響と香の残花【序】
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海賊を人と思うな。
海軍の中でも、サカズキ中将の組織下に入隊した際に、最初に教わった言葉だ。
疑問は抱かなかった。私はその言葉に深く共鳴する一人だったからだ。
嫌な予感はしていた。海上で常につきまとう湿気が、その日は特に酷かったから。
黒煙のような雲に陽を遮られ、海は石油のような闇色に、視界は灰がかって薄暗く沈んでいる。
「――”耳喰い”は確認できたか!?」
足元の揺れを感じながら甲板に出た瞬間に、風に煽られた自らの髪で視界が塞がれる。同じように強風に煽られている部下が一斉に私を振り返った。
「サクラ大尉! いえ……この距離では……」
「……なぜ、誰も砲撃準備をしていない?」
「調べもせずいきなり撃ち込む気ですか!? いくら海賊船といえど……大佐からは砲撃の指示は出ていませんが……?」
私は暴れる髪を掻き上げてから、ゆっくりと息を吐き出した。
「逆に聞く。お前らは、先の島で昨夜殺された同志の遺体をその目で見たか?」
低く静かな口調で問うと、声を荒らげた時よりも張り詰めた空気がその場を包む。
「急所を外し、もがき苦しむところをじっくりと観察し、こと切れるまで時間をかけて楽しんだ跡があった。……奴にとって戦利品である片耳の一部も持ち去っている」
あえてそこまで口に出すと、憤りより痛ましさが部下たちの表情を覆った。こちらを毅然と見返す者より、俯く者や手を口元に持っていく者の方が多いことに僅か落胆する。
あの海兵は先月子供が生まれたばかりだった。それは口には出さず、拳を握る痛みに変える。
「昨夜から今朝にかけて出航したのはあの船一隻のみ。これが理由だ! 今すぐ砲撃を開始しろ!」
「し、しかし……! どこの海賊団なのかまだ確認が取れていません……!」
正義が刻まれたコートがばたばたとはためいた。それを鬱陶しく感じながら、発言した部下に近づいて顔を寄せる。
「……何を言ってる? 海賊であることが確認できたらそれでいい。それとも、奴らが死んで困る人間がいるのか?」
体温を忘れてしまったような声で言うと、困惑していた部下の表情に緊張が走った。撃て! と再度命を下すと、ようやく現場が動き始める。
大気を揺るがす轟音と、砕け散る船体。機関部まで届かなかったのか、一発では仕留めきれない。
だが、時間の問題だ。またこの海を汚してしまうことに多少心は痛むが、それも仕方ない。
「大尉! 奴ら白旗を……!」
照準を覗いていた者が声を上げ、私はその場所に割り込んだ。確かに、船上から白い布を懸命に振っている姿が見える。
私はそこに照準を絞ると、躊躇なく引き金を引いた。
白い布が赤く染まったのも束の間。それを巻き込んで倒れた者に続いて、白旗を掲げようとする者はいなかった。
「た、大尉……」
「白旗など確認できなかった。奴らに降伏の意思はないようだ」
薬莢を飛ばしながらそう告げると、部下は口を引き結んだ。
ぽつ。頬に雨粒が落ちてくる。肩、手の甲、唇。カウントダウンのように落ちるそれの間隔がみるみる狭まり、叩きつけるような雨に変わった。傾いた海賊船がいまだ沈んでいないことに、苛立ちが募る。
私は腰に提げた銃が濡れないようにコートを引っ張った。吹きすさぶ風は雷雲を連れてくる。状況が悪い。そろそろ上官から撤退命令が下されるだろう。
「……大尉! 四時の方角に別の海賊船です! ……あ、あれは、まさか!」
見張り台の観測兵が双眼鏡を下ろす。部下が示す方向を確認して、肌が粟立った。荒立つ波に押されてくるのは、攻撃対象の船とはまるで格の違う巨大な海賊船。
悪天候にもかかわらず、船首に伸びる赤竜を自分の目がはっきりと捉える。
「レッドフォース……”四皇”赤髪の船がなぜここに……!」
「どうしますか!?」
悪いことは続くものだ。意図的なのかそうでないのか、追い詰めた海賊船との間にゆっくりと入り込んでくる。四皇と一戦交えるには上の許可が必要だ。なにより、この艦隊では太刀打ちできないだろう。上官でさえこの状況には、確実に二の足を踏む。
しかし、自分にとっては千載一遇のチャンスに思えた。
「砲撃をやめるな! 標的の船はまだ沈んでいない!」
「し、しかし! このまま撃てば赤髪の船に……!」
「弾道に割り込んだのは奴らの方だ」
四皇と相まみえるなど、なかなかないことだ。四皇の出現と嵐で艦内が混乱をきたしている。撤退命令が下されるまでの僅かな間。その間に動けばいい。
