杉元夫婦の日常
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隣の家の柿の木に、沢山実がなった。
すぐ隣の大きな木だったので、生垣の向こうでも縁側からだいだい色のそれがよく見える。
暫く経ってから、隣の奥さんがカゴに柿をたくさん入れてくれたので、私は佐一さんがいない間にひとつだけ、皮を剥いて齧った。
…とたんに舌が痺れるような渋み、こいつの正体は渋柿だったのだ。
「アハハ!食べちゃったんだ、名前ちゃんは意外に食いしん坊だなぁ」
家に帰った佐一さんにその事を話すと、ケラケラ笑った。
あの木の柿はカラスが突っついてなかったでしょ、と言われてみれば今日までほとんどの実が木にぶら下がっている。
「だって…私の家の柿の木は甘かったから…」
「じゃあ、干し柿とか作らないんだ?」
「干し柿…食べたことありません」
佐一さんはすごく驚いていた。
干し柿をすだれのように窓際にたくさん吊るしているのはよく見覚えがあったが、口にした事は一度もなかった。
だってあんなに皺くちゃで、皮が白く濁って硬そうなのに、ほんとに甘いのか疑わしいんだもの。
「干し柿、うまいよ。甘柿よりもうんと甘くなるんだ」
「甘柿よりもですか?」
「うん。俺の一番の好物なんだ」
…そう言う夫の期待に応えてあげるのが、妻のつとめだと思い、私は次の日隣の奥さんを訪ねた。
干し柿の作り方を教えてくれと言うと、無知な私に少し驚いていたけど、快く教えてくれた。
(もとよりこれは、干し柿にして食べるために分けてくれたものなのだろう)
奥さんは長い紐をくれて、柿のヘタの結び方を見せた。
家に帰るとすぐに大量の柿の皮を剥き、さっき習ったとおりに紐に結んでから、沸かしていた湯にさっと通す。
沢山の柿で出来たすだれを、雨に当たらない縁側の屋根下にしっかり結んで、あとは食べ頃を待つだけだ。
あっという間に夕暮れになって食事の準備をしていると、バタバタと足音を立てて佐一さんが帰ってきた。
「おかえりなさい」
「あれ!」
佐一さんが指差す方向は縁側の方だ。
多分、生垣から屋根下に吊るされた柿を見つけたのだろう。
「はい、お隣から作り方を教わりました」
「それって俺が昨日、干し柿好きだって言ったから?」
そうじゃなくても、あの大量の渋柿をどうにかするには、これしか方法がないのだが…。
「そうですよ」
「ありがとう!俺は何より、名前ちゃんのその気持ちが一番嬉しいんだ」
大げさだとは思うが、本懐はそうなので、喜んでくれて何よりだった。
佐一さんは私の手を握って、「俺は日本一幸せな亭主だ」とか「名前ちゃんを嫁に貰えて本当に良かった」と壮大な話にすり替わっている。
出来上がって、甘くなかったらどうしよう。
彼の期待が膨らみ過ぎて、その分不安がたくさん過ぎった。
干し始めてから一週間、佐一さんはとくに様子も変わりない。
柿は少し色が黒くなって、手で揉むと外側の皮がもう硬い。
二週間ほど経った、佐一さんはいつもそわそわして、たまに縁側と居間をふらふら行ったり来たりした。
柿はすっかり赤黒くなって、ちょっとでも揺らしたらそのまま実がぽとりと落ちてしまいそう。
「おたくの家の干し柿は、もうそろそろ食べ頃ねぇ」
隣の奥さんにそう言われたので、吊るしていた柿を2つもいだ。
帰ってきた佐一さんにそれを見せると子供みたいに喜んで、夕餉の前なのにもう食べようと言って、もう片方を私に渡した。
硬くなった柿の実を手で割くと、まだ中はきれいなだいだい色で、そこからとろりとした蜜が溢れてきた。
慌ててぱくりと口に含むと、まるで糖蜜をそのまま啜っているようで、柿の風味が感じられて、実家の甘柿よりずっとずっと甘かった。
「甘い…」
ついこの間まで、びっくりするほど渋かったのに。
私の隣で佐一さんも同じく干し柿に齧り付いて、本当に嬉しそうに頬を緩めている。
「干し柿を食べたのは、出兵する前が最後だったかな」
どれくらいだろうと、佐一さんは指を折る。
「そんなに前ですか?」
「うん、冬まで旅順に駐屯していたし、それからはずっと北海道の方にいたからね。あそこでは干し柿は作られてなかったから」
私たちはそのまま片付いた居間の食卓に肘を置き、中の蜜を吸い出すように啜りながらゆっくり干し柿を食べた。
あんまりにも甘いので、少しずつ、ゆっくり食べなければ舌が痺れてしまいそうだ。
「名前ちゃん、ありがとう」
佐一さんは本当に嬉しそうに笑うので、私は今までの時間がとても報われたような気がした。
じっと慕うような目で私を見つめてから、丸々一個食べ終わった佐一さんの指が、まだ食べ終えない私の頬をつっつく。
彼の指には柿の蜜が付いていたみたいで、触れた部分が少しベタついて、柿の甘い匂いが香った。
「俺は甘柿も好きだけど、時間と手間がかけられた干し柿の方がうんと好きなんだ。誰かがわざわざ皮をむいてくれて、紐に通して吊るして、長い時間をかけると、こんなに甘くなるんだもんなぁ」
…彼は干し柿の話をしているはずなのに、ずっと私を見つめていた。
「名前ちゃんみたい」
「…わ、私、まだこんなに皺くちゃじゃありません!」
私はそれが口説き文句だとやっと気付いて、顔の火照りが収まらないので、俯きながら干し柿を齧った。
円卓を挟んで向かい合っていたはずの佐一さんは私のすぐ隣に座りなおして、「ごめんね」と耳元で囁きながら私の肩を抱いた。
あんまりにも恥ずかしくなって、私は食べかけの半分残った干し柿を肩に置かれた手に無理やり握らせて、そそくさと立ち上がった。
「私、食事の準備が残ってますから!」
「え、いいの?やった!」
…途端にころっと目つきを変えて嬉しそうに干し柿を頬張りはじめたので、もしかして私は嵌められたんじゃないかとふと思った。
でもやっぱりあれだけ彼が嬉しそうに笑っていたので、私はとても誇らしい気持ちで台所に立っていた。