Ma Petite Menteuse
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(…これが、諸伏さんが教えた”ハムサンド”かぁ…)
名前はカウンターに銀色のトレイを置き、細い指先が鮮やかな緑色のパセリを皿の上に添えるのをまじまじと見つめていた。今やポアロの看板メニューのひとつであるハムサンド、アルバイトを始めてから見ない日はない。
死んだ人が生きる人に遺す物は多い。資産だったり、言葉だったり。探偵で言えば、事件現場に残された証拠だって死んだ人が遺した痕跡みたいなものだろう。
けれど、『レシピ』そのものだって、その人が生きていた証拠であり、誰かの為に託した言葉のようなものだ。そう深く考えながら、名前は彼の手元を観察する。
「………」
そんな女子高生の熱い視線を、安室はちゃんと気付いていた。新人のアルバイトが先輩の仕事ぶりを観察するのはよくあることだ。が、彼女に関しては、どこか奇妙だった。ただ作り方を学ぼうとしているにしては。どこか熱っぽく、上の空だ。
名前が顔を上げると、互いにバチリと視線がぶつかった。およそ3秒ほどの短いようで長い時間。
「…あっ、ああ、あの!私、お皿下げてきますっ!」
彼女の顔がみるみるうちに真っ赤に染まり、慌てふためいて逃げるようにカウンターから離れてしまった。
安室は、手に持ったパセリを見つめたまま、首を傾げた。
(…僕、何かしたか…?)
鋭い洞察力をもってしても、彼女の動向は窺い知れなかった。だからこそ目も離せず、彼の中の警戒心がむくむくと膨れ上がる。どんなに凄腕の名探偵でも、世界征服を企む悪者でも、きっと複雑な女子高生の気持ちは理解しがたいものなのだ…と、思う事にした。
◇
その日の夕方五時、カランと店のドアベルが鳴った。開いたドアからは二十を越えて暫く経ったほどの若い女性客がひとり、そわそわと店の中に入る。安室がにこやかに「いらっしゃいませ」と言うと、彼女はほんのり頬を染めて「また来ちゃいました」と舌を小さく出した。
名前はその様子を見て、ほんの少しだけ自分の機嫌が下向きになるのを感じた。
(あの人、安室さんのこと、好きなのかな)
そう思いながらテーブル席をダスターで吹き上げていると、その女性の背後から連なるようにギターケースを背負った男がトコトコと憑いて行く。厚かましくも彼女の隣、カウンターの椅子に陣取るように座ると、いきなり安室を睨みつけた。それから、《俺の女にニコニコ笑いかけてんじゃねぇよ!》と聞こえもしない威嚇をかました…が、当の本人は関係なしに談笑しているし、隣の女性はまったく気にも留めない。
「どういうこと?」
《さ、さあ…》
「…あの男の人に何かしたのかな?」
《い、いや、覚えはないけどな…》
名前と諸伏がひそひそと話していると、ギタリストの男は突然くるりと振り返る、二人をジッと見つめた。最悪だ、と名前は思った。
《…お前ら、俺が見えるんだろ!》
そう言い放ってから、聞いてもないのに、ギタリストの幽霊はつらつらと恨み言のように身の上を話し始めた。
カウンター席で安室と談笑している彼女とギタリストの男は数年前まで恋人同士だった。売れないバンドマンとしての彼を、彼女は日中都内の会社で働いて支え、一緒に生計を共にしていたのだ。けど、ギタリストはライブ会場へ行く途中で事故に遭い、そのまま亡くなってしまった。
それからずっと、側を見守っていたらしい。
それがつい最近、喫茶ポアロに通い始めて、安室に色目を使われてる(と、幽霊は思ってる)し、彼女も安室とそのハムサンドに惚れ込んでいるからどうにかしたい、ということだ。
その話を聞いて、なぜだか諸伏はふふん、と鼻を鳴らしている。
《とにかく!あんな何考えてるのかわからない男とハムサンドに俺の女を寝取られてたまるか!》
《ハムサンドは寝取らないだろ…》
幽霊の激昂は止まらず、そして頭を激しく掻き乱すほどに、名前にとっては喧しい存在だった。そんなこともボサノバの流れる店内には響かず、穏やかな時間が流れる。
そうこう言っているうちに、女性客はメニュー表をろくに見もしないまま、「いつものお願いします」と言った。
名前は飛び出すようにして、カウンターに銀色のトレイをがちゃりと置いた。
「ハムサンド、私が作ってみたいですっ!」
