杉元夫婦の日常
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
少し肌寒かったその日、佐一さんと二人で銀座へ来ていた。
なので特別に少し良いお着物を着て、普段はしない口紅をさしたりして、ちょっとおめかし。
「あ、ここかな」
角を曲がった所にあるお店、本日のお目当は何を隠そう『あんぱん』なのだ。
私は嫁入りしてから初めて東京に来たので、あんぱんの味を知らなかった。
そうしたらついこの間、佐一さんの職場にこのあんぱんが差し入れとしてやって来たらしい。
その味わいを彼はその巧みな表現で私に伝えるので、思わず唾を飲み込んだら、「今度の週末食べに行こうか」と誘われた。
餡子とパンなんて変な組み合わせ、なんて思っていたら、私は大きく面喰らった。
ふんわり香る小麦の風味に、甘くホクホクした餡子、おまけにこの桜の塩漬けのしょっぱさが丁度この甘ったるい口の中を解してくれる。
「美味しい!」
往来でつい跳ね上がりそうになるほどだ。
佐一さんも出来立てのあんぱんの入った紙袋を手に持ちながら、満足そうに笑った。
その後、2人で歩いていたら華やかな鉢植をたくさん置いた小さな花屋が通りで営業しているのを見つけた。
「そういや、名前ちゃんの実家には沢山鉢植の花が飾られてたよねぇ」
お義母さんは花が好きなの、と聞く佐一さんに、私はつい思い出し笑いをしてしまった。
「ふふ、気になりますか?」
「そんなに可笑しな話なの?」
「あれはね、父と母が喧嘩をした証なの」
佐一さんが首を捻るのは当たり前だ。
私の母は生まれのせいか気が強くて、父とたまに口喧嘩をする日があった。
暫くはお互い会話を交わさないけど、そういう時は決まって父が仕事の終わりに花屋に寄って、鉢植の花を母に贈って仲直りするのが通例なのだ。
そうすると鉢植は喧嘩の度にひとつふたつと増えてしまうので、庭はどんどん賑やかになった。
「へぇ〜、何だか良い話だね」
「母は迷惑がっていますよ、世話をするのも一苦労なんだもの」
佐一さんは紙袋を持っていない空いた手で私の片手を掬って、感触を味わうようにぎゅうっと握った。
私は人目が気になってちょっと目を伏せると、佐一さんは「俺たちも、そういう仲良い夫婦でいようね」と小声で言った。
ところが昨日、そう約束したのが嘘みたいに佐一さんと喧嘩をした。
喧嘩というよりは私が一方的に腹を立てているだけなのだが、きっかけは昨夜彼の帰宅が遅いことだった。
最初は残業だと思っていたから、夕方作って皿に移していたお煮しめは鍋に全部戻し、帰って来ればまた温め直せばいいと考えていた。
ところが夜中になると急に雨が降り始めたので、今朝佐一さんが傘を持って出なかったことを思い出して、私は彼の職場まで傘を一本手持ちで歩いて行った。
…しかし職場に着くと彼はおらず、代わりに夜の当番で常駐していた男性が私に「杉元さんなら、今晩は昼番の人間と居酒屋に行くと言ってましたが」と伝えたので、私は怒りを覚えながらそのまま帰宅した。
酔っ払ったずぶ濡れの佐一さんとは丁度玄関先でばったりと鉢合わせた。
革靴の靴紐が上手く解けなくて四苦八苦している佐一さんは引き戸が開いて私が入ってくると途端に目を泳がせる。
私はそれにまた腹が立ったので、「おかえりなさい」の一言もせず、寝間着に着替えないまま一人分の布団だけ敷いてふて寝した。
その翌朝、寒さに目が覚めたので仕方なく朝餉の支度をしていると、佐一さんが目を真っ赤にしながら土間にやって来て、「ゆうべは本当にごめんね、名前ちゃん」と謝ったのも全部聞こえないふりをして、昨日作ったお煮しめを火に通さず冷たいまま食卓に出してやった。
やっぱり私のこの意固地な気性は母に似ていると思った。
昼間、家で一人繕い物をしていると、今朝の何にも言わない私を気にしながら背中を丸めてご飯を食べている佐一さんをふと思い出す。
でも悪いのは彼の方だ、せっかくの食事が全て台無しになってしまったし、そもそも何も話さず勝手に居酒屋へ行ってしまうのがいけない。
チクチク無心に針を動かしていると、いつの間にか縫い目が曲がってしまっていた。
