Ma Petite Menteuse
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午後6時前、客足も落ち着き、シンクに溜まった食器にようやく手をつけようかというタイミングで、ドアに吊るしたベルがカランと鳴る。名前は「あっ」と短く声を上げた。
「いらっしゃい、蘭…と、コナンくんだっけ」
泡だらけのスポンジを片手にした名前はカウンター越しに身を乗り出して、見上げる眼鏡の少年と視線を合わせた。ちょうどビルの真上に居住している彼ら二人、今夜の夕食はこの喫茶店で済ませるつもりでやって来たらしい。
安室が氷水がたっぷり入ったピッチャーと、空のグラスを二個手にして、少しくだけたような様子で二人が座るボックス席まで運ぶ。アルコールで拭き上げたばかりのメニュー表を手にした蘭が、そういえば、と安室を見上げた。
「そういえばね、安室さん! 今日名前ちゃんが学校に持ってきた手作りのハムサンド、すっごく美味しかったんですよ!」
蘭の無邪気で明るい声が、ポアロの店内に響き渡った瞬間、グラスに水を注いでいた安室の手の動きがそのままの姿勢でピシリと止まる。グラスの縁に水が乗っかるか乗っからないか、すんでのところで彼は意識を取り戻した。
(……手作りの、ハムサンド?)
どちらかと言えばそれは、ひどく個人的なプライドを燻った一言かも知れない。女子高生相手に大人げない話だが。
その負けず嫌いな性分をよく知っている諸伏は、安室の表情が曇るのを見逃さなかった。喫茶ポアロのキッチンを掌握している、料理人としての矜持。その静電気のようにバチリと走る空気感を、蘭の向かいでメニュー表を握り締める小学生男児は言われずとも感じ取っていた。
そんな空気感を、直後に開け放たれたドアがサッと外へ逃がしてくれた。カランと軽快なベルの音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
反射的に完璧な営業スマイルを顔に再構築し、安室が入り口へと視線を向ける。
そこに立っていたのは、安室との会話とハムサンドの虜になっている常連客…ギタリストの元恋人が立っていた。少しはにかんだような、控えめな笑顔を浮かべて店内を見渡している。
その足元へ、待ってましたとばかりにギターケースを背負った幽霊が猛ダッシュで駆け寄り、ぴったりと縋りついた。
「すみません、また来ちゃいました」
《おおっ、今日も疲れた顔してんなぁ! 大丈夫か!?会社でなんか嫌なことあったか!?俺が肩揉んでやろうか!?》
《いや、肩揉むどころか、余計に重たくなるだけだぞ》
幽霊たちが生きた人間をそっちのけにして言い合っている間に、女性客はいつものことのようにカウンター席の座面の高い椅子に座った。安室が汗を掻いた重たいピッチャーを蘭たちのテーブルの上に載せると、すかさずカウンターの内側に滑り込んで女性客に声掛けようとする。
が、今日は“いつもの”通りにはいかなかった。
「“いつもの”、ですよねっ?」
カウンターの向こうから、両手を泡だらけにした女子高生新人アルバイト・名前が食い気味に女性客へ言い切った。
彼女の瞳は、先日事故現場で見せたような、あるいは今日遅刻を叱られてシュンとしていたような、そんな隙だらけの女子高生のものではない。明確なミッションを帯びた、謎の決意に満ちた顔つき。
じり、と、安室と名前の間には張り詰めた空気が漂った。
「…安室さん。実は私、昨日の夜に猛特訓して、もろ…じゃなかった、安室さんのハムサンドを『完璧に』再現しました!」
その目は決して挑戦的なものではない。誰かに褒められたいからと背伸びをしてみせる、思春期の女の子特有の見栄が見え隠れしている。
『完璧に』という言葉の裏付け、普通なら「たった一晩で完璧に再現できるはずがない」と笑い飛ばすところだが、先ほどの蘭の証言がある以上、油断はできない。
「……なるほど、いいでしょう」
安室の目は一瞬だけ据えた。一介のカフェ店員のそれではない。
やれるもんならやってみろ。
