この夜を超えれば






 こわくない こわくない なにもこわくないの

 暗闇の向こうに、あなたがいてくれるはずだから

 眼をつぶって走れば、あなたに会えるはずだから

 この夜を越えれば、あなたにとどくはずだから

 なにもこわくない





**********





 ほほに当たる生ぬるい風が、わずかにしめり気を帯びてきた。

 甲板に出て、夏の夕暮れのなごりを眺めていた少女たちは、海の塩気とは明らかに違うそれを感じ取り、不安そうに互いを見やる。

「なんだか…ひと雨来そうだね」

 茶褐色の髪の少女は、遠い水平線にたれ込め始めた暗雲を目に呟くと、銀色の豊かな髪を女の子らしく巻き上げた少女に向かって言った。

「そろそろ艦内に戻ろうか、マリア」
「そうですね。さあ、行きましょうプリムちゃん」

 マリアは言って、黙って夕焼けを見つめていたプリムの手を引く。プリムは素直に頷いて、あいていた手をそっとマルーの手に重ね、不安そうに振り仰いだ。

「なあに? プリムちゃん?」
「……」

 言葉を失って久しい少女は、その大きな眼差しだけでなにかを訴えようとしていた。小さな手の平の柔らかな震えに、マルーは優しく微笑んでやる。

「大丈夫だよ。ちょっとやそっとの嵐じゃ、ユグドラは沈まないから」

 潜水艦で体験する初めての大きな嵐が、プリメーラの不安を掻き立てていることは想像に難くない。自分だって、幼い頃嵐に遭遇するのは怖かった。そんな時は、決まって小さな従兄と一緒に扶育係の青年のベッドにもぐりこんでいたことを思い出して、マルーは柔らかに苦笑する。

「そうよ、プリムちゃん」

 マリアもにこにこと笑って、艦内へと続くハッチを開いた。マルーはなおも心細そうなプリムを安心させるように、繋いだ手を小さく振って、悪戯っぽく微笑んだ。

「それに、もしもユグドラが沈みそうになったって、プリムちゃんには心強いお兄ちゃんがいるしね」
「……」

 その言葉に、プリムは嬉しそうに微笑む。彼女の隣で、マリアが大きく頷いた。

「ええ。私にも、ゼプツェンがいますし」
「マリア、本気にしないでよ……」

 軽口を真に受けてぐっと拳を握ったマリアに、マルーは脱力して肩を落とす。けれども、マリアは大まじめでマルーを振り返った。 

「あら……でも、嵐は平気でしょうけれど、雷でも鳴ったら、ユグドラは大丈夫でしょうか?」
「……だいじょーぶだよお……」

 力なく苦笑しつつも、マルーは少しだけ胸騒ぎを感じていた。

 勿論、ユグドラシルの性能に不安があるわけではない。人類の頼みの綱とも言える巨大戦艦が、高々雷ごときに遅れを取ったとあれば、冗談ではなくお先真っ暗である。

 そんなことではなく……マルーの胸を苛む一抹の不安は、遠い水平線に現れた暗雲がもたらす、暗示的な夜にあった。

「……今夜は、荒れるかなあ……」

 独り言のように呟いたマルーは、プリムの手を引きながら、少しずつ自分の鼓動が速まっていくのを感じていた。風邪の前の悪寒のように、確実性を持ち始めた予感が、じわじわと胸ににじむ。

 艦内に入ってふさぎがちになったマルーに向かって、マリアがおずおずと口を開いた。

「あのう、マルーさん……もしよろしければ、今夜、マルーさんのお部屋で休ませてもらってもいいですか?」

 恥ずかしそうに眉を寄せる歳下の友人に、マルーは反射的に明るく微笑んだ。

「もちろんだよ! じゃあ、今日はみんなで、パジャマパーティーだ」

 楽しく、明るく、何事もないようにふるまっていれば、きっと大丈夫だろう。少なくとも、誰かに頼られている間は、マルーは自分の弱さも恐れも、見て見ぬ振りをする癖がついていた。その癖が、今夜はとても役に立つ。

