Ma Petite Menteuse
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春から同じクラスになった園子と蘭とは、学年始めにちょうど斜め向かいの席で一緒になってから仲良くなった。とくに蘭は母親が弁護士だというから、名前は羨ましくてたまらなかった。弁護士や検察官は子供の頃から憧れの職業だ。なぜかと理由を聞かれたら、ちょっと答えづらいけど。
新学年が始まって梅雨が明けた翌日、園子が「ポアロに寄ろうよ」と知らないお店に誘った。名前にとっては帰り道とは反対方向の喫茶店、放課後に知らない場所へ友人たちと行くという、学生ならではの楽しみになぜだかワクワクしていた。
なんでも、蘭の父親が経営している事務所の真下にあるお店らしい。”ポアロ”と聞くと、テレビで見たあの小太りで髭の整った、ちょっと慇懃無礼な紳士のおじさんを思い出す。名前は放課後、帰りに職員室に寄ってからポアロに行くと言って、そのまま二人と別れた。
一時間ほど遅れて名前がポアロの店前に到着すると、植え込みの植栽の方から店内を見ている人物を見つけた。誰もその不審な動きを咎めたり、ましてや視線を合わせもしないあたり、正確には”人”ではないのだろうと思う。
彼女は茂みの方に少し体を寄せ、あたかも誰かと待ち合わせをするかのように、「あのー」と話しかけた。
「どうしたんですか?よかったら、お話聞きますけど…」
屈んだ姿勢の男は驚いたように振り向いて、それから目をぱちくりさせた。ゆっくりと立ち上がると、随分長身な人だ。胸の辺りをずっと抑えながら、まるで不審者を見るように名前をまじまじと見下げた。
《君、俺が見えるの?》
「えっ?ああ、はい。見えますけど…」
名前は誰にも怪しまれないように、小声で答えた。「お名前は?」と彼女が聞くと、男はずいぶん悩んだ。自分の名前を答えることすら悩むなんておかしな話だけど、彼はようやく重たげな口を開いて《諸伏》と答えた。
「諸伏さん、何を見てたんですか?もしかしてお腹が空いているとか…」
《い、いや、この体だから、腹は空かないよ。ちょっと店内を見てただけ…》
そう言ってから、諸伏は少し考える。ウィンドウ越しには学生や近所の住人と、色んな人たちが店の中で時間を過ごしている。彼はその店内の風景を眺めながら、どこか寂しそうに目を伏せる。そしてつい、目の前の”視える”女子高生との運命的な出会いに、感傷的になってしまった。
《あそこ、カウンターで珈琲を淹れてる男がいるだろ。あいつ、俺の親友なんだ。降谷って言って…》
と、諸伏が指さした瞬間、その”降谷”と呼んだ男がカウンター越しに目が合った。諸伏はギョッとして、植栽の影に思わず隠れる。けれど、その金髪の男の目が捉えていたのは、なぜか店に入るでもなく店先の植え込みに向かって身を乗り出し、誰もいないはずの空中に向かって、真剣な顔で話している女子高生たった一人だ。
彼はカウンターの上にコトリとケトルを置くと、静かに店の外へと歩き出す。そして、店のカウベルを鳴らしてドアを開けた。
「いらっしゃいませ。…どうかしましたか? そんなところで」
とても爽やかな笑顔だった。だけど、その丁寧で柔らかい物言いの裏には、どこか不審な行動をとる女子高生への警戒心が浮かんでいる。
「あ…ごめんなさい!えっと、あの、植木を見てましたっ!」
名前は慌てて、とんでもなく無茶苦茶な嘘をついた。そして目の前の長身でスマートな立ち振る舞いを見せる成人男性の姿に、ほんの少しだけ心臓が跳ねる。この人が降谷さんか、かっこいいな…と、首を傾げる彼に怪しまれそうになる前に、開いたドアの隙間から体を滑り込ませ、一番奥のボックス席に座る蘭と園子を見つけて慌てて駆けた。蘭の隣には、眼鏡をかけた利発そうな小学生の男の子がちょこんと座り、テーブルの上に算数ドリルを広げて宿題に勤しんでいる。
「ご、ごめん、ちょっと職員室に寄ってて。先生にわからないとこ聞いてたっ」
園子のすぐ隣に滑り込むようにベロアのシートに学生鞄を置き、腰掛ける。ちゃっかりと、あのドアの隙間から諸伏までも店内に入り、名前の隣を陣取っている。
