Ma Petite Menteuse
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その翌日。喫茶ポアロのバックヤードの小さな休憩スペース。従業員用のロッカーの前に立ち尽くした安室は、書類を片手にしばらく黙り込んでいた。
午後5時、忙しかった昼時も過ぎ、放課後の学生の声が聞こえるゆったりしたこの時間。目の前できらきらとフレッシュな輝きを放つ女子高生に、彼は深々と溜息をついた。
「……あのですね」
頭の中で言葉を散々選んだけれど、そこから先が思い浮かばない。
「私、ここで働きたいですっ」
「………」
「週7いけますっ」
「………」
「…あっ、得意料理は玉子焼きですっ!」
昨日、規制線の前で変なフラグを立ててしまったことは自覚していた。しかし、まさか翌日の夕方になって、いきなりアルバイトの面接にやってくるとは誰が想像できただろうか。
履歴書の内容は、社会経験に乏しい高校生が見様見真似で努力した痕が伺える。志望動機に堂々と書き添えられた『大学に通う学費を稼ぐため』というひとつめの理由に関しては立派な物だ。問題は、ふたつめ。
『名探偵修行のため』
そもそも、得意料理は”玉子焼き”なんて、カフェ勤務としては及第点どころか、ほとんど落第点だ。
「まず、うちは現在アルバイトの募集をしていません。それに、高校生を週7日も働かせるわけにはいきませんよ。学業が本分でしょう?」
安室は極力穏やかに、しかし絶対に隙を見せないような毅然とした態度で諭すように言った。ここで雇ってしまったら最後、この突飛な女子高生に自分のペースを完全に乱される未来が、火を見るよりも明らかに予想できたからだ。
「それに、僕はただの喫茶店の店員です。探偵の修行なら、直接上の階の毛利小五郎さんに弟子入りした方が…」
「だめですっ、蘭のお父さんに迷惑かかっちゃいますから!」
「……僕に迷惑かかるのはいいんですか?」
パイプ椅子に座ってから、その腰を一向に上げようとしない、地縛霊よりもたちが悪そうな女子高生を目の前に、安室はもう一度深いため息をついた。その様子を、実は彼にとっての大親友がクスクスと眺めていることなんか、知る由もない。
しかし安室だって、突然現れた苗字名前という少女によってもたらされる、論理では説明できない不可解な現象と行動原理に関しては、好奇心のような警戒心のような複雑な感情が入り混じっていることも否定しきれなかった。
「……マスターに確認してみないと分かりませんが」
数秒の沈黙の後、安室は小さく咳払いを一つして、ゆっくりと口を開いた。
「もし雇うとしても、週に2、3日が限度です。それからその、『名探偵修行』などという個人的な目的は、仕事中に出さないこと。約束できますか?」
安室はこうして、この自身の秘密を握っている…かもしれない謎の女子高生を元に置いて監視することを選択した。
が、即座にまた目を輝かせる名前を目の前にして、自分の冷静な推測と警戒心が全部嘲笑われたかのような気になって、同時に厄介事の渦中へと自ら足を踏み入れてしまった自覚をさせられたのだった。
◇
かくして、名前は喫茶ポアロの“女子高生アルバイター”として、週に三日の勤務が始まった。
名前はカフェ店員はおろか、アルバイトなんて17年間の人生で初めての経験だった。客が入店すれば、氷水のたっぷり入ったピッチャーを片手に、人数分のグラスに注ぎ、トレイにのせて配膳する。客が呼べば伝票に品名を記入し、カウンターから料理を配膳。客が帰ればテーブルを片付ける。
安室は彼女のそのやけに優れた”記憶力の良さ”に関しては、感心する一方、やはり警戒の対象だった。どんなに人数が多くても、忙しくても、客の注文はしっかりと覚えている。
しかし実態はただ記憶力がいいとか物覚えが早いとか、そういうわけじゃなく、姿の見えない諸伏との“二馬力”の頭脳で賄っていることを、安室どころか誰も知る由もない。
夕方六時、放課後の高校生たちが帰って閑散としてきた頃に、ドアベルがカランと鳴った。
「いらっしゃいませ!…あ、蘭と、コナンくんだっけ」
蘭は来店するなり、無地のエプロンとトレイを片手にしているクラスメイトの姿に当然目を丸くして驚いた。
「どうしたの、その格好…」
「ここでバイトしてるの。ほら、進学するのに貯金しておきたいし、それに…」
と、余計な口が開きそうになる前に、ポン、と名前の肩に手が置かれた。見た目こそ優しげな先輩のスキンシップだが、その実、万力のようにジワジワとした無言の圧が込められている。
「彼女は最近うちに入った、期待の新人なんですよ。ね?」
