1
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
人通りのない月明かりの道を、ただ二人で歩いている。ヒールと革靴の音が響くだけ。
ふと隣を見ると、月に横顔を照らされた先輩がいる。視線に気づいた先輩は、頬を染めて目を逸らした。
コツ、と革靴の音が止まった。私も足を止める。
「僕は…いったい何を返せばいいんでしょうか?」
「?何、とは?」
「わざわざ着飾っていただいたんです。その対価をお返ししなければ、と。」
言うと思っていた。この人はそういう人だ。物には対価があると思っている。
「私は自分が楽しむために着飾ったんです。むしろお返しをしなければならないのは私のほうですね。なんだかんだ、楽しかったですし。誘ってもらったこと、感謝してますよ。」
「随分殊勝ですね?…でも僕も、はいそうですか、とは言えません。」
無償なんてものは信じない。だから、私に借りを作りたくもないんだろう。
「では、先輩はどうしたいんです?私に、何か対価をくれるんですか?」
「それを今、考えていました。あなた、何か欲しいものはありませんか。僕は今機嫌がいいので、慈悲の心でなんでも叶えて差し上げられると思います。」
「叶えたい願い、ねぇ。」
思わず吐き捨てるように呟いてしまった。
さっき叶いましたよ。全部。もう終わったことですけど。残る願いはあと一つです。
そういうわけにもいかず、少し頭を悩ませる。そうして一つ、思いつく。多分、言わないほうが良いことを。揶揄い半分で、口に出してしまう。
「何か願いが叶うなら…。」
「ええ、何かありますか?」
「先輩の恋を叶えてあげたかったな、とは思いますよ。」
「な?!」
予想外だったのか、あからさまに狼狽える。
「そ、それは…そんなことは。僕は…恋愛なんて、浮かれたこと…、」
「ねえ先輩。あれだけあからさまにしておいて、言い逃れるつもりでいます?」
「…!!」
「私が何もわからずここに来たと思いました?そんな初心な人間に見えます?そんなに打算もない、騙しやすい人間に見えますか?私は。」
にこ、と笑って見せる。先輩の目が泳ぐ。
「そ、の、でも、そんな、…僕の段取りが…」
「段取りなんて、ここまで来たらあってないようなものでしょう。」
もごもご、と口ごもっていた先輩が、真っ赤な顔で私を見据えた。
「あー!!!もう、それなら言いますけどね!!僕は、」
「自意識過剰でしたら申し訳ありませんが、私はその気持ちに応えることができません。」
「…は?」
出鼻を挫くように、私はその先を聞かないで言葉をかぶせる。
「言ったじゃないですか。叶えてあげたかった、って。…私と先輩では、生きる世界が違うんです。」
元の世界と、この世界。
魔法が使えない人間と魔法士のエリート。
陸の世界と、海の世界。
人間と、人魚。
文字通り、世界が違うのだ。何も交わることなんかない。こんな、私の世界の常識が通じない、捩じれた世界じゃなければ、出会うこともなかった。…出会わなかったほうが、幸せだったなんて思わないけれど。
「そんなの、はじめからわかってたじゃないですか。」
いっそ、先輩が言おうとした言葉が違うものであれと思う。そして、私の勘違いだと言ってほしい。私の自意識過剰だと馬鹿にしてくれればいい。
そしたら、もうこんなことしなくてよくなるんだから。
「そ、そんなの、どうにでもなります。僕がどうにでもします。」
そんな目論見は外れてしまう。それなのに、心のどこか安心してしまって。心の中で自分に舌打ちした。
「だから、まず話を…!!」
「聞きません。」
「そんな…!!」
その言葉を聞いたら、きっと後悔する。きっとじゃない、絶対だ。
今だってこんな言い合いするつもりなんかなかった。やっぱり、揶揄い半分で言うべきじゃなかった。わかっていたのに、どうして言ってしまったんだろう。
どこか冷静に、冷酷に今を見ている自分がいる。事実を伝えれば伝えるほど、彼は傷つくだろう。別にそんなことは望んでいない。寧ろ、傷つけないために選んだ道のはずだった。
…だから、薬だって使ったんだろうが。ギリ、と奥歯を噛み締めた。
突然、先輩の身体がガクンと揺れた。
