杉元夫婦の日常
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俺は近所の市場にある酒屋の店主があんまり好きじゃなかった。
年のくらいは俺と変わらないが、所帯持ちのくせにやんちゃで、よく花街で酔っ払って歩いているのを見たという話がやたら多い。
それだけなら別に構いはしないが、たまに名前ちゃんの使いでそこの酒屋に料理で使う清酒を買いに行くのだが、この男は明らかに亭主のいるようなご婦人であっても、若い女性と見れば見境なく、いつも芸者に利くような下品な言葉をかけたりするのだ。
なので、俺はたまに台所へ行って、瓶の中の酒がなくなりそうになると、名前ちゃんに必ず声をかける。
俺は次の日、空瓶をそこの酒屋に持って行って、新しく清酒を買って帰るのが決まりだった。
どうしても俺が手が離せない時には、一銭でも二銭でも高くていいから、別の店で酒を買っておいでと名前ちゃんには伝えてある。
あの下品な言葉をかけられているご婦人が名前ちゃんだったらと思うと、やっぱり亭主としては鼻持ちならないのだ。
「…名前ちゃん、この一升瓶って…」
昨晩、いつものように台所の瓶を確認した時、確か中身はほとんど空だったはずだ。
俺は当日どうしても終業の時間が押すので、その次の日しか買いに行けない事を告げた。
しかし、なぜか一升瓶の中はたっぷりと清酒が溜められている。
「いつも佐一さんに行って貰ってるので、たまには私もと思いまして!」
重かったですけど、頑張りましたよと自慢げに言う彼女のことは褒めてやりたいが…。
「い、いやぁ、別に…そんなこと気にしなくてよかったんだけど…」
「それにとても久しぶりに酒屋のご主人とお会いしましたけど、やっぱり明るくて気前の良い方ですね」
気前が良すぎるのは名前ちゃんの前だけだ、あの野郎。
俺が来るときは傷のある男が怖いのか、愛想振りまく余裕もなくさっさと用件を済ませるだけのくせに。
名前ちゃんは鼻唄を歌いながら、ご機嫌で鍋の中の里芋を菜箸で転がしていた。
別に何もないなら良いんだが、と思いながら被っていた帽子を居間の畳に置き、ブーツの紐を緩めていると、名前ちゃんは何かを思い出してくるっと振り返った。
「ねぇ佐一さん、ワカメ酒ってご存知ですか?」
…俺はビックリして声すら出なかった。
「…え、え?」
「ですから、ワカメの…」
「あー!あー!待って、名前ちゃんの口からそんなの聞きたくない!」
靴を脱ごうとしていたのをやめて、とんでもない事を平然と言ってのける名前ちゃんの口を手で急いで塞いだ。
彼女は、私そんな変なこと言ってないですよ、と言った風な抗議を視線で表している。
「一体誰がそんなこと」と言いかけた途中で犯人はわかった、「酒屋のご主人です」…あの野郎、うちの女房に妙な入れ知恵しやがって!
「地酒でしょうかね、それともお酒にワカメを入れるんですか?」
「いやそれは…」
「佐一さんだったらご存知だって、ご主人が言うものですから」
そりゃ男なら誰だって知ってる、俺が本物を初めて見たのは旅順に行く前、景気付けがてらに連れて行かれたお座敷だ。
他の男衆は喜んで啜っていたが…俺はあの姿が間抜けで阿呆らしく見えたので、お前も啜れと言われたが嫌だと断った。
「でもどうしてワカメなんでしょうね。だって昆布の方が、美味しいお出汁が出ますよ」
無邪気にワカメ酒について云々考える名前ちゃんが可愛らしくていじらしくて…、俺がやってくれと言えばその通りにするのだろうかと思うと、胸のあたりがむずむずした。
「じ、じゃあさ、名前ちゃん…」
「はい?」
「俺、調べとくからさ…今度作ってくれる?」
俺がこういうお強請りをすると、なんだかんだで嬉しそうに受け入れてくれる素直さが彼女の魅力のひとつだった。
「はい、明日、早速ワカメを買ってきます!」
それが昨日までの素直で可愛い、無垢な名前ちゃんだった。
そして今、やたら酒臭い寝室の布団から、冬眠中の熊のように出てこなくなってしまった。
「佐一さんのバカ…」
「ごめん…」
「むっつりスケベ…、何で昨日のうちに教えてくれなかったんですか…」
俺もその横で体を酒と汗でベタベタにして、さらに酔いが回って頭がクラクラしていた。
「いやーだって、教えたら名前ちゃん、絶対試させてくれないだろうなぁって思って…」
「試す試さないとかそういう事じゃないんですよ!」
冬眠中の熊は自ら布団を剥いで出てきた。
俺と同じく酒で火照ったのか、名前ちゃんの肌は少し赤みを帯びているように見えた。
「わっ、私、酒屋のご主人に恥ずかしい事申し上げました」
「恥ずかしい事?」
「『主人に飲ませてみます』って…すごく大きな声で…」
「ああ…でも、煽ってきたのは向こうの方だろ。名前ちゃんが気にすることはないよ」
むしろこれから酒は必ず俺が買いに行ってくるし。
憤りを露わにする名前ちゃんの頭を撫でると、「…それだけじゃないですよ」と今度は鼻先を真っ赤っかにして、眉毛をより一層下げた。
「今日は魚屋で、『主人にワカメ酒を作るんです』って、言っちゃった…」
そう言うと羞恥心が頂点に達した名前ちゃんはまた布団を被り直して、あーとか、うーとか、呻き声を上げ始めた。
次の日の朝、ワカメはちゃんと味噌汁の中に入っていた。
しばらくの間、名前ちゃんは例の酒屋はもちろん、魚屋まで行けなくなってしまったので、代わりに俺がお使いに行く事になった。
酒屋の店主はやっぱり強面の俺が怖いのかだんまりだったが、もとより顔見知りだった魚屋の店主はニヤニヤしながら「今日は奥さんに免じて、おまけつけといてやるから」と嫌味のようにワカメを一房つけてきた。
名前ちゃんはワカメに対し相当心が傷付いてしまったみたいで、触ろうともしないので隣の奥さんに全ておすそ分けだ。
…しばらくは味噌汁や酢の物など、食卓にワカメが並ぶことはなくなったのだった。