心的障害






 たぶん こころの中の傷とか  そういう痛みとか

 癒しても治しても  かさぶたにはなるけど

 ほんの些細な拍子に  また疼きだして  それで苦しくて

 みっともなく手を伸ばす僕に  いつだって君は笑ってくれる





**********




 ……… がん …… がん …がん  がん  


 がん!


がん!!


 ユグドラシルの堅い回廊を揺るがすほどの地響きが、徐々に近づいてくる。

 もはやそれは『足音』などという穏便なものではなく、『騒音公害』といって差し支えない。事実、ブリッジのクルーたちも不穏当な地響きに対し、すわ敵襲かと緊張した面持ちで顔を見合わせていた。

 そんなクルーたちを目顔で鎮め、ユグドラシル副官はそっと愁眉を曇らせる。あちらこちらで寄り道をしているようだが、間違いなく最終目的地はこの部屋だと確信している彼は、難しい顔つきのまま口元を手で覆った。

 その下に浮かんでいるのは、こらえきれない苦笑である。

 状況に全くそぐわない、そんなしまりのない表情を改めた瞬間、狙い澄ましたタイミングでブリッジの扉が乱暴に開かれた。


「シグ!!」


「何ですか、若。騒々しい」

 わざと素っ気なく言って、ユグドラシル副官シグルド・ハーコートは、年若き総司令官バルトロメイ・ファティマを横目で見やる。

 金の髪を乱れさせ、整った造形に惜しむらくは左目に無粋な眼帯をつけた、黙っていれば端正な好男子であるユグドラシルの総司令官は、苛立ちを隠しもせずに怒鳴り散らした。

「マルーを見なかったか?!」

 その一言で、シグルドはすべてを悟った。多分に直情径行である愛すべき頭領をサポートするには、状況把握の能力に優れていなければつとまらない。

「何か火急の御用事でも?」
「そうじゃねえが……っ」
「ならば少し、落ち着きなさい」

 扶育者の顔でそう言って、シグルドはブリッジ内を一瞥する。クルーたちは、主人の騒音など慣れているとでも言いたげに、こちらに関心を寄せている風ではなかったが、マルーの名前にだけは少々空気が動いた。

「落ち着けだぁっ!?」

 そんな状況をまったく鑑みることなく、バルトは語尾を上擦らせた。シグルドは主人の右目をじっと見つめ、低く落ち着いた声音で諭す。

「若がそのように狼狽していては、皆も不安になりましょう。それは、マルー様の望むところではないのでは?」
「……っ!」

 その言葉に、あれほど興奮していたバルトがぐっと激情を押しとどめた。

 群れからはぐれたスナハミのように、恐慌状態に近い狼狽を見せていた彼の瞳が、その一瞬で司令官と呼ばれるに足る落ち着きを取り戻す。それから、ばつが悪そうにそっと辺りを注視する彼へ、シグルドは穏やかに呼びかけた。

「ここではなんですし、ガンルームへ行ってなにか飲みましょう」

 そのいたわりの声に、バルトは小さく頷いて、シグルドについてブリッジを後にした。





**********





「――だめなんだよな、俺」

 ガンルームのカウンターに肘をつき、メイソン卿が作ってくれたオレンジ色の液体が入ったグラスをいたずらに揺らして、バルトは小さく呟く。

 就業時間のガンルームは閑散としていて、他に聞く者とていないのに、まるで何かを憚るようにそう言った彼に、シグルドは落ち着いた風情で問い返した。

「何がです?」
「……マルー……が、いなくなると、俺、落ち着いてらんねえんだ」

 恐らく、顔から火がでるほど照れくさい台詞なのだろう。バルトはがっくりと肩を落とし、普段の彼からは想像もつかないほど歯切れ悪く続ける。

「いつも目の届くとこにいて欲しいってわけじゃ……ねえんだ。俺の傍は戦いだらけで、危険だしな。……だけど、俺が呼んだときに、あいつ、すぐに駆けつけてくるのに……ほんとに、すぐに飛んでくるのに、それがねえと……」