 三人は仲良く連れ立って、マルーの部屋へと向かった。

 宵闇が訪れ、いよいよ雨音が激しくなり始めた時も、テーブル一杯にお菓子を広げて、わざと楽しい話だけをして、何とか気を紛らわせようとしたけれど。

「……雨の音が聞こえるね……」

 外界とは分厚い装甲版で隔てられているというのに、わずかにも聞こえてくる暴雨の脅威に、マルーは傍らで丸くなっているプリムの頭をなでた。

 浜辺に停泊中もあってか、荒れ狂う波の叫びまで聞こえてくるような気がして、マルーもさすがに心細くなる。

 けれども、自分にすり寄ってくるプリムと、大きな風の音に怯えたように身を縮めるマリアを見ていると、不安な顔などできるわけもない。

「だいじょーぶ。こんなの、大したことないって」

 大げさに笑ってみせて、マルーは暖かいカモミールティを振る舞った。

「さ、これを飲んで、もう寝よう。朝になったら、嵐に洗われた綺麗な空が見れるよ」
「はい……ありがとうございます」
「……」

 マリアとプリムは素直にカモミールティを飲み、暗示にかかったようにやがて静かな寝息を立て始めた。

 そんな二人にそっと毛布をかけ終わった頃、遠くで低い唸り声が聞こえて、マルーはぎくりと身を竦ませる。

 それは空の唸り声。大地に轟く雷鳴の威嚇。

「……」

 薄闇の中、マルーはぐっと拳を握って、己の胸に当てた。

 早く、急いで、二人と一緒に眠りに落ちよう。迫り来る悪夢に、無様に囚われる前に。

 ぎこちなく息をつき、マルーはベッドの中へとその身体を滑らせた。


 どぉぉ……ん……


 再び、稲妻は吠える。マルーの細い身体がびくりと震え、脂汗が額に浮かんだ。

 ブランケットに身を潜め、息を殺すように目を閉じる。眠れ、眠れ、逃げるように眠れ。

 けれど、気持ちを落ち着けるカモミールティも、傍らの暖かい小さな寝息も、なにもかも。

 氷のように強張った冷たいマルーの身体に、安息の眠りをもたらしてはくれなかった。

「……ダメ、か……」

 泣き出す寸前のような声で、マルーがそっと呟いた。





**********





「あれ? 何してんだよ、フェイ、エリィ」

 ガンルームに顔を出したバルトが、珍しく二人並んでカウンターに座っているフェイたちに声をかける。カウンターの奥にはメイソン卿はおらず、二人はおのおのキープしていたボトルをのんびりと空けているようだった。

「よお、ご苦労だったな、作戦会議」

 ユグドラシルの総指揮官の任に就く若き青年に、フェイは労いの言葉をかけると、手にしたコバルトブルーの液体を掲げ、悪戯に誘う少年のような口振りで続けた。

「どうだ、おまえも飲んでいかないか」
「なんだよ、おまえらだけで楽しみやがって。おまえらもたまには七面倒くせえ会議に出席しやがれ」
「そんなに拗ねないでよ。ほら」

 エリィが苦笑して、バルトのためにボトルを傾ける。メイソン卿が丹誠込めて磨いたグラスに、コバルトブルーの液体が美しく流れ込んだ

「サンキュ。けど、珍しいじゃねえか、こんな時間におまえら」
「それがさ、」

 楽しそうに言いかけたフェイの脇腹を、エリィの肘が小突く。痛くもないそれに、フェイはくすくすと笑い始めた。

「何だよ? なに笑ってんだ」
「何でもないのよ」

 つんと澄ましたエリィが、少しだけ赤らめた頬を斜めにそらしたとき、どおんと大きく雷鳴が轟いた。

「きゃ……っ」

 思わず、エリィは傍にいたフェイの腕にしがみついた。彼女の長い髪が揺れ、良い香りがたちこめた瞬間、フェイがどきりと仰け反った。

「何だぁ、今の……」

 一人驚いたように目を丸くしていたバルトに、フェイが呆れたように言う。

「夕方から嵐が来てたの、知らなかったのか?」

 その言葉に、バルトは少々目を丸くして、あらし、と間の抜けた声で呟く。

「作戦会議で、ブリッジの会議室に入り浸ってたからな……。あそこは、ユグドラ一の防音設備なんだ」

 言っている傍から、再び雷鳴が轟いた。地を這う鳴動がユグドラシル全体を震わせる。エリィはいつもの気丈さの欠片も見せず、フェイの腕にしがみついたまま、頭を伏せて震えていた。

「ソラリスでは、雷なんてなかったからな」

 フェイは言いながら、優しくエリィの頭を撫でた。子供にするような仕草だったが、エリィは怒りもせずされるがままになっている。

 普段ならば、そんな二人をからかわないバルトではなかったが、その時ばかりは違った。

 慌てたように立ち上がり、まだ手もつけていないグラスを置いて走り出した親友に、フェイが驚いたように声をかけた。

「おい、どうしたバルト?」

 あっという間にガンルームの外へ飛び出した背中が、やけくそのように声を張り上げた。

「待ってるかもしれねえ!」
「待つ?」

 バルトの言葉に、フェイは訝しんで首を傾げるが、そんな彼には目もくれず、バルトは全速力で自室へと向かった。





**********





 どお……ん
 

 一層激しい雷鳴に、びくりとふるえる肩を抱く。

 冷たい装甲板に寄りかかりながら、持ち主のいない部屋の扉を見つめた。

 こんなところにきて、なにを期待していたのだろう? 