「海賊」という文字を、歴史からいつか完全に消し去ってやる。それが私の夢だから。
「ダメです! 雨で火薬が使えません!」
「チッ……!」
船の縁まで走り、コートを翻すと、腰にあった銃を構えた。照準を覗けば、船上から何かを捨てた男が見える。一つに束ねた黒髪。腰から覗く特殊な古式銃。
あれは――、ベン・ベックマンに違いない。副船長であり、赤髪のシャンクスの右腕。雨で湿気った煙草でも投げ捨てたか。
迷うことなく引き金に指をかける。この海賊団を簡単に潰せるとは思っていない。だが、もし幹部の一人でも削れれば。
これから奪われるはずだった、多くの人の命を救うことになる。
「――これ以上は退路が断たれる! 撤退! 撤退だ!」
上官の命令が艦内に響き、一瞬だけ照準から意識が逸れた。強風に煽られ、滑る足元から身体全体が押される。縁に脇を挟み込み、構えなおすと再び照準を覗いた。
そこで射抜かれた目にハッとする。この視界の中、肉眼で見えるはずがない。なのに、照準の中の男はあきらかに私を見て笑った。
「何をしているサクラ大尉!? 早く艦内に入れ!」
後方から叫ぶ上官の声。雨に流されそうになる身体。しかし、照準から目が離せない。動けなかった。引き金にかかった指でさえも。
強風に邪魔されて銃身が揺れ始めると、私はようやく指を折り、引き金を絞る。
その途端、キィンと耳鳴りがした。急に周囲の音が失せ、荒ぶる波が身体にぶつかる。左半身に凄まじい圧力がかかり、視界が水に包まれた。
足が浮いたと思った瞬間、私は海に投げ出されていた。
高所から海面に叩きつけられ、抵抗できないような力で身体が引っ張られる。正義を背負ったコートが重く絡まる中、持っていた銃をどうにか腰に捻じ込んだ。何かに掴まっては海流に奪われ、何度浮き上がっても水に吞み込まれる。
上も下もわからず、明滅する視界がやがて闇一色となった頃、私は意識を手放した。
海賊は、嫌いだ。
安堵する眼差し。懐かしい匂い。とりとめのない会話。
奴らが奪うのは、形あるものだけではない。
急に胃から水が押し出された。ごぽりと吐き出せど、苦しくなるばかりだ。ざらつく舌から砂を追い出し、必死に酸素を取り込もうとすればするほど、気道が痛んで呼吸もままならない。
岩を持たされたように重い身体。頬に感じる湿った砂の感覚。瞼の裏で揺らめく赤は太陽かと目を開ける。
しかし、それは違った。見えたのは炎だ。その中でぱち、と細い枝が爆ぜる。
次第に鮮明になる視界。揺らめく火の向こうで、男が膝に乗せた長銃を見つめていた。ナイフの先端をドライバー代わりに、金具を外す小さな音だけが波間に浮くように響いている。
ぱち、とまた爆ぜた炎が、その面差しを照らした。それを確認した途端、私は抱え込んでいたらしい銃にそろりと手を伸ばす。
「――やめておけ」
闇に溶けるような、低い声だった。
分解しかけの長銃を膝に置いた男――ベン・ベックマンはこちらを見もせずに続ける。
「その綺麗な手を吹っ飛ばしたくないならな」
からり、と金具が鳴り、ベックマンはその銃身を細めた目で覗き込んだ。自らの銃を点検しているのだと、その時になって気づく。
湿った自分の銃といえば、砂にまみれていた。正常に撃てるかどうかはわからない。ここでその賭けに乗ることはできなかった。
思わず上体を起こそうとして、身体の重みに顔が歪む。は、と息を吐き出した際に身体が悲鳴を上げた。頭一つ持ち上げることができず、ただ歯を噛み締める。
塗り潰したような闇に瞬く星。その位置を見て、知らない場所だと察した。周囲に人の気配はない。近く聞こえる波音は穏やかで、嵐の影響は感じさせなかった。
「ここ、は……どこだ」
自分の喉から聞いたこともないような掠れた声と咳が出て、痛む気道に身体を丸める。
「さあな。おれもさっき目覚めたばかりだ」
それを聞いて、振り絞ろうとした力がもぎ取られた気がした。この男もまた、あの嵐の中の荒ぶる海に揉まれてここにいるはずだ。
なのに、瞬時に状況を把握し、目も利かない中で乾いた木を集め、火をおこし、武器の点検を行う。
――生存能力が異常だ。
波音に挟まる微かな金属音。それが静かになった時、私は撃たれるのだろうか。湿ったままの銃を引き寄せ、構えたつもりで実際は抱き締めていた。
私は海賊には殺されない。死ぬ時は、殺す時だ。
ぱち。爆ぜた炎が、重く下りた瞼の裏でまた、揺らめいた。
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