Ma Petite Menteuse
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二人の幽霊に挟まれながら、ひと晩で大量に生産された“試作品”のハムサンドは名前の両親に好評だった。しかし、1世帯の朝食で一気に消費されるほど容易な量ではない。母親は圧を感じない程にニッコリ笑い、キッチンの吊戸棚から深く広い密閉容器を取り出すと、「今日はお弁当は作らなくてよさそうね」と有無を言わさぬ強かな言葉で押し切った。
だがサンドイッチが大量に詰められたランチボックスを昼休みの教室で机の上へ置いてから、名前は暫く固まった。驚くほど、ぴくりとも食指が伸びないのだ。
蘭と園子はそんな彼女の様子を見て、「オシャレじゃない。今日はサンドイッチなの?」と呑気に言った。名前は俯き、表面の少ししっとりとしたハムサンドに一度も手をつけることなく、二人の前に容器ごとずいと押しやった。
「お願い、人助けだと思って、食べて…」
サンドイッチを分け合うのが人助けだと言うなら普通は喜ぶだろう。しかし、なぜこうも目の前の友人は乞うように言うのだろうか。
二人は恐る恐る、ひとつ手に取り、同時に唇で柔らかいパンを挟んで、ハムとレタスを前歯で齧った。シャクシャクと、歯切れのいい音が聞こえてから、ごくんと喉を通る音がする。
「…な、なにこれ?」
園子が目を見開いた。
「信じられない…。これ、本当に名前が作ったの!?」
持っていたサンドイッチの断面と名前の顔を交互に指差す。鈴木財閥の令嬢が、食べかけのサンドイッチ片手にガタンと立ち上がり、完全に度を抜かれた顔をしている。
続いて蘭も、「うん、すっごく美味しい! ポアロの安室さんのサンドイッチも美味しいけど、なんだかこれは…もっと円やかで、奥深い味がするっていうか…」と感嘆の声を上げた。
「へっ、安室さんのより!?」
眠気もどこかへ吹っ飛ぶ程、名前が驚いていると、その背後で諸伏は腕を組み、満足げにウンウンと頷く。
《ふふっ、当然だ。何せ俺の直伝だからなっ》
《よしっ!よくやった女子高生!これであの金髪野郎の鼻を明かしてやるぞっ!!》
目の前のランチボックスからサンドイッチが次々と消えていくのを見て、名前の一晩の努力は報われたような気がした。
◇
名前は放課後の昇降口が好きだった。夕暮れにオレンジの西日が差し込む、この空気。テニスコートから聞こえるラケット当たるボールの音、体育館から聞こえる靴の底が擦れてキュッと耳を擽ったくさせるような音。このざわめきが、ポアロに出勤する前のワクワクとした雰囲気を作り出しているような気がした。
が、そんな感傷に浸る思春期の女の子のことなんか、このギタリストの幽霊はちっとも気に掛けてくれなかった。
《いいか!?まず俺の女が店に着いたら、あの金髪野郎に隙なんか与えるなよっ》
名前は深く溜息を吐きながら、上履きを脱ぎ、指先でぶらぶらと下げた。
「…あのさ、安室さんとくっついて欲しくないのは…ちょっとはわかるけど、そんなに邪魔してどうするの?」
ギタリストの幽霊はそう言われて、口を引き絞った。
「このままずっと、あの女の人の邪魔するの?新しい彼氏も、結婚もさせないつもりなの?」
靴箱に上履きを仕舞いながら、名前はしんとした昇降口で訊ねた。女子高生の飾らない言葉が、未練を残したままこの世を去った幽霊の心に深く突き刺さる。ギタリストの幽霊は、ギターケース片手にしばらく俯いたまま、ようやく沈黙を破った。
《…俺だって、あいつに料理くらい、毎日作ってやってたんだぞ》
ぽつりと、降り始めの雨粒が垂れるみたいに言葉が落ちた。
《事故に遭う前は、俺はただの売れないバンドマンだった。金もないし、親にも勘当されてた俺の一番のファンでいてくれたのは、アイツだけだったんだ。今思えば、ただのヒモみたいなもんだった。
俺と一緒に生活して、応援するために、アイツは毎朝満員電車で仕事に行って、夜遅くまで会社に缶詰めになって。そんなアイツになんとか返してやりたいと思って、毎日飯を作ってやったんだ。
俺が作った飯を「世界一美味しい」って喜びながら食べてくれるアイツの顔だけが、俺にとっちゃ、音楽で成功するよりも誇りだったんだな》
誇りだった、と言って俯く彼の言葉の端っこには、どこか深い後悔が見える。今、喫茶ポアロに通って安室と談笑し、ハムサンドを食べて笑う彼女の表情に、自分の未練が断ち切れないんだろう。彼女の新しい恋を邪魔したいのではなく、自分の料理が本当に彼女を喜ばすことが出来ていたのか、彼は確かめたかったんだ。
「…そうなんだ。ねえ、あの人の好きな料理はなんだったの?」
ギタリストの幽霊はバツが悪そうに視線を彷徨わせた。
《…オムライスだよ》
ぽつりと、照れ隠しのようにぶっきらぼうな声が響く。
