響と香の残花【破】
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額に濡れた冷たい布の感触がして目を開けた。
ぱち。割れた石の周りで、ささやかに火が爆ぜる。
「……気がついたか」
火傷のように熱い身体。なのに芯は震えるほど寒かった。浅い呼吸を繰り返す私に顔を寄せたベックマンは、水のボトルをすっと差し出してくる。ラベルの端がめくれたボトルだ。
「もうこれしかなくて悪いが……飲め」
頭を起こされて、ボトルを口に近づけられる。揺れる水は、最後に小屋で見たのと変わらない量だ。それを見て、早い鼓動が一瞬止まったかのように錯覚する。
もしかして、私は思い違いをしていたのだろうか。
ベックマンは他の場所に水や食料を隠していたのではなく、最初からこれしか持っていなかった。
弾丸と引き換えに私に渡してきた分と、あの時平らげていた缶詰一つ。それにこの一本を足した分しか、最初からなかったとしたら。
どうしてそんなに大事なものを今、私にまた差し出すのだろうか。
問うように見上げても、暗い瞳は何も答えない。
慎重に傾けられたボトルに、無意識に口を開けた。しかし、冷たさを受けつけないのか、むせて吐き出してしまう。
その際に、首元からドッグタグが滑り出た。触れ合って音を出したそれを見て、一瞬視線が絡む。しかし、互いに何も言わなかった。
ベックマンは自らボトルの水を呷り、口に含ませる。ゆっくりと寄せてくる唇に、何をしようとしているのかはわかったが、抵抗はしなかった。温く緩やかなスピードで入り込んできた水が、とても甘く感じたからだ。
ベックマンの唇を起点に身体に水が染み渡っていく感覚。それがとても、心地よかった。
次に目覚めた時は、眩しいほど陽が降り注いでいた。炉の煙を逃がすためにある、天井の穴は善し悪しだ。その炉には、今は火がついていなかった。
指を動かし、次にゆっくりと身体を起こした。上にかけられていたらしいコートを無意識に羽織る。どうやら、熱は引いているようだ。
傷がある腕はさすがにまだ痛むが、おかしな腫れは感じない。あの時付け根を縛っていた布が、固定するように巻かれている。
室内をぐるりと見渡すと、空になったボトルが置いてあった。それを見ながら、自然と唇に触れる。ここに重なった唇越しにそっと流れてきた水。温く浸潤した後、ほんのりと立ち上がった甘さ。頭をすっぽりと覆う大きな手の感触。
それらをひとしきり思い浮かべると、私は慎重に立ちあがった。少しふらつくものの、倒れるほどではない。
扉を開けると、すぐに煙の臭いが鼻をついた。ベックマンが干してあった魚を焚火で炙っているようだ。
「――よォ。なかなかしぶてェじゃねェか」
出てきた私を見るなり笑った男を見て、思わず立ち止まる。この男に似つかわしくない、陽光に溶け込むような爽やかな笑みだった。
裂かれたサッシュが風に靡き、銃を優しく撫ぜている。そこを見つめながら、私はベックマンに近づいた。
「鍛えてるもんでな……」
そう答えつつもふらりとよろける。それを見てベックマンはまた笑いながら、焼けたばかりの魚を差し出してきた。
「食えるか」
「……食べる」
まだ食欲があるわけではないが、とにかく口に入れた。どんなものも、今この身体には必要だからだ。
「前のより美味ェだろ?」
「ああ」
実際、旨味が凝縮したような身は美味だった。無理やり口に押し込むように魚にかぶりついている私を見て、ベックマンはまた笑っている。居心地が悪かった。この男が自分に笑いかける度に。
たまによろけるのを見かねたのか、小屋の一つから椅子を持ってきたベックマンが、私の傍にどうぞ、というように置く。私は遠慮なくそれに座った。
