Ma Petite Menteuse
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
鬱陶しい梅雨が終われば、代わりに暑い夏がやって来た。
少しでも歩けば薄手の制服の下にはじわりと汗が滲み、長い襟足も項に引っ付いてしまうから、名前は毎日左腕の手首にヘアゴムを常備していた。
つい今朝までは、名前の機嫌はそれなりに良かった。
学期末考査も終わり、いよいよ夏休みが始まる。休みに入って喫茶ポアロでのアルバイトのシフトを増やせば、いつもカウンター越しににこやかに笑う安室と毎日会えるからだ。
しかし、1限の授業が始まる前に帰って来た見るも無残な考査の結果に、彼女の気分はどぶんと奥底に沈んでしまった。
その週の土曜日、学習塾の教室では、ホワイトボードの隅に『夏季合宿』と書かれた掲示物が張り出されていた。場所は長野県・軽井沢の山奥。避暑地としても知られる場所は自然豊かで、余計な雑念などあっという間に流れ、思う存分勉学に集中できるだろう。
そのどこか素人の仕事ぶりを感じる印刷物を眺めていると、背後から教室へ入ってきた塾長がふと足を止め、にこりと笑った。
「苗字さんも参加されますか?軽井沢はいいところですよ。私の地元でね」
「えっ、先生の地元なの?」
名前が振り返ると、塾長は手を後ろ手に組み、『自然豊かな場所で学友と夏休みを思い出を作ろう』という文字を繫々と見つめていた。
「ええ。実はこの合宿の別荘はね、私の幼馴染の所有している別荘のひとつなんですよ。広い敷地内に、何棟もコテージがあってね。毎年この季節に友人が塾生の皆さんために無償で貸してくれるんです」
「そうなんだ…」
「どうでしょう?学期末考査の結果も、あまり芳しくないと悩んでいたところですし」
「…………」
そんな二人のやり取りを、思春期の男子高校生がひとり眺め、決意を固めるかの如く静かに拳を握っていた。
◇
「…そういうわけで、一週間、ポアロをお休みしたいです」
喫茶ポアロの狭いバックヤード。パイプ椅子に座っていた安室は、差し出されたシフト希望表と、目の前で親に出来の悪い成績表を見せる子供のような顔をする名前を交互に見た。
「なるほど。そういうことですか」
成績不振による、学習塾の強制的な夏季合宿参加。高校生らしい、あまりにも平和で等身大な理由。しかしこの世の絶望の淵に立たされているかのようにしょんぼりとした顔の少女を目の前にして、安室は以前のようなどこか飛躍した推論はやめ、呆れるような溜息を小さくこぼした。
「構いませんよ、高校生は学業が本分ですからね。それに、名探偵になるにしても、最低限の基礎学力と論理的思考力は必要不可欠ですよ」
「…うう…はい…」
「名前さんの弱点、古文でしたっけ?…いけませんね、探偵の弟子たるもの、言葉を読み解く力がなくては」
そう揶揄うように、余裕めいた言葉すら投げかけてくる。
正直なところ、安室はほっとしていた。一週間もこのトラブルメーカーな突撃娘の顔を見なくて済むことに対してではなく、どんなに背伸びをしてみせても、結局は年相応の悩みを抱える十代の女の子なのだという事実に。
「…まあ、探偵としてではなく、人生の先輩としてアドバイスをするとすれば…、せっかくの夏休みをアルバイトで潰すのではなく、同じ年頃の学友と過ごす方が、君にとっても素敵な思い出になるでしょうね」
安室は赤線だらけのシフト希望表を指先でトントンと軽く叩きながら、なんの打算もない柔らかな笑顔を見せる。安室の忠告も今を懸命に生きる女子高生にとってはあまり身に染みるものではない。
しかしふと、顔も素知らぬ『同じ塾の男の子』の話題を思い出して、安室はほんの僅かに口を引き絞った。
