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【諦めましたよ どう諦めた 諦められぬと諦めた】《安道全と公孫勝さらに林冲》
2026/03/16 20:08【お題】他
「はっきり言ってくれ、安道全。私の病は治るのか」
相変わらずの無表情で、淡々と問う男の正面で、神医と呼ばれる医学の寵児は、渋い表情を隠しもしなかった。
「諦めろ、公孫勝。手の施しようがない」
突き放すような言葉は残酷で、およそ医者と呼ばれる立場にある者がこれほど惨く言い切るなど、あっていいものだろうか。けれども、安道全はそれきり口を閉ざし、相対する男――公孫勝は、最後通牒を突きつけられたにしては驚くほどあっさりと頷いた。
「そうか、ならば仕方がないな」
「ああ。他を当たれ」
面倒くさげに言い捨てて、安道全はくるりと背を向ける。公孫勝が突然やってくるまで無心に読み進めていた最新の医術書に、再び没頭しようとした猫背気味の背中に、重ねて声がかかった。
「他と言って、おまえより優秀な医師はいないだろう」
「医師じゃない。他を当たれというに」
ぶつぶつと返す安道全に、公孫勝はここでわずかに表情を変えた。半分ほどの長さの細い眉頭を、くい、と寄せる。乏しい表情に、怪訝そうな色が灯った。
「他とは?」
「知らぬ」
「それはずいぶん冷たい答えだな、安道全。おまえの医術の腕を信用し、縋ろうという相手に対して」
「医術ではどうにもならんというのだ」
「では、誰ならどうにかできる?」
「だから知らぬというに」
苛々とした様子で、安道全が振り返る。公孫勝は相変わらず冷めた表情で、眠そうなまぶたの下安道全を見据えていた。己の病をどうにかしたいという切迫感も、そこに生じるであろう不安も絶望も、一切顔から読み取れない。
「ならば致し方あるまいな。安道全でも手に負えぬなら、この病を抱えて生きるしかない」
小さく呟いて、公孫勝が腰を上げる。胡散臭そうにそれを見上げた安道全が、公孫勝、と声をかけた。
「抱えて生きると言って、おまえ……どう、するのだ?」
「どうとは?」
「だから、その症状……というか、なんというか。とにかく、どのようにするつもりなのだ」
あまりにもあっさりと引き下がられて、逆に妙に気にかかる。安道全の胡乱な問いに、公孫勝は相変わらずの無表情で淡々と答えた。
「どうすることもできまい。抱えて生きる以上、病状は進行するであろうし、そうなった時は、おのずから結果は見えよう?」
「進行……つまり、」
安道全がなにやら奇妙な表情で呟くのを、公孫勝がなんでもないように引き取った。
「つまり、そのうち私が林冲を半殺しにするだろうということだ」
「……やはりそういうことになる、か……?」
紛れもない疲労感に、普段からそれほど血色のよくない安道全の青白い顔が、ますます暗く陰った。公孫勝はまるで悪びれるふうもなく、さりとて不本意そうな眼差しで、軽く息をつく。
「我ながら厄介な病を得たものよ。おまえならばどうにかできるかと思って最後の望みをかけたが、不治の病であるならば仕方がない。今はまだ、この衝動を抑えることも可能だが、そう遠くない未来、必ずこの手が林冲の身を苛むことは疑いようもない」
「はあ……」
「同じ志を持つ者として、同志討ちは極力避けたいところだが、病ならば致し方なかろう。そのように、晁蓋殿と宋江殿に、おまえからも口添えを頼みたい」
「断る」
「なに」
言下に切り捨てた安道全に、公孫勝の眉根がぴくりと震える。安道全は上目遣いで公孫勝を睨みながら、なにやら複雑そうに口端を曲げた。
「そんな莫迦莫迦しいことを、頭領殿らに言えるか」
「莫迦莫迦しいだと?」
