響と香の残花【急】
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扉の開閉音で目を覚ました。天井の穴からは相変わらず容赦ない陽が降り注いでいる。こんなに明るい中でも眠れるようになった自分に驚きながら、すぐに身を起こした。
なにか追い立てられるように外に出て行くと、集落の外に視線を向けていたベックマンが振り返る。
「起こしちまったか?」
「……どこに行く?」
思わずそう言った後、すぐに後悔した。ベックマンが含むような笑みを見せたからだ。
「たまには連れションと行くかい?」
私が表情だけで断固拒否すると、含むような笑みがわかりやすい笑みへと変わる。それを見て、とっさに何も言えなくなった。
「火の番を頼む」
それだけ言うと、ベックマンはこちらの返答を待たずして茂みの奥へと姿を消した。
一人きりになった私は導かれるように隣の小屋の前へ行き、焚火を見つめる。炎の中に、昨夜見た赤く揺らめく背や、握られた指の感触が蘇った。
一つ思い出せば、すべてが克明に思い出されてくる。
昨日と今日で世界が変わったような気がするのに、何も変わっていないような気もした。きっと、ベックマンの態度が変わっていないからだ。
気づけば、猿に奪われた魚を新たに釣りに行くべきかなんて考えている。
茂みの先を見ながら、先ほど去っていった背中をぼんやり思い浮かべる。今日もベックマンは銃もナイフも持っていた。この島では、肌身離さずとも特別不思議というわけではないが。
ベックマンは以前からふっと姿を消す時がある。最初は水や食料を隠していて、そこに行っているのかと思っていたが、それは恐らく自分の思い違いだった。
なにより、水源や果実を手にした今、隠し持つ必要もない。
ならば、一体どこへ行っているのだろうか。
本当に排泄の可能性もあるが、なんとなく、出かける前の表情がいつもと違っていた気がして、それが心に黒い点を落としていた。
過敏になっている自覚はある。以前なら、ベックマンがどんな表情であろうと気に留めることはなかった。
この島にいるのはたかが五日なのに、その僅かな間に私は変わってしまったようだ。
離れていくあの男の背を、思わず追いたくなるなんて。
その時、見つめていた茂みの奥がガサッと揺れたので、もう帰ってきたのかと視線を伸ばした。しかし、揺れ方に違和感を覚える。伸びた草は戸惑うように右へ左へ倒れ、真っ直ぐにこちらを目指している感じではない。
私は自らの銃を小屋に置いてきたことを後悔しながら、手近にある薪用の木材をそろりと拾った。獣か。デカい蛇じゃないことを祈りながら、握る手に力を込める。
しかし、集落の入り口に差しかかった気配が、ある時急に動きを止めた。
「――大尉……? まさか、サクラ大尉ですか!?」
その声に、思わず手から木材を落としそうになる。
草を掻き分けながら駆け寄ってきたのは、幻ではない。本物の部下だった。
「よくぞ……よくぞご無事で!」
喜びが滲む声を聞いても返事もできず、向けられる笑みを返すこともできない。ただ、白い軍服が眩しかった。
「正義」を背負っていない今の自分は、部下の目にどう映ったのか。そんなことばかりが頭を占めていたのだ。
「そこの坂から煙が見えたので、もしかして人がいるのではと思ったんです」
そう言って、部下は歩きながら集落の上の崖を指差した。
自分の所属している部隊は、嵐で流された小型艦のレーダーを追って、今朝方この島にたどり着いたらしい。
いくらここから反対側だといっても、上陸した艦隊にまったく気づかなかったとは。そんな自分に愕然とする。
しかも、私は部下の話よりも他のことに神経を持っていかれていた。
今、ベックマンがここに帰ってきたら。
もし海軍と鉢合わせにでもなったら、自分はどういう行動を取ればいいのか。捕縛することになったら。逆に部下が襲われたら。そんな最悪なシナリオばかりが頭をぐるぐると回っている。
そんな私に気づかず、部下はあの時の嵐の凄まじさについて語った。私が海に投げ出された後、追っていた海賊船は沈み、赤髪海賊団も行方がわからなくなったのだと。
「すぐに大尉の救助に向かおうとしたんですが、とにかく視界が悪くて……総出で手を尽くしている中、運悪く小型艦が故障してしまったんです」