目の前の小娘を、社会経験という名の逆立ちしたって越えられもしない壁で、現実を思い知らせてやろうという、意地汚い三十路前の男の自尊心があった。
二人の間で、またバチリと静電気のような空気感が走る。それをすべて攫うようにして、コナンの「ぼく、オムライスにしようかなー」という無邪気なオーダーが聞こえてきた。
その声に、安室が動くより先に、名前の方がフライパンを先に手に取る。彼女の背中に立ち込める気迫のようなものは、その背後に控えた見えない”二人のシェフ”がもたらすものだった。
◇
喫茶ポアロの、心安らぐようなコーヒーの匂いとは全く似つかわしくない、暴力的な音が響き渡った。
二人の霊体シェフの檄を背中で受け止めながら、名前は慌ただしく、しかし正確にオムライスとハムサンドを同時に作り上げていった。
《いいかい?まず、味噌を先にペースト状にしてから、室温に近いマヨネーズを少しずつ加えて練るように混ぜる。性質が違うもの同士、乳化させることが大切なんだ》
《いちいちハムなんか切るのに包丁なんか使うなよ!手で引きちぎって入れるんだ!あとにんにくチューブは親の仇みたいに入れろ!》
かたや繊細さを求められ、かたや豪胆さを強いられる。ワン・オペレーションの戦場と化したポアロのキッチンでは、大量のマーガリンが溶ける匂いと、強烈なチューブにんにくの刺激臭。そして、砂糖をたっぷりと含んだ卵が焦げる、なんともジャンクで甘ったるい香りが、コーヒーの芳醇な香りを一瞬にして換気扇の外に追いやった。
(……手で、ハムを引きちぎった?)
目の前の女子高生は、安っぽいマーガリンがひたひたに溶けた鉄のフライパンに、そのまま賞味期限切れ間近の特売ハムをポイポイとちぎって投げ入れる。
その光景を、信じられないものを見てしまったかのように、安室は口を手で覆った。目分量というより、何かに急かされるように調味料を入れ、卵に至ってはわざと焦げるのを待っているような素振り。
しかし、カウンター越しにその様子を見ていた女性客は、鼻をひくりと動かして、「あ…」と小さく声を漏らした。
「…ねぇ、蘭姉ちゃん。ぼくのオムライス…なんかいつもと全然ちがう感じがするんだけど…」
「う、うん。なんていうか、豪快だね…」
もうもうと換気扇に呑まれていく、見た事もないような量の油煙と、胃袋を刺激というより攻撃するようなジャンクな匂いに、コナンは引きつった笑いを浮かべていた。
(ほんとにこれでいいの?いいんだよね!?)
作っている本人ですら、そう疑わざるを得ないほどだ。だけど確実に、自分の腕によって作り上げられていく料理は、『誰かの記憶』そのものだと彼女は思った。レシピなんてものが存在しない、日常に溶け切って馴染んだ、その人の料理と言う名の個性なんだと。
◇
「お待たせしましたっ、“いつもの”です!」
ドン、とカウンターテーブルの上、女性客の目の前に皿が堂々と置かれた。
「えっ、あの…これオムライス…」
「ど・う・ぞ!」
「あ、は、はい…」
女性客はなぜか悪びれる様子もなく、平然とオーダーミスを押し通そうとする女子高生の勢いに負けた。しかし、その家庭料理と言うより、居酒屋の賄いに近いような匂いのするオムライスに、女性客はなぜかスプーンを自然と握ってしまったのである。
スプーンを差し込み、ポロポロとダマになって掬った側から零れる卵とケチくさいケチャップライスを、おそるおそる口にする。
ひとくち食べて少し咀嚼。
飲み下して、数秒あけてから、また口にした。
喫茶ポアロの誰もが彼女の反応を待った。もちろん、幽霊二人もだ。
「……う、うう…」
女性客は突然、ポロポロと涙を流し始めた。名前どころか、作らせた張本人であるギタリストの幽霊までも、おろおろと狼狽え始めた。
《おい、どうしたっ!?》
「えっ、あ、ああ、あの!まさか、まずくて泣いてるんじゃ…」
スプーンを握り締めた彼女は、スーツの袖口で鼻を擦って、首を横に振った。
「……違うんです。美味しくて、懐かしくて。ずっと、これを食べたかった…っ」
そう言うと、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくりながら、彼女は再びオムライスを口に運ぶ。見栄えも悪く、匂いも強烈なそのオムライスを、まるで世界で一番の御馳走であるかのように、愛おしそうに頬張っていく。
