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【戀という字を分析すれば いとしいとしと言う心】《李逵と武松と宋江@北方水滸伝》
2026/03/02 19:36【お題】他
遠くから、甲高い声が聞こえた。
「そーこーさまーーーぁ」
子供のようなはしゃいだ声を、大の大人があげている。そんな光景は、ここ梁山泊ではもはや見慣れたものだった。
何百何千という好漢たちを従える男は、その屈託のない呼び声に、こちらも屈託なく応える。
「おう、李逵」
聚義庁の二階の窓から、階下の黒い男に手を振ると、李逵は野生の子猿のように軽やかに飛び跳ねた。
「そーこーさまぁー、おれ、さかなとりましたーっ」
「そうかー、でかしたー」
「すんげぇでかいからー、たのしみにしててくれよなー」
「わかったー」
距離にして数十間を隔てて、互いに大声で叫びあう。当然、周囲には兵や文官があり、何事かと衆目を集めた。
李逵は何度かその場で飛び跳ねて、喜びを全身で表した後、宋江に向かっておおきく手を振って駆けていく。それに手を振り返しながら、宋江はにこやかに身体を戻した。
部屋の中には、直前まで軍議として召集していた面々がいる。左から、晁蓋、呉用、秦明、史進、公孫勝、そして珍しく軍議に顔を出している林冲が、なにやら複雑な面持ちで宋江を見ていた。
「あ、すまん。軍議の途中だったな」
のほほんと笑って謝る宋江に、なんとなしに毒気を抜かれた晁蓋が、椅子の背に体重を預けて伸びながら言った。
「なんというか……宋江は、李逵が可愛くてたまらんようだな」
その率直な言葉に、呉用が思わずむせ、秦明が面映ゆいように目を細め、史進がにやりと笑い、公孫勝は表情を変えず、林冲はどこか憮然とした。
「そうだなぁ……そのようだ」
他人事のように答えて、宋江がほほ笑む。それから、部屋の卓に用意された茶器に手を伸ばし、休憩同然になった軍議のために茶を淹れる。
頭領自らに茶の支度などさせられぬと、生真面目な呉用と秦明が席を立ったが、宋江はやんわりとそれを退け、普段ののんびりとした所作からは考えられないほど鮮やかな手つきで、人数分の茶を淹れた。
福郁たる香りを楽しんだあと、各々が武骨な手つきで茶をすする。すると、誰ともなくため息の合唱が起こった。
「これは……美味いな」
「まことに」
心服したような晁蓋の言葉に、秦明が重々しく頷く。宋江は相変わらず穏やかに笑いながら、けれども悪戯っぽくくちびるを曲げた。
「そうだろう。こればかりは、李逵にも負けぬ。あれが文句も言わず口にするのは、私の茶だけだ」
自慢げに言う宋江に、好漢たちは思わずなごんだ。
「いやしかし。宋江殿にこんな特技があったとは、知らなかった」
しみじみと言う林冲が、大切そうに茶器を包んですするのを、公孫勝が皮肉げに笑う。
「おまえなどより、李逵の方がよほど宋江殿のことに詳しいようだな」
「なに」
途端に、林冲が気色ばむ。相変わらず公孫勝は、林冲の逆鱗に触れるのが上手いな、と、晁蓋はどこか呑気に思った。
林冲にとって、宋江という存在は一種独特のものだ。父のように慕っているようで、友のように気安くもあり、兄のように思う傍ら、どこか弟のように放っておけない。信頼という鎖でしっかりと繋がっているのは間違いないが、李逵のようにあけすけな好意を表す男ではないので、たまにこうして公孫勝がからかう時だけ、林冲の宋江への思いが透けて見える。
睨み合う林冲と公孫勝をさりげなく抑えながら、史進が何気なく言った。
「李逵と宋江殿を見ていると、子供の頃飼っていた犬を思い出します」
「犬?」
「はい。その犬は、父にばかり懐いて、俺には全く見向きもしなかった。乱暴な犬で、子供なんかが近付くと噛みついたりもしたけど、父が厳しく叱ると、尻尾を丸めて酷く哀しそうな声で鳴くんです。それで父が許してやると、二度と同じことはしなかった。父は、俺よりもその犬をかわいがっていた節さえあるなあ」
「史進、それは」
言って、呉用が言葉を詰まらせた。史進がきょとんとして見ると、呉用ばかりではなく、座のほとんどの面々が、苦しそうに笑いを堪えている。唯一憮然としているのは、珍しくも宋江だけだった。
「ははははは、犬とはな! あまりにも符丁が合うので驚いたわ」
「晁蓋」
