ニコ・ロビンという女

Case:L


 俺は手元のグラスを引き寄せ、ぬるくなった酒を一口含むと、これで何度目だろうかと考えた。

 今しがた入ってきた女は自分がいるカウンターではなく、後方のソファーにゆったりと腰掛けている。手元には先ほどコックが作り置いていったレモン水が握られているので、飲み直すつもりでここに来たわけじゃないようだ。

 ここには俺とこの女、ニコ・ロビン以外の人間はいない。だが、昼間とは打って変わった静寂の中、会話は挟まず互いを視界にも入れず、この空間をただ淡々と共有しているのみだ。心地良いほどの静寂を独占できないことが、僅かでも苦痛に感じないのは慣れてしまったからだろうか。
 意図せず訪れる二人きりの瞬間。こんな瞬間は、なぜかちょくちょく訪れた。

 最初はただの偶然だと思っていた。現在同盟相手である麦わらの一味は少数精鋭で成り立っている海賊団であり、ここの船員の数が少なければそれだけ同じ人間と出くわす頻度も高まるからだと。

 しかし、すぐにその考えは間違っていることに気付いた。乗船人数が少なければその分船内を隅々まで使え、各々が自由に行動する時間などは、俺が適当に歩いても誰とも出会わないこともあったからだ。
 そんな広い船内で同じ人間と日に何度も出会う確率など、考えてみるまでも無く低い。
 それなのに、なぜか俺とこのニコ・ロビンは、ばったりと出くわす確率がかなり高かった。

 そんな時、この女はきまって微笑んでいた。愛想笑いやばつの悪そうな笑みではない。気心の知れた仲間に見せるような、とても自然で穏やかな笑みだ。
 そして、それは他の人間がいる場合でも例外なく見られた。振り向いた瞬間、顔を上げた瞬間、近くから遠くへと視線を伸ばした瞬間。
 そんなふとした瞬間に、気付けば微笑まれているのだ。それに対して、自分はきまって無関心を貫いた表情のまま目を逸らすという、そういった一連のやり取りなんかも、この女との間でよく起こる日常だった。

 そんなことが続き、きっとこの女は自分を監視しているのだろうと考えるようになった。同盟相手とはいえ自分は敵船の船長に違いはないし、不審な動きをしないか警戒するのは当然だ。実際、同盟を持ちかけた時に一番具体的な理由を提示して反対したのもこの女である。
 そういうことなら、とかく警戒心や緊張感が欠如している人間が多いこの船において、とても希少な存在だと感心するべきなのだろう。

 しかし、この女の視線の中に猜疑心や警戒心などという類のものはいまいち感じられずにいた。かといって、別の意図が何かと特定することもできない。
 この船に乗り込んでからというもの、他の連中からも様々な視線を注がれていた自分としては、この女の視線は何か違うという程度にしか、その時は考えることができなかった。

 単純に興味に駆られた視線。客人として気遣う視線。あからさまに訝しむような視線もあった。それは主に、あの三刀流の剣士からだったが、そんな反応があるのは想定内であった。
 同盟を持ちかけて敵の懐に入り込み、油断させておいて寝首を掻くなんて話は、この海ではさほど珍しくないからだ。
 あからさまに監視されたり疑われたりするのは当然で、たとえどんなに理不尽な態度を取られたとしても、それは最もな反応だと納得できる。

 だが、この女の視線はそのどれにも当てはまらない。主張せず、探ることも訝しむこともない。あくまでもこちらが気付けばという程度で、そして、ただただ柔らかく笑んでいるだけなのだ。

 その女は今、半分ほど中身が減ったグラスの中の氷を指で弄んでいる。こちらに話しかけるでもなく、グラスを空けて立ち去るでもなく、ただ静かに。
 少し俯き、自らの膝上にあるグラスをじっと見詰める様子は、まるで愛しい誰かを待ち侘びているかのようにも見えるが、その表情に憂いや気だるさは感じられない。どちらかというと、この静かな空間をじっくりと堪能しているかのようだ。
 この女にはこういった感じがとてもよく似合うと思う。明るい日差しの下、複数人の輪の中に入って笑っているよりも、薄暗い灯りにひっそりと包まれて淡く笑んでいるのが。


