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ダンソニ中編【SCANDAL Chapter 1】

2025/12/12 16:55
【お題】ダンデ×ソニア



 春まだ遠い、二月のガラル。
 ソニアはちらちらと粉雪が降り始めた空を、研究所の窓越しに見上げながら呟いた。
「あ~……キルクスの温泉にでも行きたいなぁ……」
「それは、この原稿を終わらせてからだぞ」
 傍らでカタカタとキーボードを叩く有能な助手の一言で、ソニアは一気に現実に戻る。目の前にあるモニターに視線を戻すと、あとほんのちょっとなのにどうしても上手くまとめられない文章が並んでいて、思わずうぐぐと声が出た。
 研究所のセントラルヒーティングは、壁際のラジエーターからじんわり暖かな空気が伝わるけれど、冷え性で寒がりのソニアにはいまいち物足りない。彼女のデスクの足元には小型の電気ヒーターが常設され、もこもこのひざ掛けと、ワンパチのお尻型湯たんぽがソニアの下半身を温めている。
 そんな彼女の傍らで、薄手のVネックシャツ一枚で涼しい顔をしている助手は、このほど出版される、ソニアの三冊目の本のためのデータ整理に勤しんでいた。見ているだけで寒々しいが、隙間時間に鍛えているという若さ溢れる肉体は、ソニアよりも随分暑がりで、そういえば兄の方も年中無休の溶鉱炉のようだった、と思い出す。
 連想ゲームのように思い浮かんだダンデの顔に、ソニアは内心のため息を押し殺した。そしてそのまま、切り替えるようにほほを叩く。
 いまはとにかく、数か月かけた調査と検証で、また新たなガラルポケモンの歴史が紐解かれる瞬間を迎えなければ。気合を入れてモニターに向き直った。
 ……あ。いい表現思いついた! 一気にキーボードを操作し、怒涛のように文字を入力したソニアは、約五分後に歓喜の雄たけびを上げた。
「やっっった――――!!!! 終了! 終わり!! 完成だ――!!」
「お疲れ様だぞ」
 データから目を上げて、ホップがやわらかく笑う。いつの間にか、そんな大人びた反応を返す弟子を見やって、ソニアは拗ねたようにくちびるを曲げた。
「なにそのクールな反応は! 助手なら一緒に小躍りしなさ~い」
「こっちのデータチェックはまだだからな。これのダブルチェックまで終わったら、オレも叫ぶぞ」
「うぇ~、ごめん、それ超めんどいやつだもんね……」
「問題ないぜ」
 にやりと笑ってうそぶく表情が、冗談抜きで年々ダンデに似てくる。あーんなにちいちゃかった赤ちゃんがぁ~……と、ソニアは複雑なため息をついた。
 気がつけば、ソニアの背中に無遠慮に負ぶさって、野生ポケモンを見に行きたいとせがんでいたちいさな弟分は、すっかり逞しい青年に育っていた。あと数ヶ月で十八歳、成人年齢に達する彼は、現在、王立アカデミアの特待生として、過去のソニアと同じように、着々と研鑽を積む日々を送っている。
 基本的には、週末を重点的に週三日勤務とし、ブラッシーとナックルの往復生活。ソニアの現地調査にはほぼ随行し、それが正式な課外活動と認められているため、フィールドリサーチャー養成課程ワイルドエリア調査部門の博士号も取得していた。
 そしてさらなるスキルアップのために、来期の留学も検討している彼には、まるで自分自身の分身を見るような、慕わしくも誇らしい思いが胸に湧き上がる。
 またカタカタとキーボードを叩き始めたホップのために、とっておきの紅茶を淹れてやろうとソニアが席を立った。そのままキッチンブースへ向かう途中、ロトムが《ぴこん》と通知音を鳴らす。
 その特徴的な音に、ソニアの開放感に浮き上がっていたこころが、ずしんと重しをつけられたように沈んだ。
 ふよふよと浮かぶロトムが、こころなしかためらうように画面を見せる。そこには、ソニア自身が検索通知の設定をしていた『ダンデ』の記事が載っていた。