《あいつ、仕事から帰ってくるのいつも遅かったからさ。俺が作れるもんで、それなりに手がかかるっつったら、ケチャップをドバドバかけた、ちょっと卵の焦げた下手くそなオムライスぐらいだったな》
生前の穏やかな記憶を思い出したのか、さっきまで『金髪野郎』と度々激昂していたような憤りも今はない。ただの、恋人を深く愛していた不器用な青年の顔がそこにあった。
◇
喫茶ポアロ近くの小さなスーパーマーケット。名前は残り僅かな財布の中身を気にしながら、買い物かごを片手に幽霊二人を連れて店内を徘徊していた。
「…え、ハム?チキンライスなのに、鶏肉じゃなくてハムなの?」
背後を浮遊するギタリストの幽霊に、名前は疑いの眼差しのまま訊ねた。彼は《金ないんだから当たり前だろ!》となぜか自身の甲斐性のなさを差し置いて、ふんぞりかえってる。
「それで、味付けはなんなの?“隠し味は愛です”とかふざけたこといったら、もう協力しないからねっ」
《あ、愛とかそんな小っ恥ずかしいこと言うかよ!》
《…今更そういうこと恥ずかしがるんだね、君》
スーパーの特売品コーナーの前、ギタリストの幽霊はフンと鼻を鳴らし、耳をほんのり赤く染めて腕を組んだ。
《…チューブのにんにくだ! あと、隠し味にちょっとだけ醤油入れて…それからバターじゃなくて、安いマーガリンをドカッと入れるんだよ!》
《なるほど、なかなかパンチが効いた、ジャンクな味付けだな。所謂、”男飯”ってやつか》
「それ、ホントにおいしいの…?」
女子高生である名前には、繊細さの欠片もないレシピの断片に、不安を隠せないままチューブにんにくのピンク色のパッケージをかごの中に放り投げた。
◇
時刻はとっくに、あの期待の新人女子高生アルバイターのシフトの開始時間を跨いだ午後五時過ぎ。壁掛け時計を見上げながら、安室はすでにピカピカになっているカウンターをダスターで無意味に拭き続け、眉間に深い皺を寄せていた。
「……遅刻か、もしくは無断欠勤」
それがただの遅刻や、気まぐれなずる休みなら、まだいい方だ。だけど安室の頭の中は、昨日の夜からずっと警鐘を鳴らしている。
もしも彼女が遅れてやって来た時、一体どんな言い訳をするか。すでに彼は色んな通りの『遅刻理由』に対し、ありとあらゆる反論やつくべき矛盾点を用意している。
そうしていると、カランとドアベルが鳴った。息を切らしているわけでもなく、近くのスーパーマーケットの買い物袋を片手にして。
「ごっ、ごめんなさい、補習で遅れました…」
安室はその学生らしい言い訳に目を細めて、その後すぐに彼女が握りしめて持ち手が潰れている買い物袋に視線を這わせる。名前はその視線に気づいて、慌ててそれを隠すようにサッと背中側に腕ごと回した。後ろのガラスドアに反射して、袋の中身が透けて見える。
「…補習、ですか。それにしてもずいぶん、学生らしくない寄り道をしてたみたいですね」
「こ、これは…明日、家庭科の調理実習で使いますっ」
「………(にんにくチューブとマーガリンを?)」
安室は目の前の女子高生の見え透いた嘘が、何ともくだらないものに思えてきて、ダスターを握り締めたまま自身の眉を二度程指で擦った。それから、ふうと溜息をひとつ吐く。ただ身構えていた自分の推論に呆れていただけの仕草が、目の前の思春期の女の子にはそうには見えなかった。
「……こら」
安室は暫く黙ったあと、ようやく一言だけ、短く叱った。
たったそれだけなのに、目の前の女子高生はみるみる捨てられた子犬みたいに、この世の終わりのような顔をして、心底シュンと萎縮した。そうすると、彼の中の警戒心がコーヒーの中に入れた砂糖みたいにサッと溶けて、ついでにポーションミルクを入れた後みたいにぐるぐる掻き乱される。
「……はい。次からは、遅れそうなときはちゃんと連絡します……」
しょんぼりした彼女の表情、安室の頭の中で昨日の晩から構築され続けていた『女子高生に成りすました対組織の女スパイ』とかいう、突拍子もない推論が、音もなく崩れる。
目の前で肩を落としているのは、どう見てもただの『好きな人に怒られて本気で落ち込んでいる、不器用な女子高生』そのものだったからだ。
安室はもう一度、肩を落としながら、深く溜息をついた。
「…まったく。次からは気をつけるように。それから、その買い物袋の中身。傷むといけないから、キッチンの冷蔵庫に入れておきなさい。着替えたら、ホールの準備をお願いします」
その声の調子には、もう警戒心も、無駄な詮索も含まれてはいない。
足早に更衣室へと向かう名前の背中を見送って、安室は三度目の溜息をつく。
明晰な頭脳とプロファイリング能力をもってしても、たった1人の女子高生の突飛な行動力と言葉でことごとく空回りしてしまうことを、嫌と言うほど自覚させられる一日だった。