Ma Petite Menteuse
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
その日は朝から昼にかけて、バケツをひっくり返したような激しい雨が降っていた。梅雨独特の、重たく澱んだ空と、鼻の奥をムズムズ擽るような湿気。ベランダに跳ねてピチャリと音を立てるのを、名前は眠たくなりそうな授業の合間で聞いていた。
夕方前には雨は止んだ。けれど、グラウンドは水たまりだらけでぐずぐずだ。踏み入れるとスニーカーが沈み、白い踵に砂粒がひっつく。気分は当然に最悪だった。
でも、名前にとっての不運は何も水溜まりだけじゃなかった。参考書を買うために駅前の少し大きな書店に寄り、1時間ほど店内をぐるりと周って、露に濡れないようにカバーをかけてもらった参考書を胸に書店の庇を潜る。
そのちょっとの合間に、向かいの商業ビルにはたくさんのパトカーが止まり、バリケードテープが張り巡らせている。そう言えば、と名前は店内でサイレンの音を聞いた気がするけど、書店の音楽のせいですっかり気を取られていた。
規制線の向こう側では、警視庁の面々が何やら商業ビルの外階段を見ながら、険しい顔で現場検証を行っていた。まだアスファルトの凸凹した舗装に水が溜まっている。警察官はぐるりと、ブルーシートでビルの周辺を覆い始めた。
膝をつく鑑識や、立ち尽くして周辺の住民に事情を聞き込む刑事たちの周りを、派手な身なりの女がうろちょろと歩き、猛烈な抗議を飛ばしている。なのに、誰も相手にしない。彼女の左足にはピンヒールの黒いパンプスが履かれていたけど、もう片方は素足だった。
《ちょっと! だから足滑らせただけだって言ってんでしょ! 殺人事件じゃないのよ!》
「………」
名前はカバーのついた参考書を、今一度胸に抱き直した。できれば、目の前で裸足で水溜まりを踏みしめるみたいに地団駄を踏む女の幽霊に、関わらないで済むならそうしたい。
しかしテープの外側でピタリと足を止めたほんの一瞬の隙を搔い潜るように、女は視線を名前に合わせた。
《ちょっとあんた。今、あたしと目合ったわよね》
「………」
物理的な足音など鳴るはずもないのに、それはもう、ものすごい圧で女の幽霊が女子高生の目の前まで瞬間移動してくる。その顔は『ようやく自分の言葉を伝えられる人間を見つけた』という歓喜と執念で、ある意味でどんなホラー映画よりも恐ろしい形相になっていた。
《ねえ、アンタから警察に言ってよ!自殺だの殺人だの、じょーだんじゃないっ。このまま訳のわからない理由で身体をこねくり回されたら、恥ずかしくって成仏もできないわ、今日のパンツ穴あいてんのよ!》
その赤裸々な様子に、諸伏も思わず《お、落ち着いて》と、女の肩に触れるか触れまいか、顔を赤くしながらおろおろしていた。成仏できない理由がそんな生活感溢れるものだなんて、”完璧な女”を気取る彼女にとってどれほど屈辱的なものなのかを推し量るには、女子高生にはまだ早かった。
一方で、その事故があった商業ビルの近くを通りかかったのは、幽霊の見える名前だけではなかった。数メートル離れた黄色い規制線の外側、ほんの僅かな食材だけを詰めた買い物袋を手にした男が、梅雨の湿気よりもじっとりとした視線で半目を向けている。買い出しの帰り道、たまたま事件現場に出くわした安室透だ。
(……また、あの女子高生か)
安室の目には、猛アピールを繰り広げる女の幽霊など一切見えていない。
彼の視界に映っているのは、『何もない空中に向かって目を丸くし、硬直している奇妙な女子高生』の姿だけだ。昨日、ポアロの店先で見せた不審な行動と全く同じである。
安室は買い物袋を提げた手に少し力をいれて、小さくため息を吐き出すと、微笑んだ表情を顔に貼り付けるようにして一歩前に出た。
「奇遇ですね。こんなところで何をしているんですか?」
その声は限りなく爽やかだった。名前はハッと振り返り、胸にしたカバー付きの参考書を守るように、指先に力を込めた。諸伏も声につられて《あっ》と小さく呟く。
「あっ、ゼ…」
名前はついうっかり、最近付き纏ってくる幽霊の口真似を覚えたみたいに、そのあだ名を呼びそうになって呑み込んだ。諸伏はまた、《あっ》と言って顔を青ざめた。
「……じゃなくて、安室さん」
ポーカーフェイスの裏側で、安室はすっと目を細めた。聞き逃さないほど鈍くはなかったけれど、なんの確証もない。警察官が慌ただしく動く中で、「こんなところにいたら、犯人と間違われちゃいますよ」と、冗談交じりに笑って誤魔化した。
「さ、参考書を買いに来たら、こんなことになってたから…。事故ですかね?」
《だからさっきから事故って言ってんでしょうがっ》
名前の耳元で女の幽霊が怒鳴る。その声量は、死後とは思えないほどに直接彼女の脳をぐわんと揺らした。
安室はちらりと名前の胸元を盗み見た。すぐ近くの書店のロゴマークが刻まれたカバーと、小さな雨染み。書店の庇にはまだ僅かに残った雨露が、ようやく出てきた太陽の光に反射してキラキラ輝いている。