「ああ、ああ。莫迦莫迦しくて開いた口が塞がらぬわ、公孫勝。この際だから言っておくが、私はおまえが嫌いだぞ」
「奇遇なことだな。私もおまえは気に入らない。嫌うほどの興味もないが」
「私だって、おまえのことを嫌いたいとは思わない。そんな興味もない。だが、聞けばおまえ、本当に莫迦なのだ。これほど莫迦では、さすがの私も興味がわくわ」
「安道全。おまえが神医と呼ばれる者であったことを僥倖に思え。さもなくば、この私とてそれほど寛容ではいられぬぞ」
一瞬、薄い氷が割れるような音がしたかと思うと、気がつけばいつの間にやら、安道全の白い喉首に、ピンと光る糸のようなものが突きつけられていた。はっとした安道全が無意識に唾を飲むと、その喉仏がわずかに糸に触れる。すると、一瞬ちりりと熱い感触がして、次いで小さな痛みが走った。
「梁山泊には医者が必要だ」
静かに言って、公孫勝が口元だけで微笑むと、張りつめていた糸が不意にたわみ、空気に溶けたように見えなくなる。無意識に安道全が喉に手をやると、小さな痛みは残るものの、手についた少量の赤いものが、すでに傷が塞がったことを物語っていた。
職業柄怪我や血に慣れている安道全は、それが自分のものであろうとも命に関わらない以上一切興味を示さず、ただ赤い血のついた指だけをぺろりと舐めて、眉をしかめる。
「この技でもって、林冲もなぶるつもりか公孫勝」
すると公孫勝は、意外なことに小さく肩を竦め、口元だけではなくそれとわかるほどに微笑した。
「これほど容易くなぶれるものならばな、安道全。しかしどちらかといえば、なぶるよりはとにかく傷をつけたい。殺気でもって相対し、相応の技で捩じ伏せたい。跪き、命乞いをする林冲が見たい」
「病んでいるな」
「だからそう、言っている」
くつくつと愉快そうに、声を上げる公孫勝を厭そうに見やって、安道全は心から深く溜息をついた。
「私がおまえを嫌う理由の大部分はそこだ、公孫勝」
「おまえは林冲贔屓だからな、安道全」
「奴は友だ。だが問題はそこではない。おまえが林冲をどんな目にあわせようと、極端な話、死なない程度ならば問題ない。むしろ、無聊を慰めてくれる礼さえ言いたい」
今現在、梁山泊は平和である。平和という病が一番堪える安道全であるので、誰でもいいから重傷患者を引き受けたいという欲求は、日増しに強まっていた。そんなことを真顔で言う医師を、公孫勝は面白そうに見つめる。
「では、なにが問題だ?」
「一言でいえば、おまえの心の持ちようが問題だ、公孫勝」
「私の?」
「おまえは、己の心を映す鏡をゆがめ、その代償を林冲に押し付けている。正当な理由もなく林冲をなぶり、半殺しにして清々するどころか、おそらくそれまで以上に屈託を抱え、悶々とするだろうことは火を見るよりも明らかだ。私は、物事の解決にならない暴力は嫌いだ」
きっぱりと言ってのけた安道全の言葉に、公孫勝は静かに聞き入っていた。表情を変えず、じっと安道全を見つめるその瞳は、まるで硝子玉のように感情が映らない。そうしていると、息をしていることすら怪しい人形のように見えてくる。
やがて呼吸五つ分ののち、公孫勝はゆっくりと唇を開いた。
「私は病んでいる。それは正当な理由にならないか」
「ならん。おまえは確かに病んでいる。けれど、それが暴力の正当性には適合しない」
「ならば私の病はなんなのだ。なんという名の病がこの身を苛んでいる」
「おまえの病の名は――」
大きく息を吸い、安道全はこれ以上なく重々しく宣言した。
「恋だ」
「……」
公孫勝が無表情のまま沈黙した。安道全は、視線を外さないままそれに相対し、今、公孫勝の身の内で起きているであろう様々な葛藤や混乱が、どこかに現れやしないかと固唾を呑んで見守る。