バタバタとメニュー表を手に取っていると、園子は名前の顔を覗き込むようにして、それから別のところへ視線を向ける。「ほら、あれが安室さん。かっこいいでしょっ」と言うと、名前は一呼吸遅れてから「…あむろさん?」と首を傾げた。園子の視線に這わせてみれば、さっきドアを開けてくれた紳士のような男しかいない。
「そう!さっき、アンタに話しかけてきたイケメンよっ」
「…へ?あの人、違うでしょ?」
ピタリと、テーブルに漂っていた和やかな空気が、一瞬にして凍りついた。
「え? 何言ってんのよ、あのエプロン姿の人が安室さんじゃない」
「そうだよ? いつも美味しいサンドイッチを作ってくれるんだから」
動揺したのは名前だけじゃない。今しがた、名前を違うと否定された男だって、ほんの僅かに目の色を変えた。それから少し乱暴にカウンターの上のピッチャーを持ち上げると、それを空っぽのグラスに注いで、錯綜としているテーブル席の方にそれを運んだ。
「お待たせいたしました、お水になります」
にっこりと、それこそ絵に描いたような爽やかな笑顔でテーブルに近づいてきた青年は、コップを置く動作をごくわずかに硬直させていた。けれど、その目の奥は決して穏やかなものじゃない。
名前はそのどこか威圧的な仕草に、目をパチクリして凝視した。
「僕の顔に、何か付いていますか?」
「憑いて…、いや、顔にはついてませんけど…」
どこか不穏な空気が滞留している二人の間に、風を切るようにして諸伏が割り込んできた。そして、名前に向かって《ち、違う!今は降谷じゃなくて、安室って苗字で…》と冷や汗を掻きそうなほどに動揺している。その様子に、名前は女子高生ながらもピンと来て、「あっ」と何かを察したように声を上げた。
「も、もしかして、最近ご結婚されたとか?」
ポアロの店内に、なんとも言えない居心地の悪い沈黙が落ちた。
「……はい?」
素で間抜けな声が漏れ、金髪の青年の表情がピシリと強張る。公安警察のエースとして数々の修羅場を潜り抜けてきた男の明晰な頭脳をもってしても、この突拍子もなくどこか飛躍した会話に、回転が追い付かない。
「ち、ちょっと名前、何言ってんの!?安室さんは独身よっ」
「えっ?…あ、そ、そういうことか、すみません。そうですよね、指輪もしてないし…。ごめんなさい、離婚した人にそんなこと…」
「…ええと…僕は最初から『安室』ですし、結婚も離婚もしていませんが。…どこでそんな勘違いを?」
諸伏は愕然と頭を抱え、《頼むから、もう黙ってくれ…》と目の前の女子高生に呟いた。”安室”はどうにか気を取り直し、引きつりそうになる口角を必死に上げて営業スマイルを再構築する。
そのどこか少しずつズレてしまった空気感に、名前はぴしゃりと背筋を伸ばした後、目を泳がせながら「えーっと」と言い訳を探した。
「あの、冗談です!安室さんカッコいいから、結婚してたらやだなーって思っちゃったり、なんかしちゃったり…」
すごく苦しい言い訳だった。しかし、そこで園子が奇しくも助け舟を出すかのように、「あったりまえよ!安室さんが既婚者なんて!」とプンスカ怒ったので、雰囲気は幾分か円やかになる。そして店内にいる“隠れ安室ファン”の女性たちも、一斉に首を縦に振った。
「…な、なるほど、そういうことでしたか。残念ですが、今は仕事が恋人みたいなものですよ」
安室もペースを取られまいと、どうにかいつも通りの冷静で人当りのいい表情を取り戻す。これ以上、天然なのかそれとも何か腹づもりがあるのかもわからない女子高生の冗談に足元を掬われるわけにはいかないのだ。
少し遅れて、名前が手に取るメニュー表に指を這わせる。それから穏やかな声で、「おすすめは、やはりサンドイッチですね。ハムサンドは当店でも人気なんですよ」と言った後、にこりと笑ってテーブルを離れた。
けれどその爽やかな笑顔の裏で、彼の頭の中では複雑な思考が渦巻いている。そして密やかに疑念を抱いているのは、何も安室だけではなく、蘭の隣で静かに鉛筆を回す少年も眼鏡の奥で目を細めていた。
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