Missing
すごく大事なものを失うと胸にぽっかりと穴が開いたようになると言うけれど、じゃあ、その穴のうまい埋め方は? と訊くと誰も教えてくれない。現在の私がまさにそういう状態で、胸に開いてしまったこのぽっかりサンを一体どうやって埋めればいいのだろうと毎日考えていた。
最近、私は失恋をした。といっても、別れを切り出したのは何を隠そう、私の方なのだけれど。
ある人は、時間が解決してくれるサ! と言い、ある人は、新しい恋でもすればいいと言う。だけど、そのどちらも私には非常に難しい解決法だった。
なんせ、失恋した相手と嫌でも顔を突き合わせる毎日だし、失恋相手が見ているこの空間で他の恋愛相手を探すのなんて、あてつけみたいでなんか嫌だ。
かといってこの空間から簡単に出ることはできない。ここはだだっ広い海の真ん中に浮かぶ一艘の船の中だからだ。では、陸地に着いた際に適当な相手でも探してみようか? と考えてもそううまくはいかない。
しばらく安定しない天候が続いたせいで、スムーズな航海はできない状態だ。予定は大幅に遅れて、短く見積もっても後二週間はこの船の中で揺られていなければいけないという不運に見舞われている。
別れを切り出すタイミングは大事だと言うけれど、今回はこれで一つ勉強になった。海賊と別れる時は、陸地に着く直前がベストだ。何日か顔を見ずにいられれば、少しはこのぽっかりサンがこれほどまでにぽっかりしなくても済んだかもしれない。
後になって悔やんでも時すでに遅しだけど、でも、だって、これ以上は一秒たりとも我慢ができないと思ってしまったのだ。その時は。
最初は、とにかく憧れていたのだと思う。その人がただ目の前を歩いただけで、思わず「キャーッ!」と叫びたくなるほどの、いわゆる熱狂的ファンのようなぞっこんぶりだったのだから。
強かったりカッコよかったり。最初はそういう外的なことから入っていって、実はちょっと天然だったり、だらしなかったりするところを見付けては、これを知っている女は世界広しと言えど、きっと私だけだ! と鼻息を荒くした。
大袈裟ではない。だって、本当に彼は有名人で、海軍や政府や他の海賊からも一目置かれたり恐れられたりしているような、すごい人なのだから。
赤髪のシャンクス。この名を聞いて驚かない人はいない。そして、私が今乗っている海賊船のお頭は、恋人としてもとても優秀な男だった。
好みの酒や好みの料理や好みの女や。とにかく、どうにか気に入られようと考えた私は、色んな人から情報収集しまくって、希少な酒を苦労して手に入れたり、料理を一から勉強して振舞ってみたり(その間、かなりの確率で指を切った)、外見で変えられるところがあれば迷わず変えた。
そんな必死でがむしゃら丸出しな私に対して、彼はごく自然に、至極簡単に、優雅にさえ見える手付きで、「これ好きだろ?」と好物の菓子を目の前に差し出してきたのだ。無論、私は「キャーッ!」である。
こちらの反応を窺う時のちょっと覗き込んだ目や、ホッとしたように優しく笑った顔は今でも覚えている。幸せだった。好きな人のことを、好きでいられることがなによりも。
では、どうしてそんなに好きな人に自分から別れを告げることになったかというと、それは恐らく好きだったから。私はきっと、シャンクスのことが好きになり過ぎたのだ。
もっと見てほしい。もっと愛してほしい。私のことだけ考えてほしい。他の誰にも笑いかけないでほしい。もっと、もっとと。
その自分勝手な想いは毎分毎秒増えていって、私自身を苦しめた。だけど、彼には言わないように努めていた。いつも忙しい彼の拠り所になりたい。周りから大人を強いられる彼を子供のように甘やかしてあげたい。好きな酒を味わえる時間を作ってあげたい。どんな彼でも受け入れたい。私は本心からそう思っていたし、そうできるように心掛けていたから。
だけど、自分勝手な想いも、彼にしてあげたいことも、どちらも私の中から生じたものだ。出処が同じものが、交わらないまま個々に存在し続けられるわけがない。それらは自然に交じり合うと、私をもっと苦しめた。
そのうち私は眠れなくなったけど、彼の前では変わらず笑顔でいた。ご飯も喉を通らなくなって、フラフラしながら彼に料理を作ったのを覚えている。
苛立ち、笑えなくなると、彼に自分勝手な想いをぶちまけるようになった。なのに、彼は一度も怒らなかった。