「?!」
あぁ、やっと効いてきた。香水の…この薬の効果が出てきたようだ。私は胸を撫で下ろす。
「っ…!!これは…?!」
「先輩、浮かれていたんですね、普段なら、こんな私の稚拙な罠に油断なんかしないのに。でも良かった。それだけ、今日を楽しみにしてくれていたんですね。」
「あなた一体、何を…?!」
頭を抑えた先輩に近づく。コツコツ、とヒールの音が響く。
「もう遅いですよ。先輩に手の内を晒すのは愚策です。でも安心してください、別に、命を取るつもりなんかないですから。」
別に、命なんか欲しくない。私は先輩の中の、私の記憶を消してほしいだけ。
「ちょっとだけ、眠ってほしいだけです。」
「眠る…?あ、あなたまさか、僕の記憶を…?」
息を呑んだ。どうしてバレた?わからない。でも、きっと私がどこかで口を滑らせたんだ。
相手が悪い。聡すぎた。
きっと抗い難い眠気と戦っている先輩が、顔を歪めて私を見た。
「そ、んなに…そんなに、嫌でしたか、今日のことが、……僕の、ことが…。」
その言葉を聞いた瞬間、自分の顔が歪んだのがわかった。
嫌だったら、わざわざ着飾って舞踏会になんか行かなかった。
嫌だったら、一緒に踊ったりなんかしなかった。
ここまで一緒にいようなんて思わなかった。
…思わなかったのに。
私はギュッと、ドレスを握った。
「そういうとこ、大嫌いですよ。先輩。」
絞り出すように言った言葉に、先輩の目が見開いた。
「…許しません、こんなことで、」
「許さないでくれて、結構です。でも、もういいでしょう。その気持ちも含めて、ぜーんぶ忘れちゃってください。」
痛みのない終わりなんてあるわけなかった。そんなの、自分が一番よく知っていた。
あぁ、やっぱり。傷つけるくらいなら、初めからやめていたらよかったんだ。
「くそ、こんな…ことで…僕が…」
「先輩。全部諦めてください、それで終わるから。」
「僕は…あなたを…………忘れたくない、のに…」
「…!!」
そういったきり、先輩は話さなくなった。きっと、睡魔と戦っているんだろう。
「先輩。」
忘れたくないなんて、そんなこと。言わないでほしかった。
「ねえ、先輩。…対価なんか何もいりません。理由は言いましたよね。私が貰ったものを返せていないから。でももし本当に、私に何か返してくれるというなら…。」
聞こえていますか。意識を落とす直前の先輩に、この言葉が届くだろうか。
「私を忘れて、幸せに生きてください。」
立ったままで、先輩の首がカクン、と落ちる。意識を落としたのだろう。
香水に混ぜた薬は、記憶を混濁させるもの、そして長時間それを嗅いでいれば…そのまま記憶を無くすといった代物だ。それも楽しかった記憶を消すという、とても酷い魔法薬。先輩が、私との思い出が楽しいと思ってくれていれば、効くはずだ。そうであってくれと願う、自惚れを許してほしい。
ゆらゆら揺れている先輩は、夢遊病のような状態だ。歩くことはできる。夢遊病と違うのは、簡単な指示になら従えるということか。
「自分の部屋まで戻りましょう?」、そう言うと、彼は鏡の間へ向かって歩き出す。
ふらふらと歩く先輩の手を引いて、鏡の前まで見送った。手が解けて、鏡に消える背を見送る。私に、手を伸ばす資格はない。
…夢なら夢らしく、綺麗に終わればよかったのに。ごめんなさい。
ため息を吐いた。
―――――――――――――――――――――――
誰もいない夜道を歩く。そうしてひとり、寮への道をたどる。コツコツ、音がしなくなった。舗装されていない道も、ヒールは上手に歩いていく。ドレスの色が、また変わった。キラキラ、と月明かりで光って、とても綺麗だ。
願いを叶えるドレス。夢を見せてほしいと願った。私の恋を彩るにはあまりに綺麗すぎた。
寮に戻ってドレスを脱ぐと、そのままキラキラ光って、ふわりと魔法が解ける。ドレスに感情なんかないはずなのに、布がどこか満足気に見えた。靴も、何度かステップを踏んでから質素な靴に戻る。
ありがとう。夢を見せてくれて。ありがとう、最後まで魔法を解かないでいてくれて。
退学するための支度を終えて、茶色の小瓶を手に持った。そのまま寮の庭に出る。
空を見上げた。現世では見えないくらい綺麗な星が、月が見える。