「……なあに?」


 しばらく無遠慮に眺めていたせいか、ニコ・ロビンは小さく吹き出してからそう言った。ただし、相変わらず視線はグラスの中に落としたまま、斜め前方にあたるこちらを見ようとはしない。だから、代わりに自分が脚を横に投げ出して、ソファーの端に座る女を正面に捉えてやった。


「さっきから静かだが……他の連中はどうした?」

「ああ……みんなならもう眠っているわよ?」


 あくまでもこちらを見ないつもりなのか、俯いた体勢のままで女は答えた。指先でくるくると回された氷がグラスにぶつかる響きを聞きながら、俺は静かに立ち上がる。すると、氷を弄んでいた女はようやくこちらを見上げた。
 驚いている風でもない、とても落ち着いた瞳だ。どちらかというと、俺の行動を知っていたかのような余裕さえ窺える。口元にはいつもの柔らかい笑みを宿しているが、それが今はとても妖しげに映った。

 よくよく考えると、こんな視線には覚えがある。敵船に乗り込んだことで、警戒していたのは自分の方だったのかもしれない。特別な環境だから特別なことを考えていたが、答えはとてもシンプルだった。
 この女の視線は、過去に出会った女達が投げかけてきたものと同じ類のものだ。


「今日は随分早ェな……」


 俺はいつもとなんら変わりない口調でそう返しながら、ゆっくりと歩き始めた。カウンターとソファーの間にあるダイニングテーブルを横切る際、端にあった椅子の背を何気なく指で撫でる。


「ええ。今日はいつもより騒いでいたから疲れたんじゃないかしら。……きっと、あなたが乗船したことが嬉しいのね」


 ソファーの隅で女が笑う。不意に視線が合った時と同じように、とても柔らかく。しかし、何も答えないまま近付いてくる俺を見て、その笑みは次第に薄らいでいった。
 俺が先ほどと同じ仕草で次の椅子の背を撫でた時、ニコ・ロビンの指は氷から離れた。華奢な指先から滴が一つ零れて、腿の辺りを小さく濡らしている。


「ロー?」


 大きなダイニングテーブルをぐるっと囲む椅子は全部で八つだが、自分とニコ・ロビンの間にある椅子はあと二つだけだ。俺はその二つのうち一つ目の椅子の後ろを通過しながら、その背をまた指先で撫でた。
 こんな悪戯ともいえない些細な行為が、とても楽しいことのように思えるのだから不思議だった。


「……どうしたの?」


 最後の椅子。その椅子の背を正面に捉える形で、ニコ・ロビンはソファーに座っていた。浅く腰掛け、脚は組まずにきちんと揃えられている。俺は最後の椅子の背を指で軽く撫でると、ニコ・ロビンの正面に立った。
 このなんてことのない作業が楽しく思えたのはきっと、それを終えた先にこの女がいるせいだろう。


「――それで?」

「え……?」

「お前も嬉しいのか、おれがいて」


 少し探るように揺れていた目が、瞬間大きく開かれた。それを見て、俺は確信めいたものを感じる。


「……嬉しいといえばそうかしら。この船にお客さんが乗るのは久し振りだもの」


 そう言って、ニコ・ロビンはまたグラスに目を落とし、それをゆっくりと持ち上げた。しかし、口元に運ばれそうになった瞬間、それは中途半端な位置で動きを止める。グラスを持った手を俺が掴んだからだ。


「なに……、」

「――喉が渇くか?」


 華奢な手首は放さないまま、俺はもう一方の手でグラスを引っ手繰ると、中身を口に含んだ。戸惑う瞳を間近に捉え、自分は少し笑っただろうか。グラスを適当に放ると、先ほどまで弄ばれていた氷が床を滑っていったのがわかった。
 それを見て何か言いたげに開いた女の口に、含んでいたレモン水を直接流し込む。


