在るもの
吐き出そうとした息から血臭がした。
それを感じた途端に気圧が急降下した時のような圧力がかかり、鼓膜がおかしくなったお陰で上も下もわからなくなる。
空気には、重さがある。
普段は決して気付く事のないそれが、今や自分の身体に重くのしかかっているのを克明に感じてしまう。
俺はまだ倒れない。
未だ愛する者に手を伸ばそうとする敵が、近くにいるから。
俺はまだ倒れない。
言っておかなければならない事が、山ほどあるから。
俺はまだ倒れない。
向けられる悲しみを本物に、変えたくはないから。
俺はまだ倒れない。
一度倒れれば二度と起き上がれる事はないと、知っているから。
見えない圧力に覆われていた鼓膜は、ある時一つの音に忠実に震えてみせた。
周囲のごちゃ混ぜになった音の合間を矢のように抜け、狂っていた周波数がきちんと合わさるようにして、それは確かに俺に届いた。
白けていて、ぼやけて霞んで狭まって。
挙句の果てには透明な液体で濡らしてしまっている俺の視界の隅の隅に、それを発した主の姿が映る。
なんだ、そこにいたのか。
怒っているのか、泣いているのか。
口が忙しく動いているのは、また俺の名を呼んだのだろうか。
それとも、いつもみたいに叱っているのか。
笑顔が好きだった。
俺に思い浮かぶのは貴女の、笑顔。
仕方ないなと呆れるような。
飛び出てきそうな想いを無理に、抑えているような。
任務で離れている間、思い出すのは貴女の顔ばかりで正直困った。
でもそれも、嬉しかった。
頭の中ですら逢える事が、嬉しかったんだ。
逢えなかった分、帰ったらめちゃくちゃに抱きしめてやろうと思ってた。
困っても、怒っても離してやらずに、目一杯。
そうしたらきっと最後には呆れた顔で、でもきっと笑って許してくれるから。
すぐに帰ろうと思ってた。
帰れると、思っていたんだ。
貴女が、我慢してるのは知ってた。
一人で眠れないほど夜は大層寂しくて、不安で。
俺の身を案じて一人泣いていたのを知ってる。
でも困らせたくなくて、笑っていたのを知ってる。
貴女が寂しくないように、いつも笑った。
すぐに思い出せるように。
貴女が不安にならないように、おどけてみせた。
やり過ぎて叱られた。
俺を見くびんな、と最後に抱き締めた。
強く強く、抱き締めた。
俺の口からまた血が飛び出てきた。
それが落ちた所から、白黒だった世界が色を成していく。
でも、俺に見えるのは赤、赤、赤。
鬼の子と謳われた俺を迎えてくれたのは、鬼ではなく死神だ。
きっとまた俺はやり過ぎちまったんだ。
ひと目見たい。
声が聞きたい。
生きたい――。
想いが強すぎて、気付かれちまった。
死神に、目を付けられちまったんだ。
だけどこいつはそんなに悪い奴でもない。
なんせ、小さな願い事は二つも叶えてくれたんだから。
だからきっと、一番大きな願い事は叶えてもらえない。
ひどく愛していた。
ひどく、愛されていた。
だから俺は満足だ。
幸せだったから。
貴女はそんな自分勝手な俺をまた叱りつけるんだろう。
でももう、笑って謝る事はできそうにない。
空気はこんなに重かったのか。
俺は距離を詰めてくる死神に目で挨拶した。
でも本当は、それの肩越しに見える貴女の姿を、強く焼き付けたんだ。
俺は倒れた。
貴女が、笑ってくれたから。
一番大きな願い事を叶えてもらったから、引き換えに差し出してやるよ。
エースは、満足気に笑んで、大地に倒れた。
fin.
This short story was written in 2013.
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