 返事のない扉。主の居ない部屋。

 もしかしたら、彼も……なんて、自分自身の弱さをごまかす醜い期待を裏切られて、自嘲的な笑みがこぼれる。

 それでも、不思議なことに、ここに主がいないことが、心のどこかで嬉しかった。

 彼は、いつも前を向いている。暗がりに目を伏せて逃げ回るような無様は、彼には心底似合わない。

 その、潔さが。その強さが、その明るさが、好き。

 だけど。

 自分だけが一人、こんなところにくすぶって、うずくまって、とても惨めだ。

 もっと強くなりたいのに、彼に追いつこうと思うのに。

 願う端から弱くなる。
 

 どおお……ん


「……っ」

 雷鳴に身体が震え、泣くまいとかみしめた唇が、短い嗚咽を漏らした。

 こんなところで一人で、立ち尽くして泣いて。

 こんな姿は望んでいない。

 望むのはもっと、もっと。


「わ……かぁ……」


「マルー!」

 呟いた瞬間、背後から名前を呼ばれて、マルーははっと振り返った。

 そこには、肩で息をするバルトが立っていた。

 その顔を見た瞬間、マルーはほっと安堵した。そして、空気の抜けた風船のように、にじみ出る後悔にうつむく。

「……ごめん、なさい、若」
「――なに、謝ってんだよ……」

 ふーっと肩で息をつき、バルトは苦い笑みのようなものを浮かべた。それは彼にしては繊細な、壊れるような笑みだった。

 普通ならばこの後に、マルーをからかう軽口が続くはずなのに、それすら出てこないのはマルーの状態を気遣っているからだ。薄ら笑いを浮かべて、ごまかすようにため息をつくのが精一杯。

 そんなバルトの不器用な態度に、マルーが気がつかないはずがない。従妹がなにかを察する前に、できるだけさりげない風を装って、バルトはきっかけを探した。

 見ると、マルーの手には盆に乗せられた茶器がある。

「なに持ってんだ?」
「……カモミール……。これ、一緒に飲もうって、思って」

 練習してきたような微笑を浮かべたあと、マルーはうつろな眼差しを床に向けて肩を竦めた。

「…えへ…いいわけ、だ」

 『なに』に対しての言い訳か、バルトにはわかった。わかったからこそ、それを『いいわけ』と言い切るマルーを心底憎らしく、思う。

 言い訳なんて必要ないのに。むしろ、言い訳を必要としているのは、心配もいたわりもろくに表してやれない、不器用な自分の方なのに。

「……飲もうぜ」

 それでも、なんにせよ、話のきっかけを作ってくれたマルーに感謝した。ぶっきらぼうにそう言って、バルトは自室の扉を開ける。持ち主の戻った部屋に淡い室内灯がともされて、先に立って入った彼の背を明るく照らした。

 マルーはそれを胡乱な瞳で見つめて、そして鋭く口を開いた。

「……ごめんね! やっぱり、ボク、帰るよ」
「あ?」

 突然の言葉に驚いたバルトが振り返り、マルーがきびすを返した瞬間、


 どおおおお……っん


「きゃあぁぁぁぁっ!」

 ひときわ大きな雷鳴と、ユグドラシルそのものを震わせる巨大な衝撃に、マルーは高い悲鳴を漏らしてその場にうずくまった。手にしていたカモミールティが、機械的な床に滲んでいく。

「マルー!」

 駆け寄ったバルトの腕が、力強くマルーを抱き起こした。マルーはがくがくと震えながら頭を振る。

「マルー! おい、しっかりしろ、マルー!!」
「い……や、いやぁ……ばると、ばるとを、いじめないで……」

 バルトの腕の中で、野ウサギのように震えるマルーの言葉に、バルトは胸が締め付けられた。

 『ばると』――たどたどしく幼い口調が、心の奥に封じていたものを暴力的に揺さぶり起こす。

 あの日――アヴェ宰相シャーカーンに幽閉され、初めて鞭を受けた日。

 折しも外は、雷雨に見舞われていた。

 マルーを庇い、必死になって痛みと恐怖に耐えていたバルトは、雷の音など耳にも入っていなかったが、彼の腕に抱かれ、しなる鞭の音と彼の呻き声を聞いていたマルーは、彼の苦痛と共に、雷鳴の全てを魂に刻み込んだ。

 その刻印は奥深く、マルーの全てを侵食した。

 救出され、ユグドラシルで生活するようになってからしばらくも、雷のいななきに鞭の音を重ね、何の不安もない世界から再び悪夢へと連れ戻される彼女を、そのたびにバルトは優しくいたわり、このごろようやくその発作は静まっていたと言うのに、突然の再発。

