うたかた


 瞼に光を感じて、私は薄く目を開けた。

 ごろんと動いてみて、痛みのない身体に気分が良くなる。目覚めたばかりだというのに意識は鮮明で、頭の中にどんよりとしたものは見当たらない。二週間前までは考えられないようなすがすがしい気分だ。

 そして、船とは違う規則的な揺れと、すぐ隣から聞こえる安らかな寝息が、私の気分をさらに良いものにしていた。子供のような顔で眠る大人の男はまだ目覚める気配はない。
 この人のこんな顔は毎日見ているはずなのに、まだどこかで疑ってしまう。酒を絶ってしばらく経つのに、自分は酔って幻を見ているのではないか、と。

 シャンクスと再会を果たした私は船へ戻ることを許され、今は仲間との合流地点へ向かうべく、彼と二人海列車で移動中だ。

 無断で三年も行方をくらましていた私が皆に簡単に受け入れてもらえるものかと心配したが、船長であるところのシャンクスが「問題ない」と笑うので、戻れないと言うわけにもいかなかった。

 正直、仲間に会うのは気まずい。だけど、二度と会えないと思っていた皆と再会できるのはやはり、嬉しかった。

 仲間との合流地点は遠く、終点に着いた後は船に乗り換え、十日ほど移動に費やさなければならないらしい。てっきり、すぐに仲間に会えると思っていた私は落胆した。母船の現在位置はまるで見当違いの方角にあったのだ。

 私はシャンクスに尋ねた。なぜ一人で船を降りてここまで来たのかと。すると、彼は平然と答えた。「お前が逃げるからだ」、と。

 どきりとした。彼は私が逃げ回っていたことに気付いていたのだ。彼は単身下船した後、船を逆方向に走らせ、離れた場所でわざと記事に載るような諍いを起こさせていた。赤髪海賊団がそこの海域にいるのだと、私に錯覚させる為だけに。

 そこまでして迎えに来てくれたことは嬉しく、同時に恐ろしかった。彼は、私についてどこまで知っているのだろうかと。

 二人きりで旅をする間、しばらくは不安だった。彼に声を掛けられる度、微笑まれる度、見詰められる度。私は内心凍りつくような心地でいたのだ。この三年の間どういう風に生きてきたのか、いつか訊かれるのではないかという恐怖に慄いていた。

 私が逃げ出したあの島で、あのエレベーターの扉が開いた時の衝撃はしばらく私を苦しめ、夢でも何度もうなされるほどだった。もし彼が私の行いを知れば、あの時のような顔をするのだろうか。あんな悲しそうな顔は、もう二度と見たくない。

 彼にこの三年間のことをいつ尋ねられるだろうかと思えば不安になるのに、何も尋ねられなければ、それはそれで不安だった。全てを知っているから何も訊かないのではないか。そんな予感が過ぎる度、怖くて彼の顔がまともに見られない時もあった。
 考えてみれば、ここ三年の出来事を一切尋ねてこないのは不自然じゃないだろうか。もしかしたら、確信がなくて訊けないだけなのかもしれない。

 私は自分から余計な話はしないようにし、彼に話し掛けられた時にだけ喋るように心がけた。

 だけど、彼にここ三年のことを尋ねてくるような素振りはなかった。彼が私に訊いてくるのは、今から食べたい物や今から行きたいところ、やってみたいことなど、いうなれば未来の話ばかりだ。昔からこういう人だったといえば、そうかもしれない。
 昨日何をした? ではなく、明日何しよう? と常に胸を躍らせているような人だったから。

 再会してから二週間あまり一緒にいるが、三年前、同じ船に乗っていた時と何も変わらない態度で接してくる彼に、私は密かに安堵していた。

 彼は私と移動している間も大抵上機嫌で、面白そうなことに目がなくて、トラブルさえ楽しんでいるような節がある、昔と変わらない子供のような男のままだった。
 私は彼のこういうところがとても好きだったわけだけど、常に行動を共にしているとひやりとさせられることもしばしばある。実をいうと、この海列車のチケットも博打によって獲得した代物であった。