私はベッドから起き上がれなくなったのに、いつも通りに笑う彼に腹を立てた。私は彼の特別になれたと思っていたけど、現実はそうではなかったようだ。突然別れを切り出した私に、彼は驚いた様子もなく、ただ一言「わかった」と頷いただけだった。
思えば、別れを切り出す前から、この胸の穴は開いていたのかもしれない。二人でいる時もずっと寂しかったような気がするのは、私が愚かだったからだ。彼を丸ごと受け止めて癒してあげられるような女になりたかった。だけど、それはきっと、本当の私ではなかったのだろう。随分と背伸びをして、それに疲れた。
彼と付き合っていたのは、私が作り上げた私で、本当の私ではなかった。作り上げた偽者と恋をしている彼を遠く感じるのは、当たり前だった。
幸せでいてほしい。そう思う気持ちは今も変わらない。ただ、別れを自分から切り出したことで、私は彼の幸せを作ってやる立役者にはなれなくなった。
彼は毎日私の視界に入るけど、なるべく見ないようにしている。実は今も五メートルほど先にいるのだけど、そして、声もしっかりと聞こえるのだけど、聞かないようにしていた。
別れてからもうすぐ一ヶ月になるので、私の気持ちもそれなりに落ち着いた。頑張る必要もなくなって、疲れた時はのんびりしてるし、辛い時に無理して笑うこともない。自分の事情をかなぐり捨てて、彼に尽くす日々は無くなったのだ。
付き合っている時は、彼に何がしてあげられるか四六時中考えて、別れてからはああすればよかったこうすればよかったと、やはり彼のことばかり考えた。
それが落ち着いた今、考えることは無くなった。眠れるようになり、食べられるようになったかわりに、胸にぽっかりと大きな穴が開いた。自分にだけ聞こえるひゅうひゅうといった風音がする度に、呼吸や鼓動が止まっているような気がして、自分は生きているのかと不安になる。でも、生きている。
現に今、船での仕事をこなしている最中だ。甲板を淡々とブラシで磨いていると、ぼうっとできて楽だった。皿洗いや、洗濯物を延々と干している時もそうだ。
こんなことばかりする日々を送っていると、自分が普通の主婦にでもなったような気がしてくる。でも、世間一般の主婦の方々と自分は大きく違った。愛する人が傍にいない。その人の為を想ってする仕事ならば、もう少しやりがいを感じられるのだろうか。――ああ。
私はブラシを動かす手を止めた。
だから私は幸せだったのだ。シャンクスのことを想ってした数々の無理は私自身を疲弊させたけれど、そのかわりにとてつもない幸せをくれていた。彼が嬉しそうに笑う度、私は嬉しくて、彼が安心したような顔を見せる度、私は安心できた。
きっと、もっとうまくできればよかっただけなのだ。
その場でブラシを動かさないままいると、ふと、五メートル先から彼の笑い声が聞こえた。私は床を見詰めたまま、ホッと胸を撫で下ろす。
私がおかしくなってから、彼の顔からは次第に笑顔が薄れていった。優しく笑う彼が好きだったのに。それを奪ったのは誰でもない、私だったのだ。
彼が笑っていられるなら、隣は私でなくていい。そんな風に、最近ようやく思えるようになった。胸に開いた穴は、自らを罰する為にこのまま開けておこう。無理に閉じて楽になろうなんて、傲慢だ。
私は今行っている作業を仕上げようと、持っていたデッキブラシに力を込めた。その時。
――お頭、頑張れよ!
誰かが叫んだ。何を頑張るのか知らないけど、頑張るのなら精一杯頑張れよと、気持ち綺麗になった床を見詰めながら、私も心の中で応援した。
「――おう」
シャンクスの返事は、なぜかすぐ傍から聞こえた。私は驚いて、思わず顔を上げる。陽を浴びた赤い髪がとても眩しく感じて、目を細めたくなった。そんな私を、彼はすぐ傍からじっと見下ろしている。穏やかに見えるのに、その顔にいつもの優しい笑みはない。
何かを決した時にだけ見せる強い眼差しが、私をただ静かに射抜いていた。久し振りに見る彼は、以前と何も変わらないように思えたが、それでいて、全然違うようにも思えた。
「ちょっと来てくれ」
来い、ではなく、来てくれとお願いされたわりに、いきなり腕を掴まれて半ば強引に連れて行かれる。え? え? と驚くばかりでまともな言葉も出ず、持っていたデッキブラシは掴み損ねて、派手に倒れた。
そんな乱暴なことをされたのが初めてだったので、私はすぐにこう思った。――彼は怒っている。
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