《バトルタワーオーナーダンデ、深夜の密会か? ――お相手はマクロコスモス傘下企業のご令嬢……ガラルの英雄に訪れた春?》

 どこかで見たことのある煽り文句。ソニアは、代わり映えのしないゴシップ記事を斜めに読みながら、シュートシティの雑踏に立つ幼馴染の、粗すぎてよくわからない写真を眺める。背の高いダンデの傍らに立つ、いかにもセレブといった豪奢な女性の横顔は、うっとりとした笑みを浮かべて彼を見上げていた。
 チャンピオンを降りてからのダンデは、時折こうした記事でネットを賑わせる。とはいえ、大方は誰の目にも明らかなフェイク記事で、おおきな話題にはならない。
 そもそも、エンターテイメントの世界を降りた企業人ダンデにとって、多少のゴシップはむしろ歓迎される。女優やモデル、影響力のある特権階級の女性たちとの交流は、ガラルの英雄の男ぶりを上げるちょうどいいアクセントだ。
 もちろんそれは、常識的な範囲での艶話であって、奔放な女性遍歴などのマイナスイメージになると話は違う。
 けれど、ゴシップを作る側も心得たもので、そこは決して虎の尾は踏まず、断定表現や法に触れる捏造は避け、あくまでも『噂話にすぎない』という体での逃げ道を確保している。
 そんな、いかにも胡散臭いゴシップサイト【Galar Insight…通称GI】が、このところのソニアの閲覧履歴を席巻していた。
「……ご令嬢、かぁ」
 確か先月は、スーパーモデルとの会食だった。今期のバトルタワーのイメージモデルとして起用された彼女は、ポケモンバトルの腕もそこそこと評判で、お忍びでバトルタワーに挑んだ縁が取りざたされていた。それが事実かどうかはわからないけれど、確かにそのころのダンデはよく彼女の話題を口にしていた。
 そんなことを思い出しながら、ソニアは茶葉を丁寧に蒸らす。慣れ親しんだ作業は、こころここにあらずの状態でも正確だった。
砂時計をひっくり返し、さらさらと落ちるそれを見つめながら、ここしばらくの疲労によどんだエメラルドグリーンの瞳を細める。
 ソニアが正式にポケモン博士に任じられてから、再来月で丸三年が経つ。その間、彼女は今回と合わせて三冊の著作を発表し、ガラルポケモンの歴史研究家として盤石の地位を築いていた。ガラル外での評価も高く、マグノリアの後継者として、押しも押されもせぬ存在になっている。
 そして、伝説の元チャンピオンダンデは、バトルタワーオーナーとして、いまなお燦然と輝いている。ガラルスタートーナメントという、空前のポケモンバトル興行を成功させ、時代の風雲児と謳われた前代リーグ委員長ローズの手腕にも匹敵する好景気を生み出した、まさにガラルをけん引する企業人となった。
 そんな華々しい功績を手にしたふたりは、ずっとお互いを高め合うライバルで、誇らしい幼馴染同士として付き合いを続けていた。
 そして、瞬く間に三年が経った、というわけである。
「……おっと」
 はっと目を上げると、砂時計の砂が落ちきるところだった。ソニアは丁寧にティーポットを傾け、飴色の紅茶をカップに注ぐ。芳醇な香りにうっとりとなり、満足そうに瞳を閉じた。
「よし、終わり!」
 その時、ちょうどいいタイミングでホップが声を上げた。背伸びをしながら唸る彼のもとへ、ソニアは淹れたての紅茶とお茶請けのクッキーをトレイに乗せて近づく。
「お疲れ。さー、一服しよ」
「サンキューソニア!」
 嬉しそうにニカッと笑って、ホップがいそいそと雑談テーブルにやってくる。無心にクッキーを頬張り、紅茶を飲む弟分を満足げに見やって、ソニアは改めてほほ笑んだ。
「ほんと、ありがとね、ホップ。あんたの協力があったから、なんとか締切守れたよ。アカデミアの試験期間にかぶってたのに、無茶させちゃってごめんね」
「それは別に大丈夫だぞ。試験に影響ないようにソニアがスケジュール管理してくれたし、そもそも試験前に慌てるようなやわな勉強はしてないしな」
