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【探偵は夜も眠れず】(未完)《新一×蘭@名探偵コナン》
2026/03/17 21:04工藤新一は探偵である。
幼い時から優秀な頭脳と類稀な推理力を持ち、一般的に名を知られるようになった探偵デビューの事件は、高校一年生の春という、誰もが驚く華々しい経歴の持ち主でもある。
彼が高校二年に進級した直後、ふつりと表舞台から姿を消した時期もあったが、無責任な世間が彼の名を忘れかけた頃、再び鮮烈な印象で難事件を解決し、以降は迷宮無しの名探偵の名をほしいままにしていた。
そしてこの春、生き急ぐように名を上げる名探偵は、世間と同様に高校三年生に進級したのである。
これはその、桜の時期のお話。
***
「ふぁ~~あ」
爽やかな朝に似つかわしくない、おおきな欠伸。顎が外れそうなほどのそれに、連動して浮かぶ涙で目をしょぼしょぼさせながら、黄色い太陽の下、よろよろと家の鍵を施錠する。
巷では、推理の貴公子だの迷宮無しのハンサム・ガイだの、冗談のような呼び名でマスコミの寵児と化している青年は、恐らく彼の活躍に黄色い声援を上げる手合いには永遠に見せられないだろう寝惚けた表情で、くるりと瀟洒な玄関道を振り返った。
その道の先にある、一般家屋には不似合いなほど厳めしい門扉には、こちらに背を向ける健康的な後ろ姿がある。長い髪を風に揺らし、手首に巻いた時計の針を確認するように、ちょっと小首を傾げていた。
「うーっす」
カシャン、と音を立てて門扉を開くと、振り返った白い顔が瞬く間に柳眉を寄せる。
「ちょっと! なによその寝惚けた顔。シャンとしてよね、もう」
「うっせーな。事件の始末で帰ってきたの遅かったんだよ。眠てーんだからしゃーねーだろ」
「しゃーなくない。事件に駆り出されるのは新一の意志で、それと登校義務との間にはなんの関係もありません」
「登校してんじゃねーか、ちゃんと。まじめに」
「朝は爽やかに登校するものよ。それにほら、ネクタイ曲がってる! あーもう、パンのカスまでつけて、子供みたい!」
そう言いながら、甲斐甲斐しい新妻のように手を伸ばす蘭に、新一は不満そうに半眼になりながらも、決してその手を払いのけようとはしない。子供っぽい独占欲との自覚には乏しいが、この愛しい幼馴染兼恋人の目と手がこちらを向いていることに、無条件の喜びを感じる習性が彼にはあった。
細くしなやかな指先が、瞬く間にきちんとネクタイを正し、食べカスを払う。それからもう一度、黒目がちのおおきな瞳でじっくりと彼を検分すると、満足そうに笑って頷いた。
「うん、よし。これならまぁ、いいでしょう」
「そーかよ」
「さ、行くわよ新一。新学期早々遅刻じゃかっこつかないわ」
「へいへい」
怠惰に答えながらも、いつものように彼女の傍ら、幼馴染の距離よりも半歩分ほど近い場所に立ち、歩き出す。肩が触れ合うほどのその距離に、ここ数カ月でようやく少し、慣れてきた。
春の朝、眩しいほどの輝きを弾く蘭の黒髪が、ひと房ふわりと風に踊ると、彼女の愛用のシャンプーの香りが、柔らかく鼻腔をくすぐる。その、なんてことのない日常のひとこまが、時々息苦しいほど幸せに感じるのは、この先しばらく続くであろう、ある種のトラウマかもしれない。
そんなことをぼんやり感じながら歩く途中、隣家の門前に見慣れた白いものを見つけた。
「よう、宮野」
相変わらず気だるげな、独特の雰囲気を持つ美貌の科学者は、すらりとした肢体に眩しいほど白い白衣をまとって、こちらを眺めている。冷たく感じるほどうつくしい切れ長の瞳は、呆れたような、小馬鹿にしたような、どちらにせよあまり友好的ではない光を浮かべていた。
「おはよう、志保さん」
傍らの蘭が明るく言うのに、血圧の低そうな声で「おはよう」と返し、数か月前まで「灰原哀」と名乗っていた美女は、そのしなやかな手を新一の方へ伸ばした。