背後から聞こえてきたのは、爽やかな声だ。しかし、肩に置かれた手からは、その骨が軋みそうなくらいの圧力と、『余計なことは言うなよ』という強烈な念が窺えた。名前は思わず、言葉の続きをゴクリと呑み込んだ。
「そうだったんだ!偉いね、名前ちゃん」
蘭は二人の間に無言で結ばれる、主従関係のような、もっと別の契約関係のような、奇妙な間柄には気付かず素直に感心した。しかしその横で、コナンは眼鏡の奥を少し曇らせながら目を鋭く細めていた。
「安室さん、すっかり先輩店員だね!」
無邪気な子供の声を装っているが、そのレンズの奥の瞳は二人の絶妙な距離感を測っている。その行動原理が警戒心なのか、好奇心なのかはさておき。
「ええ、おかげさまでね。さあ、立ち話もなんですし、お席へどうぞっ」
安室はそう言って名前の肩からパッと手を離すと、何事もなかったように爽やかなスマイルを全開にして、二人をテーブル席へと案内し始めた。
二人が座るボックス席へ慌ただしく名前が氷水の入ったピッチャーを持って行くと、蘭がメニュー表を片手に「そう言えば…」と体をソファの座面から少しずらし、ニコリと笑った。
「うちのお母さんに名前ちゃんのこと話したら、『志が高いわね』っていって、応援してるって言ってたよ」
「ほんとに?嬉しいな…。私、弁護士さんとか、そういう人と関わったことってないからっ」
二人の会話に、コナンはきょとんとした。それから、「蘭姉ちゃん、何の話?」とテーブルに身を乗り出して聞くと、「名前ちゃん、弁護士や検察官になりたいんだって」と答える。名前はほんの僅かに、自分の夢に照れるように耳を赤くした。
その様子を、安室はカウンター越しに聞いて、ガリガリと軽快な音を立てていた手動のコーヒーミルをピタリと止めた。
(……弁護士?検察官?)
手元に視線を落としたまま、微かに眉間を険しくした。
「へえー! ミノリお姉ちゃん、弁護士さんになりたいんだ! すごいねー!」
コナンが、子供特有の甲高い声で感嘆の声を上げる。
無邪気な声が跳ねるようにボックス席から聞こえてくる合間、安室はもう一度コーヒーミルのハンドルを握り直して、深く溜息を吐いた。
アルバイトをしたいと言ったり、名探偵になりたいと言ったり、かと思えば弁護士や検察官。まるでちぐはぐな彼女の言動も、思春期特有の気の迷いだと思い込んで、安室はまたガリガリとコーヒー豆を挽き直す。
そんな様子を誰にも見られることなく、ただ諸伏だけが頬杖をついて、我が事のように誇らしげに見つめていた。
《志が高いだろ、ゼロ。あの子はちゃんと、真っ直ぐな目標を持ってるんだ》
◇
バイトの時間が終わり、すっかり暗くなった夜道を等間隔に並ぶ街灯のオレンジ色の光が照らす。夜の米花町の住宅街は、普通の人からみれば昼間の喧騒が嘘のように静まり返っているが、その代わりに名前の目には随分賑やかしい情景が浮かんでいる。
電柱の側でひたすら同じ車のナンバーを呟く人や、園のブランコでひとり項垂れる人。そして、今彼女の背後にまるで少年補導職員のようについて歩く人。
「カフェのバイトって疲れるね…。ピッチャーは重いし、トレイの料理は零さないようにしないといけないしさ」
そう腕を回しながらとぼとぼと帰路を歩くと、彼女の目の前には警官の幽霊が現れる。生前の癖なのか、彼女に向かってピシリと敬礼をしてみせた。諸伏は生前の染み付いた習性からか、思わず姿勢を正してピシリと敬礼を返しそうになっていたが、彼女が振り返る気配を察して慌てて手を下ろす。
「ねえ、諸伏さんはどんな仕事してたの?…もしかして、安室さんと同じ、カフェ店員?」
諸伏はそう言われて目を丸くすると、少し経ってからくすりと笑った。
《ははっ! カフェの店員か。…まあ、それも悪くないかもな》
人懐こそうな笑顔を見せた後、すっと目を細めて、手を後ろに組んだ。それは後ろめたいような、でも何か言ってしまいたい事があるような、感情の糸が絡まった複雑な仕草だった。
《俺は、カフェの店員じゃないよ。強いて言うなら…君が目指してるものと同じ、誇りを持てる仕事をしてたんだよ。もちろん、ゼロも》
「安室さんも?」
そう言ってから、諸伏は《あっ》と、口を引き絞った。でもすぐに、目の前の希望溢れるような女子高生の顔を見て穏やかに、そしてお茶目に微笑みかける。
《まあ、料理を作るのは嫌いじゃなかったよ。あいつに料理を教えたのは、実は俺だからね》
「そのなの?」
《そうだよ》
名前はますます眉を潜めて、目の前の謎の幽霊の正体を当ててやろうと必死になった。幽霊だらけの帰り道、女子高生は職業当てゲームに夢中になり、元警察官の男はそれに笑いながら回答した。結局、マンションに着くまでに彼の正体は当てられなかった。