瞼裏の一室


口付ける時に目を閉じるのは相手を信用している為だろうか。

では、俺にそんな芸当ができないのも頷ける。

俺は好きでもない女に甘言を囁き、必要とあれば美辞を費やして、その身体を食い荒らす行為になんの感慨も抱かない。

ただ、信用するに値する人間に出会った覚えが無いわけではない。

今まで茫洋と頭を巡らす余裕が無かっただけだといえばそうかもしれないが、自分にとって誰が信頼できるかなど考えるよりも先に、やらなければならない事柄が俺を常に追い立てていた。

善か悪かなど選別する暇もなく、いや、急き立てられれば殺しながら考える事を強要され、そのうち心を砕く必要性も感じなくなった。

利用できるかそうでないか。殺すか殺さないか。それ以外で俺の心を煩わせるものがいつしか存在しなくなっていたからだ。

これは普通の感覚だろうかと、ふと舞い込む疑問はその場に放って、いつも周りを見回した。

そうして、やはり自分は間違ってはいないと頷き、投げ捨てたそれは引き続き放置したままで、どれだけ時間というものだけが経過したのか。

自分の意思を持ち始めたらしいそれらが、一斉に非難の声を上げ出したのには気付いていた。

隅の隅まで追いやって、蓋をして、また気付かない振りでもして。

なのに、それが今や頭の奥でがんがんと鳴り響き、無遠慮な罵声を浴びせ続けてくるのだから困ったものだ。

今までの環境とはあまりにも違うこの場所が、それを増長させているのは間違いないと息をつき、素通りしてきた風景にふと足を止めた。

360度これでは見て見ぬ振りもできない現状が、やたらと焦燥を駆り立てる。

立ち止まるのは嫌いだ。ほっと安心したり、誰かの身を案じたり、しみじみとした穏やかな思考に時間を費やすなんて以ての外で。

捨てたはずのもの達が徒党を組んで、これまでの自分の在り方を否定し始めるなんて想定外だ。

しかし、気付けば俺は目を閉じていた。

甘やかな感情を、居心地のいい雰囲気を全身全霊で噛み締める為に。

ひょいと顔を出しそうになる嗜虐の心を、撫で付けて懐柔して、鎮める為に。

信用していると、相手にそっと示す為に――。

俺は唇を一旦離し、次いで閉じていた目を開けた。

目の前の女も同様に、長い睫毛を揺らして瞼を持ち上げると、俺を見た。


「――キスは上手なのね」


小首を傾げて上目に見る仕草が存外可愛らしく、俺は目の奥が焼き焦げそうになるのをぐっと堪えた。

惹きつけられて止まない、この瞳をしばし見詰めたいと思う心とは裏腹で、もう一度唇の感触を目を閉じて堪能したいという欲求に抗う術は無く、俺は自然と顔を寄せていた。

ふ、と端が緩く持ち上がる気配がして、俺の首にしなやかな腕が回される。

俺は思わず強く抱き寄せ、再び触れた唇の表面が濡れている事に、繋ぎ止めていた理性が吹き飛んでしまいそうな感覚を味わわされた。

支えながら床に体を傾ける。ゆっくりと、そしてとても慎重に。

壊れてしまえば、失ってしまえば、もう二度と触れられる事は無いのだと自分を何度も戒めながら。

こんな感情に出会ってしまった自分を悔いる日は近い。

わかっていながら、この行為をやめる理由を俺は今持ち合わせてはいなかった。

そう、今だけ。ほんの一時だけだ――。

そう自分に言い聞かせ、俺は再び目を閉じた。











騒がしい船だと、そう思う。馬鹿な行いに全員で取り組んでいる時は特に。

ウチの船が常に静かなわけではない。だが、だからこそ今はこいつらの楽しげな様子が鼻につく。

流されそうになる自分に何度かハッとする瞬間があったのは認めざるを得ない。しかし俺は染まらない。ここで笑って過ごせるほど呑気な状況でない事はよくわかっているから。

こいつらはきちんと理解しているだろうか。海賊になろうなんてヤツは根本的にどこかイかれてるもんだ。