「工藤君。これ」
「ん? あぁ、ワリーな」
ごく簡単なやり取りの後、新一の手に渡ったカプセルのようなものを見て、蘭が目を瞬かせる。
「なに、それ?」
「栄養剤だよ。ここんとこ、ちょっとダリーから宮野に相談して、調合してもらってんだ」
「ダリーから……って、大丈夫なの? ちゃんと病院に行って診てもらったら……」
途端に心配性の面を見せる蘭に、新一はしまった、とばかりに顔をしかめ、無意識に救いを求めるように志保を見た。志保はその視線に、ますます冷たく眉を上げ、ふう、とため息をつく。
「工藤君の健康状態は、データ化してきちんと管理しているから、大丈夫よ。解毒剤の影響下にある被験者を、一般の病院で診察させるわけにはいかないの」
「あ……そっか。そうだよね……」
志保の淡々とした言葉に、蘭が慌てて頷く。新一の健康状態を、誰よりも正確に、責任もって把握しているのがこのうつくしい女性なのだと、理解していても出てきてしまう心配症を、自嘲するように苦笑した。
「……ところで、あなたたち時間は大丈夫なの?」
「えっ、あ、大変! 新一、走らないと遅刻するわよ」
志保の言葉に、蘭は腕時計を確かめて慌てて叫ぶ。面倒くさそうに眉をしかめた新一の腕を、問答無用で掴むが早いか、蘭は足早に駆けだした。
「行ってきます、志保さん!」
慌ただしい出発にも拘らず、蘭は大きな声で志保を振り返り、志保は退屈そうに門扉に寄りかかりながら、白い手を軽く振って見送った。
***
「新一、カプセルは?」
「んあ?」
昼休み。前日に予告していた通り、今日は蘭の手作り弁当の日だったので、新一は二時間も前からそわそわと楽しみにしていた。今更蘭の手作りの料理が珍しいわけではないが、完璧に自分好みの味付け(というよりはむしろ、蘭の手料理の味に、新一の全細胞が慣れ切っている)の料理は、三日も口にしないと禁断症状が出るほど、新一にとって不可欠なものとなっている。
教室で広げるのはちょっと恥ずかしいので、人目につかない中庭の木陰のベンチに座り、ピクニックさながらに広げられたとりどりのおかずに目を輝かせていた新一は、問われた単語を理解できず、一瞬本気で首を傾げてから、ああ、と呟いた。
「カプセルって、今朝のか?」
「うん。もう飲んだ?」
「いや、まだだよ。なんで?」
「それっていつ服用するの? 食前? 食間? 食後?」
「え? あー……えーと、いつだっけ……」
「もう! ちゃんと聞かなきゃダメじゃないの」
きゅっと眉を寄せて、蘭が新一の手におしぼりを押しつけながら、制服のポケットを探る。取り出した携帯電話を操作しようとする彼女に、新一が目を丸くした。
「おい、まさか宮野に電話するわけ?」
「そーよ。折角調合してくれた薬なんだから、きちんと用法用量を守らないと、申し訳ないじゃない」
「いいって、そんなの。確か、食後だったと思う。てか、食後、絶対食後だよ」
生真面目な蘭の行動に、面倒くささ半分、申し訳なさ半分で、新一が言う。その返答に、蘭は半眼を閉じて胡散臭そうに彼を見た。
「ほんと~?」
「ホントだって。な、もういいだろ、早く食わせてくれよ、腹減ってんだよ」
お預けをくらった犬のように、目前の弁当に目を向ける新一に、蘭は軽く溜息をついて箸を差し出す。途端に、かつかつと猛烈な勢いで食べ始めた様子を眺めて、蘭はようやく微笑を浮かべた。
「……もう、普段なに食べてるのよ。ちゃんと自分で健康管理しなきゃダメよ」
「わかってるよ。……ダリーっていうのは、睡眠不足とか、そういう不摂生がたたってるだけだから。宮野に言えば、よく効く栄養剤がすぐ出るし、心配いらねーって」
自分の体調や健康のことで、これ以上蘭に心配をかけるのは忍びなく、新一が努めて明るくそう言うと、蘭はわずかに考え込むように唇を閉ざした後、軽く肩を竦めた。