「ん……っ」


 咄嗟に仰け反りそうになった身体を逃がすまいと、小さな顎を掴み固定した。最初に掴んでいた手首には力が込められたようだが、こちらの身体を押したり、振り解こうと抵抗する動きはみられなかった。
 予想した以上に柔らかな唇を堪能し、こちらの舌を強引に食わせると、無理矢理流し込まれていたレモン水が奥へと引っ込んでいって、静かに嚥下された。顎を掴んでいた手に喉が上下する感触が伝わり、思いのほかゾクリとする。
 今体内に流れたであろうレモン水を追って、喉から下へ触れたいという情欲が湧いた。

 俺は一旦唇を離し、女の口端から漏れたレモン水を舌で掬った。鎖骨に向かって緩やかに蛇行するそれは、女の肌の味と相まって甘くまろやかなものへと変化している。くせになりそうなそれをもっと味わいたくて、気付けば女の喉元に食らい付いていた。
 白い肌が赤く濡れていく様に、御し難い気持ちがどっと押し寄せるのを感じる。


「あなたって……」


 ニコ・ロビンはしばらく俺に喉元を黙って明け渡していたが、思い出したように声をかけてきた。極めて落ち着いた声ではあるが、こちらに少し甘えるようなニュアンスを感じる。
 もどかしさを示すようにきつく吸い付いてから、俺は唇を少し離した。
 目の前にある美しい女の顔は何か悟っているかのように穏やかだが、今は笑んではいない。
 性急にことに及ぼうとする俺を嗜めるようにして、天井に向いていた目をゆっくりと向けてくる。


「お喋りじゃないのは知っているけど、必要なことはきちんと言ってくれる人だと思っていたわ……」


 少しがっかりしたかのようにため息をついてみせるのは、本音から出たものか、それともただの牽制か。どちらにしろ俺を試す為にそんなことを言ったのであれば、この女は意外と可愛らしい一面を持っているなと思った。
 この行為にあたる理由、つまり、「好きだ」とか「抱きたくなった」とか、そういった言葉を俺に要求しているのだ。
 しかし、俺はそんな言葉を言ってやるつもりは無かった。

 俺は少し顔を離して、拗ねたような表情をしている女を正面から見据える。


「……同盟は一時のことだ。解消されればその時点でおれはまた敵になる」

「それはわかってるけど……?」


 不可解なものに出会った時の癖なのか、小さく首を傾げた女の頬に手を伸ばす。抵抗の意が無いのを見て取ってそっと触れると、一瞬だけ大きな目は閉じられた。


「だから、今だけだ」


 俺の言葉に応えるようにして開かれた目が、淡い照明を静かに反射する。


「今だけお前と遊んでやる……」


 一瞬の沈黙の後、クスリと笑う声がした。なあにそれ? と笑う女は、心の底から楽しそうだ。


「……今だけの遊び……今だけの暇潰し? キスした後でそんなこと言うなんて――」


 酷い人。そう囁いてから妖しく笑うと、ニコ・ロビンは俺の服を掴み、自らの方に引き寄せた。自然と倒れこむ身体をそのままに、流れるような髪に手を差し込む。
 重なり合う唇は、すぐに互いの熱を共有させた。

 すんなりと絡んだ舌の感触を味わった時、のめり込んでしまいそうな予感が胸を叩く。しかし、こうなってしまうのはなんとなくわかっていた。
 ここに乗船してからのニコ・ロビンの不可解な行動が、自分に好意を寄せている為だと気付いた時、特に嫌な気はしなかったのだから。
 男女の色恋に疎い自分なんかに知れてしまうほど、この女は見詰め、近寄り、どこに行けば俺に会えるか考えていたのかと思えば、そのいじらしさに少し笑えてくるほどだ。

 これほどイイ女が、そんな遠まわしなアプローチしかできなかった理由はわかっている。俺が敵だからだ。だから、俺はあえて「遊びだ」と前置きしたし、勿論自分でもそれを貫くつもりだった。
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