杉元夫婦の日常
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ここ最近の暑さは異常だ。
日中は少しでも外に出て歩いてみれば汗は滝のように流れるし、夜は風がないので寝苦しい。
それは妻も同じのようで、たまに夜中あまりの暑さに目が覚めると、彼女は隣の布団で眉間に皺を寄せながら寝ている事が多かった。
ある日、俺が仕事から早く帰ってくると、開きっぱなしの戸から妻の名前ちゃんが玉のような汗で額を濡らしながら土間に立って夕餉の支度をしているのが見えた。
少しうわの空な気味だったのが気になったが、暑い中、釜の湯気を浴びながら支度をする彼女の健気さを目の当たりにして、胸がきゅんとときめく。
そして陽が落ちて名前ちゃんが俺を食卓に呼ぶと、俺の茶碗側には魚が二尾と漬物・汁物が揃っているのに、彼女の箸の前には冷やご飯の入った小さな茶碗と漬物だけ。
「名前ちゃん、それだけ?」
彼女は自分の茶碗に温い茶を注いで、そこに漬物をふた切れ乗せて、頷いた。
「あまり食欲がなくて…」
「ひどいようなら、医者を呼ぼうか?」
「そこまでじゃありませんよ、寝てれば明日には調子は戻ります」
名前ちゃんはそう言って、俺が全てを平らげたとほぼ同時に一杯の茶漬けを食べ終わった。
その後は食器などを片付けてから、一息つく間もなく彼女は早々に布団に入った。
しかし、その次の日もまた明くる日も、彼女の食欲はいつまでたっても治らない。
それどころか、いよいよその食生活がもう普段通りのように思えて来た。
またある日、同じように早く寝床に転がる名前ちゃんの薄い寝間着越しに見える胸や尻にむらっと来て、ほんの少し確かめるように太ももを撫でていると、不機嫌な声で窘められた。
「もう、佐一さん、明日も仕事じゃないですか。寝なきゃ体が持ちませんよ」
そんな物言いの彼女は珍しくて、俺は叱られてしまったような気になり、自分勝手な気持ちな高ぶりをどうすることもできずそのまま寝床についた。
その日以降もしばらく、断られる日々が続く。
そんな日が続いた一週間後、俺は近所の爺さんから遅咲きの熟したスモモを3つ貰った。
家に帰って名前ちゃんに見せると大喜びし、夕餉のあとに食べましょうと言ったので、今日は体調が戻ったのかとほっとした。
が、食卓にはやっぱり彼女の前には茶碗が一杯のみ。
しかし驚いたのはその後、綺麗に皮ごと切られた3つ分のスモモを、名前ちゃんは矢継ぎ早にバクバクと食べるので、俺はそれに怯んでほとんど手が付けられなかった。
それに気がついた名前ちゃんが顔を真っ赤にして手を止めたから、俺はそれが可愛く思えて、スモモの入った皿を彼女の方へ寄せる。
「ご、ごめんなさい…意地汚くて」
「いいよ、名前ちゃんがスモモ好きなんて知らなかったなぁ」
「…スモモはすっぱいから子供の時は好きじゃなかったんだけど、なんでかなぁ。でもスモモだったら、いくらでも食べられそう」
「ほんと?じゃあまた明日、爺さんにもらってくるよ」
肝心な飯が食べられないのは気になったが、唯一彼女が食欲を見せる食べ物が見つかった事に心底嬉しくなって、俺は翌日あのスモモの爺さんの庭へ寄った。
名前ちゃんが甚く気に入っていた事を告げると、爺さんは快くまたスモモを3つくれた。
「いやぁ、最近あんまり食欲がねぇのに、このスモモだけは食えるからさ」
「食欲が?嫁さんは何か患ってるのかい」
「いや、病では無いって言うんだけど、ただ…」
俺はその爺さんに、一部分を除いて全てを話した。
すると爺さんは目をまん丸くしたあと、にやにやと探るような目つきでにやけ笑いをする。
「お前、それは子が出来たんじゃねぇか?」
反対に俺は心臓が貫かれた思いがした。
「え、え、こ、コ?」
「そうだよ、お前さんの子供だよ。思い当たる節は沢山あるだろ、最近寝るのも断られっぱなしじゃねえか?」
「そ、そうだ!」
こうして俺は隠していた一部分も全てバラしてしまった。
家に帰ると開けっ放しの戸からもうもうと湯気が出ていたから、土間に彼女がいる事はすぐにわかった。
俺は堪らなくなって勢いよく家の中へ入ると、名前ちゃんは当たり前に驚いている。
「名前ちゃん!」
「えっ、お、おかえりなさい」
汗ばんだ額を首にかけた手ぬぐいで拭っている彼女を、持っていたスモモを潰さないように避けて、力いっぱいに抱きしめた。
「名前ちゃん、俺、立派な父親になるからね〜!」
「は、はぁ?」
湯気で火照った頬がまるでスモモみたいに可愛くて、そのまま唇に食いついてやろうとしたけど、戸が開いているからと叱られてしまった。
それから1週間の間、俺は名前ちゃんの体にはそれなりに気を遣っているつもりだった。
日中は仕事のために彼女の側にいることは叶わないが、家に帰ればやれることはしてやる。
本当は台所に立つのは彼女自身が嫌がるからしない方が良いのだろうが、食べ終わった食器を片付けるくらいはした。
何かを持ち上げようとしている姿を見かけたらすぐに飛んでいき、重かろうが軽かろうが必ず俺が運んだ。
夜、寝付くまでの間は生まれてくる我が子が待ちきれなくて、名前ちゃんのお腹を撫でる。
そうした行動を起こすと必ず、名前ちゃんは何かを疑うような目つきで俺を見る。
…俺は普段、そんなに気の利かない旦那だったんだろうか?
