Ma Petite Menteuse
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別荘地の管理棟。夕陽はすっかり山間の木々の根に沈み、辺りはすっかり真っ暗になった。ログハウスの梁に吊るされたランタンには、羽虫が光に惹かれるように飛び回る。
橙色の柔らかな照明が部屋を照らし、シーリングファンが山の中の澄んだ空気を攪拌した。そんな静かな室内で、米花町からわざわざ訪ねて来た毛利探偵事務所の面々が別荘地のオーナーを取り囲んでいた。
「……異変が起きたのは、約5か月前のことです。この辺り一帯の別荘地は、夏は避暑地、冬はスキーリゾートで、シーズン問わず賑わっています。この別荘も、例外ではないのですが…」
安室は夜風の入る窓際に立ち、話を始めるオーナーの神妙な顔つきを少し離れた場所から見つめた。開けっ放しの窓からは湿っぽく冷えた空気が入り込み、汗を吸ったシャツをしっとりと冷やしていく。
ちらりと、すぐ向かいの灯りがついたコテージに視線を移す。同じく開けっ放しの窓から、橙色の柔らかい照明が灯り、勉学に励む塾生たちの横顔が覗いている。その窓際、誰よりも見知った顔を見つけると、安室はほんの少しだけオーナーの話からフッと耳を背けた。
(なるほど。…ああして見れば、立派な学生だな)
安室の口角は僅かに上がる。目の前の講師の話を熱心に聞きながら、ふと思い出したように机に向かって書き物をする。そんな名前の、年頃の高校生らしい姿を見たのは初めてだった。
「…じゃあ、この辺に不審者が?」
「はい。異変が起きてから、お客様がお泊りになる日は、私もなるべく管理棟で寝ずに見張ってはおりましたが…不思議な事に足跡ひとつ、見当たらず」
「足跡が?そりゃあ…、そうなると、犯人は案外、”幽霊”というオチかもしれませんな」
毛利小五郎がオーナーにそう言い、かっかと笑う。その笑い声につられるように、向かいの別荘の窓からパッと名前がこちらを向いた気がして、安室は慌てて視線を依頼者に戻した。
「…毛利先生。この世に“幽霊が犯人”なんて、そんな非科学的な事件はありませんよ。足跡がないなら、別の証拠が必ずあるはずです」
安室はゆっくりと窓枠から体を離し、古い床板の上を滑るように歩み寄る。蘭は、安室の助言に乗じるように「もう、お父さんったら!」と父親のリアリティに欠けた推論を恥ずかしそうに叱りつけた。
◇
一方、米花町からやって来た塾生たちは、ようやく微睡みかけた夜の授業を終え、コテージの広間でくじ引きを始めていた。ただコピー用紙をハサミで何等分かに切り分け、油性マジックで数字をかいて折り畳んだだけの簡素なくじ引き。
しかし、恋する男子高校生・八村にとっては、ある意味で運命を切り分ける瞬間である。くじを作っていた別の塾生に、予め自分が引く分のくじを抜き、箱の底に自分と同じ番号のくじを糊付けさせて、名前に一番最後にくじを引かせるという姑息な手段に出る程だ。
(絶対…、絶対に俺は苗字さんと肝試しのペアになるんだっ!)