 いや……突然、ではないのかもしれない。

 同じ艦に起居していた幼い頃、愛情を埋め込むようにして宥めていた発作に、遠く離れたニサンの地で苦しんでいなかったか、バルトには知る術もない。

 たとえ毎夜苦しんでいたとしても、そんなことを死んでも口にするはずがない、従妹の強情は知っていた。

 バルトは小さく舌打ちをした。

「マルー……大丈夫だ、俺はなんともないから」

 言いながら、バルトはゆっくりとマルーの身体を抱き上げた。無防備な少女は羽のように軽い身体をこわばらせ、バルトの胸にすがりついている。

 普段ならば、こんな醜態をさらすことはない気丈な少女が、我に返ったらどんな顔をするだろう。おそらく、バルトにとってあまり愉快ではない、辛く、悲しい顔を見せるだろうことは容易に想像できた。

 こんな風に甘えられるのは、嫌いではない。不謹慎かもしれないが、自分の甘えや弱みを決して許さない、哀れなほど張りつめたマルーを見ているよりは、はっきりとこの手で守っているという実感がわく方がいい。

 けれどもそれは、間違いなくこの小さく華奢で、芯の強い従妹を傷つけることになる。バルトはそれだから、胸を張って俺に甘えろと命令できずにいるのだ。

 それはどこまでも続く平行線であるように見えた。


「――わか……?」


 バルトが自室に入り、マルーの身体をベッドに横たえたとき、小さな呟きがもれた。

「大丈夫か?」

 混乱は収まり、すっかり元のマルーに戻ったような彼女に、バルトは複雑な声を上げる。あからさまに心配しているような声では、彼女が自己嫌悪に陥ることを知っているから。

「……うん」

 そんなバルトの気遣いも空しく、マルーは表面上は微笑んだが、瞳の奥に拭いようもない自責を見せる。バルトは軽くため息をついた。

 マルーは、乱れた前髪を細い指でそろえながら、ポツリと囁いた。

「ごめんね、若……。また、迷惑かけちゃった」

 わざと、おどけたように。赤い舌を出すマルーに、バルトは苦いものを感じた。

「……ばかやろう」

 こつんと額を小突き、バルトはマルーの隣に腰を下ろす。マルーは額を押さえながら、少しだけ驚いたように目を丸くした。

「誰が迷惑なんつった。みくびんなよ」
「だって……ボク、いつまでたっても雷平気になれないし……そのたびに若に頼って、甘えてばっかで……ホントに、ダメだよね……」
「……いいんだよ。おまえばっかが頼ってるわけじゃねえんだから」
「え?」

 バルトの言葉に、マルーははっと顔を上げた。淡い室内灯でもはっきりと解る、血の気の失せた顔色にバルトはそっと手を添える。

「俺だって……。おまえに助けてもらってるんだ。お互い様だよ」
「そんなこと……」
「いーんだよ。おまえは自分が気づかないだけなんだ。俺が言うんだから、信じろよ」

 強引に言いくるめ、バルトは柔らかいマルーの頬を悪戯につねった。マルーはその手にそっと手を添えて、じっとバルトを見つめる。

「……ほんと?」
「ああ」
「ほんとにほんと?」
「ほんとだよ」
「ほんとに……ほんとにほんと?」

 しつこいぞ、とバルトが呆れる前に、マルーはバルトの手をぎゅっと握って、今までに見せたことがないほど嬉しそうに微笑んだ。

「……ありがとお……若」

「……何言ってんだよ、馬鹿」

 くすぐったそうに言って、バルトは明後日を向く。マルーはそんなバルトの硬い手を握りしめながら、胸の奥の棘が少しずつ、その痛みを和らげていくのを感じていた。

「ねえ、若」
「ん?」

 明るく囁いたマルーに、バルトはわざと気のなさそうな返事を返す。マルーはそんな彼に、すっかりおねだりモードで言った。

「今夜泊めて」
「……んあ!?」

 驚いたバルトの声とともに、遠くで雷がどおんと震える。

「いいでしょ? 若が言ったんだからね、頼っていいって」

 マルーは無邪気にそう言って、もぞもぞとベッドに潜り込む。バルトは慌てて立ち上がった。

「な……、だっ、こら、マルー……っ」
「お願い、今夜だけでいいから。もう、雷が怖いなんて言わないから」

 布団を被り、大きな瞳をこちらに向けるマルーに、バルトは直立不動のままぱくぱくと口を開閉し、がっくりと肩を落とす。 

「……どうせ俺は、抱き枕ですよ」

 小さく、どこか悔しそうに呟くバルトに、マルーはくすっと微笑んだ


「……若、大好きだよ」


 聞こえてしまわないように、そっと囁いて。





 End.




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