 絞り出すような言葉はそこで途切れ、バルトはまるで闇の底を覗くような面持ちで沈黙する。普段の彼らしからぬその雰囲気に、シグルドは痛ましいものを見るようにそっと視線を伏せた。

「――不安ですか」

 シグルドの言葉に、バルトははっと顔を上げる。

 凝視したシグルドの横顔は、ただ静かにグラスを見つめていた。バルトはその、見慣れた扶育係の横顔になにもかもを見透かされているような気恥しさを感じて、わざと苛立ったように声を尖らせる。

「そんなんじゃねえよ……っ、ただ、落ち着かねぇだけで……」
「不安だから、落ち着かないんでしょう」

 あっさりと返すシグルドに、バルトは耳まで真っ赤になりながらグラスをあおる。乱暴にカウンターにそれを叩きつけると、ぐいっと口元を拳で拭った。

「……ちくしょー、笑うなら笑えよっ!」

 どこまでも直情径行なあるじの反応に、けれどシグルドはからかうでもなく存外真面目に答えた。

「笑いませんよ。私も同じです」

 静かなシグルドの言葉に、バルトは意外そうに目を見開いた。

 シグルドはその端正な横顔に自嘲のにじむ微笑みを浮かべながら、乳白色の液体を口元に運ぶ。

「若とマルー様がシャーカーンに捕らえられたと聞いたとき……我が身が凍るような心地がしました。あのとき、私がついていればと、何度後悔したか知れません」

 今でこそ、遠い思い出として語れるようになったが、当時の心境を思い出すたびに氷の手で心臓が鷲掴みにされるような気がする。あれから十年以上年を経たというのにこの体たらくで、よくぞ若き日の未熟な己が現実に対処できたものだと、他人事のように感心さえ浮かぶ。

「それ以来、あなた方が行方をくらますたびに、私は胃が痛くなる思いでいるのですよ」

うっかりと神妙になりすぎないよう、シグルドはわざと洒脱にそう言って意地悪そうに微笑んだ。思いがけない独白に、バルトは目を丸くしている。

「……マジかよ……だっておまえ、放任主義がモットーって……」
「もちろん、過保護にあれこれ規制したところで、あなたもマルー様も聞き入れるわけがありませんからね。無駄な努力はしない主義です」

 しれっとうそぶいて、シグルドはバルトに身体ごと向き直った。その表情には、父親のような兄のような、緩やかな慈愛が浮かんでいる。

「……大切なものをあっけなく失うことの辛さを知っているから、若も私もトラウマになっているんですよ」
「……」

 その言葉に、バルトは黙ってオレンジ色のグラスを空け、静かに嘆息した。沈黙した彼をせかすことなく、シグルドもグラスを傾ける。
 しばし、氷の溶ける微かな音だけが空間を支配した。

「――あの日……」

 やがて静かに紡ぎだしたバルトの声音は、懺悔を乞う罪人のような、ひたむきな想いを滲ませていた。

「久しぶりにマルーに会いに、ニサンに行ったあの日……いつもなら、すげー勢いで出迎えてくれるマルーがいなくて、俺は探したんだよ」

 幼い頃に別ち難く育ち、いつも胸の真ん中に根付く互いへの思慕の命ずるまま、陸と砂海とに離れた後も、バルトとマルーは邂逅を繰り返した。とても頻繁とは言えないその時を、バルトもマルーも心の底から待ち望み、そして会えれば常に、不在の時を埋めるように睦まじく過ごした。