 たまたま立ち寄った酒屋の中で、急に顔見知りでもない男達(強面)の中に入っていくものだから、私は大いに慌てた。だけど、なぜだろう。最初は殺気立っていたように見えた男達が、気付けば全員笑っているのだ。
 気前よく酒をおごってくれて、立ち去る際にこのチケットをくれた。ただの乗車券ではなく、豪華な部屋に宿泊できるチケットを見て、彼はとても喜んでいた。

 彼には人を惹きつける魅力があるのだろう。楽しい時は思いきり楽しみ、子供のように笑う彼に最初は巻き込まれる形で、しかし、いつの間にか楽しくなり、その頃には彼を好きになってしまっている。そんな人間は少なくない。かくいう私もその一人だった。

 彼は昔と同じように私を子ども扱いしたり、からかったりしてくるが、唯一昔と違うところがある。私を見詰める目。ふとした瞬間に愛おしさや情欲を惜しみなく注いでくれる目が、昔とは違う関係になったことを教えてくれる。
 再会してからというもの、シャンクスは私を毎日抱いた。夜眠る前にたっぷり時間をかけて抱く時もあれば、戯れの延長といった感じで、明るい時分から抱く時もあった。

 明るい室内で抱かれることに抵抗はなかった。むしろ、彼の存在がくっきり見えれば見えるほど安心できた。あれだけ恋焦がれた男に抱かれているのを実感できるのはとても幸せだったのだ。

 今まで色んな男と寝てきたが、正直、好きな人とするセックスがこんなにも良いものとは知らなかった。彼に見詰められるだけで頭に靄がかかったようにぼうっとなり、彼の唇が肌を滑るだけで身体の芯がじんじんと熱くなるのを感じた。
 普段見せないような彼の表情が私をとても昂ぶらせ、時折囁かれる甘い言葉ですぐに登り詰めることができるほどだった。

 ただ、その甘い囁きに私が応えることはなかった。声を上げるのも極力抑えているし、自分から触れることも、積極的に動いたりすることもない。あくまでも私は受身のまま、彼に主導権を委ねていた。
 彼が私の実態を知っているかどうかはわからない。だけど、どちらにしろ男慣れしているなんて思われたくなかった。彼に抱かれる時、私は懸命にウブな振りを続けていたのだ。

 そのせいだろうか。日を追うごとに彼のセックスは激しくなっていった。私が何度達しようとも離されることなく、気を失うまで追い詰められることがしょっちゅうになった。
 正直、目覚める時に身体が辛いこともある。でも、彼にそれだけ求められていると思えば、私にとってそれは幸せな出来事の一つにしか過ぎなかった。

 朝になれば彼はいつも通り笑っていて、私を激しく抱いたことなど感じさせはしない。だから、私も何事もなかったように過ごしていた。

 部屋に漏れる光が次第に広がってきたが、隣で眠っている彼はまだ目覚めない。けれど、そろそろ起きるはずだと私は思った。規則的な揺れの間隔が開いてきたので、停車するべき駅に近付いたのだろう。列車は緩やかに減速していた。
 この海列車というものの利便性はわざわざ語るまでもないが、停車するときに車体が大きく傾いたようになるのにはなかなか慣れないものだ。

 列車が停まり、いつも通り車体が大きく傾くと、ごそ、と彼が動く気配がした。私はとっさに目を閉じ、眠っている振りをする。すると、しばらくして髪を撫でられる感触がした。髪から額、額から頬を撫でる彼の手がとても優しいのが嬉しくて、つい笑ってしまいそうになる。

 起きろよ、そう囁いてから、彼は私の耳にキスをした。くすぐったさに思わず吹き出すと、すぐさま彼が笑う。


「……起きてやがったな?」


 がばっと抱き締められてめちゃくちゃにキスされると、私は抵抗しながら笑った。何度も思い描いてきた、泣きたくなるほど幸せな瞬間だった。つい何時間か前まで、私をこれでもかというほど追い詰めていた彼は、今日もそれを微塵も感じさせない。
 彼はいつものように笑い、私もそれにならった。





「――ああ……。これはやばいな」


 遅めの朝食を済ませた後、室内でゆったりと過ごしている時だった。彼は自分の目の前にあるものに注意深く触れながら呟いた。目を閉じたままの電伝虫だ。通信していない時は眠っているのが普通だが、どうも様子がおかしいらしい。