私の願いは叶った。これで全部終わる。
きゅぽん、と封を切って小瓶を見る。
夢を見ていた。まだ見ていたかったと思う。でももう終わらせないと。
舞踏会で握られた手を、添えられた手を思い出す。それだけで、全身が熱くなるくらい緊張した。きっと、初めてだったから。手を握ったのも、あんなに近くで顔を見たのも。
傍にいられて嬉しかった。同時に恥ずかしくなった。いつからこんなに、好きになってしまったんだろう。そして、もう手放さなきゃいけない感情なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
もう関わらないと決めたのは私で、記憶を消したいと願ったのは自分の我儘でしかないことくらいわかっていた。その我儘のためにこの数日必死に準備してきた。それなのに、うまくできなくて、余計な言葉で彼を傷つけた。そんな別れを望んだわけじゃなかった。できれば笑顔で別れたかった。でも、もうどうしようもない。時間は戻らない。どうせ、忘れられるのだ。どうだっていい。そうでしょう。
後ろ髪を引かれるような心持ちで、小瓶の中身を飲み干した。
大切な気持ちが、ゆっくり薄れていく気がする。
あぁ、なんて楽しい夢だったんだろう。そして、苦しい夢だった。
叶わない恋を、望んだ夢だった。叶うはずがない恋だった。
星が滲んでいく。輪郭がぼやけて、歪んで、見えなくなってしまう。
それでも月は、丸く輝いていた。
「月がきれいです。こんなにも。綺麗なんです、先輩。」
…あなたと見た月だから、とても綺麗だったんです。
言えなかった言葉を今更、誰に言うまでもなく呟く。そんなのもう遅すぎた。冷静な私が、何のために泣いているのか問う。もうわからない。何も、わからないの。
ああ、でもあと少しだけ願いが叶うなら、なんて、強欲な私はまだ願ってしまう。
この世界が彼を愛しますように。彼の世界に、私がいませんように。
最後までわがままですみません。大好きでした。…さようなら、先輩。
夜が更けていく。そして、昨日と同じように朝日が昇る。
世界は月を忘れて、いつもの日常を取り戻す。そういう風に、できているのだ。
ふと隣を見ると、月に横顔を照らされた先輩がいる。視線に気づいた先輩は、頬を染めて目を逸らした。
コツ、と革靴の音が止まった。私も足を止める。
「僕は…いったい何を返せばいいんでしょうか?」
「?何、とは?」
「わざわざ着飾っていただいたんです。その対価をお返ししなければ、と。」
言うと思っていた。この人はそういう人だ。物には対価があると思っている。
「私は自分が楽しむために着飾ったんです。むしろお返しをしなければならないのは私のほうですね。なんだかんだ、楽しかったですし。誘ってもらったこと、感謝してますよ。」
「随分殊勝ですね?…でも僕も、はいそうですか、とは言えません。」
無償なんてものは信じない。だから、私に借りを作りたくもないんだろう。
「では、先輩はどうしたいんです?私に、何か対価をくれるんですか?」
「それを今、考えていました。あなた、何か欲しいものはありませんか。僕は今機嫌がいいので、慈悲の心でなんでも叶えて差し上げられると思います。」
「叶えたい願い、ねぇ。」
思わず吐き捨てるように呟いてしまった。
さっき叶いましたよ。全部。もう終わったことですけど。残る願いはあと一つです。
そういうわけにもいかず、少し頭を悩ませる。そうして一つ、思いつく。多分、言わないほうが良いことを。揶揄い半分で、口に出してしまう。
「何か願いが叶うなら…。」
「ええ、何かありますか?」
「先輩の恋を叶えてあげたかったな、とは思いますよ。」
「な?!」
予想外だったのか、あからさまに狼狽える。
「そ、それは…そんなことは。僕は…恋愛なんて、浮かれたこと…、」
「ねえ先輩。あれだけあからさまにしておいて、言い逃れるつもりでいます?」
「…!!」
「私が何もわからずここに来たと思いました?そんな初心な人間に見えます?そんなに打算もない、騙しやすい人間に見えますか?私は。」
にこ、と笑って見せる。先輩の目が泳ぐ。
「そ、の、でも、そんな、…僕の段取りが…」