八村はくしゃりと、拳の中の『3番』と書かれたくじを握り締めた。わざと箱の中に手を突っ込んでくじを掴む演技まで披露しながら、一番最後に列に並んだ名前が「あれ?」と言いながら一枚しか底に残っていないくじをペリッと剥がして取る。糊の跡などとく気にせず、『3番』と大きく油性マジックで書かれた紙を広げた。
肝試しといっても、幽霊が見える名前からすれば、ただ暗くて足元が不安定なだけの散歩のようなものだった。心許ない懐中電灯を手に、虫のリンリンとした鳴き声や風が木の葉を揺らす音、たまに小枝を踏みしめる音が不気味に鼓膜を震わせる。
たかが、宿泊するこのコテージの外周をペアでぐるりと歩くだけのイベントに、名前はけろりとした顔でひたすら歩いていた。
一方、八村の足元は、枯れ枝を踏むたびにビクッと跳ね上がっていた。好きな女子の前で良いところを見せようと必死に虚勢を張っているものの、引き攣った顔は隠せない。
「八村くん、こういうの苦手な方?」
「ヒェッ!?だ、大丈夫だよ! な、何か出たら、俺が絶対に守るからねっ!」
不意に声を掛けられ、情けなくも声を裏返す。しかし、そんな純情な男子高校生の決意表明を本物の幽霊は鼻でフンと笑った。
《ほ~。大層なこと言うじゃないか少年。だが、暗闇に乗じて手を繋ごうなんて甘い考えを起こしたら、名前ちゃんのご両親に代わって容赦はしないからな!》
「そっか、私も全然。暗くてどこ歩いていいのかわかんなくなるのがやだけどね」
姿の見えないはずの幽霊への恐怖心などそっちのけで足元の心配だけをする意中の女の子の様子に、八村はホッとするような、しかし少しガッカリするような気分で歩き始めた。
幽霊を怖がらなくったって、転びそうになったところを咄嗟に抱き止める…そんな瞬間だってあるかもしれない。そんな一縷の望みだけを支えにしながら、懐中電灯をグッと握り締め、暗闇の中へ大きく一歩踏み出した。
「…よしっ、俺が先を歩くよ!名前ちゃんは俺の後をつっ」
「えっ」
避暑地の涼しい夜の森、隣を歩いていたはずの八村の姿が忽然と消えた。
「…は、八村くん!?」
懐中電灯が枯れ葉の上にコロリと転がり、ふっと真っ暗になる。名前は思考が追い付かず、呆然と真っ暗闇の中で立ち尽くした。
それはまるで、奇術師のイリュージョンマジックか、神隠しのようにも見える。名前の背中に冷たい汗が伝う。
しかし、数秒して暫く、足元で「いてて…」と情けなく呻るような八村の声が聞こえて慌てて視線を落とした。
「大丈夫!?…というか、なんなのこの穴…!?」
視線の先には尻餅をつき、泥だらけになっている同学年の男子生徒の姿。深さは二メートルもない穴の中にすっぽりと嵌っている。
底には柔らかい土と枯れ葉が丁寧に敷き詰められており、殺意はおろか、怪我をさせる意図すら全く感じられないが、明確に誰かを落としてやろうという悪意を感じた。
《お、落とし穴…?》
幽霊の諸伏は、怖がりな八村のすぐ隣に膝をつき、穴の縁を見つめた。
《土の壁面に手掘りの後がある。おそらく、小さなスコップだろうが…。しかし、これだけの大掛かりな穴を掘るにしては、靴跡ひとつ見えないのはどういうことだ?》
「え…?」
元警察官としての冷静な分析も虚しく、コテージの向こうからはあちこちから「助けてー!」「きゃー!」という塾生たちの叫び声が連続して森に響き渡る。
その騒ぎを聞きつけ、管理棟のコテージの扉がバンと大きな音を立てて開き、枯れ枝を踏み割るように複数人の足音が駆け寄った。
「どうした、 何があった!?」
地面に落ちた懐中電灯の光を追いかけてやって来たのは、ただならぬ緊迫感を纏った安室とコナンだった。
二人の顔は完全に『殺人事件の第一発見現場』を覚悟した深刻なものだった。特に安室の目は、暗闇の中でも獲物を狙う鷹のように鋭く周囲を索敵している。
照明で照らした彼らの視線の先には、ぽっかりと口を開けた地面の穴をじっと覗き込んでいる名前の姿があった。
…が、男子高校生がすっぽりと落とし穴に嵌っている姿を見て、二人は数秒ほどピタリと息を止めた。
「………」
「あ、安室さん…八村くんが急に…」
凄惨な連続殺人事件でもなく、黒ずくめのスパイの暗躍でもない。
前代未聞の『連続落とし穴事件』という平和すぎるミステリーの幕開けに、安室もコナンも、ただただ呆然とその惨状に立ち尽くす。
しかし、二人に助けを求めようとした直後、名前の耳には茂みの向こうから声が聞こえた。
《イヒヒ…、引っ掛かった、引っ掛かった!》
そのクスクスとした笑い声混じりの、無邪気な調子の高い声。
名前は咄嗟に眼鏡をかけた天才小学生たるコナンの方にフッと視線を投げたが、当の本人はいたずらな笑顔どころか口が引き攣っている。
もう一度、茂みの奥に目を向けた後、名前は諸伏と視線を合わせた。
《間違いない…あの声が犯人だ!》
「あっ、ちょ…待って、置いてかないで!」
幽霊の諸伏が茂みの中に軽々とすり抜けて走ると、名前は穴に嵌ったままの八村のことなど意に介さず、慌てて木の枝に服を引っ掛けながら半透明の彼の背中を追い掛けた。
その姿は、安室やコナンの目からは「待って!」と虚空に向かって叫んで暗い茂みの中へ突っ込んでいった女子高生の背中にしか見えず、二人は再び硬直した。
(な…なんだ?いったい、なにが起こってるんだ…?)