「まったく……。不摂生は万病のもと、ってこと、知らないのかしらね、名探偵さんは」
「わーってるって。おっ、この唐揚げウメーな」
軽く答えて、新一がサクッとあがった唐揚げを口にしながら目をキラキラとさせる。そんな子供っぽい表情を、蘭は母親のように穏やかな表情で見守りながら、暖かいお茶をカップに注いだ。
「あーらお二人さん、こんなところでラブラブランチ?」
不意に、心地よく風の通っていた木陰に、明るい闖入者が現れた。絶妙な塩加減のおにぎりを頬張っていた新一が、途端に不機嫌そうに半眼を閉じる。その反応はもはや条件反射のようなもので、もちろんそんな冷遇に今更毛筋ほども動じない闖入者は、新一とは反対側の蘭の隣にストンと腰を下ろした。
「こんなに美味しい愛妻弁当を一人占めなんて、新一君ってば果報者よねぇ」
「うっせーな。食うんじゃねーよ」
ひょいと摘まんだ唐揚げを咀嚼しながら、財閥令嬢とは信じがたいほどのお行儀でにやりと笑う園子に、新一が低く唸る。縄張りを荒らされた犬のような反応に、園子はにやにやとさらに笑みを浮かべた。
「いいじゃなーい。蘭は新一君だけのものじゃないんだからね」
「バーロ、俺は別に……」
「ハイハイ、いいから新一は口元のご飯粒とりなさいよ。園子、なにか用だったんでしょ?」
二人のじゃれ合いを軽くいなして、蘭が園子に問いかけると、園子は明るい色の瞳をくるりと回した。
「そーうよー。この園子さまが、直々に伝書鳩になってあげたんだから、感謝してよねあんたたち」
「え?」
「昼休みの、二人っきりの憩いの時間、邪魔しに来られるツワモノなんて、この学校にはいないんだから。みーんなあたしを頼ってくるのよーもー」
言いながら、園子が大げさに溜息をつくと、蘭は怒ったように頬を染める。
「あのねー。二人っきりって、別に、ここは中庭で、周りに生徒だってたくさんいるじゃないの」
「わかってないわねー。あんたたちが二人でいると、周囲半径10メートルに、確実にバリアが張られんのよ。ラブラブバリアがね」
「もー、馬鹿言ってないで、用件はなに!」
照れ隠しに怒ってみせる蘭の顔は真っ赤で、それを横目に見ながら名探偵はわりとご満悦だった。ここで蘭をからかってやるのも楽しいが、園子に尻馬に乗られると、結局こっちの旗色も悪くなるので、新一は無言のままむしゃむしゃと咀嚼を続ける。
「ああ、そうだった。空手部のことで、蘭にお客さんが来てるわよ。教室で待ってるって」
「え? あ、いけない、ミーティングの約束だった!」
パッと目を見開いて、蘭が慌てて立ち上がる。ひととおり食べ終えたお弁当箱を片付けようとするのを、新一が止めた。
「いーって、俺やっとくから、早く行けよ」
「ホント? ありがと、じゃあお願いね! 園子、伝言ありがとっ」
パッと明るく微笑んで、蘭がパタパタと走り出す。その後ろ姿を見送りながら、暖かいお茶をすすっている新一に、園子がジト目を向けた。
「ホントーに……あんたって果報者よ、新一君」
「なんだよ」
急にしみじみ言われて、その言葉には全面的に頷けるけれど、素直にそう返すのも癪なので、新一は不機嫌そうに唸る。
園子は存外真面目な顔つきで、新一を見つめた。
「蘭は昔から優しいし、なんでも器用にこなす家庭人だし、面倒見がいい世話焼き女房タイプだから、本人楽しんでやってるんだけど。だからって、新一君が恵まれてることに変わりはないんだからね。蘭を……大事にしなきゃダメよ」
その言葉に、新一は思わず目を丸くした。蘭の無二の親友が、真剣な表情でこんなことを言ってくるのは……相当不穏な雰囲気だ。
「大事に……してるつもりだぜ? 俺なりに」
静かに答えると、園子はぱっと眉を上げ、申し訳なさそうに苦笑する。
「うん、わかってる。くっついてからこっち、開き直って蘭馬鹿を自覚してるのも知ってる」
「おい、なんだそれ……」