「段取りなんて、ここまで来たらあってないようなものでしょう。」
もごもご、と口ごもっていた先輩が、真っ赤な顔で私を見据えた。
「あー!!!もう、それなら言いますけどね!!僕は、」
「自意識過剰でしたら申し訳ありませんが、私はその気持ちに応えることができません。」
「…は?」
出鼻を挫くように、私はその先を聞かないで言葉をかぶせる。
「言ったじゃないですか。叶えてあげたかった、って。…私と先輩では、生きる世界が違うんです。」
元の世界と、この世界。
魔法が使えない人間と魔法士のエリート。
陸の世界と、海の世界。
人間と、人魚。
文字通り、世界が違うのだ。何も交わることなんかない。こんな、私の世界の常識が通じない、捩じれた世界じゃなければ、出会うこともなかった。…出会わなかったほうが、幸せだったなんて思わないけれど。
「そんなの、はじめからわかってたじゃないですか。」
いっそ、先輩が言おうとした言葉が違うものであれと思う。そして、私の勘違いだと言ってほしい。私の自意識過剰だと馬鹿にしてくれればいい。
そしたら、もうこんなことしなくてよくなるんだから。
「そ、そんなの、どうにでもなります。僕がどうにでもします。」
そんな目論見は外れてしまう。それなのに、心のどこか安心してしまって。心の中で自分に舌打ちした。
「だから、まず話を…!!」
「聞きません。」
「そんな…!!」
その言葉を聞いたら、きっと後悔する。きっとじゃない、絶対だ。
今だってこんな言い合いするつもりなんかなかった。やっぱり、揶揄い半分で言うべきじゃなかった。わかっていたのに、どうして言ってしまったんだろう。
どこか冷静に、冷酷に今を見ている自分がいる。事実を伝えれば伝えるほど、彼は傷つくだろう。別にそんなことは望んでいない。寧ろ、傷つけないために選んだ道のはずだった。
…だから、薬だって使ったんだろうが。ギリ、と奥歯を噛み締めた。
突然、先輩の身体がガクンと揺れた。
「?!」
あぁ、やっと効いてきた。香水の…この薬の効果が出てきたようだ。私は胸を撫で下ろす。
「っ…!!これは…?!」
「先輩、浮かれていたんですね、普段なら、こんな私の稚拙な罠に油断なんかしないのに。でも良かった。それだけ、今日を楽しみにしてくれていたんですね。」
「あなた一体、何を…?!」
頭を抑えた先輩に近づく。コツコツ、とヒールの音が響く。
「もう遅いですよ。先輩に手の内を晒すのは愚策です。でも安心してください、別に、命を取るつもりなんかないですから。」
別に、命なんか欲しくない。私は先輩の中の、私の記憶を消してほしいだけ。
「ちょっとだけ、眠ってほしいだけです。」
「眠る…?あ、あなたまさか、僕の記憶を…?」
息を呑んだ。どうしてバレた?わからない。でも、きっと私がどこかで口を滑らせたんだ。
相手が悪い。聡すぎた。
きっと抗い難い眠気と戦っている先輩が、顔を歪めて私を見た。
「そ、んなに…そんなに、嫌でしたか、今日のことが、……僕の、ことが…。」
その言葉を聞いた瞬間、自分の顔が歪んだのがわかった。
嫌だったら、わざわざ着飾って舞踏会になんか行かなかった。
嫌だったら、一緒に踊ったりなんかしなかった。
ここまで一緒にいようなんて思わなかった。
…思わなかったのに。
私はギュッと、ドレスを握った。
「そういうとこ、大嫌いですよ。先輩。」
絞り出すように言った言葉に、先輩の目が見開いた。
「…許しません、こんなことで、」
「許さないでくれて、結構です。でも、もういいでしょう。その気持ちも含めて、ぜーんぶ忘れちゃってください。」
痛みのない終わりなんてあるわけなかった。そんなの、自分が一番よく知っていた。
あぁ、やっぱり。傷つけるくらいなら、初めからやめていたらよかったんだ。
「くそ、こんな…ことで…僕が…」
「先輩。全部諦めてください、それで終わるから。」
「僕は…あなたを…………忘れたくない、のに…」
「…!!」
そういったきり、先輩は話さなくなった。きっと、睡魔と戦っているんだろう。
「先輩。」
忘れたくないなんて、そんなこと。言わないでほしかった。
