スイッチ⑤
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ネオンの明るい通りから、すぐに暗い路地裏へ潜り込んだ。船に真っ直ぐ戻ることはできない。ライムさんが追いかけてくるかもしれないからだ。今はまだ、平気な顔などできそうになかった。
所々欠けたブロックにゴミや雨水が溜まっている。表の通りは小綺麗で賑やかだが、一歩道を外れればどこでもこんなものだ。
狭い通路に自分の荒い息だけが反響する。こんな時間にここを好んで通ろうとする人はいないだろう。
こういったところは迷路のように思われがちだが、外の構造を頭に入れておけばそう迷うことはない。だが、慣れた人間じゃなければ足を踏み入れられない不気味さがある。
身体の大きい大人や、屈強な身体つきの男なんかを撒く時によく利用していた。私はまだ年端もいかない頃に、スリや窃盗をして生き長らえていたからだ。
生まれた時から一人だった。理由は知らない。この時代、そう珍しいことでもなかった。
そのうち、同じような境遇の子供と手を組むようになると、仕事はだいぶやりやすくなった。
けれど、自分がそうであったように、それぞれが生きるためにしていたことだ。下手な信頼を置いて奪われることも。騙されて命を落としそうになったこともあった。
その時に培ったサバイバル能力は、今も自分の回路に深く刻み込まれている。
狭い通路を駆け抜けると、大通りの端に出た。この時間になるとさすがにひと気はないようだ。
足を止めると、脈打つ度にズキズキとした痛みが奔る。私は灯りの消えた店舗の前まで行って、壁に背をつけると座り込んだ。
ひんやりとした壁が上がりきった体温を奪っていく。懐かしい感覚だった。昔仕事の休憩中によくこうして座ったものだ。
ざらっとした感触は最後に働いたビストロの壁を思い出させた。
ある程度の年齢になると、私は真っ当に働くようになっていた。更生しようと思ったわけじゃない。決まった仕事をこなして賃金をもらう方が効率的だと思ったからだ。
しかし、常識を持たずに育った自分が、まともな職に就くのは遥かに困難なことだった。この頃からだろうか。頭の中からスイッチの音がするようになったのは。
台本が変わる度に違う人物を演じる女優のように、優雅なものではない。感情を削ぎ落し、その型に自分をはめ込む作業。
無駄なことを考えず求められる人材になりきれば、どこでもそれなりに信頼を得られた。
そのうち、スイッチの数や種類が増え、どんな仕事でもこなすことができるようになったが、それでも何年として同じ職場にいることはできなかった。
各地で当然のように起こる戦争や略奪。直接の被害を受けていない島にも、着実に貧困の波は広がっていた。人の心も当然荒れる。
持っているところから奪い、信頼を裏切りの序章とする。そんな人間は大人になってもよく現れた。
住む所をいくつも転々として、ようやく落ち着けたのが赤髪海賊団に入る前に住んでいた島だ。
私はここから見える広場の入り口を眺めた。以前住んでいた島にも広場があり、そこはいつも活気で溢れていた。
その傍のビストロで働いていたのはたかが一か月前なのに、もう何年も昔のことのようだ。
自然と重い息を落とした。痛みより疲労より、心が空洞のようで力が出なかった。
このまま朝までここにいようか。いや。私が船に戻っていないことを知れば、きっと誰かが捜しに来る。
誰か。それはもう、ライムさんじゃないのかもしれない。
出すものを出したら終わる関係。それにすらなれなかった私はきっと、彼にとってはいらないものだ。
あの時踏みつけられた箇所は腫れあがって変色していた。だけど、大したことはない。骨に異常がなければどうとでもなるだろう。
涙を溜めた女の目と、ライムさんの冷たい目が交互に浮かぶ。あの時の情景を虚ろに思い返していると、ふと、周囲の空気が変わったのを感じた。
視界の端に影が現れたのに気付いて視線を伸ばす。その影は一つじゃない。複数の人影が寄り集まってできたものだ。
ほのかに、ワインの匂いが掠めた。
「……捜したぜェ、ねェちゃん」
街灯を背にした薄闇に白い包帯が目立った。四人ほどいる男達の先頭にいるのは、私がワインボトルで殴った男だ。頭には大袈裟な包帯が巻かれている。
それを捉えると、私はゆっくりと立ち上がった。
「なんだ、一人かよ? ……まあいい。女でも海賊に変わりねェ! 落とし前はつけさせてもらうぜ! 恨むんなら、海賊なんかに身を落とした自分を恨みな!」
あの時は本気で頭をカチ割るつもりでやったが、案外元気そうだ。
