に住んでいた年上の男性に胸がときめく事はあったけど、あの人はすぐにお嫁を貰っていってしまったので、これが恋と呼べるのかはよくわからない。
でもこの物言いは…きっと、彼には思い当たる節があるのかもしれない。
「佐一さんは恋したことはありますか?」
図星だったのか、彼はだんまりを決め込んだ。
「…あるよ」
私は墓穴を掘ってしまったような気がして、少し胸が苦しくなる。
佐一さんは暗闇でも遠い目をしているのがよく分かり、それが名も顔も知れぬ女性を想う彼の表情なのかと思うと、あまりいい思いはしない。
「結婚、なされば良いじゃありませんか」
「え?」
「その方と。佐一さんの人生ですから、私なんて構うことはありません」
可愛くない発言だとは思ったが、私は彼に暗に侮辱を受けたような気分だったので、仕方がなかった。
するとなぜが佐一さんはもぞもぞと布団から這い出てその上に座り、同じく私の掛け布団を自分勝手に剥ぐと、同じように布団の上へ座らせた。
もう眠たいというのに、なぜ無理に体を起こされなければならないのかと思うと、少し腹が立つ。
「名前さん…って呼ぶのは、おかしいよな。名前、ちゃん」
その日初めて、佐一さんは私の手を恐る恐る握った。
「俺は名前ちゃんと結婚したこと、一緒に住み始めた日から、一度も後悔したことはない」
「………」
「でも俺は口下手だし、女の子に好かれるような男じゃないから…ほんとはこんなこと、結婚した後に聞くような話じゃなかったんだけど」
佐一さんは私の様子を探るように、触れていた左手の人差し指の爪を、自身の親指でずっと撫でている。
私は彼の言いように、なぜだか鼻の奥がつんとして、目の奥が熱くなってきた。
そう思っているうちに目からぽろぽろ涙があふれてきて、鼻をすすのが止められなくなる。
彼はぎょっとして、傍から見れば動揺しているのが見て取れるようだ。
「あ、あ、ごめんね!?違う、泣かせるつもりなんかじゃ…」
慌てた彼は自分の寝間着の袖を私の顔に当てるから、あっという間にぐしょぐしょに濡れてしまった。
私はどうしても嗚咽を止められず、佐一さんがぽんぽんと優しく背中を叩いてくれるのを受け入れるしか他ない。
「ほんとにごめん…、俺の話、もう少し聞いてくれる?」
そのままでいいから、と彼は続けた。
「俺、名前ちゃんがあの小説を読んで泣いていたのを見たとき、俺は君がこの結婚を後悔してるんじゃないかって思った」
「そっ、そんなこと、ない…」
「…ありがとう。俺は結婚してから今まで、名前ちゃんが一生懸命俺のために三食作って、洗濯して、掃除をしてくれて、尽くしてくれる姿を見ていたら、俺のためにこの先の長い人生を任せて貰ってもいいのかと、思った」
「………」
「それと、同時に、君の人生すべてを俺に任せて欲しいって、思ってる…」
涙がようやく止まって、やっと佐一さんの顔がはっきりと見える。
真剣な眼差しで私を見つめる彼の表情に、目をそらすことは決して出来なかった。
「名前ちゃん、俺は貴方のことが好きです。残りの長い人生を貴方と添い遂げたい」
順番が逆だよね、と照れた笑いで後ろ頭を掻くこの人と、私は結婚をして良かったと確信したのはこの夜が初めてだった。
私はきちんと声を出すことが出来なかったので、首を縦に振って、掠れた声で「私も」と答えた。
佐一さんは本当に嬉しそうに笑って、私の頭をあやすように撫でると、布団にゆっくり倒される。
「今晩は、手を繋いで寝よう」
古傷の入った佐一さんの左手と、最近ずっと水に荒れてしまっている私の左手が布団の外で固く結ばれ、私たちはそのまま夜を過ごした。
その夜から私たちの溝はすっかり埋まり、次第に距離も徐々に近くなっていった。
佐一さんはやっぱりロマンチックでちょっと照れ屋なところがあるけど、たまに大胆で恥ずかしくなる事がたくさんある。
最近は私の気持ちを確かめることなく突然に口づけをされることが増えたけど、その度に幸せだと思うので、仕方がないなあと思うことにした。