「さあ、どうですかね。まだわかるまで時間がかかりそうですが」
「そうなんですか?…大丈夫ですかね、あの女の人」
「…女の人?」
安室はすっと笑顔を引いて、さっと視線を商業ビルの方へ流した。現場はブルーシートで完全覆われていて、名前が案じるような"女性"の存在なんてどこにもいない。
諸伏は名前の失言に気付いて、青ざめた。この男の勘の良さや、疑り深さは、彼が良く知っている。警視庁の捜査一課が臨場している以上、誰も野次馬は一切立ち入れない。
安室は、すかさず一歩前へ踏み出し、名前の逃げ道を塞ぐように立ちはだかった。
「…奇妙ですね」
その物言いは、とてもじゃないがただの喫茶店の店員のものではない。
「君のその言い方。まるでブルーシートの向こう側がわかるみたいだ。被害者が女性であり、そしてこれが事件じゃなく、最初から事故だとわかっている」
今度は名前が青ざめた。そんな二人の間に流れるピンと張り詰めた緊張感などお構いなしに、片方のパンプスを失くした女の幽霊は《本人が言ってるんだからそうに決まってんじゃないの、このイケメンめ!》と聞こえもしない罵倒なのかお世辞なのか分からない言葉を浴びせている。
「…え、ええと…、それは…」
「それは?」
ニコリと完璧な笑みを浮かべてはいるが、その冷えるような青い瞳は獲物を逃さない鷹のように鋭く目の前の女子高生を射抜いている。完全に『重要参考人』を見る目だ。
「それは…た、たまたま警察官たちの話し声が聞こえて。実は私、すっごく耳がいいんです!」
名前は腰に両手を添え、胸を張るように堂々と言い切った。耳がいいなら、書店の中でパトカーの音だって聞こえていただろうに、と諸伏は冷や汗混じりに思った。
「…ほら!あ、あそこのビルって、前々から思ってましたけど、外の階段急すぎですよねっ!今日も午前中は雨がひどかったし、滑って転んじゃった可能性もあるのかなぁって!」
《失礼な!あたしそんなドジじゃないわっ!》
《…滑って転倒したのは嘘じゃないでしょう》
安室は目の前の女子高生の、その自信満々な仕草に、しばらく思考が宇宙の彼方に飛んだ。事件に関与している悪意なんかよりも、何か別のものに急かされて必死に言い訳をしているような、奇妙な必死さがある。
ちらりと名前の足元に視線を落とすと、まだ濡れたアスファルトの上に、砂粒で踵が汚れた彼女の白いスニーカーが見えた。
(……変な子だ)
深く追及するのはやめようと決めたのか、安室は小さくため息をつくと、ふいとブルーシートの方へ向き直る。そして規制線の内側で右往左往している見知った顔に向かって、よく通る爽やかな声で呼びかけた。
「高木刑事! お疲れ様です、毛利探偵事務所の安室です」
そう呼びかけられて、刑事は振り向き、安心するように駆け寄った。
「買い出しに通りかかったもので。少し、気になったのですが…今日は売夕方までひどい雨でしたし、あのビルの階段はかなり急ですよね。もし被害者の方が女性なら、履いていた靴…もしパンプスなら、裏張りがされていたか見て下さい。女性の靴は、案外滑りやすいですからね」
探偵の弟子という立ち位置を利用して、安室がさらりと助言を落とす。そうすると、高木刑事はハッとした顔をして、「ちょっと鑑識に確認してきますっ」と雑な敬礼をしてから現場に戻った。
その流れを見て、女の幽霊はハッとした顔をしながら《あっ、そうか裏張り…》と悔しそうにまた地団駄を踏んだ。諸伏はホッとしながら、ほんの少し、自身の親友の機微を感じて言葉にしなかった。
当の安室は、何事もなかったかのように振り返ると、呆れたような、けれどどこか面白がるような顔を名前に向けた。
「…これで満足ですか? 耳の良い名探偵さん」
からかうように小首を傾げるその表情には、先ほどの冷たい威圧感は欠片も残っていない。『名探偵』、ただの揶揄い混じりの言葉に、名前は春一番が吹き込むような爽快感と、花が咲くような明るさを感じた。
「……め、名探偵…」
そうか、死んだ人の心を代弁するのは、何も弁護士や検察官だけじゃない。その人の遺した証拠ひとつひとつを読み解いて、真実を明るみにするのだって、同じことだ。
「は、はいっ、安室さんっ!」
名前はようやく、彼女自身がひたすらに秘密にしてきたことすべてを預けられるような、そして『運命の相棒』に出会えたような気がした。そのあまりに純粋で、どこか重たい期待すら込められたキラキラとした視線を真正面から浴びて、安室は思わず半歩だけ後ずさりしそうになった。彼はちょっとした皮肉を言ったつもりだったのに。
その様子に、諸伏は《あーあ》と目を細める。笑顔はほんの少しだけ引きつらせる親友の姿に、『面倒な厄介事に自ら巻き込まれた』予感を感じた。
幽霊の言葉を直接聞くことができる女子高生と、鋭い推理力と警察へのパイプを持つ安室。諸伏から見れば、オカルトと現実の奇跡的なコラボレーションがここに誕生してしまった瞬間だった。