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【星の数ほど男はあれど 月と見るのは主ばかり】《李逵と武松と宋江@北方水滸伝》
2026/03/15 15:52【お題】他
「李逵」
遠くから呼ばれて、それが燕青の声だったから、李逵は嬉しげに振り返った。この声がたとえば呉用とか、あるわけないけれど朱仝とか、そんな種類の人間の声だったら、李逵は振り返るどころか迷わずダッシュで逆方向へ逃げ去っていたかもしれない。李逵の好き嫌いは水に垂らした油の如くはっきりとしている。
こちらに向かって笑いながら手を振る燕青は、三か月前に会った時と変わらぬ風情だった。梁山泊の面々は、常に梁山泊にいない李逵からしてみれば、少し会わないうちに面差しが変わったり雰囲気が変わったりする男が多いけれど、燕青は出会ったころから燕青だ。その不変的なところも、李逵は好きだった。
「燕青」
近づいてくる燕青を待ち切れず、李逵が駆けだす。一寸の間なのだから大人しく待っていればいいものを、その待ちの時間が李逵は苦手だった。好きなものにはいつだって無心に手を伸ばす。それは李逵の本能で、たぶん人として正しい衝動だ。
駆け寄って来た李逵に、燕青は途轍もなく綺麗な微笑みを浮かべる。李逵はその時、抱きつくか肩に手を置くか、とにかく接触のスキンシップを図ろうと手を伸ばした。その手を燕青が、笑みを浮かべながらふうわりと触り、そして次の瞬間、李逵の世界は反転していた。
その光景をずっと遠くからたまたま見ていた関勝と宣賛は、思わずぎょっとした。傍目から見ると、燕青に近づいた李逵が突然ぶわんと地を離れ、頭の上の高さでくるりと一回転したように見えたのだ。妖術かなにかと思った、と、のちに関勝は語る。
さてその妖術にかかったらしい李逵は、頭と脚が正確に逆になった状態に一瞬きょとんと目を丸くし、それから驚くべきバランス感覚でもう一度頭と脚の位置を元に戻した。関勝と宣賛の目にそれは、のちにキャット空中三回転とも呼ばれる難易度の高い身のこなしに映った。空中で李逵がくるくると回転し、次に気づいた時には当たり前のように地に足を着いている。梁山泊に加わってから、信じられないような光景を何度も見てきた二人ではあるが、この時もまた、あまりにも非常識な光景に開いた口が塞がらなかったという。
見た目によらず美しい動作で着地した李逵は、なにが起きたか解らないながらも、なんだか楽しくなって奇声を発した。ぴょんと高く跳びあがった李逵に、燕青はにこにこと嬉しそうに笑っている。
「さすが、李逵。相変わらずよく跳ぶな」
「おう。燕青も相変わらず油断も隙もねェ感じだなっ」
「日々是鍛錬だよ。ところで今日はどうした、一人とは珍しいな」
李逵といえば武松、武松といえば李逵である。その片割れの不在を指摘する燕青に、李逵は首を傾げながら笑った。
「兄貴は宋江さまのとこだ」
「ますます珍しいな。李逵が宋江殿の所へ一緒に行かないなんて」
目を丸くする燕青に、李逵は途端に悲しげに眉を垂らし、それがよ、と呟く。
「難しい話すんだって。俺は邪魔だからどっかいけって言われた」
「そうか……」
「でも、難しい話終わったら俺も宋江さまに会っていいっていうから、待ってんだ」
「よかったな」
「おん」
上機嫌に笑う李逵は、遠慮なく厄介払いされたことなど歯牙にもかけていない。だからこそ、武松も宋江も歯に衣着せず李逵をあしらっているのだ。李逵に遠慮は禁物で、嘘はもっとご法度なのだから、自然と彼に対する態度はシンプルで容赦がなくなる。そんなところが、燕青にとっても接しやすかった。
「じゃあ、待ってる間組手するか?」
「くみて?」
「今みたいなやつ」