 バルトの呼びかけに、マルーが応えないなんて。だからその時まで彼は、想像もしていなかったのだ。

「初めのうちは、全然平気だったのに、探しても探してもいなくて、焦ってきて……。そしたらシスターが言ったんだ。マルーがブレイダブリクに捕らえられたって……」

 おそらく、この世で一番ふれてほしくない過去を、柔らかい皮膚に爪を立てるような痛みを堪えてさらけ出すバルトを見つめながら、シグルドは思い出していた。

 大切な少女を再び奪われ、我を忘れて駆け出そうとした少年を、必死になって止めに入ったあの日を。

「――あれから俺、だめなんだよ。マルーが、俺の声に応えないのって。……情けねえんだけど、不安でしょうがねえんだ」

 苦々しく胸の内を吐露し、バルトはぐっと拳を握った。その、危なっかしくも清々しいまでの情熱に、シグルドは眩しいような微笑みを見せる。

「素直にそう、マルー様に仰ればいいのでは?」
「ん……っなはずかしーこと、言えるかよ!」

 呆気ない正論に、バルトは噛みつくような反応を返した。浅黒い肌が、燃えるように染まっていく。

「恥ずかしいことではありませんよ。マルー様が大切だということは」
「はずかしーんだよ、十分!」
「おやおや……」

 苦笑しながら、シグルドは微笑ましいほど不器用な青年と、一途に彼を慕い続ける少女の未来を思った。

 いずれお互いの気持ちが通い合えばいい。今はまだ、未消化の気持ちを大切に暖めていれば。

 複雑な親心を秘めながら、シグルドは冷静な副官の眼差しを向けた。

「それでは、せめてもう少し余裕を持つことです。あなたが狼狽すれば、クルーの統制も乱れる。一個人の感情で右往左往するには、あなたの双肩にかかるものは大きすぎます」
「……ああ」

 頷き、バルトは改めて吐息をついた。一人の少女のために乱された、初々しい少年の素顔から、何百という人間を束ねる統率者の顔に戻ると、副官である青年に命じる。

「騒がせてすまん。仕事に戻ってくれ」
「了解。若も、程々になさってくださいね」

 恐らく、平気な顔を装いながらも再び少女を求めてかけずり回るであろう少年に、シグルドは意地悪く付け足した。途端に、真っ赤になった顔を隠すようにバルトは立ち上がる。

「っさーて、俺はもう、寝るぞ!」

 わざとらしいほど大きく宣言した彼に、シグルドが優しい苦笑を見せたとき、背後の扉が軽快な音をたてて開いた。

「あれ? バルト、こんなところにいたのか。マルーが探してたぜ」
「なにっ?」

 勢いよく振り返り、バルトは貴重な情報を提供した同年の友人に詰め寄る。

「ホントか、フェイ?! どこにいるんだ、マルーは」
「俺が見たのは、厨房だったけど……あ、じゃあおまえ、まだなのか」

 意味不明な言葉を呟いて、フェイはにやりとほくそ笑んだ。それから、からかうようにバルトを小突く。

「急いでやれよ。おまえがいなくてどーすんだ」
「は? なんなんだよ、そりゃ」
「とにかく、行けって。おまえを捜してるんだから、おまえの部屋に行ってるんじゃないのか」

 フェイの言葉に、バルトは釈然としないながらも素直に従った。

「おう! じゃあな、シグ、フェイ」

 そのまま脱兎のごとく駆け去ったバルトを見送り、フェイはくっくっと喉をならした。その様子に、シグルドが低く声をかける。

「うちのお姫様は、どこに隠れていたのかな?」
「あ、バルト探してたか……。悪いことしたな、さっきまでマルーに居所を教えるなって言われてたからさ、みんな」

 言いながら、フェイはバルトが座っていた椅子に腰をかけ、穏やかに微笑んだ。

「今頃、マルーの手作りケーキで、自分の誕生日を思い出してる頃じゃないかな?」
「ああ……そうか」

 シグルドは合点がいったように頷き、ついでくすくすと笑い始めた。

 戦いに明け暮れる現状で、個人の誕生日になどかまけてもいられない中、本人すら忘れているようなそのイベントを大事に祝った少女の、あどけない優しさを想いながら。





**********





 勢いよく扉を開けると、自室は淡い光に満ちていた。

「おっそーい!」

 室内灯の傍で、少し拗ねたような声があがる。それが、探し求めていた少女のものだと解った瞬間、バルトは安堵から来る怒鳴り声をあげた。

「マルー! おまえ、今までどこに……」
「ハッピーバースデー、若!」

 遮るように、はしゃいだ声があがる。バルトは虚をつかれたように目を丸くし、二、三歩たたらを踏んだ。

「……は?」
「は、じゃないよー。やっぱり忘れてたね、自分の誕生日!」

 マルーは笑いながら立ち上がり、惚けているバルトの腕を取って室内に引き入れた。淡い室内灯の光の中、ぼうっと浮き上がった白いケーキを見て、バルトはようやく思い当たる。