「ねえ、先輩。…対価なんか何もいりません。理由は言いましたよね。私が貰ったものを返せていないから。でももし本当に、私に何か返してくれるというなら…。」
聞こえていますか。意識を落とす直前の先輩に、この言葉が届くだろうか。
「私を忘れて、幸せに生きてください。」
立ったままで、先輩の首がカクン、と落ちる。意識を落としたのだろう。
香水に混ぜた薬は、記憶を混濁させるもの、そして長時間それを嗅いでいれば…そのまま記憶を無くすといった代物だ。それも楽しかった記憶を消すという、とても酷い魔法薬。先輩が、私との思い出が楽しいと思ってくれていれば、効くはずだ。そうであってくれと願う、自惚れを許してほしい。
ゆらゆら揺れている先輩は、夢遊病のような状態だ。歩くことはできる。夢遊病と違うのは、簡単な指示になら従えるということか。
「自分の部屋まで戻りましょう?」、そう言うと、彼は鏡の間へ向かって歩き出す。
ふらふらと歩く先輩の手を引いて、鏡の前まで見送った。手が解けて、鏡に消える背を見送る。私に、手を伸ばす資格はない。
…夢なら夢らしく、綺麗に終わればよかったのに。ごめんなさい。
ため息を吐いた。
―――――――――――――――――――――――
誰もいない夜道を歩く。そうしてひとり、寮への道をたどる。コツコツ、音がしなくなった。舗装されていない道も、ヒールは上手に歩いていく。ドレスの色が、また変わった。キラキラ、と月明かりで光って、とても綺麗だ。
願いを叶えるドレス。夢を見せてほしいと願った。私の恋を彩るにはあまりに綺麗すぎた。
寮に戻ってドレスを脱ぐと、そのままキラキラ光って、ふわりと魔法が解ける。ドレスに感情なんかないはずなのに、布がどこか満足気に見えた。靴も、何度かステップを踏んでから質素な靴に戻る。
ありがとう。夢を見せてくれて。ありがとう、最後まで魔法を解かないでいてくれて。
退学するための支度を終えて、茶色の小瓶を手に持った。そのまま寮の庭に出る。
空を見上げた。現世では見えないくらい綺麗な星が、月が見える。
私の願いは叶った。これで全部終わる。
きゅぽん、と封を切って小瓶を見る。
夢を見ていた。まだ見ていたかったと思う。でももう終わらせないと。
舞踏会で握られた手を、添えられた手を思い出す。それだけで、全身が熱くなるくらい緊張した。きっと、初めてだったから。手を握ったのも、あんなに近くで顔を見たのも。
傍にいられて嬉しかった。同時に恥ずかしくなった。いつからこんなに、好きになってしまったんだろう。そして、もう手放さなきゃいけない感情なのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。
もう関わらないと決めたのは私で、記憶を消したいと願ったのは自分の我儘でしかないことくらいわかっていた。その我儘のためにこの数日必死に準備してきた。それなのに、うまくできなくて、余計な言葉で彼を傷つけた。そんな別れを望んだわけじゃなかった。できれば笑顔で別れたかった。でも、もうどうしようもない。時間は戻らない。どうせ、忘れられるのだ。どうだっていい。そうでしょう。
後ろ髪を引かれるような心持ちで、小瓶の中身を飲み干した。
大切な気持ちが、ゆっくり薄れていく気がする。
あぁ、なんて楽しい夢だったんだろう。そして、苦しい夢だった。
叶わない恋を、望んだ夢だった。叶うはずがない恋だった。
星が滲んでいく。輪郭がぼやけて、歪んで、見えなくなってしまう。
それでも月は、丸く輝いていた。
「月がきれいです。こんなにも。綺麗なんです、先輩。」
…あなたと見た月だから、とても綺麗だったんです。
言えなかった言葉を今更、誰に言うまでもなく呟く。そんなのもう遅すぎた。冷静な私が、何のために泣いているのか問う。もうわからない。何も、わからないの。
ああ、でもあと少しだけ願いが叶うなら、なんて、強欲な私はまだ願ってしまう。
この世界が彼を愛しますように。彼の世界に、私がいませんように。
最後までわがままですみません。大好きでした。…さようなら、先輩。
夜が更けていく。そして、昨日と同じように朝日が昇る。
世界は月を忘れて、いつもの日常を取り戻す。そういう風に、できているのだ。
5/5ページ