《そう…、そうだよな、お前、いっつも「世界で一番美味しい」って言って、食べてたよな…!》
《料理は愛情、か。見た目や技術じゃないんだな》
名前はホッとした様子で、涙でメイクも崩れてしまった女性客を見つめた。その横顔をなぞるように、安室の視線が釘付けになる。
昨日、女性客の『いつもの』をハムサンドだと確信していたはずの名前が、今日になると突然、誰のレシピでもないオムライスを作り始め、当然のように差し出された女性客は涙を流しながら食べ進めている。
もはや、冷静で鋭い洞察力と観察力をもってしても、理解が出来なかった。
安室はなんだか、どっと疲れた気がして、そっとカップボードの縁に腰を預けて、この何とも穏やかな空気を掻き回す天井のファンを仰ぎ見た。それからフウと、何度目かわからない溜息をゆっくり吐き出す。
「…君が来てから、退屈しないよ、ほんと…」
呆れたような声を出す彼には、心温まる幽霊たちのドラマなど知る由もない。そんな中、穏やかな空気に取り残された小さな名探偵の抗議の声が上がった。
「あ、あのー、ぼくのオムライスは…?」
◇
波乱のあったポアロの店内から、バックヤードに戻った名前は、前夜のハムサンド地獄とさっきの緊張感からようやく解き放たれ、ふらふらとパイプ椅子にもたれかかるように座った。
名前の脳裏には、あの女性客の穏やかで、甘く幸せな記憶を思い浮かべるような表情が焼き付いている。
「…あの人、泣いてたね。きっと、お兄さんのこと思い出してたんだよ」
ギターケースを背負った男の幽霊は、名前からその潤んだ目を隠す様に背中を向け、《…そうだな。俺、ちゃんとあいつの中で生きてるんだな》と確かめるように呟いた。
「死んだからって、全部無くなるわけじゃないんだよ。もう会えなくても、記憶だけはぜったいに残るんだから。…きっと、写真とか動画だけじゃなくて、誰かの作ってくれた料理だって、頭の中にずっと生きてるだよね」
そう名前が言うと、諸伏はフッと優しく笑った。”誰かの作ってくれた料理だって、頭の中にずっと生きてる”。その言葉は、誰よりも彼自身の胸に深く刺さっていたからだ。
《ありがとな、女子高生…いや、名前ちゃん。俺のオムライス、作ってくれて》
「ううん。いつまでもあの女の人に付き纏っちゃダメだよ」
《言われなくてもわかってるよ。でもあの金髪野郎だけはダメだ》
そう言い残し、穏やかな顔で笑った。半透明の身体が溶けるように淡い光の粒に代わって、天井にある蛍光灯に向かって立ち昇った。名前は諸伏と共にそれを見送ったあと、ようやく眠気を思い出したみたいに静かに目を閉じた。
◇
戦場と化したキッチンの後片付けを終えた安室は、ふと、カウンターの隅に追いやられている皿に目を留めた。すっかりオムライス騒動のせいで第一の主役の座を奪われてしまった、女子高生新人アルバイトが『完璧に再現した』と息巻いて作ったハムサンド。
(……猛特訓、ね)
安室は訝しげに目を細め、その不格好なサンドイッチの一切れをヒョイとつまみ上げた。自身が頭の中だけで作り上げた『偽装女子高生工作員』とかいう、三流映画さながらの推論はさっきのオムライス騒動で完全に捨てきった。そうなれば、自分の手の中にあるこのサンドイッチは、ただの女子高生が意固地に作り上げただけの出来損ないのサンドイッチだ。
そう思いながら無意識に一口かじった瞬間、頭の底の方に重石までつけて沈めていた記憶が、勝手に引き揚げられたような気分になった。
「嘘だ……」
喫茶店で提供するような、洒落た味付けでもない。かと言って、ただ闇雲に具材を掛け合わせただけのものでもない。
かつての親友が、自分のためにひとつひとつの手間すら惜しまずに作ってくれた、不器用な優しさが詰まった味。
非科学的なものなんて全て信用しない男が、自分のまだ膿んだ傷跡に誰かが優しく触れながら軟膏を塗っていくような気分になる姿を、諸伏はまさに非科学的な存在となって眺めていた。その目は優しくて、ほんの少し意地悪だった。