堪え切れず、というよりも端から堪える努力をせず、晁蓋が爆笑するのを、宋江が苦々しげに見る。堰を切ったように、その場が笑いで包まれた。
「確かに、宋江殿は犬の子をかわいがるように李逵をかわいがっているような気がする」
「なんだと、公孫勝」
「あれがなにか良いことをすると、くしゃくしゃと頭を撫でて褒めるではないですか。悪いことをすれば、ぴしゃりと叩く。犬の躾と変わらぬ」
公孫勝の言葉に、林冲が腹を抱えて悶える。仲が良いのか悪いのか、全く不可思議な男たちを前に、宋江はだんだん不安になってきた。
「私は……そのように李逵に接しているのか」
ぽつりと呟いた言葉に気づいたのは、傍らにいた晁蓋だった。けれど晁蓋は、宋江の暗い面持ちをどう取ったのか、力強くその背を叩く。
「李逵は幸せ者ではないか、こんなにかわいがってくれる主人がいて」
「……」
どこか的外れな晁蓋の慰めに、宋江は暗い表情で口をつぐんだ。
「さて……今更軍議というでもありますまい。おおむねのところは煮詰まったようですし、本日のところは散会と致しますか」
さりげなく呉用が水を向けると、空気を読むことに長ける秦明が、そうしよう、と頷く。史進と公孫勝、林冲が席を立ち、秦明と呉用がそれに続くと、最後に残った晁蓋が、難しい顔をしている宋江を振り返った。
「どうした、宋江」
「いや……少し、反省をした」
「反省?」
きょとん、と首を傾げる晁蓋に、宋江は緩く首を振り、立ち上がる。連れ立って部屋を出ると、そこらじゅうの兵や文官からにこやかに声をかけられた。
その一人一人に笑顔を返し、軽く足を止めて話を聞いてやる晁蓋を横目に、宋江は、自分と李逵とのやり取りを思い返していた。
犬と主人。そんな風に、屈辱的な見方をされるほど、自分は李逵に無遠慮だったのか。自分の李逵への振る舞いは、余人にとってそれほど非人道的に見えたのか。
返す返すも情けなく、ため息を押し殺した宋江は、軽く人だかりができた晁蓋の傍から、そろそろと離れた。晁蓋と同じく、兵たちに慕われる宋江ではあるが、彼の特技は一瞬にして己の存在感を消すことだ。その気になれば、日がな一日ぼーっとしていても、誰にも気づかれない。
そんな風にして聚義庁を出た宋江は、行くあてもなく足を向けながら、人で賑わう広場を歩いていた。遠くまで行くわけでもないので、護衛などはいない。ただぶらぶらと、歩いていた。
「宋江さまー」
すると向こうから、ある意味今一番聞きたくない声が聞こえてくる。とぼとぼとした足取りを止め、それでも宋江は声の元へと顔を向けた。
李逵が、おおきな魚籠を両手に抱えて跳ねるように歩いて来る。その後ろから、のっそりとした雰囲気で武松が続く。宋江にとっては、目にすると心和む二人組だったが、いまはどこか、気持ちが落ち着かなかった。
「宋江さま、見て下さい。これ、でっかいでしょ」
言って、李逵が嬉しそうに魚籠を見せる。中には、大人の男がひと抱えしてもまだ余るような、立派な魚があった。その他にも、なかなかのおおきさのものが数匹。宋江は思わず目を輝かせた。
「すごいな、李逵。大漁ではないか」
「へへへ」
李逵は心底嬉しそうに笑いながら、ちいさく首を傾けた。宋江よりも背の高い李逵が、なにか褒めてほしいと思う時、無意識にする仕草だった。いつもの宋江ならば、撫でやすい位置に寄って来た黒い縮れ髪を、なんの屈託もなくかき回して褒める。
けれど、その時はどうしても、宋江の手が上がることはなかった。
「よくやったな、李逵。早いうちに厨房へ届けてくるといい。みな、喜ぶぞ」
頭を撫でる代わりに、優しく肩を叩いてやって、宋江が微笑む。相手が李逵でなければ、いつもの宋江の態度と変わりはなかった。
けれど相手は李逵なのだ。
「宋江さま?」
おおきな黒い瞳を、不安そうに向けてくる李逵に、宋江はほほ笑むことができなかった。これからは、お前を一人の男として扱う。そんな気概を示すように、宋江は一度頷いて、踵を返す。
その背中を、李逵がじっと見つめてくるのが、痛いほど伝わってきた。
なんだか泣きそうになって、宋江がうつむいて歩く。胸のどこかから血が流れているような、わけもない痛みに苦しんだ。別になにかを失くしたわけではない。そう思う端から、耐え難い喪失感があった。
「宋江さま」
再び聚義庁に戻った宋江が、建物に入る直前、背後から名を呼ばれて振り返った。