あまりの言われように、耳たぶを赤くしながら新一が唸る。園子はなんだかんだと言いながらも、付き合いの長い友人らしく、歯に衣着せぬ物言いの中にも、柔らかな理解を織り交ぜて言った。
「新一君の気持ちは、わりとわかりやすいし、心配してないのよ。ただ、蘭がね……」
「は?」
言い淀む園子に、新一が鋭い視線を向ける。蘭のことで、なにか心配なことでもあるのだろうか。一気に空気が張り詰めた瞬間、園子はぱっと表情を変えて笑った。
「まー、それも心配ないか。なんだかんだ言って、あんたたちってホント、オシドリ夫婦だもんね」
「おい……なんだよ、言いかけてやめんなよ」
こちらが気になる素振りを見せるほど、調子に乗って意地悪をする園子の性質をわかっていながらも、こと『蘭』に関することならば、多少不愉快な思いをしても、探りを入れずにはいられない。新一が本格的に園子に詰め寄ろうとした瞬間、彼のポケットから機械音が流れ出た。
着信を確認すると、意外な人物の名前。通話ボタンを押し、園子からわずかに距離をとった。
「もしもし、宮野?」
<お昼休みにごめんなさい>
「いや、いいよ。どうした?」
<昨夜あなたから依頼された解析データを、警視庁に送ったわ。折り返しそちらに連絡が行くかもしれないけど……端的に言えば、黒ね>
「そうか。わかった、サンキュー」
<……それと。栄養剤は服用したのかしら?>
「あ……今、飲むとこ」
<食後よ。わかってるでしょうけど>
「わーってるよ」
<どうだか……どうせ、蘭さんから言われないうちは、忘れていたんでしょう?>
「は? なんでオメーそれ……」
<まったく。いつまでたっても手のかかる人ね、工藤君。蘭さんの苦労が偲ばれるわ>
「あのなー。オメーまでンなこと……」
<じゃあね>
一方的に通話が切れて、新一が憮然と携帯電話を睨んでいると、傍らで聞くとはなしに会話を聞いていた園子が、ふうん、と嫌な音階で相槌を打った。
「今の、志保さん?」
「ん、ああ」
答えながら、新一は胸ポケットからカプセルの包みを取り出す。手にしたお茶は冷めているけれど、薬類は水で飲みなさいよ、という蘭の教えが頭をよぎり、再びポケットにねじ込んだ。
「すっかりあんたの助手ねぇ、彼女」
手早く弁当を片付ける新一に、園子が言う。その言い方に、なんとなく突っかかるものを感じて眼差しを上げると、園子は胸の前で腕を組みながらしかめ面をしていた。
「なんだよ、その顔。つーか、宮野は助手じゃねーよ」
「あら、じゃあなによ」
「相棒……つーか、片腕、みたいなもんかな」
共に死線を潜り抜け、普通の人間が味わうことのないような境遇を共有した仲間意識は強く、無事に組織を壊滅させ、元の身体を取り戻した今も、志保は新一にとって頼りになる存在だった。解毒剤の後遺症を調査する名目で、変わらず阿笠邸に身を寄せながら、公私共に新一をバックアップしてくれる志保への信頼は強く、ある意味運命共同体のような連帯感が未だに根深く残っている。
そんな意識が言わせた言葉に、園子はますます不機嫌そうに眉を寄せた。
「ふーん。相棒ねえ……」
「だから、なんだよ」
「べつにー。蘭も大変だなーって思っただけよ」
「は?」
なんでそこで蘭が……といぶかしんだ新一の携帯電話が、再び着信音を奏でた。予想通り、見慣れた警視庁からの着信で、新一が電話を耳に当てると同時に、園子がひらりと手を振って踵を返す。
「じゃあねー名探偵。ヘマすんじゃないぞ」
「……はい、工藤です」
甚だ不愉快な掛け声に、むっと顔をしかめながらも、新一はとりあえず意識を回線の向こうへと集中させた。
園子の言う『ヘマ』が、事件のことなのか、それとも他のなにかなのか、だから永遠にわからずじまいだった。
***
「宮野、悪いけどまた頼む」
「……あのねえ」
阿笠邸に我が物顔で乗り込んできた青年に、美貌の科学者は整っているからこそ迫力のある強烈なしかめ面を向けた。