ついさっき、自分が毛利小五郎相手に鼻であしらうように放った言葉を反芻する。“非科学的な事件はない”、そう信じ切っている自分の中の確固たる軸が、名前を目の前にするといつも揺らいでいく。
「名前お姉ちゃん! そっちは危ないよ!」
コナンが叫ぶと、安室はハッと意識を弾かれたように彼女の後を追って茂みへと飛び込んでいた。未だ穴に取り残された哀れな八村の「えっ、俺は!?」という情けない声は、無情にも夜の森に吸い込まれていった。
◇
「…こら、待ちなさい!」
名前は大きなクヌギの木の下で小さなスコップ片手に堂々と待ち構える少年を相手に、息も絶え絶えのまま怒鳴った。
誰の目にも姿を現さなかった少年は確かに幽霊だ。穴だらけの古臭いオーバーオールを泥塗れにして、むき出しの膝には擦りむいた痕がある。
「君がやったんでしょ、あの落とし穴ぜんぶ!」
《だってぇ、毎日つまんないんだもん》
《こら。いくら退屈だからって、こんな手の込んだイタズラをして皆を困らせちゃダメだぞ。落ちた人が怪我をしたらどうするんだ?》
《………》
諸伏が少年の目線まで姿勢を屈ませ、そう言った。毅然とした、それでいてどこか優しい態度に、少年は口をまごつかせて、オーバーオールの裾をキュッと握り締める。
その拗ねたような様子に、これがたたの暇つぶしによる悪戯ではないような気がして、名前はシャツについた細かな木の葉を手で払った後、諸伏の隣にしゃがみこんだ。
「ねえ、ほんとは何か別の理由があるんじゃない?」
《………》
少年は目の前で首を傾げる年上の女の子を目の前にして、ほんの少し目を逸らし、握り締めたオーバーオールの裾を捏ねるようにもじもじと指を動かした。
《…本当は…ぼく…ここで…》
「そこまでだ!」
ガサリと大きな音がして、鋭い声が夜の森に響き渡る。
スマートフォンの強烈なライトが少年と諸伏の身体をすり抜け、名前を真っ正面に照らした。
名前は悲鳴を上げることもなく、ゆっくりと光源を傾けていく声の主の姿をようやく夜目で捉えた後、「あ、安室さん」と呟くように呼んだ。
そう呼ばれた本人は、真っ暗闇にひとり突っ走り、行き止まりの空間でついさっきまで何かを窺い立てるように会話をしていた一人きりの女子高生の姿に、ピタリと石像のように固まった。
「……は、犯人は…?」
「え?」
名前はその問いかけにギクリとして、思わず視界の脇にいる連続落とし穴事件の真犯人を目で追い掛けた。しかし、安室の目に映る訳がない。
当の少年は、ぽかんと立ち尽くす大の男の姿を見て、呑気に「あっかんべー」と舌を出して挑発している。そんな生意気な少年を、諸伏は見えもしないのになぜか《こ、こら!大人を煽らない!》と叱っていた。
◇
森のどこか遠くで梟が鳴く静かな真夜中。名前は肝試しの落とし穴騒動から解放され、すっかり熟睡してしまっている塾生たちを起こさないようにそろりと布団から抜け出し、真っ暗なウッドデッキに隠れるように蹲っていた。
あのいたずら好きの少年は小さなスコップを持って堂々とふんぞり返っていた姿は鳴りを潜め、今や諸伏と名前に挟まれてしおらしく膝を抱えて丸っている。
「ねえ、なんであんないたずらするの?たかが落とし穴だって思ってるだろうけど、事故で人が死んだらどうするの」
少年は言葉を詰まらせた。それからますます口を尖らせて、名前の言葉に《だって…》と呟いた。
《だって、アイツらがもう遊んでくれないんだもん…。この間、庭でお酒飲みながら言ってたんだ。もう歳だから、来月にはこの別荘を全部手放すって。でもぼく、まだ見つけてもらってないんだ》