 悪戯っぽく言って、ニッと笑う。大言壮語ではないホップの実力を知っているソニアは、それでも師匠らしくツンと顎を上向かせた。
「いかんいかん、油断は禁物だよ、弟子クン。来期の留学枠にエントリーできるかは、今期の成績もかなり影響するんだからね」
「わかってる。いまのとこ問題なしだぞ」
「おぉ~。ま、あんたなら大丈夫か」
 なんだかんだ言って、優秀な弟子は誇らしいものだ。ソニアとホップが顔を見合わせて笑ったと同時に、ロトムが再び《ぴこん》と間の抜けた通知音を響かせた。
「……」
 とたんに、ソニアの表情がひきつる。せめてホップがいる間くらい、通知音を切っておけばよかったと思っても後の祭りで、隠しきれない動揺を見せた彼女に、紅茶のカップを傾けながら、ホップはなんでもないように言った。
「今度はどんなゴシップだ?」
「えっ?」
「アニキのニュースの通知だろ?」
 聡い弟分は、ソニアの顔色からすべてを読み取ったといわんばかりに断言する。ソニアはぐっと言葉に詰まり、それからへなへなと肩を落とした。
「……なぁんでわかるの~」
「いや……ソニア、かなりわかりやすいし」
「そ、そんなことないでしょ!?」
「アニキ関連は、わりと駄々モレだぞ……少なくとも、オレには」
「ぐぅ~」
 断言するホップは、ダンデとソニアのつかず離れずな半生をつぶさに観察している。とっておきの頭脳と、同年代と比べても余りあるデリカシーを備えた少年から見れば、兄貴と姉貴分の不器用な両片思いなど、一目瞭然だ。
 特にソニアの方は、ようやく軌道に乗り始めた博士業がこころに余裕を産み、いままでわきに追いやっていたダンデへの恋心を、改めて引っ張り出してきた過程まで丸見えだ。彼女自身は上手に隠せていると思っているのがまた間抜けで可愛い。
 そういうわけで、馬に蹴られたくはないけどな、と思いながらも、ついつい口を出したくなるホップなのだった。
「アニキのゴシップなんて、見たって面白いもんじゃないだろ。なんでチェックするんだ?」
 もっともなホップの問いかけに、ソニアは一瞬ごまかそうかと知恵を巡らせてから、ここ数日の激務のせいで回らない頭に観念して、ぼそぼそと答えた。
「だって……いつか、本命が現れて、ニュースになるかもしれないじゃん……」
「あー。ないぞ」
「なんで言い切れるのよ」
「いやー」
 ダンデの本命が誰かなんて、多分ハロンタウンの人間なら、子供だって知っている。ブラッシータウンでだって、暗黙の了解事だろう。知らないのは、ソニアだけだ。
 大体、チャンピオン時代からいまに至るまで、分刻みのスケジュールをなんとかやりくりしながら、片道二時間半もかけて会いに来る目的を、よもや自分のためだと自覚できないあたりがソニアのソニアたる所以だ。ポケモンの論文だの伝説だのにしか興味がないと思わせているダンデの言動も問題といえばいえるけど。
 そんな恋愛音痴な有名人たちを、ガラルの片田舎では、町を挙げて応援している。無事に大願成就した暁には、クリスマスよりも盛大に祝われるだろうことは、この時点ではソニアは知らなくてもいいことだ。
 それ以上なにも言うつもりがないらしいホップをじろりとナナメに睨みながら、ソニアは素直にため息をつく。今更、この弟分に見栄を張ったところで無駄な話だ。
「……なんかさ、最近ダンデくん変じゃん」
「変?」
 抽象的な言葉に、ホップがきょとんとする。ソニアは少しばかりクマの浮いた目元を細めて、か弱い溜息をついた。
「ここ半年くらいかなぁ……スタートーナメントが成功して、軌道に乗り始めたあたりから、なんか、こころここにあらずっていうか。研究所に来ても、ぼーっとしてるし……疲れてんのかな、って思ったけども、仕事の話になると元気いいし」
「ふむ」
「でさ、最近こういうゴシップ記事が載ると、連絡してきたりして……急にだよ? いままで気にもしてなかったくせにさ」