「工藤君、私、いつからあなたの助手になったのよ」
「助手じゃねーって……」
「相棒だかなんだか、言葉はどーでもいいのよ。とにかく、こんな風に昼夜問わず人をこき使うなんて、あなた……」
「わりー。でも、他の誰よりオメーに頼むのが一番正確なんだよ」
「……」
新一の言葉に、志保は続く言葉を呑みこむように唇を閉ざし、深く溜息をつく。
「……仕方ないわね。それで? 今度はなに」
「サンキュ。もらった解析データに加えてほしいもんがあって……」
マシンガンのように口早に指示を出す新一の傍らで、愛用のPCを魔法のように正確に操る志保は、その後数時間ほどかけて彼の望む答えを導き出した。その結果を新一が電話でどこかに報告していると、家主の男がのんびりとやって来る。
「なんじゃ、新一君。来ていたのか」
「博士、お風呂上がったの?」
「おお、志保君も入りなさい。長時間のPCは疲れるじゃろう」
「そうね……」
時計を見ると、深夜に近い。こんな時間に突然家に押しかけてきて、やりたいように引っかき回す名探偵を呆れたように眺めやって、志保は博士の勧めに従うことにした。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
するりと椅子を降りた志保は、ソファに座りながら資料を繰り、電話の向こうに的確な指示を出す真剣な横顔を眺めてから、呆れたように苦笑して、風呂場へと向かった。
それから約一時間後、湯上りのしっとりとした肌にシルクのパジャマを着て、リビングにやって来た志保は、未だに電話中の名探偵を見つけて真剣に呆れてしまった。
「まだいたの……」
光沢のあるパールホワイトのパジャマで腕を組み、半眼を閉じて溜息をつく志保に気付き、新一が目を上げる。通話を続けながら手招きすると、資料のグラフにトントン、と指を突きつけて拝む真似をした。
「……この貸しは高いわよ、工藤君」
諦めたように言って、志保は再びPCに向かった。新一の対面のソファには、付き合い切れないとばかりに背もたれに体重を預けて、いびきをかき始めた博士が座っている。彼の体をベッドに運ぶのは勿論無理だから、ブランケットをかけてやってから、志保は改めてPCに向かった。
結局、新一が何度か資料をひっくり返し、数え切れないほどの電話をかけ、頭が痛くなるほどの指示を出し、ようやく納得のいく答えを見つけた時には、もう夜は白々と明けていた。
「……はい。よろしくお願いします。失礼します、警部」
通話を終えた新一が、電話をぽとりと手放して、ソファの背もたれに身を預ける。さすがに疲労がピークに達し、凝り固まった肩を揉み解すように腕を上げて唸った。
「あ~~~疲れた……」
「……こっちはその倍疲れたわよ」
PC用の眼鏡を外し、瑞々しい肌に徹夜の疲労を浮かべても鑑賞に堪える美貌を歪めて、志保が言う。本格的に機嫌を損ねているらしく、米神に青い静脈を浮き上がらせている彼女に向かって、新一は慌てて手を合わせた。
「ワリーワリー。でも助かったぜ。さすが宮野、仕事早いな」
「誰かさんが馬に鞭打つようにこき使うからでしょ。言っておくけど、二度とこんな無茶苦茶しないからね」
「そう言うなって。なんかお礼すっからさ」
「当り前よ。博士にもちゃんと誠意を見せなさいよ」
ようやく少し機嫌を直したのか、志保は言いながら立ちあがって、PCの電源を落とした。それから自室へ向かうべく、小さな欠伸を噛み殺しながら歩く途中で、ぐったりとソファの背もたれにもたれかかる新一に問いかける。
「ところで……カプセルは飲んだのかしら」
「……え?」
少し遅れて反応した新一が、しまった、とばかりに胸ポケットへ手を伸ばすのを、志保は呆れたような、怒ったような眼差しで射抜く。
「……ホントにあなたって人は……」
「わ、ワリーワリー。うっかりしてたぜ……」
「今度から、あなたへの薬は全部、蘭さんに預けるわ。彼女の方が、ちゃんとあなたの健康管理をしてくれるでしょうからね」