(…お泊まりの合宿に、同年代の男子生徒も一緒、か)
彼の中に湧き上がったのは執着や嫉妬といった黒い感情では決してない。ただ、目の前で『探偵・安室透の弟子』を自称する彼女が、自身でも予想がつかないほどに突飛なトラブルに巻き込まれなければいいが…という、ひどくお節介なものだった。
「くれぐれも、向こうで変な事件に首を突っ込んだりしないように。…君は色々と、妙ないざこざに巻き込まれるところがありますから」
「……はあい」
扇風機の首がゆっくりと回り、バックヤードに生ぬるい夏の風を運んでくる。思春期真っ盛りの女子高生は、この夏休みの間に意中である年上の男との進展に期待できないと分かり、またがっくりと肩を落とした。
◇
長野県・軽井沢町。日本を代表する避暑地であり、ハイクラスな宿泊施設がずらりと立ち並ぶ。木の葉が風に揺れるたび、木陰が色を濃くして、小気味いい音を鳴らした。
塾長の運転するマイクロバスに揺られること約2時間。名前の座る座席のすぐ側では、またもや保護者面した幽霊・諸伏が《いくら学習塾主催のお泊り合宿と言えど、男子高校生とひとつ屋根の下。大自然の開放感と吊り橋効果で、何があるかわからないしな…!》と故郷への郷愁よりも使命感に燃え上がっていた。
約一週間の長期夏合宿といえど、なにも一週間丸々勉強に明け暮れるわけではない。料理やレクリエーション、そしてコテージという限られた空間で育まれる塾生同士の交流。
他校の塾生も大きなボストンバッグを片手に数名と集まる中、夏の一大決心に燃える男子高校生がいる。
(この合宿で、苗字さんとは絶対に、『友達以上』の関係になるんだ…!あわよくば、ファーストキスも…!)
前回、映画鑑賞後即解散という不完全燃焼な結果に終わった彼女とのデートのリベンジと更なる関係性の発展を図る、男子高校生・八村。そんな思春期の男女の過ちを阻止すべく、元警察官の鋭い眼光で射貫く幽霊・諸伏。
そんな男二人の思惑がバチリと交差する中、塾生たちの前に人の好さそうな眼鏡をかけた男が管理棟から現れ、塾長の隣に並んだ。
「やあ、米花町からはるばるようこそ。僕がこの別荘地の管理者です」
少し腰を庇うように歩きながら、後ろ手を組んでいる。髪の毛は白髪が混じり、涼し気な綿のポロシャツを着ていた。
「ぜひ、存分に思い出に残る夏にしてくださいね。ただし…管理棟の裏には行かないこと。あそこは一見、緩やかに見えますが、朝方は露で湿って滑りやすくなる。もし、落ちてしまったら…」
そう言ったあと、彼は少し目を伏せた。しかし、すぐに「とにかく、近づいちゃダメですよ」と人差し指を立てて、また人の好い笑顔を塾生たちに見せた。
「ああ、それとね。ちょうど明日、君たちと同じ米花町から来るお客様が、別のコテージにお泊りになられます」
その言葉を聞いた時、諸伏だけはなんとなく嫌な予感を感じていた。
◇
二日目の真昼。ジワジワと暑苦しく泣き喚く蝉の声に紛れて、この大自然に似つかわしくない車のマフラーの音が木の葉を揺らした。
丁度、午前中の授業から解放されたばかりの名前は、コテージのデッキを歩きながらうんと伸びをする。ガラガラと小石を引き摺ってタイヤに噛ませるような音が聞こえたと思うと、目の前の別棟に白いピュアスポーツが現れた。午後の日差しがマツダのエンブレムをぎらりと輝かせる。
エンジンがブツリと切れたあと、助手席と後部座席のドアが解放されるように開いて、人影が現れる。名前は「あっ」と思わず声を出した。
「蘭ちゃん、コナン君!」
同級生の毛利蘭とその居候の江戸川コナン、見知った顔が車から降りてくるなり名前の姿を見つけ、偶然の再会に嬉しそうに駆け寄ってきた。
「名前ちゃん! すごい偶然!」
「だね!みんなで旅行に来たの?」