ただまァ、自分がそんな連中を嫌いじゃないってのが、一番厄介なところではあるが。


「おい、トラ男! なんで足しか浸からないんだ!? 風呂好きじゃねェのか?」

「……お前ら状況わかってんのか? いつ何時ヤツが仕掛けてくるかもわからねェってのに、呑気に風呂なんか浸かってられ、」


瞬間、削ぎ落とされたように身体に力が入らなくなった。

言い終わるか終わらないうちに俺の目の前は熱い液体で満たされていて、どうやらこの事態は脚に感じる横暴な引力によってもたらされたのだと知る。


「ははは! どうだ!? ウチの風呂は最高だろっ!?」


引きずり込まれて湯船の底に寝そべったような体勢の俺に返答する事はできない。

滲む視界に、とてつもなく愉快そうな顔が、更に滲む。


「おい……おい、ルフィ!! こいつ溺れてんじゃねェか!?」


途端にざわついた水面下は、慌てふためく幾多の足によってあらぬ方向に水流を巻き起こし、それに対して無抵抗な俺は枯葉のようにただ身を揺らすのみだ。

苦しくとも藻掻く事すらままならない俺を、不意に数本の腕が力任せに引き上げた。

水気を含んだ酸素が一気に器官を通ろうとしたのに反して、まずは邪魔な水分を排除しようとした身体が押し戻す力を躍動させる。

俺は激しく咳き込みながらも、非難めいた目を向けられるほどにはなんとか回復する事ができた。


「あはは! 悪ィ悪ィ!!」


俺は確信している。この中の一人として本気で悪いと思っているヤツはいない。

残留していた湯を全て吐き終えると、未だ笑っている連中を最後にもう一度睨み付け、俺はその場を後にした。








海賊に身を落とした時点で己の命に執着しているつもりはなかったが、いくらなんでも風呂で溺死は勘弁してくれ。

俺はまだ微かに痛む器官を忌々しく感じながら、目に付いた梯子に足を掛けていた。毎度賑やかなのは結構な事だが、やはり少しくらいは静かに過ごしたいものだ。


「――あら」


とん、と着地する手前で聞こえた声に眉を寄せた。

余所の船で思い通りにならないのはある程度仕方がないと諦めてはいるが、ささやかな俺の希望を叶えるのはそんなに困難な事だろうかと、多少打ちひしがれた思いで振り返る。

しかし、そこには本を手にした女が静かに微笑んでいるだけだった。

――ニコ・ロビン。

この女は確か考古学の知識に長けていたと記憶する。

ちらと手元を見ると、やはりそういった関連のタイトルが目に止まった。


「いいお湯だった?」


にっこりと笑んでくる女に先ほどの出来事は知りようが無いだろうが、あの息苦しさを思い出した俺は返事をするのも億劫になり、空っぽの表情を変えないまま浅く頷いた。

他に誰かいる気配は無いが、一人いれば同じ事だ。俺はすぐに部屋を後にしようと背を向けた。


「あ……、待って」

「――ッ、」


首にかけていたタオルを引っ手繰られたと思えば、すぐに頭から覆われる。


「きちんと拭かなきゃダメよ」


タオルの上に乗せられた女の手は、慣れた調子でとても優しく丁寧に動いた。

俺はといえば、先ほど湯の中に引きずり込まれた時よりも尚、凄まじく襲ってくる脱力感に指一本動かせない。


「……いや、自分で、」

「――はい。もういいわよ?」


さっと開けた視界一面に、覆われていたタオルと取って代わって、とても満足そうな女の笑顔が存在していた。

それをしばし呆然と見詰めていたのに気付き、あまりのきまりの悪さがむっつりと顔を顰めさせる。

なのに、そんな俺に気分を害した様子も無く、この女は再び髪に触れてきた。


「……風邪引かないようにね」


微笑まれたまま軽く撫ぜられ、俺はますますどういった顔付きをしていいものかと思い悩んだが、結局取り繕った笑みを見せるでもなく、礼らしい言葉も言えないまま、ぎこちなく部屋を後にした。