「あー……そっか、俺の誕生日か」
「そ! 覚えててあげたんだよ、感謝してね」

 細い腕でバルトの手を引きながら、マルーは可愛らしくほほ笑む。それを見て、バルトは今更に自分の余裕のなさを恥じて、真っ赤になった。

「? 若?」
「い……いや、なんでもねーよ」

 この事実をシグルドが知れば、やはりからかわれてしまうことを覚悟しながら、バルトは苦々しくため息をつく。

 不機嫌そうな従兄を見上げ、マルーはちょっとだけ不安そうに小首をかしげた。

「……なにか、あったの?」

 日々戦艦の統括者として激務に励む彼は、豪快なようでいて些細なことにも心を砕く細やかさがあった。本人ですら気づいていないような微妙な心のわだかまりを、マルーはできるだけさりげなく取り去ってやりたいといつも願っている。

 今日も、従兄の疲労を少しでも和らげたいと、単純に甘いものを用意して労おうと思ったけれど、そんな子供だましのやり方では、もう何の役にも立たなかったのかもしれない。

 いつも満足に従兄を助けてあげられない。マルーの胸の内に巣くう自罰的な嫌悪感が彼女の瞳を曇らせようとした瞬間、バルトの大きな手の平が、ちいさな頭をわしわしと包み込んだ。

「うわっ、な、なに?」

 やわらかなマルーの髪の毛が好き勝手にかき混ぜられる。マルーは思わず甲高い声をあげながら、身をよじってその手から逃げようとした。

 けれども存外力の強いその手は、マルーのちいさな頭を押さえつけるように動かない。顔を上げることができず、今従兄がどんな感情を抱いているのかわからない行為に、マルーは軽く混乱した。

「わ、若?」

 視界の中にあるバルトの白いブーツが、その時一歩、前に出る。

「っ?」

 こつん、とおでこがなにかに当たった。ちょっと硬くてだいぶ熱くて、力強いリズムを刻むそれが、マルーの困惑した眉根をうずめる。

 気が付くと、マルーはバルトの胸の鼓動を直に頬で感じていた。

「……若?」

 状況がいまいちわからなくて、ただただその名を呼び続けるマルーは、頭だけを抱きしめられたまま、従兄のリズムに包まれていた。彼の香りと温もりが、幼い頃のそれと変わらないような、変わってしまったような、不思議な感覚に包まれる。

 やがて時間にして数秒の後、バルトは唐突にその手を離した。

「っ??」

 ぼさぼさの前髪のまま慌てて顔を上げるマルーに、バルトはなんだか眩しそうな顔で眉をしかめている。不機嫌そうではないけれど、今まであまり見たことのない種類の表情に、マルーはますます困惑した。

「ね……若、ホントにどうしたの?」
「……別に……」
「それじゃわかんないよ……」

 とらえどころのないバルトの様子に、マルーはどうしていいかわからずに思わず眉を下げると、バルトはちょっとだけ複雑そうに顔をしかめてから、おもむろにマルーのおでこを指ではじいた。

「ケーキ」
「え?」
「食わせてくれよ。俺のだろ?」
「う……うんっ」

 ようやく普段と同じ雰囲気に戻ったバルトの言葉に、マルーは急いで頷いた。給仕をしようと背を向けたマルーに、バルトの低い声が届く。

「……ありがとな、マルー」

 ぱっと振り返り、マルーは満面の笑みで返した。

「へへっ、どーいたしまして!」

 幸せそうなマルーの笑顔に、バルトもつられたように微笑む。それから、手のひらに残る彼女の温もりをそっと握りしめながら呟いた。

「……余裕、か」

 いつかこの手の温もりが失われても、平常でいられる自分になれるのだろうか。

 そんな日が来ることを、バルトは恐怖にも似た感情で思い浮かべながら、今ここにいてくれる従妹の姿を食い入るように見つめ続けた。





 End.





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