「ううん、違うよっ。僕たちね、おじさんのお仕事の手伝いで来たんだっ」
「おじさん?」
名前がそう首を傾げていると、助手席側から降りて来た長身の男が、白い車のすぐ横でうんと腰を伸ばしていた。車高の低く、快適性や実用性を犠牲にしたような、とても乗り心地が最高とは言い難い車での長旅に疲れ果てたのだろう。
同級生である毛利蘭の父親、バイト先である喫茶ポアロの上階で探偵事務所の所長・毛利小五郎。名前は「こんにちは~」と少し他人行儀に挨拶を交わした。
「おおっ? お前さん、ポアロでバイトしてる…」
小五郎が目を丸くしていると、今度は運転席側でバタンと音がした。降りてきたのは、涼しげな私服姿に身を包んだ金髪の青年。眩しそうに軽井沢の太陽を見上げる…間もなく、蘭たちの声のする方へ視線を向けた瞬間、ピタリとその動きを止めた。
「あ…安室さん…」
そう呼びかけられて、安室は数秒黙った。
東京から遠く離れた長野県の山奥。わざわざシフトを休んで合宿に来ているはずのアルバイトの女子高生が、なぜか自分たちの目的地の真隣で、ぺこりと挨拶をしている。
安室は頭痛を堪えるようにスッとこめかみを押さえた。
しかし、すぐに名前の背後でぞろぞろと軽装の学生たちがコテージから出て来るのを見ると、ホッと呆れ混じりの溜息を吐き、観念したように彼女の方へ歩み寄る。
「…まさか、こんな長野の山奥で君に会うとは思いませんでしたよ。合宿というのは、嘘じゃなかったんですね」
「えっ、嘘だと思ってたんですかっ?」
穏やかな口調で、ほんの少し冗談交じりに言ってみせる彼の様子は、どこか安心する様子さえ窺える。彼からすれば、自身の弟子を自称する彼女がまた何か突拍子もない嘘をついて、妙な事に首を突っ込んでいるのではないかという疑いも、心のどこかにあったのかもしれない。
それでもこの軽井沢の地で、ある意味運命的な遭遇を果たした名前は、安室を目の前にどこか晴れやかで、そして意中の相手に気後れして恥じらうような表情を見せていた。そんな彼女の年相応な姿を見て、安室もようやく頬を緩ませる。
…が、彼女の背後にスッと現れた見知らぬ男子高校生の姿に、安室の表情は僅かにピキリと固まった。
「苗字さん、その人知り合いなの?」
「あっ、八村くん。うん、バイト先の先輩」
『八村』という名前、それから同じ塾に通う男子高校生。目の前の得体の知れない成人男性に向ける、どこか張り合うような眼差し。
安室の冷静かつ、明晰なプロファイリング能力が、ひどく個人的な感情だけでぐるりと頭を駆け巡る。にこりと、自身の魅力を最大限に露わにした笑顔を名前の背後にいる八村にだけ向けた。
「…どうも。”名前さん”からお話はよく聞いてますよ、八村くん。この前は映画にふたりで行ったそうですね。いつもうちの従業員と仲良くしてくださってありがとうございます」
名字ではなく名前を呼び、二人だけで行ったデートの話を畳みかけ、極めつけには『うちの従業員』と言い切る。三十路間近の男の大人げないマウンティングがひとりの男子高校生の対抗心を燻り、二人の間でバチリと火花が散った。
そんな男同士の静かな戦いもそっちのけで、誰にも姿の見えない幽霊だけがウッドデッキの柱の影ではらはらと危機感を覚えていた。
《…マズイ、マズイぞ名前ちゃん! 毛利探偵にあの眼鏡の小学生男児、おまけにゼロまで揃って人里離れた別荘地に現れるなんて、無事にこの夏を過ごせるわけがない…!》
幽霊である諸伏の悲痛な忠告など、突然現れたイケメンカフェ店員に黄色い声を上げて騒ぎ立てる女子高生たちが聞いてくれるわけもなく、避暑地の澄んだ空気の中に溶け込むようにして消え去ってしまう。
こうして奇妙な顔ぶれが集まった軽井沢の山奥、一筋縄ではいかない女子高生の夏休みが始まった。