腰を下ろした際に、涼やかな金属音が首元から聞こえる。意識せずドッグタグを握った手に、ベックマンの視線が微かに触れた。それを感じ、自然とその話題が口から零れる。
「……”耳喰いのジョー”を知っているか?」
魚を手に、もう一つ持ってきた椅子に自らも腰を下ろしながら、ベックマンは首を横に振った。
「知らねェな」
「だろうな……四皇に君臨するお前らにとっては気にするほどもない輩。……だが、我ら海兵にとっては宿敵といえる男だ」
手にした魚にかぶりつくこともなく、ベックマンは黙って私を見ていた。
「ジョーってのは本当の名じゃない。誰もそいつの本名は知らない。名を変え見た目を変え、いろんな海賊を渡り歩いてしっぽを掴ませない。しかし……そいつが去った後には、必ず海兵が殺されている。一思いにじゃない。遊びながら殺したような形跡がある」
「あの時追っていたのはそいつか」
「そうだ。だが、あの船に本当にいたかどうか。いたとして、嵐で死んだかどうか。それは定かじゃない」
「……”耳喰い”ってのは?」
「その男はネズミにかじられたような耳の形をしている。それと……殺した海兵の耳の一部を持ち去ることから、いつからかそんな風に呼ばれるようになった」
そこまで言うと、ベックマンは少し考えるような素振りを見せた。
「恐らくだが、そいつは把握している数の倍は殺してるだろうな」
「……なぜそう思う?」
「殺し方に癖がある奴は、逆にそれを隠れ蓑にすることもできるからだ」
どこか確信めいた言い方に、反論は見当たらなかった。より深い憤りが胸を重く揺さぶる。
「ならば……なおさらだ」
私は首から三つ重なったドッグタグを出して、もう一度握り締めた。
「私の両親もかつて海賊に殺された。だから私は、ジョーのような海賊を許すことができない」
「それで、海兵か」
「ああ、歴史から『海賊』という文字を消し去るのが私の夢だ」
きっぱりとそう言った私を見て、ベックマンは腹を立てる様子もなく笑った。
「手を取り合って仲良くする未来はねェな! ……だが、同じ目的になら協力し合える」
ベックマンは立ち上がると、自らの小屋の中から持ち出した銃を渡してきた。
「試してみろ。使えるようにしておいた」
自分の銃だった。受け取った重みで、弾が満装填されていることがわかる。
驚いて顔を上げた私に、目の前の男は口角だけを上げてみせた。
「それを食ったら仕返しといこうじゃねェか」
腕の傷を顎で示され、私は無言で頷いた。
「……これを食べると水が欲しくなるからな」
食べかけの魚を持ち上げてみせると、ベックマンは今度は大きく口を開けて笑っていた。
罠に神経を尖らせながら進んでいると、戦地に赴いた記憶が脳を掠める。隣に部下ではないが、デカい男がいるせいかもしれない。
ベックマンはなぜかぴったりと私の隣を歩いている。
「……もう少し離れてくれないか」
「もし倒れたら支えようと思ってな? まだ足がふらついてんだろ」
「倒れたとしても支えなくて大丈夫だ」
そう言って距離を取ろうとすると、ベックマンは吹き出すように笑った。
「魚も銃も受け取るくせに、おれに触れられるのは嫌か。食いもんには寄ってくるのに撫ぜさせねェ猫みてェだ」
「……猫は嫌いか?」
足を止めて見上げると、ベックマンは笑いを収め、顔だけじゃなく身体ごとこちらへ向き直した。
「いいや。好きだな」
ほんのり細めた目と、僅か上がった口角。それだけなのに、先ほどよりも笑っていると感じられるような笑みだった。
最初に船上で照準越しで見たのとも、先ほどのわかりやすい笑いとも、まったく異なる笑みだ。それを見て、しばし言葉を失う。
この男を一つ知る度に私は、どんどん何も言えなくなってしまう。
自然と、私も身体ごとベックマンに向き直った。その時ふと、草原にそよいでいた風の流れが止まったような気がした。
ベックマンの視線が鋭く動く。視界の端に、黒い何かが映った。