「おお、いいぜ。今度は俺が投げ飛ばしてやるよ」
「はは、やれるものならね」
ふたり仲良く連れ立とうと方向を変えた瞬間、李逵がぴくりと震えた。不意に緊張した身体に、燕青が反応して目をやる。李逵の大きな眼がじわりと見開かれ、動物的な仕草で素早く振り返った。
「李逵?」
その緊張感に、燕青はすわ敵襲か、と身構えたが、昼間の梁山泊内に、まさかそんな不穏があるはずもなく、李逵の緊張も戦闘のそれとは微妙に異なるように思えて、燕青は整った眉根を寄せて李逵を見やった。
「どうした、李逵」
「……宋江さま」
「え?」
「宋江さま」
答えるでもなく呟いて、李逵は次の瞬間信じられないほどの速さで駆けだした。驚いた燕青は、思わずその後について走る。放たれた矢のような速さの李逵には追いつけず、徐々に引き離されたけれど、彼が向かう方向が、聚義庁であることになんとか気づいた。
完全に李逵の姿が見えなくなると、燕青は走る速度を巡航速度に落とした。聚義庁の付近には常時人がいて、そちらに近付くほど、驚いたような顔で同じ方向を見ている。その方向に駆け去ったらしき李逵を追うのは容易かった。
やがて聚義庁の正面玄関にたどりつくと、階段を下りてくる武松が見えた。燕青は駆け足でそちらに向かい、こちらに気づいた武松に軽く手を上げる。
「武松」
「燕青か、しばらくだな」
「久し振り。ところで李逵は」
「ああ」
そこで武松はわずかに表情を和らげ、今出てきた聚義庁ではなく、なぜか裏庭へと続く小道をを振り返った。
「宋江さまのところだ」
「宋江殿になにかあったのか?」
「いや」
「だが、李逵は血相を変えていたぞ」
燕青の言葉に、武松は珍しく苦笑のようなものを浮かべる。
「あれは鼻が利くからな」
「え?」
「宋江さまに危難はなにもない。だが……少々血腥い話をしたので、少し落ち込まれている」
淡々とした武松の言葉に燕青はきょとんとする。合点のいかないような様子に、武松はさらに言葉を続けた。
「李逵にはそれが、不思議とわかるのだ。どれほど離れていようとも、宋江さまが心を痛めているとすぐに気づいて、駆けつけられる時はなにをおいても駆けつける」
「はあ……」
「信じられないか?」
「いや……李逵だからな。そういうこともあるだろう」
それがどれほど不思議な話でも、宋江が絡んだ李逵ならば、なんでもありのような気がする。素直に燕青がそう言うと、武松は彼にしては驚くほど柔らかな表情で笑った。
「そうこうさま」
窓からそんな声がかけられて、本当だったら驚いても不思議はないのに、宋江はなぜだかちっとも驚かずに、静かに振り返った。
「李逵」
呼ばわると、地上三階だというのに全く危なげもなく、大柄な黒い身体が窓枠を蹴って部屋に降り立つ。宋江が手招くと、小さなこどものように屈託なく駆け寄ってきた。
「宋江さま、大丈夫ですか」
こういうとき、李逵は必ずそう問う。宋江が、誰にも明かせない心の痛みや屈託を抱えて、自分でも気づかないうちに塞ぎこんでいると、どこからともなく李逵がやってきて、こんなふうに寄り添ってくる。ストレートに問われて、宋江はいつもなにかが救われる気分になる。
「だいじょうぶだ」
声に出せば不思議とそれはそうなのだと思われて、宋江は微笑みながら李逵の頭を撫でた。自分より柄の大きなこどもは、目を細めて嬉しそうに笑う。獣の仔の毛並みを確かめるように、強い癖毛を撫でつけていると、いつのまにか心のさざ波がおさまり、言葉通り大丈夫な気分になってくる。
「……李逵」
「はい、宋江さま」
「李逵」
「はい、宋江さま」
素直に返ってくる返事が嬉しくて、宋江は何度も、意味もなく李逵の名を呼んだ。李逵は何度も、律儀にそれに返事をして、二人はずいぶん長いこと、ただそれだけを繰り返し過ごした。