あの時海岸に打ち上げられていた小型艦の残骸が浮かぶと、ようやくつまらない思考を断ち切ることができた。
「乗っていた大多数は本艦に引き取られたんですが……。残り三名というところで波に引っ張られてしまって……」
そこまで言うと、部下は口を閉ざした。その時になって初めて、部下が今までどんな表情で語っていたのかを知る。
あの残骸を見る限り、無事にこの島にたどり着いたとは思えなかった。
「その三名は……見つかったのか」
だから、私が聞いたのは遺体についてだった。実際、海岸では見かけなかったからだ。そして、予想通りその質問に部下は沈黙した。
しかし、一拍置いて答えた内容は予想したものとは違っていた。
「三名のうち二名の遺体は、こことは反対側の岩陰で見つかりました。しかし……、その状態が異常で……」
「異常?」
「その二名は……溺死したんじゃありません」
海岸には、小型艦一隻のみが着岸していた。部下の話によると、私が乗っていた艦隊は故障の有無を調べるため基地に戻り、そこからあらためて捜索隊を出したらしかった。
「――おお! サクラ大尉! 無事であったか!」
上官や部下から歓声のような声が上がる中、私は一人複雑な気持ちだった。もしかして、ベックマンは海軍艦が上陸したことを知って、身を隠したのではないかと。ここに来るまでに慎重に気配を探ったが、結局その姿を目にすることはなかった。
しかし、淀みなく持ち場へ散っている部下や、的確な指示を飛ばす上官をいざ前にすると、そんな考えは自然と失せていった。
恐らく、ベックマンならうまく身を隠すだろう。そう思ったのを最後に、私は軍人の顔へと戻った。
「大佐……。運ばれているのは例の小型艦で流された者ですか?」
担架で運ばれている者には白い布がかけられている。それを悲痛な気持ちで眺めながらも、疑問を抱かずにはいられなかった。
「そうだ。残りの一人については今もなお捜索中だが……あの嵐だ。生きてこの島にたどり着いたとは限らん」
「溺死じゃない、というのは……?」
部下から聞き出せなかった内容を、あえて上官に問いかけた。
「……見つかった二名の遺体には、深い刺傷があった。どちらも刃物で急所を一突き。声を上げる暇もなかっただろう」
「なっ……」
「詳しく検死してみないとわからないが……船医の話では死後三日ほどだそうだ」
私は絶句した。
死後三日、だと。三日前まで部下はこの島で生きていたというのか。
私はこの島をくまなく探索したわけではない。しかし、さっきの部下のように、その者達の方から集落を訪れる可能性は十分にあり得る。
ならば、その前に殺されたということか。
私がこの島に着いたのは五日前。最初は夜だった。その次の日に弾丸と水や食料を交換して、その次の日は森に行って毒矢で死にかけた。
三日前といえば、ちょうどその頃だ。
あの時、なぜ一人で森に行ったのか。ベックマンの小屋で弾丸を見つけたからだ。
ではなぜ、小屋に入ったのか。ベックマンが出かけて、チャンスだと思ったからだ。
ベックマンは集落の外に出て行った。その後森へ来るまで、どこにいたのかは知らない。私は翌日まで熱に浮かされ、意識は曖昧だった。
急所を、一突き。猿の群れに襲われた時、ベックマンがナイフを急所に叩き込んでいた光景が鮮烈に胸を貫いた。
「つまり、今我らが捜索しているのは、残りの一名だけではない」
威厳が滲む上官の声に、ハッとして顔を上げる。呆然としていたのか。視線がうまく定まらなかった。
上官は至って冷静な目で私を見つめている。その視線を感じれば感じるほど、私は真っ直ぐに目を向けられなかった。
「そこを踏まえて尋ねるが、この島で他に人間を見なかったか?」
すぐに答えられなかった。上官は些細な綻びさえ見逃すまいとするかのように、じっと見つめてくる。その目は獲物を追いつめるというよりは、真実を探ろうとしている目だった。
その目が、私の腕に巻かれている裂かれたサッシュをゆっくりとたどる。
「……質問を変えよう。サクラ大尉」
今まで、誰といた?
心臓を冷たい手で撫ぜられたかのようだった。
その質問にも答えられなかった私は、傍に置いてあった伝令用の子電伝虫を掴んだ。
「私も……捜索に当たります」
そう言って背を向けた際に、肩にかけたコートが翻る。それがどうしようもなく、重く感じた。