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【たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車】《李逵と武松と宋江@北方水滸伝》
2026/03/07 15:22【お題】他
きゃー、と、甲高い声が響いた。
いや、きゃーというよりは、けーん。奇妙に動物じみた声は、一人の男が震わせた声帯から発せられる。
夜露を凌ぐ仮の宿を出、ぼーっとした目を擦りこすりしていた宋江は、その声に
「……今日も平和だ」
なごんでいた。
追手の目をくらませての逃走劇のさなかである。平和であるどころか、毎日が戦場のようにピリピリとしていてもおかしくはない。並みの者であるならば、その重圧にすら耐えられなかっただろう。
「おはようございます」
いまだにぼーっと虚空を見つめていた半覚醒状態の宋江に、全く気配を感じさせない男が背後から声をかけた。
「おはよう、武松」
ぼんやりと笑いながら振り返る宋江は、武松の気配がなかったことになどまるで動じていない。気配を絶った武松に気づいていたのではない。それが何者であるにせよ、宋江に背後の気配を探る芸当などできないのだ。
やってきた武松は、上背こそそこそこであるが、身体の厚みが宋江などとは一回り以上も違う、巌のような体躯の男。そのくせその目は、生まれたての小鹿のように澄んでいて、宋江を見つめるそれは限りなく優しい。
武松の手に、二羽の兎を見つけたのはその時だった。
「おお、武松。朝餉は兎だな」
「はい」
頷いた武松が手際よく焚火跡に向かうと、再びどこかからきゃー、とかけーん、という声が響く。
ぼんやりとした眼を空に向け、宋江が微笑んだ。
「李逵は今日も元気だ」
満足そうに頷く宋江のもとに、時をおかずに黒い大きなものが走り寄って来た。
「宋江さまっ」
「おお……李逵」
顔中を泥に汚し、枯れ枝や生葉に塗れた男は、にっかりと歯を見せて笑い、担いでいた獲物を自慢げに振り回した。
「見てくれ、鹿だぞ。俺が獲った、俺がひとりで」
「李逵、見て下さい、だ」
竈に火を入れ、手際よく兎の皮を剥いでいた武松が、こちらも見ずに言う。李逵はぴたりと踊るのをやめ、頭の上に子供の大きさほどもある鹿を抱え上げたまま、不安そうに宋江を見やった。
宋江は、きょどきょどとこちらを窺う李逵に、ふんわりと笑いかける。
「でかしたぞ、李逵。鹿の肉は大好きだ」
「やった。俺は、宋江さまのためにこの鹿を取って来たんです。ひとりで」
再び飛び跳ねて喜びを表す李逵は、そのまま武松の許へと駆け寄った。
「兄貴、鹿だぞ。兄貴の獲物よりでかいぜ」
「ああ」
「うふふん、これでしばらく、宋江さまにひもじい思いはさせねぇぞ」
「いいから兎をさばけ、李逵」
「はいよ」
軽く言い、李逵は鹿をそっと土に下ろすと、手渡された兎をくるくると器用にさばいていった。
「兄貴、ちょっと時間がかかるが、兎鍋にして食うと美味いぞ」
「それほど時間はかけられん。焼いて食う」
「俺が獲ってきた鹿は、どうする」
「すべて燻して、保存用にする」
「燻すばかりか。鹿肉は焼いたり煮たりするのがいいのに」
不満そうに頬を膨らませる李逵に、武松があまり変わらない表情で、それでも宥めるように言う。
「そう思うならば、今度は夕餉の時に鹿を獲れ」
「上手いこと獲れる保証はないんだ。今、こいつを捕まえたことだって偶然なのに……」
ぶつぶつと言いながら、それでも李逵の手は止まらない。適量を串刺しにし、焚火の傍にずんずんと刺していく。
李逵はため息をついて、ちらりと宋江を見やった。
仮の宿とした木の洞の中に、気休め程度に敷いていた布を、丁寧に畳んでいる。お世辞にも手際がいいわけではなく、あくまでのんびりと、布についた枝葉などを摘まみながら楽しそうにやっている。
宋江は、なんでもないことに楽しみを見つける天才だ。宋江がすると、どんなつまらないことだって、俄然楽しいような気がしてくるから不思議である。
李逵の視線に気づいたのか、宋江がこちらを向いた。
「どうした、李逵」
「うう、宋江さま」
「李逵」
鹿を諦めきれない李逵が、宋江に泣きつこうとするのを止めるように、低く武松が呟く。宋江のために、宋江のためだけを思って李逵は動くけれど、それの是非を下すのは兄貴分である武松の役目で、武松に逆らうことは、李逵は天地がひっくり返ったってしない。武松は、絶対に宋江さまのためになることしか言わないからだ。
李逵の中の単純な図式が、今回もまた、慣れない我慢を強いろうとした時、宋江がのんびりと、なんでもないことのように言った。
「武松。この山を降りたところに里があったな。そこで軒を借り、李逵の獲った鹿肉の鍋を作ろう」
「え?」
「半分は鍋にして我らと里のもので食い、半分は保存用にする。どうだ、李逵」
笑って言われ、李逵は一も二もなく頷いた。嬉しすぎて、また奇声をあげて踊り出しそうな所を、宋江の穏やかな眼差しが釘をさす。
「里でそれはなしだぞ、李逵」
その言葉に、武松が思わず吹き出し、李逵は照れ臭そうに頭をかいて笑った。