もう一人はあの時一緒にいた男だが、後ろの二人は初めて見る。助っ人か。先頭にいる男よりもさらに屈強な身体つきをしている。
四人のうち、誰一人として手に武器は所持していない。唯一先頭の男が握っているのは、空のワインボトルだ。他に持っていたとしても、服に隠せる短い刃物くらいだろう。
もし銃を持っていれば、脅しのためにとっくに見せつけている。
つまり、この男達は近距離パワー型。囲まれれば終わるが、この体格だ。狭い通路に入れば思うように力を出せず、同時に、複数で一斉に襲い掛かることもできない。
私が出てきた路地まで約六メートル。あそこにはゴミが散乱していた。それを利用して撒くことは可能だろう。
懸念としては、二つ。あの路地に行くまでは直線ではなく、角を曲がらなければならない。ここからだとどうしても減速する瞬間がある。
もう一つは、この痛む足だ。しかし、これについては問題ない。いつものようにスイッチを切り替えればいい。感覚は研ぎ澄まされ、感情や痛みは削ぎ落される。
いつものようにやるだけ。多少ダメージを受けても、逃げ切れば私の勝ちだ。
じりじりと距離を詰めている男達が、大きく動いた時。その瞬間に横に逃げ、路地を目がけて駆け出せばいい。
しかし、順調に近付いていた先頭の男が急に立ち止まった。わなわなと震えながら自らの頭を押さえるので痛みでもぶり返したのかと思ったが、それは違った。
私を苦々しく見据えると、突然堪えきれないように叫んだのだ。
「――おれはなあ……海賊に目の前で家族を殺されたんだ!」
カ、チ――。
入りかけたスイッチが止まる。
「もうすぐ生まれるはずだった子供も……くっ、」
唸りながらその場で俯いた男に続いて、横にいる男が自らの胸を掴み叫んだ。
「おれは故郷を焼かれた! 苦労して建てた家も畑もすべてな! ……お前らにわかるか? 一瞬で人生のすべてを奪われた人間の悲しみが!」
理不尽な暴力に対する絶望。恨み。復讐心。その根源にあるのは、比類なき痛みだ。この男達の見えない傷からは、今も止め処なく血が流れ続けている。
私を見る男達の目。こんな目は知っていた。最後に住んでいた島で嫌になるほど見たからだ。
いつもの風景、いつもの日常。その日も、島の誰もがそうだと思っていた。突然の来訪者に、悲鳴が島を包むまでは。
誰も理解できなかった。なぜ、こんな目に遭うのかを。
束の間訪れた静寂の後は、耳を塞ぎたくなるような音しか残されていなかった。恐怖と悲しみに叫ぶ声。逆に叫ばずその場で立ち尽くす者。
その時襲ってきたのは名のある海賊ではない。なのに、誰一人として抵抗できない圧倒的な力で島を制圧した。
見慣れた風景が壊れていく様子を私はただ目に映した。力のある者が奪う。これまで何度も経験してきたことだった。
カ、チ、カ、チ。
入りきらないスイッチがただ揺れる音が脳内に響く。微動だにしない私を見て、今度は後ろにいた一番体格のいい男が叫んだ。
「あんたに直接恨みはねェが……海賊を嫌ってんのはこいつらだけじゃねェんだ! ダチがやられた借りは返させてもらう!」
カ、チ。カチ。
私は奪う側になりたくて海賊になろうと思ったわけじゃなかった。
「四人がかりで卑怯だと思うか? ……違うぜ! これは勝負じゃなくて制裁だからな!」
奪うのも与えるのも。自由に選べる側に立ちたかっただけだ。
カチ、カチ。
初めて見た赤髪海賊団は、島を支配した海賊と比べ物にならないほど恐ろしかった。
力の一切を緩めない無慈悲な鉄槌。島の現状を見ても冷静沈着を崩さない挙動は非情に思えた。
しかし、それは敵と認めた海賊に対してだけだった。彼らは島の人間を庇い、救い、手を差し伸べた。
それを見て思ったのだ。私がなりたかったのは、これだと。
「お前らには想像力が欠如してんだよ……。だから、いきなり人の頭殴れんだろ?」
ただ奪う側にはならない。しかし、私から奪おうとする者には、それ相応の報いを。それが私の正義だった。
「結局わからせるにはこうするしかねェ……」
報いを与えるのに容赦はしない。因果応報だと、思うからだ。
先頭の男がワインボトルを握り締め近付いてくる。白い包帯にはよく見ると血が滲んでいた。
だから。
カ、チ。
今私は。
カ、カチ。
どうすればいい。
カ、カチ、カ、カチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチカチ。
「――同じ痛みを味わいな!」
耳を塞いで立ち尽くす私に、ボトルを振りかぶる男。
視界が、あの時のように割れて砕け散った。