静かな店内が、より一層静まり返る。紙やすりで削ったような女性の歌声だけが空気を埋める。
「……はい?」
すでにキッチンの上に耳を切った食パンとハムを準備していた安室が、突然横から飛び込んできた新人女子高生アルバイトの言葉に、ポカンと口を開けた。
「いや…気持ちは嬉しいんですが、彼女はいつも僕が作ったものを楽しみに来てくださっている常連さんですし…。それに、君はまだキッチン業務は…」
と言いかけて、カウンター席に腰掛ける女性客と、意欲的と言うよりはどこか必死さの方が先走る新人女子高生アルバイトの顔を交互に見て、唐突にピンときた。
(……ああ、なるほどね)
安室は当然、目の前の女子高生が謎のギタリストの幽霊に急かされているとは知るはずもない。だからこそ、余計にある仮定が現実味を帯びる。
ついさっき、自分の顔を真っ赤になって凝視していたこと。そして今、女性客からのオーダーに割って入り、自分が作ると息巻いていること。
思えば彼女の行動原理は、複雑なようで単純だ。名探偵の弟子を申し出たり、アルバイトとして雇って欲しいと強引にアプローチしてきたり。
これらの行動から導き出される、もっとも自然かつ論理的な結論。それは…。
安室は訝しむような表情をやめ、フッと甘く笑った。そして目の前の思春期真っ只中で不器用なアピールを続ける女子高生を、諭すように優しく言葉をかけた。
「君の向上心は素晴らしいですが、お客様に提供する料理は、ポアロの看板を背負っているんです。まずは裏で、僕と一緒に練習してからにしましょう。ね?」
そんな己惚れに近いような態度を見せる親友の姿に、諸伏は頭を抱えたくなった。そうじゃないんだ、と言いたかったが、その大人が言葉を言い繕った確固たる拒絶の前に、女子高生たる名前は「うっ…」と言い返す言葉もない。
誰にも見えないギタリストの幽霊が《やっぱこの金髪、俺の彼女に色目使ってやがる!》と唾を吐きかけたのを、名前はサッと目をそらした。それすらも、安室にとっては『年上のイケメンに微笑みかけられ、照れて直視できない』という証左だと確信した。
しかしこの時、安室は最も重要な見落としに気付いていなかったのである。
◇
バイト終わりの夜八時、名前は真っ直ぐに家に帰らず、いつもの帰路を外れ、明るいスーパーマーケットの店内で買い物かごを片手に歩いていた。その足取りは重たい。
ギタリストの幽霊は、あの後もいたいけな女子高生アルバイトに纏わりついて怒鳴り散らしていた。“そもそもお前がレシピを覚えていれば、彼女があの金髪男のハムサンドを食べることは避けられたのに!”と言う、異次元の方向のカスタマーハラスメントだった。
そんなクレーマー気質の幽霊に、名前は啖呵を切るように叫んだのである。
「…もう!わかったよ!私が諸伏さんのサンドイッチを作れるようになればいいってことでしょ!」
パンやレタス、ハム。食料品としてはそう高価なものではないけれど、毎月をお小遣いで凌いでいる高校生には痛手だった。買い物リストやレシピはなくても、生き字引(死んでるけど)のような存在は常に背後にいる。
こうして、名前は幽霊二人に挟まれて、自宅のキッチンで深夜のお料理教室が開催された。それこそ、安室が念推す様に言った『学生の本分』である授業の予習復習などさて置いて。
《そうそう、マヨネーズに少しだけ味噌を隠し味に入れるんだ。食パンは使う前に軽く蒸すといいよ》
《もっと手際よく作らねえとダメに決まってるだろ!提供が遅れてるうちに俺の女が寝取られたらどうすんだ!!》
(……うるさい、二人とも…)
ひたすらに黙々とパンの間に具材を挟み続け、キッチンで大量のハムサンドを量産する名前。そんな孤軍奮闘する娘の背中を、リビングから見守る両親は「仕事熱心で偉いわねえ」と呑気にお茶を啜っていた。
◇
さてその頃、今日も今日とて喫茶ポアロで女子高生アルバイトに振り回された気分をシャワーで流しきった安室は、冷蔵庫からいつものように冷えたミネラルウォーターを取り出したところでピタリと止めた。
「……いや、待てよ」
開けっ放しの冷蔵庫から漂う冷気が、湯上りの頭を一気に冷やしていく。彼の頭の中では、時計の針がぐるぐると逆回りに戻るみたいに、夕方に起こった出来事を逆再生していった。
「…なぜ、”いつもの”がハムサンドだってわかったんだ?」
ひやりとした何かが、彼の腹の底に落ちて行った感覚がした。