「ああ……」
 しばし思案したホップは、実兄のこころの動きを想像してちいさく頷いた。
 幼い頃から長い間、ソニアに対してはっきりとした意思表示を見せなかったダンデだが、最近になって変化が見え始めている。ガラルスタートーナメントという一大興行を成功させ、チャンピオン時代とは違う、ある種の自己実現を果たした彼が、人間として男として、かつてないほどの自信を得たことは想像に難くない。
 そこでようやく、長年温めていた幼馴染との恋を前に進めようと、慣れないアプローチを始めたらしい。
 研究所に来てぼーっとしているのは、どうやってソニアを口説くか、作戦を練っているのだろう。
 仕事の話に乗ってくるのは、ソニアに対して成功した男だとアピールし、求愛の精度を上げるため。
 ゴシップ記事が載るたびにフォローをするのは、恋する男として当然の危機管理で、なにをかいわんや。
 こうしてみれば、なんとわかりやすい求愛だろう。人生の大半を、ポケモンとバトルに捧げ尽くした男の行動理念は、常に目標に向かって邁進するのみ。いまのところ全く伝わっていないようだが、遅かれ早かれ勝負は決まる。
 ダンデに愛されている、そのことにすらいまだに気づいていない時点で、ソニアの敗北は目に見えていた。
「――だからさ、多分、どこかに本命がいて、それがゴシップになるのを気にしてるんじゃないかな」
「ん?」
 いつの間にか、ソニアの理論がだいぶぶっ飛んでいる。ホップが慌てて意識を集中させると、ソニアはいかにも賢そうな研究者の眼差しで続けた。
「研究所に頻繁に来ては、こころここにあらずって感じなのは、本命にどうアプローチするか迷ってるからで。仕事の話で元気になるのは、本命に対して自信がついたからで。ゴシップ記事が載るたび連絡してくるのは、第三者の目から見て、本命に誤解されない程度の記事かどうか確認するため、とかさ……」
「あぁ~……」
 ほとんど正解である。その『本命』が自分だということにはかすりもせずに、ここまで整然とダンデを解明してしまうあたり、やはり幼馴染の歴史は伊達じゃない。
 これはさすがに助け舟を出した方がいいか? いや、今更余計な口出しをするのもなあ……と、ホップが唸っている傍らで、ソニアはか細くため息をつく。
「……はぁ。そのうち嬉しそうに結婚報告とかされちゃうのかなぁ……」
「……」
 本人は真剣に悩んでいるらしいのだが、ホップはさすがに馬鹿馬鹿しくなった。これほどわかりやすく両片思いを募らせているのだから、ほんの些細なきっかけで、あっという間に出来上がるだろう。下手に口出しして、馬に蹴られるのはごめんだな、と、さっさと紅茶を飲みほした。
「じゃ、オレそろそろ帰るぞ」
「えっもう?」
「ダブルチェックは終わってるから、データはそのままで大丈夫だぞ。万が一なにかあったらすぐ連絡してくれ」
 言いながら、ホップが荷物をひっつかむ。二日間研究所に缶詰だったので、若干よれよれの見てくれとは裏腹に、表情はどこか嬉しそうだった。
 ピンときたソニアが、にまりと瞳を弓なりにする。
「あ、そっかー。ユウリと約束あるんだったよね?」
「えっ? なんで知って……」
 反射的に言って、ホップはパクリと口を閉ざす。小悪魔のように笑うソニアを軽く睨んで、赤くなったほほのまま踵を返した。
「わかってるなら、もう行くぞ!」
「行ってらっしゃ~い。あ、お風呂は入っていきなよ、不潔な男はモテないぞ~」
 返答は、若干乱暴に閉ざされた研究所の扉で返された。からんころんとベルの余韻が響く中、ソニアはくつくつと笑う。
 研究所助手とアカデミア特待生という、過酷な二足の草鞋を履きながらも、ホップは常に多忙なチャンピオンであるユウリとの時間を大切にしていた。傍から見れば微笑ましいくらいに、淡い初恋を繊細に守り続ける一途なふたりを見守りながら、ソニアは遠い昔を思い出す。