「はぁー」
大きい溜息が出てしまった。
…私は彼に面倒な女だと思われてしまっただろうか。
そんな事を悶々と考えていたら、空はあっという間に厚く黒い雲に覆われていって、遠くの方でごろごろと鳴り始めた。
私は縫物を床に置いて玄関まで歩くと、傘立てには黒くて背の大きな佐一さんの傘が残っていたので、また大きな溜め息が出た。
お夕飯の買い物もまだだったから、そのついでだと思い、私は傘を二本持って彼の職場へ向かう。
相変わらずの曇り空の中、彼の職場へ着くと佐一さんではなく、昼番の男性が「杉元さんなら早引きしましたがね、何でも銀座に用事があると言っておりましたな」と言うので、私は面食らった。
「佐一さんのバカ!」
往来で恨めしそうに彼の大きな傘を握って呟くと、また厚い雲の向こうでゴロゴロ音がした。
傘を余計に二本持ったまま市場で買い物をして魚を三尾買ったところで家に帰ろうとすると、前髪に冷たい滴がぽたりと垂れた。
あ、と思った瞬間、灰色の空からポツポツと叩くような雨が降ってきて、慌てて黒い大きな傘を差すとそのうちザアザアと本降りになった。
ちょっと駆け足で家の門まで走ると、同じように自宅の門に駆ける人影が見えた。
「あ、名前ちゃん…」
びしょ濡れで玄関に腰掛けるその人は、大きな傘を差している私を見て目をまん丸にしていた。
「もしかして…傘、届に来てくれてたの?」
気まずそうな顔をしていたので腹が立って、「そうですよ!」と乱暴に返事をしてしまった。
びしょ濡れの彼の傘と、乾いたままの私の傘を傘立てに立てて、革靴の紐に苦戦している彼を尻目に台所へ向かってから、洗濯してから乾いた手拭いを未だ玄関に腰掛けている彼に渡した。
「あの…怒ってる、よねぇ…?」
濡れた髪を拭きながら、彼は私のご機嫌を伺った。
本当は今こそが仲直りする機会だと思ったけど、やっぱり意固地な私は可愛げなく「知りません」と答えてそのまま家の中へ入ろうとした。
そしたら佐一さんの手が私の腕をぐっと掴んで、冷たい板の間に尻もちをついてしまった。
「これを買いに行ってたんだよ」
端っこが少し濡れた紙袋を押し付けられた。
「…あんぱん…?」
紙袋の中を覗いたが、雨が降っていたにもかかわらず、中のあんぱんは一滴も濡れていなかった。
ふわっと温かい空気が鼻をくすぐって、小麦の香ばしい香りがする。
「名前ちゃんのご両親は喧嘩したら、仲直りに花を贈ってたって言ってただろ?…でも、この時期だから、花は売ってなかったんだ」
「でも…どうしてあんぱん?」
佐一さんは紙袋の中に手を突っ込んで、一つだけあんぱんを掴むと、濃い焼き色のついた表面を私に向けた。
そしてその真ん中のへその部分を指さしてこう言った。
「ほら、花があるじゃない、ね?」
桜の塩漬け。
まるで子供みたいな頓智に、私は腹が立っていたことも忘れて、思う存分笑ってしまった。
まだ出来立ての温かいものだから、夕餉の支度よりも先に食べてしまおうと佐一さんが言ったので、湯の準備だけして居間の畳に腰掛けた。
パンは空気を含んで柔らかいし、餡子は荒くこした小豆のぷちぷちした触感と滑らかな甘さで口の中でいっぱいになる。
無心で頬張っていると、佐一さんは円卓に頬杖をつきながら、にやにやして私を見つめていた。
「ごめんね、名前ちゃん」
「…私こそ、大人げなくてごめんなさい」
佐一さんは円卓に置いていた私の右手に、自分の左手を重ねると、無理やり小指同士を絡ませて「仲直りだね」と言った。
「もう…佐一さんはよっぽど私を肥えさせたいみたい」
「そうだよ、もっと太らせて、パクッと食べちゃうからね」
ずっと私の手を撫でていた彼の手が離れて、円卓の下へぱっと隠れた。
そしたら急に太ももがくすぐったくなったので目線を下にやると、佐一さんの隠れた手が着物越しに下心を含んだ手つきで私の足を撫でていた。
「…今日くらいが、食べ頃かなぁ」
私はもう、彼の言い方に恥ずかしくなって、まだ半分残っているあんぱんを食べるのを止めて、俯いてしまった。
佐一さんは私の頭を優しく撫ぜて、「食べ終わるまでちゃんと待つから」と言いながら、私の頬に唇を寄せた。