「……かもなー」
反論することもなく、こくんと頷く新一を見やって、志保は毒気が抜けたように目を瞬かせた。それから、本当に草臥れたように重い溜息をつき、首を振り振り自室へ向かう。
それを見送ることもなく、再びソファに突っ伏した新一は、次に気づいた時、時計の針を指し示しながら喚く博士を、目と鼻の先に見つけて慄いた。
「新一! 時間じゃぞ、起きろ!」
「うわっ、びっくりした! なんだよ博士、驚かせんじゃねーよ」
「なにを言っとるか。今日も学校なんじゃろ? 早く支度せんと、遅刻じゃぞ」
「えっ、うわ、やべえ!」
飛び上るように身を起こし、テーブルいっぱいに広げた資料をあたふたとかき集めてから、新一は阿笠邸の玄関へと駆けだした。二日続けて睡眠時間を削った代償に、玄関を開けた瞬間飛び込んできた太陽の光はまさに凶器のように強烈で、フラフラと貧血を起こしそうになる身体を叱咤しながら、なんとか自宅へと向かう。
身支度を整えて、朝食を摂って、昨日貰った栄養剤を飲んで……と、頭の中で段取りを組んでいると、朝の光の中自宅の門扉の前に立つすらりとした姿を見つけて、驚くと同時に無条件に胸が躍った。
「蘭?」
「新一?」
いままさに、門前のインターフォンを押さんとしていた格好で、蘭が振り返る。思いもよらない方向からやってきた幼馴染兼恋人に、蘭はぱちくりと目を丸くした。
「どうしたの、新一、こんな朝から……」
蘭の疑問に答えようとした瞬間、後ろから「工藤君」と呼ばれて振り返った。
阿笠邸から出て来た志保は、昨夜と同じ光沢のあるシルクのパジャマにカーディガンという出で立ちで、手にした小瓶をさし出しながらこちらへやって来る。
「昨日のカプセルと同じ効能だけど、こっちの方が即効性があるわ。さっさとこれ飲んで……」
言いながら、新一の影になっていた蘭にようやく気付き、志保の歩みが止まった。
「あら……」
「おはよう、志保さん」
微笑んで挨拶する蘭に、志保も苦笑を浮かべる。
「おはよう、蘭さん」
「新一、昨日はそちらに?」
「ええ……」
「お疲れさまでした」
労わるように言って、蘭が頭を下げる。顔を上げると、新一に向って言った。
「新一、私先に学校行くわね」
「えっ」
「はい、これ」
手にしていた大きな包みを新一に押し付けて、蘭はじっと新一を見つめる。
「どうせ朝ちゃんと食べないだろうと思って、朝食の残りを詰めてきたの。時間があるなら食べて行って。それから、今日は昼休み用事があるから、お弁当はなしね」
ぽんぽんと飛び出る蘭の言葉を、寝不足の頭がわずかなインターバルを置いて脳に伝えると、新一の返事を聞く前にするりと脇を通り過ぎた蘭が、昨日と同じ場所でこちらを見送る志保に「行ってきます」と声をかけた。
「行ってらっしゃい」
白い手を振り合うと、蘭は早足で道を進んでいく。新一はその後ろ姿を見送って、呆然と呟いた。
「……用事ってなんだよ?」
「……聞くのが遅いんじゃない? 名探偵」
冷やかな突っ込みに、新一がのろのろと目を上げる。捨てられた子犬のような彼の様子を、志保は呆れたように眺めていた。
「蘭さんだって忙しいんだし、そうそうあなたにばかり構ってはいられないんでしょ」
「……バーロ。俺は別に……」
反論しながらも、寝不足の身体にそれ以上の虚勢は張れず、常になく素直に落胆を見せる新一を横目で見やって、志保は肩を竦めた。
「それはそうと……ちゃんとフォローはしておいた方がいいんじゃない?」
「フォロー?」
のろのろと顔を上げる新一に、志保はそれ以上言葉を重ねることなく、じゃあね、と阿笠邸へ戻っていった。
手にした包みの重さと、黄色い太陽光線と、去っていった蘭の後ろ姿と、三つのパンチに打ちのめされて、新一は珍しくもそれ以上の思索を続けることなく、足を引きずるように自宅への道を進んだ。
(以上未完)
