スイッチ④
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ライムさんが「美味い店」と言っていたお店での食事は本当に美味しかった。
ライムさんの言いつけを守って肉以外のメニューに絞ったが、ぷりっとした魚介が新鮮でとても美味だ。
エビもタコも大きいのに大味ではなく、十分な歯応えの後に旨味が弾ける。その瞬間に思わず目を閉じて唸ってしまうくらいだった。
ライムさんが連れて来てくれたというだけですでに及第点だというのに。他のメニューも近郊の海の美しさが浮かぶような味わいで、想像以上に満足させてくれるお店だ。
けれど、一皿一皿に感動している私に対してライムさんはマイペースをひた走っていた。好きじゃないものが出るとあからさまに嫌そうな顔をして、なんなら舌打ちでもしかねない勢いだ。
慌ててそれらを引き受けた私はかなり満腹である。
ようやく最後の皿を片付けたので目の前の炭酸水をちびちび飲みつつ、あらためて店内をきょろりと見回した。
木目と黒いスチールが目立ち、高い天井から吊り下がる照明もころんとして洒落ている。
それに、このカウンター。つぎはぎではなく一本の椋の木でできていて、どこを触っても滑らかな手触りに指が勝手になぞってしまう。
特に予約もしてなさそうだったのでもっと大衆的なところに連れて行かれるのかと思ったけど、いざ入ってみてこの店のとてもシックな内装には驚いたものだ。
全体的に暗く絞られた照明が非日常を演出してくれるいい雰囲気だけど、お高くとまり過ぎてもいない。
店内を流れる曲はカントリー調のどこか懐かしいインストだし、ボックス席からは若く賑やかな声が聞こえている。
三十代前後くらいのちょっとお洒落な人が集う店って感じだろうか。ドレスコードなんかもなさそうで内心ホッとした。
隣で静かにグラスを傾けているライムさんは、カウンターの中の照明で淡く照らされている。強い光の中では眩しいほど煌めく髪が、今はぼんやりとした光をまとって酷く優しげだ。
サングラスはあれからずっと胸ポケットに引っ掛けられたままで、なかなか見られない綺麗な横顔についつい見惚れた。
そこでふと、傾けたグラスに唇がぴったりとついているのを見て、キスされた時の感触が蘇ってきてしまう。
あんなに突然だったわりに、触れ方はやけに優しかった。最初熱いと感じたライムさんの唇が自分の体温と馴染んだ感覚。仄かな吐息が混ざり合った瞬間。
それらが何度もリフレインして止まらない。
しばらくぼうっとしていると、うっかり視線が合った。あまりにも見詰め過ぎたのかもしれない。私は慌てて目を逸らした。
そのまま彷徨わせた視線の先に、三席ほど空けて寄り添った男女が見える。二人ともお洒落だけど、女性の方が綺麗なワンピースを着ているので一目でデートだろうとわかる。
私はいつものTシャツにデニムだ。ライムさんを待ちきれなくてどうせ島に行くことになったんだから、あの時服の一枚でも買っておけばよかったと少し後悔した。
笑い合っている男女の楽しげな雰囲気が伝わる。それを何気なく見ていて、ふと思い出した。
ホテルの前でライムさんが話していたワンピースの女性は、結局誰だったのだろう。
「――おい」
「……えっ? あ、はい」
振り返ると、ライムさんがグラスを置いてこっちを見ていた。
「だから、どうする?」
「……何がですか?」
「これからどうするか聞いてんだよ」
ライムさんが顎で示した店内の時計は二十一時を指そうとしていた。
「ああ、もうこんな時間なんですね……」
「この時間まで誰からも連絡ねェってことはこのまま島で延泊する気だろうな。おれはどのみち荷物置いてっからホテルに戻らなきゃならねェが」
ホテル、というとこで私の意識はまた例の女性に引っ張られかけた。しかし、次の一言ですぐに消し飛ぶこととなる。
「……一緒に来るか?」
「え……?」
その時、ライムさんが私をじっと見ているのに気付いて、一度思考が止まる。
――来るか? 一緒に。ホテル――。
ゴトッ。目の前のグラスが倒れた。私が派手に掴み損なったからだ。
「おいおい、何やってんだ……」
グラスから飛び出た私の飲み物をライムさんが自分のおしぼりで拭いてくれようとした時だ。ぷるぷるぷる……という音が、頭に綿でも詰まったようだった私を現実に引き戻した。
「……おう。なんだよ?」
どうやら、ライムさんの子電伝虫に仲間からの通信が入ったようだ。向こうから小さく聞こえてくる声からしてホンゴウさんらしい。
「だから、まだ一緒だ。……ああ」
お店の人と一緒にカウンターを拭いている間も隣の会話が気になった。他の人の声も混ざるので、向こう側ではみんな一緒にいるようだ。もしかして、お前らもこっち来いよとか言われているのだろうか。
向こうはなかなか盛り上がってるようだ。時折遠くから何か叫んだり、冷やかしのような口笛なんかも飛んでくる。ライムさんの顔が段々と険しくなっていくのは気のせいだろうか。
「……あ? なんだって?」
その時、ボックス席にいた若者達から歓声のような声が上がった。ゲームか何かしているみたいだ。だいぶ酒が入っているらしく、なかなかのテンションで騒いでいる。
「聞こえねェって! ……ちょっと待ってろ」
そう言いながら、ライムさんは店の外に出ていった。その背中を見送って一人になると、先ほどのライムさんの言葉がすぐに戻ってくる。
ホテルに一緒に行く。それはつまり、そういうことだろう。でも、その誘いに乗っていいものだろうか。ライムさんとまともに喋ったのは昨夜のことだし、キスなんてさっきしたばかりだ。
了承すれば簡単だと、でも、断れば面倒だと思われないだろうか。
――いや、違う。自分が引っ掛かっているのはそこじゃない。ライムさんが私に対して、どういう感情を抱いているのかよくわからないからだ。
自分は別に処女ってわけじゃない。これまで人並み程度に経験は積んだ。けれど、それは相手のことが本気で好きだったからじゃない。そこに踏み込むことで、大人になったような気になりたかっただけだ。
私はライムさんのことを好きという感情以上に、人として厚い信頼を置いている。そんな相手と深く関わるような経験がない。
こんな時スイッチは役に立たない。自分の歴史にないものは回路に組み込まれないからだ。
自分はまた男の人と深く関われるだろうか。軽いキスやハグみたいに安心に繋がるものとは別だ。
私はあれ以来、性的な意味で男の人に触れられる嫌悪を拭いきれていない。
――コツ。
急にヒールの音が間近でして、私はふと顔を上げた。なにか嗅いだことのないような、いい匂いがふわりと漂ってくる。
「……へェ。予想外だわ」
聞き慣れない声に目だけ動かすと、いつの間にか自分の傍に綺麗な女の人が立っていた。その人は私を無遠慮に見下ろしている。
さっきの言葉は、どうやら私に向けて言ったもののようだ。
「あの……?」
「ああ、ごめんなさい。あなたみたいな人がライムの”大事な用事”なのかって思ったら、びっくりしちゃって」
一語一句確実に棘を刺すような言い方をするこの人が着ているのは、花柄のワンピースだった。モノトーンだから子供っぽくなく、女らしい体型に品良く沿っている。
あの時遠目に見て思った以上に、とても綺麗な人だった。