いい陽気だった。

蒸すような暑さは苦手だが、日差しのわりにそよぐ風は少しひんやりとして、丁度良い過ごしやすさを提供してくる。

俺は芝生に腰を落ち着けて、深々と被った帽子を脱ぎ去った。

このまま漂う雲でも眺めながら何もせずに過ごしたいと、珍しくそう思ったのは、船上がいつもより比較的静かなせいだろうか。

抜けたように肢体を伸ばす連中から、規則的な寝息と鼻に引っかかったような鼾が時折聞こえてくる以外は、とても静かでいいものだ。

「呑気」という項目を開くとこいつらの名が載ってるんじゃないかと少し辟易としながらも、気付けば俺は腕を伸ばして欠伸なんぞしていた。

自分にも例外なく襲ってくる締まりの無い眠気に少し戸惑う。

俺は疲れているのだろうか。計画を実行に移すと決めてからは随分すっきりとした気分が続いていたものだが。


「――あなたも少し眠ったら?」


音も立てずに近付いて、俺の横にそろりと腰を下ろしたニコ・ロビンから、先ほど感じたのとはまた違う風が俺の頬を撫でた。

不甲斐無い眠気をぐっと強めるようなそれに、好き勝手させるかと抗った俺の表情がまた曇る。


「いつもそんな顔をしてるのね」


すべてを見透かすような笑顔に、当然だろうとか、お前らが緊張感無さ過ぎなんだとか、反論したい気持ちがすぐに込み上げたが、俺は結局何も言わなかった。

穏やかで耳障りの良い声の中にある、凛とした響きが自分の気分を良くさせている事実に気付いたせいかもしれない。

良い声だと。なぜか素直にそう思えた。


「しばらく一人で行動していたんでしょう? 寂しくならない?」

「ハッ……なにを馬鹿な。――お前だってずっと一人で政府に追われていた身だ。その時に寂しい云々など考えた事があったか?」


予期せぬ質問に、思ったより皮肉めいた言い方が口をついた。

それに対して、そうね、と伏し目がちに笑った女は、再度こちらを見る頃にはすでにいつもの表情に戻っていた。


「でも、わたしの場合は逆だわ……。もうみんなと出会ってしまった。だから……また離れる事にでもなったら、きっと寂しいと思うでしょうね」


その返答に俺はまた何も言えなくなった。

いつもふざけ合っているこの船の人間越しに、残した仲間の影を垣間見ていたのをこの女は知っているとでも言うのだろうか。

もし作戦が失敗に終われば麦わらの一味は勿論の事、仲間の命の保障などできない。

迫る決戦に俺は極度の重圧を感じていたのだろうか。

いざという時、咄嗟の判断の正誤が死を招く状況において、こんなものが一番厄介で邪魔臭い。

――いくらか気を抜くのも必要か。

俺は周りを見渡して、こいつらを多少見習うよう考えを改めた。


「……少し寝る」

「そう。それじゃあ、どうぞ?」

「あ……?」


女が軽く叩いて見せたのは、自らの太腿だ。

すらりと伸びた脚は日光を仄かに反射して、目を細めてみなければならないほど眩く、絶対的な引力を秘めて俺をいざなう。

それを見た瞬間、長年かけて積み上げてきた俺の中の何かが、音を立てて急激に崩れそうになった。

今までの人生で何度も味わわされた、強制的な何かを執拗に迫られるのとは違う。

とても心地良い破壊音が一斉に身体を駆け巡る。

しかし、そんなものに頭を乗せたら最後、俺は深い眠りの淵から易々と戻って来れなくなるのではないかと忍ぶ心が寸でのところで踏みとどまらせた。

だが。だが――、それはとてつもなく有意義な至福をもたらすに違いない。

激しい葛藤を繰り返していた俺は、恐らく呆然としたままそこを見詰めていただろう。

そんな様子を少々楽しそうに眺めていた女は、構わず持参していた本を開き、静かに目を走らせ始めた。

決断できたらいつでもどうぞ? そんな風に脚をゆったりと伸ばしたままで。

僅かに、自分の身体が傾いた気がした。これは本能というヤツじゃなかったか。ならば、それに逆らう術はない――。


「なんだ、なんだァ? みんな寝てんじゃねェか! ったく、たるんでやがる!」


傍若無人なまでに突如静寂を破った声にハッと我に帰る。

危なかった。人の船にまで来て何やってんだこいつと、あわや失笑を買うところだ。

しかし、本当に恐ろしいのは、それでもかまわないと思わせる悪魔的な魅力を持ったこの脚だった。

俺はそれを最後にちらと見て、女に悟られないよう注意しながら、惜しまれる気持ちを乗せて小さく息を吐いた。

三本の刀を携えてどかどかと近付いてくるこの剣士は、辺りを見回しながら未だブツブツと文句を並べている。

だが、何か用でもあるのかと見上げた俺に見向きもせず、どっかりと座り込むと、次の瞬間、何一つ違和感が湧かないような動きで寝転んだのだ。

それを目の当たりにした俺は思わず絶句した。

言ってる事とやってる事が違うというレベルではない。

この剣士が頭を乗せているのは、たった今まで俺が凝視していた太腿だったのだ。


「30分経ったら起こせ」


軽くパニックを起こしかけている俺に気付きもしないで、とてつもなく身勝手な要求をさらりと言ってのけるこいつは一体何様だ。

だが、何事も無かったように、わかったわと頷く女を見て、俺は更に悶絶した。

なんだこれは。なんだこの二人を取り巻く桁外れのナチュラル感は。

こいつらはデきてんのか。いや、だったら俺を誘った女の態度と行動には酷く疑問が残る。

この船では日常茶飯事なのか、これは。無差別に解放された安らぎなのか。

だったら濡れた髪を拭いてもらったあれも。いや、もしかしたらもっと――。


「ロー、」


気が付くと、女がこちらを向いて苦笑していた。


「またね……」


慰めるようにそう言われた俺は、首を縦にも横にも振れず、おもむろに立ち上がると船内へと向かった。

一体どんな表情を無防備に晒していたのかと気恥ずかしく感じる事よりも、突き上げるように湧いたどす黒い嫉妬を、僅かでも知られたくはなかったのだ。
1/2ページ
スキ