「ダメだな……。列車の中だからか?」


 何をしても電伝虫は目を開けようとしない。この海列車に乗ってしばらくは使えていたが、今日になっていきなり通信できなくなったらしかった。昨夜、広い海域に出たせいだろうか。


「仕方ない。……どこかで借りてくるか」


 彼は小さく息を落とすと面倒臭そうに立ち上がった。彼が連絡を取ろうとしているのは船で待っている仲間、主にベックマンだ。特別マメではない彼がそこまでして仲間と連絡を取ろうとするのにはわけがある。

 私を捜すために単独で船を降りることは、仲間の猛反対を受けたらしかった。シャンクスほど顔が売れている人が一人きりで行動するのはとてつもない危険を伴うからだ。
 そんなことは私でもわかるのに、本人がそれを深く考えていないようなところが特に、みんなは気に入らなかったのだと思う。

 単独行動を頑として譲らないシャンクスに、最後には許す形で絶対条件がついた。それが、一日一回決まった時間に連絡するという約束事だ。ちなみにそれを守らなかった場合、全総力を挙げて派手に捜索すると言われ、彼はしぶしぶ呑むしかなかった。

 こんな楽しい時間を邪魔されてたまるか! 彼はそう吐き捨てると扉に向かったが、すぐに私の方を振り返った。


「……なァ、一緒に来いよ」

「え?」


 予想していなかった彼の言葉に驚いた。毎日仲間と連絡する様子は見ていたが、今いる場所を伝えるくらいの短い通信だと知っていたからだ。私が彼と代わって仲間と話したことも今まで一度もない。
 仲間と久し振りに話す時は顔を見て、まず最初に謝るのが筋だと思っていたからだ。私は首を横に振った。

 彼は何か言いたげに私をしばらく見詰めた後、そうか、と頷いた。


「すぐ戻るからここで待ってろよ?」


 彼がそう言って出て行った後、私は首を傾げた。考えてみれば、再会してからというもの、彼と片時も離れていない気がする。私がどこへ行くにも彼はついて来ていたし、私にもついて来させていた。
 彼は本当に過保護というか、相変わらず、私を子ども扱いしているのだ。私は留守番くらいできるほどには大人だと、少し気分を害した。

 一人になり、なんとなくベッドに寝そべると、いつもよりずっと広く感じた。四六時中聞こえていたはずの、がたんごとんといった音もいつもより大きく聞こえる気がする。彼といると嬉しくて楽しくて、他のことが何も気にならなくなっているのだ。
 私はやはり子どもなのかもしれない。

 ベッドに身体を投げ出したまま、彼が部屋を出て行く時、何か言いたげだったのを思い返す。少し心配そうな顔付きだった気もする。もしかしたら、また私が逃げ出すとでも思ったのだろうか。だから彼は常に私と離れないようにしていたのかもしれない。
 きっと、三年もかけて捜すはめになったのだから、もう逃げるのは勘弁して欲しいとは思っているだろう。

 何を馬鹿な、と私は呟く。二度と離れたくないのは私の方だ。こんなに幸せな時間を簡単に手放せるはずがない。なにより不可能だろう。
 今頃、列車内を歩く彼は気付いたはずだ。こんな海の上で逃げ出すのはさすがの私でも無理だということに。

 なんとなく外が暗くなった気がして、窓を見た。さきほどまで少し曇っていた空が、いつの間にか黒い雲に覆われている。彼といる時はまったく気にならなかった暗い空が嫌な気持ちを思い出させた。

 彼はどこまで行ったのだろう。出て行ってからすでに二十分が経とうとしていた。扉を開けてみて何度か廊下を覗くが、こちらに向かう人影はない。遠くで雷鳴が轟き、私は急に不安になった。
 室内には大きな窓があって、海と空を一望できる。この豪華な部屋はきっとそれが売りなんだろうし、私も最初に訪れた時は素晴らしい景色にとても感動したものだ。しかし、今は暗い空と荒れた海がとても恐ろしく、不安な気持ちをどっと押し上げてきた。

 彼は列車内のどこかに必ずいるのだから、捜しに行こう。この部屋で一人きりでいるのは嫌だった。きっと、すぐに酷い雨が降ってくる。
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