しかし彼女の食欲はやっぱり治らず、それでいてスモモだけはバクバク食べた。
そしてある日、俺はいつもの通り近所の爺さんの家へ行きスモモを貰いに行った帰り、自宅の隣に住むおばさんが慌てて走り寄ってきた。
息を整えながら縋るように俺の上着の裾を掴んで来たのですぐに家で何かあったんじゃないかと察した。
何も考えられず足を急がせると、土間には散らかった名前ちゃんの履物が散らかっていて、俺は血の気がさっと引いた。
まさかどこかの輩が家に押し入って彼女を攫ったんじゃないかという考えが同時に沸き上がると、ふつふつと身体中の血液が煮えたぎっていく。
憤りのまま家中を駆け回ると、彼女は意外にも、縁側で座布団を枕にして寝そべっていた。
俺はまずは彼女を見つけた安心感からその場に座り込んだ。
「名前ちゃん」
肩を揺すると彼女はゆっくり目を開けたが、どこか虚ろで意識が薄い。
後からようやく追いついたおばさんが、白衣を着た町医者を連れて自宅に上がり込んできた。
「あたしが家にお邪魔しようと思って土間の方に行ったら、この人ったら段差のところで倒れてたから慌てて起こしてここに寝かせたのよ」
おばさんが俺に事情を説明している間、町医者は革の鞄から聴診器を取り出して、帯を緩めた着物の隙間から肌に当てていた。
執拗にお腹を聴診器に当てるから、俺はまた血の気がさっと引いた。
「せ、先生、名前ちゃんは大丈夫なのか?」
「んー」
「子供は、俺たちの子供は!?」
その言葉におばさんも驚いて、「あんた妊娠してたのかい!」と名前ちゃんに詰め寄る。
名前ちゃんはやはり余程容態が良くないのか、「え?」とあまり話が聞こえていないようだ。
「名前ちゃん、ごめんよ俺はほんとに至らない男で!」
無理矢理にでも栄養のある物を食べさせておけば良かった。
日中、俺の目が届かない間は近所の誰かに面倒見てもらえるよう声をかけておけばよかった。
そんな後悔の念から許しを乞うように彼女の手をぎゅっと握りしめていると、町医者が聴診器を耳から外す。
「まぁ、夏バテでしょうね」
「な、夏バテ!?」
「大きな病ではないから、気にせんでよろしい」
まずは彼女のことは安心した…しかし問題はまだ残っている。
「あの、それで…子供は大丈夫なのか?」
「はぁ?」
町医者は大きな瓶底眼鏡をずらして、じっと俺を見た。
「だから、な・つ・バ・テ。妊娠しちゃおらんよ」
当たり前のように言ったが、俺は「へ?」間抜けな声を上げて、ぽかんと口が塞がらない。
言いのけた本人は聴診器をさっさと鞄の中にしまいながら、「まあ精のつくもの食べて、体調が良くなってからですな、子作りは」とあっさり言う。
真っ赤になった名前ちゃんが、蚊の鳴くような声で「佐一さんのバカ…」と言ったのが、やけに耳に残った。
「もう、今日は佐一さんのせいで恥かきました」
夜、今日は風があり涼しいので、寝室の襖を全て開けていた。
名前ちゃんはあれからずっと布団の上で休んでいたので、その傍らで爺さんから貰ったスモモを皿の上に切り分けていた。
「はは、俺の早とちりだったね、ごめん」
名前ちゃんはわざわざ体を起こして、皿の上のスモモを一切れ口に放り込む。
口をすぼめて酸っぱさを我慢している顔が、ちょっと幼くて可愛い。
俺もつられて一口含んだが、何故だか前に口にした時よりもずっと酸い気がする。
「もうスモモの時期も過ぎたかなぁ」
「そうですね。私…明日から、きちんとご飯も頂きますから。心配かけてごめんなさい」
「謝る必要ないだろ、俺は名前ちゃんの亭主なんだからさ」
手ぬぐいで拭いたばかりの手を、名前ちゃんはおずおずと握って、ちょっと照れ臭そうに視線を落としていた。
彼女から触れることは稀だったから、俺はびっくりして、不意打ちに胸が高鳴る。
「だから、あの…早く、子供ができるように頑張りましょうね」
今度は俺の頬がスモモのように赤くなる番だった。
その時がきたら、俺はきっと我慢していた分、ずっと頑張ってしまいそうだとモヤモヤしながら、彼女があまり手をつけなくなってしまったスモモを口に放り込んだ。
やっぱり、前よりずっと、酸っぱくなった。