 同じような境遇だったダンデとは、あんなふうにはなれなかったな。
 ダンデの眩しさに焼かれまいと、いま思えば幼い恋心をすべて燃料に溶かして、ソニアは学問の道を邁進した。偉大なるマグノリアの孫という肩書は、常にソニアの魂を食い破るべく猛威を振るう。ちょっとした気のゆるみ、怠慢や過信がすべて命取りになるような年月を経て、ようやく掴んだ博士の道。
 気の遠くなるような努力の末に、やっと隣に並び立つ自信がついたというのに、もはや時すでに遅し。さらに眩しく輝いて、ソニアの太陽はいつまでたっても手が届かない。
 はふ、とちいさくため息をついたと同時に、スマホロトムが嬉し気に叫ぶ、

《ダンデから着信ロト~!》

「……」
 最近ロトムに同期させた、ヘルスチェックがそうさせるのか、ソニアの心拍が上がることでロトムのテンションも上がる気がする。アプリを削除すること、とこころのやることリストにチェックしてから、ソニアはんん、と咳払いをして通話を命じた。
「――ハイ、ダンデくん、今日はなに」
『ようソニア、元気か?』 
 大好きな幼馴染の声が聞こえてきて、ここ数日の疲労がちょっとだけ回復した。そんな現金な自分に苦笑しながら、ソニアが言う。
「まあまあだよ。ダンデくんこそ、忙しそうだね」
 なんの気なしのつもりが、どこかで『社長令嬢との深夜の密会』が気になっているのか、ついつい含みのある声色になる。ソニアが自己嫌悪にきゅっとソーナンス顔になると、電話の向こうでダンデは屈託なく言った。
『まあな。でももう少しで時間ができそうなんだ。久しぶりにソニアのカレーを食べに行けるぜ』
「うちはカレー屋じゃないっつーの」
 憎まれ口をたたきながらも、声は正直に弾んでしまう。嬉し気にほほ笑んだソニアだったが、次の瞬間一気に現実に突き落とされた。
『ところでソニア……ネットの記事、見たか?』
 こころなしかおずおずとしたダンデの声に、ソニアはひゅっと息を飲む。それから、能面のようになった表情のまま、努めて明るい声を上げた。
「ああ、うん見たよ。また派手に書かれたね~、社長令嬢との深夜の密会、だっけ?」
『あれは、深夜でもなければ密会でもないんだ。日没早々のビジネスディナーについてきた社長の娘で、もちろん会席には他のスタッフもわんさといた』
「うんうん。だいじょうぶだよ、そんなに真剣に見ないって、誰も。だっていかにもなゴシップ記事じゃん」
 だから、本命さんも誤解はしないと思うよ。こころで付け足したソニアの耳に、スマホの向こうから窺うような声が届いた。
『……ソニアは、気にしてないか?』
「え? うん、別に?」
『そうか。ならよかった』
 その言葉に、なんらかの意図が含まれているような気がしたけれど、ソニアは敢えて深く踏み込まないように笑う。いつダンデの口から『本命』の情報が飛び出るか、最近そればかり気になって、彼との会話が少し怖かった。
「……そんなことよりさ! 今度ソニア博士が新しい本を出しますよ~、知ってる?」
『もちろんだ。実用、保存用、布教用で50冊予約したぜ』
「いや多いな!? でもありがとね、ちゃんと予定日に出版できるように頑張ったよ~。ホップもめちゃくちゃ協力してくれてさ、いまのいままで研究所に缶詰だったんだ」
 そう言って、ユウリとの約束にいそいそと去っていった可愛らしさまで披露しようとにやついたソニアに、その時ダンデの低い声音が響いた。
『――缶詰?』
「え? あ、うん、データ整理と執筆が佳境でね。いや~、ソニアさんたらスケジュール管理甘くてねぇ。ホップもさすがに見かねて、二徹に付き合ってくれたんだよ」
『二徹……二日、徹夜したのか? 研究所で? ふたりで?』
 一音ごとに、温度が下がるようなダンデの声に、さすがにソニアがぎくりとする。なんだかよくわからないままに、ダンデの逆鱗に触れたらしいことだけはひしひしと感じて、慌てて頭を回転させた。