振り返る前から、誰の声だかわかっていた。目の前に立つ武松が、案の定静かな表情でこちらを見上げているのに、宋江はどこか居心地が悪くなる。
武松は、視線を合わせない宋江の傍らまで来ると、ただ穏やかに口を開いた。
「宋江さま、李逵を疎んじておられますか」
「違う」
問いの意味を吟味するまでもなく、すぐに答えがあった。宋江が思わず目を上げると、武松の凪いだ湖面のような瞳とぶつかる。
「李逵を疎んじるなど、あるはずがない。私は……」
言葉が、尻から消えていく。再び俯いて、宋江はなにかに耐えていた。
自分はただ、こころの思うままに、李逵を慈しんでいた。李逵のまがい物のない純粋さが、知らずに宋江の心に染み込み、余人とは違う態度で、李逵と接していた。
けれどそれは、決して李逵を軽んじたものではなく、ましてや犬猫のように扱っていたわけではない。しかし、他の者の目を通した自分たちの姿が、不意に恐ろしく思えて、李逵とどう付き合っていけばよいか、急にわからなくなった。
それでも、疎んじているわけではない。それだけは、言えた。
「宋江さま」
再び、武松の静かな声がした。この男は、こころにいくつもの屈託を抱え、それを飲み込んでいま、こんな声が出せている。無性に耳を傾けたくなる武松の声音に、宋江の視線が上がった。
「宋江さまが李逵を疎ましいと思うのなら、俺は、何度でもあいつを谷底に突き落としてきます」
「武松、なにを」
「宋江さまさえよければ、俺はそれでいい。だから、李逵なんか何度だって捨ててきます」
言われた言葉に、宋江が唖然とする。静かに語る口調に、嘘はない。武松は宋江に嘘はつかない。それを、宋江は痛いほど知っている。
武松はまっすぐに宋江を見つめた。
「だけど、宋江さまがそんな顔をされるのなら。俺は、李逵がいなくていいとは思わない」
「……」
なにも言わず、宋江が武松を見つめ返す。陰鬱だった表情がこわばり、それから少しずつ弛緩し、そしていつもの宋江らしい微笑みが浮かんだ。
「ああ。私も、李逵がいなくていいとは思わない」
「そうですか」
言って、武松が初めてほほ笑んだ。宋江はその笑みを見て、自分がなにをそんなに悩んでいたのか、一瞬わからなくなる。武松は、宋江のこころの鏡のようだった。
なにかが吹っ切れた気分で、宋江は、己のこころの屈託を、静かに晒し出した。
「武松、私は、李逵を疎ましいとは思わない。それどころか、李逵のことが大切で、いまのまま李逵を慈しみたいと思っている」
「はい」
「だが、知らずのうちに私は、李逵を犬のように扱っていたらしい。あれほどこころの美しい男を、私はどこかで軽んじていたのだろう。だから、」
「違います、宋江さま」
珍しく、宋江の言葉の途中、武松が口を挟んだ。武松は、その物静かな目をひたと宋江にあて、一言一句染み込ませるように語る。
「それは、宋江さまのせいではありません。李逵は、本当に宋江さまの犬なのです」
「なんだと?」
「李逵は、己で望んで宋江さまの犬になったのです。宋江さまが笑うと嬉しい、宋江さまが傷つくと悲しい、宋江さまがそこにいるだけでいい、宋江さまのことだけを考えて生きる。すべて、李逵が自分で決めたことです」
「……」
「だから、宋江さまが自分を、犬のように扱うことが、李逵の本望なのです。いいことをすれば撫でて褒められる、悪いことをすれば打って叱られる。李逵は宋江さまを通じて、すべてを学んでいるのです」
「武松……」
「宋江さまは、李逵を決して軽んじてはおられない。李逵のこころを清いと思い、それを護ろうとしている。そうして、慈しんでいる。俺はそう、思います」
珍しく、武松が長く語った。いつも、傍にいてひっそりと佇む寡黙な従者の演説に、宋江は目から鱗が落ちるような心持ちでいた。実際に、目が丸くなる。武松は、なんと晴れやかな言葉を吐くのだろう。
宋江は、思わず武松の肩に手を乗せていた。なにかを確かめるように、ぽんぽん、とそれを叩く。温かく硬い武松の肩は、触れると心強かった。
「すまん、武松。私はなにかを勘違いしていた。李逵にも謝らなければ」
「いいえ、宋江さま。謝ることはないです。ただ、しょぼくれているので、いつものように頭を撫でてやってください。それだけでいいです」
「そうか」
武松の言葉に、宋江が明るい笑みを浮かべた。
李逵に会いに行こう。そう思うと、嘘のように足取りが軽かった。