しかし結局、どこにもまったく動揺の欠片さえ窺わせずに、公孫勝は口を開いた。
「……恋、か」
「ああ、恋、だ」
「安道全」
「なんだ」
「おまえほどの医者も、診立て違いをしたことはこの際許す。だが――」
「診立て違いであるものか。認めろ、公孫勝。おまえは恋を、しているのだ」
「莫迦莫迦しい」
「だから最前、そう言っている」
「私が恋、だと? しかも相手が……」
「林冲だ」
「莫迦莫迦しい」
「だからそう言っているというに」
ふう、とため息をつき、安道全がこりこりとこめかみを指で掻く。立ちつくす公孫勝は、見事なまでの無表情だが、医者である安道全の目には、それとは気づかれないほど僅かに、瞳孔が狭まり、呼吸が浅くなり、じんわりと体温を上げていく様が見て取れた。
「恋、だと……」
おそらく無意識に、公孫勝が呟く。それからわずかに目を眇め、こちらを観察していた安道全を睨み据えた。
「相手を半殺しにしたいという恋などあるのか」
「症例のひとつだ。おまえの場合大分過激だが」
「症例とは」
「恋の病の症例だ。わかりやすく言えば……『嫉妬』だ」
ここで初めて、安道全が医師としての顔ではなく、個人的な面を見せた。にやりと、それは意地が悪そうに、笑う。
「聞けばおまえ、林冲を半殺しにしたいと思う時は必ず、奴が誰かと親しげにしている時だというではないか。つまり、嫉妬、もう少しわかりやすく言えば、『独占欲』だな」
「独占欲……だと?」
はっきりと、苦々しげに公孫勝が唇を歪める。ずいぶん感情を表すようになったな、と、安道全は呑気に思った。
「莫迦な。私にそのような欲などない。まして林冲相手になど」
「だから、認めろ、公孫勝。敢えて言うならば、それを認めることが、おまえの症状を緩和する唯一の方法だ」
「なんだと」
きんっ、と、音がするほど鋭く安道全を睨む。公孫勝の眼差しに、安道全は医学的見地を披露するように淡々と言った。
「おまえが無意識にか、意識的にか、それは問わんが、とにかくそこで否定するから、欲求が正当な行き場を失って、林冲を半殺しにしたいなどという不穏当な意志になるのだ。はっきり言うぞ、その発想は独占欲の暴走、幼児の癇癪と同じだ」
「ようじの……かんしゃく……」
「お気に入りの玩具を取られて駄々をこね、可愛さ余ってその玩具を投げ捨てるようなものだ」
「……」
言葉もなく、公孫勝が再び腰を下ろす。相変わらず無表情だが、もともと血の色など皆無の顔色が、紙より白くなっているのが、唯一の動揺の証だった。
相対した安道全は、さすがになにやら哀れを誘われるようで、見た目以上にダメージを受けているらしい致死軍総司令官を見守る。おそらく、この男の人生に、未だ嘗て訪れたことのないような衝撃を受けているのだろう。拷問の類にならばいくらでも耐性があっても、この精神的ダメージはそれとは大きく種が異なる。
やがて公孫勝の死んだ魚のような眼に、ようやく光が戻った。このわずかな時間で、十も二十も老けこんだような風情で、薄い唇を開く。
「……安道全。私の病は、治るのか……?」
一番最初の質問に戻った。あの時とは比べ物にならないほどの悲壮感を漂わせ、本当に命の灯を吹き消されそうになっていると言わんばかりの様子に、こちらも精いっぱい粛然と、安道全は口を開く。
「……諦めろ、公孫勝。手の施しようがない」
もはや自覚を伴った恋の病は、悪化こそすれ、快癒することなど決してない。それはまさに、死に至る病と言える。致死軍総司令官が、恋の病で焦がれ死になど、笑い話にもならないだろうが。
再び目の前で固まった公孫勝から窓に目を向け、安道全はのんびりと青い空を見やった。
――この世には本当に、厄介な病が多すぎる。
