Ma Petite Menteuse
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その日は、安室の勧めたハムサンドを食べた後、名前は年頃の女子高生らしく蘭と園子を含めた三人で会話に勤しんだ。昨日観たドラマの話や、駅前に新しく開店したコーヒースタンドの話、学校で起きたハプニングや、つまらない授業の話。どれも平凡で、けれど学生にとっては世界情勢なんかよりも目まぐるしい。
それから名前は自宅マンションに歩いて帰って来た。キッチンに立つ母親が「おかえりなさい」と言った後、少し鼻をスンと鳴らして、「コーヒーのいい匂いがするわね」とご機嫌に言って微笑んだ。あのサイフォンから湧いていた蒸気が、制服にわずかに含んで、匂いを連れて帰ってしまったらしい。名前は「ポアロっていう喫茶店にみんなで行ったの。お母さんも今度行ってみてよ」と言いながら、脱衣所に向かった。
温く、湿った空気の充満する浴室。床は濡れて、天井からポタリと冷たい露が落ちる。
名前はふうと一息吐きながら、白濁した入浴剤の撒かれた湯船に肩まで浸かり、今日一日を思い出すみたいに天井を見上げた。
「……諸伏さん、あの…天井からはみ出してるよ」
《……ご、ごごご、ごめん!!》
「い、いや、堂々としてていいよ…。その中途半端な見方の方が気持ち悪いから…」
湯気の立ち込めるバスルームの天井から、スルリと半透明の体が抜け落ちてきた。
諸伏は慌てた様子で空中で体勢を立て直すと、浴室の隅にちょこんと正座した。幽霊という立場でありながら、年頃の女子高生の入浴中にうっかり姿を現してしまったことに、ひどく恐縮しているらしい。
《い、いやあ、本当にすまない。君がこんな能力を持っているなんて思わなくて、つい…》
「そんなにかしこまらなくても…、そりゃ、普通は諸伏さんみたいな人達のことは見えないもん」
そう項垂れるみたいに、丁寧に折り畳んだ膝に視線を落とす彼の姿は、どこからどう見ても誠実で真面目な青年そのものだ。所謂、悪霊だの、地縛霊だの、そういう後ろめたさや恨めしさなど、微塵も感じない。
《今日のことなんだけど……ゼロには、俺が見えていること、言わないでほしいんだ》
「ゼロ?」
名前は湯船の淵に腕を預けながら、びしょ濡れの床に正座する諸伏さんにキョトンとする。湿った髪の毛から水が垂れ、そのまま肩に伝って肌に吸い付いた。その様子を諸伏はなるべく見ないようにして、また視線を膝の上に落とす。
《喫茶店にいた、”安室”って男だよ。幼馴染なんだ。あいつはああ見えて、隠し事が多いやつでさ。俺のことで余計な気を揉ませたくはないし、なにより俺の死は、あいつにとって…》
言いよどみ、伏せられた瞳には深い後悔の色が滲んでいた。その様子に、名前はますます目を丸くした。
「…諸伏さんって、変ですね」
そう言われて、諸伏は思わず、パッと顔を上げた。
「私が会う幽霊って、大抵は『俺の無念を晴らしてくれ!』って、みんな言うんだもん」
《無念、か。…そりゃあ、無いと言ったら嘘になるけどね。俺が何かを望んであいつの足枷になるくらいなら、俺のことはすっぱり忘れて、前を向いて生きてほしいんだ。…まあ、あいつは絶対に忘れてくれないだろうけど》
諸伏は言葉を辿るようにそう話ながら、首の後ろを緩く掻いた。困ったように眉尻を下げて苦笑いを浮かべる。その表情は、自分が思いやる人間が、一体どういう人間なのか、長い年月をかけて理解し尽くした顔をしている。
「でも、みんな、やっぱり自分がどうして死んだのかって、真実を知っておいて欲しいものでしょ?私は“見える”だけで、その人たちの気持ちを代弁することはできないんだもん。だってさ、『死んだ本人が言ってます』なんて、きっと誰も信じてくれないでしょ?」
《…まあ、そうだろうね》
名前の言葉に、諸伏はフッと力が抜けたみたいに笑った。まるで、目の前の女子高生の存在が、どこか常識の枠に外れているのを、理解しがたいように。
「…だから私、弁護士とか、検察官とか、そういう誰かの気持ちを言葉にできる人になりたいの。だって、もしそういう人になれたら、死んだ人の遺した気持ちを代弁して、生きてる人に伝えられるでしょ」
湯船に顎を預けてそう言う、その真っ直ぐな女子高生の言葉に、正座をしていた半透明の男はポカンと口を開けた。ポタリと、また冷たい露が天井から浴槽の湯に真っ直ぐ落ちる。
《…そっか。応援してるよ》
諸伏は静かに、口を開いた。しかし、少し間を置いてから、ジトリと彼女の顔を見た。
《…でもさ。普通、風呂場に男の幽霊が出たら、もっと悲鳴とか上げるものじゃないかな…?》
「そりゃ、だって別に…死んだ人に“法律”も“ルール”もないですからね。そんな今更、どこから出たって驚かないです。米花町って幽霊多いし…」
《…あ、ああ、そう》
そういうわけじゃないんだけどな、と諸伏は先ほどまで『年頃の女子高生の入浴を覗いてしまった』と必死に土下座の勢いで謝罪していたのがバカバカしくなるほど、湯船で堂々とくつろいでいるすぐ側の存在に、またがくりと項垂れた。
一方でその頃、諸伏が気にかけている幼馴染の親友は、ポアロの戸締まりを終えて愛車に乗り込もうとしている時に、この夏も間近の時期に原因の思い浮かばない寒気に襲われていた。
それが風邪なのか、それとも彼が一番に信用していない”第六感”によるものなのか分からないまま、とりあえず閉店間際のドラッグストアに立ち寄って葛根湯を買って帰ることにする。
それでも頭の中では、今日出会ったばかりでいきなり離婚歴を疑ってきた突飛な女子高生の顔が張り付いている。
夕方に交わした不自然な会話だって、推論をいくつも考えながら論理的に言い聞かせても、彼自身の”直感”がなぜか警告音を鳴らしていた。