「あっ、だいじょうぶ、ホップの勉強には影響させてないから! ちょっとだけ、試験期間にかぶりそうになったけども、それはフィールドワーク中で、そんときもちゃんと巻いて、なんとか一晩でデータ揃えたし!」
『一晩……ホップと一緒に?』
「そうだけども、めちゃめちゃ頑張ってくれて、最後は一緒にテントに缶詰になって朝イチで仕上げたんだよ。あの子の分析能力は、もしかしてわたし以上かも……」
『一緒のテントで!?』
 懸命にホップの有能さと、彼の学業の順調さをアピールしようとしていたソニアは、突然ダンデが叫んだことで、びくりと肩を震わせた。驚いて目をまるくするソニアの眼前で、ロトムはダンデの厳しい声を伝える。
『なに考えてるんだ、ソニア。いくらホップとはいえ、警戒心がないにもほどがあるぜ!』
「え? 警戒……はあ?」
 ぎょっとして目をまるくするソニアに構わず、ダンデが畳みかけるように続ける。
『ふたりきりで一晩過ごすなんて、傍から見ればどんな邪推されるかくらい、わかるだろう。少しは客観視しろ』
「邪推って……なに言ってんの、ホップはわたしにとっては弟で……」
『弟じゃないだろ』
 ダンデの正論は、しかしソニアにとっては刃のような事実だった。
 ソニアにとって、ホップは実の弟のような存在だ。それは、近しい距離や長い歴史がそう思わせる部分もあるけれど、根っこには『ダンデの弟だから』というゆるぎないものがある。
 ダンデの弟は、自分にとっても弟。幼いころからの認識は、思春期以降、ソニアにとって特別な意味を持った。
 淡いちいさな恋心。いつかホップが、自分のことを『アネキ』と呼んでくれたらいいな……ダンデの隣で、そう呼ばれる日を夢見なかったとは言えない。
 そんなソニアの内心など、当然つゆとも知らないダンデは、当たり前の正論として再び念を押す。
『弟じゃないんだ、ソニア。ホップは一人前の男で、きみがいくら姉のように接していても、世間はそうは見ない』
「……」
『火のないところに煙は立たないんだ。日頃から自覚して、適切な距離を取るようにしないと……』
 ダンデが諭すように言葉を募る。けれども、それに素直に頷くことは、いまのソニアには難しい。
 ダンデの言い分の、大部分は正しいとわかってる。でも。
「……そんなこと言って、自分だって危機管理なってないじゃん!」
 たまりかねたように叫ぶソニアに、スマホの向こうでダンデが息を飲む。ソニアは、寝不足の頭で止まらない憤りを、妙に冷静に俯瞰して見ていた。
「なんで、ダンデくんにそんなこと言われなきゃいけないの? わたしとホップは、ただのきょうだいじゃん! ダンデくんだって知ってるくせに!」
『オレはわかってる、だが世間が』
「世間だって、そんな変なふうに見ないよ! ダンデくんが噂になるのだって、別に本当のことばっかじゃないでしょ?」
『オレの話とは違うだろう』
「違うの? じゃあ、ダンデくんのゴシップは、全部本当なんだ」
『そうじゃない、ソニア、落ち着け』
「落ち着いてます。ダンデくんは、火のないところに煙は立たないって思うんでしょ? じゃあ、思いっきり煙を立たせてる自分は、事実ってことじゃん。警戒してないから、すっぱ抜かれるってことでしょ!」
『ソニア!』
 興奮した彼女を諫めるように、ダンデが鋭い声を上げる。けれどもソニアは、もうすぐ零れ落ちてしまう涙を必死に堪えようと、声が震えてしまう前に早口で言った。
「もういいよ、しばらくダンデくんとは会いたくない、カレーも作らないからね!」
 同時に、ロトムを掴んでぶつりと通話を終わらせる。命じられる前に強制終了されたロトムが、困ったように点滅した。
「……ごめんね」
 涙声で言って、ソニアがロトムをそっと撫でる。
 塩辛い味が、ソニアのこころを苛んでいた。



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