「…見つけるって、なにを…?」
少年の幽霊は、ポロポロと大きな涙の粒をこぼしながら、ギュッとスコップの柄を握りしめた。
《ブリキのミニカーだよ!パパが海外にお仕事に行ったお土産に買ってくれたのを、あいつらに見せたくてポケットの中にずっと入れてたんだ…》
「………」
《……ここがなくなったら、ひとりぼっちになっちゃうし、ぼくのミニカーだってあいつらに見せてやれなくなっちゃう。だから落とし穴を作って、みんなの邪魔をしてやったんだ》
純粋で無軌道な、けれどあまりにも悲しくて寂しい理由だった。
諸伏は目を細めて、そっとその小さな頭を撫でるように手を乗せた。しゃくりあげる声が、夜の静寂に溶けていって、名前の鼓膜を揺らした。
《そうか…君は、寂しかったんだね。友達に置いていかれるのが、怖かったんだ》
少年を慰めるような柔らかい諸伏の声には、どこか自分と重ね合わせているような痛ましさを感じる。名前は膝を抱え直し、涙で頬をぐしゃぐしゃに濡らしている少年の顔を覗き込んだ。
「……あのさ、そのブリキのミニカー、誰に見せたかったの?」
◇
「……なるほど。約五十年前、この別荘地がまだ開発途中だった頃に、痛ましい滑落事故が起きていたんですね」
コテージ群の中心にある、別荘のオーナーが滞在する管理棟。
その応接室では、安室とコナンが深刻な顔で一冊の古いアルバムと、色褪せた新聞記事のコピーを囲んでいた。
「事故が起こったのは、ちょうどこの管理棟の裏。事件があった日の朝方は少量の雨が降っていた…なるほど。不幸にも、遊んでいる最中に足を滑らせてしまった、というわけか」
安室は、アルバムに写る三人の少年の写真と、新聞記事を交互に見比べながら、鋭い目を細めた。
「うん。それに、さっきあのオーナーさん、『来年の春にはこの別荘地を売るつもりだ』って、おじさんに言ってたよ。落とし穴の嫌がらせは、そのことを決心した5カ月前から始まったんだって」
コナンが眼鏡をキラリと光らせながら、安室の顔を覗き込むようにしてそう告げた。安室はスッと目を細め、自分の顎を撫でるようにして指を這わせる。その目はすでに一介の喫茶店アルバイトのものではなかった。
(売る”決心”をした途端に、嫌がらせか。身近な人間の犯行か、それとも人の心を読んだとでもいうのか……いや、あり得ないな)
降谷は自分の頭の中にふと入り込んできた非現実的な考えを振り落とすように首を横に振った。さっきの毛利小五郎の発言といい、真っ暗闇の中あの虚空に向かって独り言を呟いていた女子高生との姿といい。どうも考えが明後日の方向に傾いてしまうのは、最近疲れが溜まっているせいだと思い込むことにした。
「なら、ただの偶然や可愛らしい悪戯ではない。点と点が繋がりましたよ、コナンくん。犯人の目的は……五十年前に起きた事故に対する、何らかの『メッセージ』、あるいは『復讐』だ」
完璧すぎるプロファイリング能力は、まさに今、正解を掴もうとしていた。が、まさかその『復讐に燃える怨念の犯人』の正体が、ただ寂しくてかまってほしかっただけの五十年前の子供の幽霊本人であることも、現在進行形でアルバイトの女子高生と亡き親友の幽霊にベランダで慰められ、鼻水を啜りながら大泣きしている最中であるなどとは想像つくはずもない。
夜の軽井沢の森の奥深くで、完璧な推理とオカルトな真実が、絶対に交わることのない平行線をひたすらに走っていた。