バレンタイン狂詩曲

「マルーっ」
 個々の居室には完全に防音が施されているが、夜更けの回廊で大きな声を出すのはためらわれた。バルトは、前を行くちいさな背中に抑えた声量で声をかける。
 角を曲がろうとしていたマルーは、その声にびくりと背中を震わせた。そのまま振り返らない彼女に追いついて、バルトは怪訝そうに眉音を寄せる。
「どうした? 調子悪ぃのか?」
 その問いかけに、マルーはわずかな間をあけて、ぶんぶんと首を振った。
「んーん、大丈夫だよ。ただちょっと……あは、やっぱ疲れたな……」
 項垂れてこちらを見ないまま答えるマルーに、バルトはどことない胸騒ぎを感じる。上手く言えないが、遠い昔の幼い日、悪戯がバレてシグルドにこっぴどく叱られた時のような、頼りなく泣き出しそうな空気を感じて、思わず腰を屈めた。
「マルー」
「っ!」
 目線の高さを同じくし、棗色の髪に隠れた従妹の顔を覗き込むと、ぎょっとするほど青い顔だった。その上、間違いなく目元が潤んでいる。ここ何年、下手をすれば十年以上マルーの涙など見たことがなかったバルトは、その事実に手もなくうろたえた。
「どっ、どうしたマルー!」
「だ、大丈夫、ちょっと目に……ゴミが入っただけ」
 下手な言い訳に、バルトは反射的に苛立った。こうなると、マルーはなかなか本心を明かさない。我慢強く意地っ張りな従妹の気質をよく知るバルトは、問答無用でそのちいさな肩を抱いて歩きだした。
「えっ、わ、若……」
 折よくそこは、バルトの私室のすぐ近くだった。足早に扉をくぐり、部屋の中に入ったバルトは、マルーの肩から手を離して改めて向き合う。
「で、なにがあったってんだよ?」
「……」
「あのな、今更ごまかしたりするなよ、時間の無駄だ」
 突っぱねるような言い方だが、自分のことを心配しているのが痛いほど伝わって、マルーはおずおずと視線を上げた。こちらを見つめるバルトの碧玉の瞳が、真剣な光を浮かべていることに、これ以上はごまかすことができないな、と肩を落とす。
 疲労とは、本当に厄介だ。今日、これほど疲れてさえいなければ、きっともっと上手にふるまえた。こんなふうに、気にしてくださいといわんばかりの態度で、懺悔することもなかっただろう。
 観念して、マルーはちいさく唇を開いた。
「……若の、持ってる、それ」
 指さした先に、ひしゃげた小箱がある。丁寧に梱包し、こころを尽くして用意したチョコレートは、ずいぶん可哀相な目にはあっているけれども、贈りたい相手には過たず渡っている。
 そのことに勇気づけられて、マルーはまっすぐにバルトを見上げた。
「それ、ボクが用意したチョコレート……だよ」
「へ?」
 簡潔な言葉に、けれどもバルトはなにを言われたのかわからないように間の抜けた声を上げた。そして反射的に手元の小箱を見つめ、ゆっくりと視線をマルーに戻す。
「……こ、これ……?」
「うん……」
「お前の、チョコ……?」
「うん……そだよ」
「えっ……」
 絶句したバルトに、マルーはちいさくため息をついた。
「ホントは、もっとちゃんと渡すつもりで用意してたんだ……でも、ボクの不注意でなくしちゃって……諦めようかとも思ったけど、それもできなくて……」
「……」
「はぁ……うまくいかないね、やっぱり」
 一世一代の大告白。慣れない意思表示などしようとしたのが間違いだったか。
 ニサンという国を背負い、大教母という責任を負った十六歳の少女が、唯一愛した青年は、けれど手の届かない星だったのだ。たとえマルーが想いを告げたところで、万が一彼が応えてくれたところで、明るい未来があるわけではない。国の情勢次第では、決して結ばれないふたりなのだ。今はまだ、一緒にいられるけれど、明日はどうかわからない。そんな不安定な中でも、だからこそ、どうしても伝えたかった。
 バレンタイン・デーのチョコレート。そこに込められたマルーの真心は、半分方食べられて、包装もボロボロだ……
 その時だった。
「っ!」
 突然、バルトの大きな手のひらが、マルーの両腕を強くつかんだ。ほとんど爪先が浮くほど持ち上げられた彼女は、眼前に迫った片粒の碧玉が、怖ろしいほど鮮烈に燃えていることに驚いて、目を丸くする。
 バルトは、マルーと鼻先を突き合わせるようにして低く問うた。
「……誰だ」
「えっ」
「誰に、このチョコ、贈るつもりだった」
「えっ、若だよ」
 つるりと答えたマルーに、バルトは真剣な眼差しのまま沈黙した。マルーはあまりにも強い視線にたじろぐように、頬を染めて瞼を伏せる。
「……若だよ……若に、決まってるじゃんか……」
 恥じらうように呟いて、マルーは唇を尖らせた。その瞬間、掴まれていた腕にぐっと力がかかり、その痛みに思わず声が出る。
「いたっ……」
「っ、あ、悪ぃ……」
 慌てたバルトが謝るが、けれど手は離れなかった。そのままそっと、大きな手のひらはマルーの背中に回り、壊れ物を扱うように優しく、彼女の身体が包み込まれる。
 バルトの胸に頬をつけて、マルーは声も出せずに驚いていた。気安い従兄妹の間柄なので、身体に触れるスキンシップはしょっちゅうだったけれど、こんなふうに抱きしめられたことはない。
 これでは従兄妹同士じゃなくて、幼馴染じゃなくて、まるで……
「――マルー」
「はっ、はい」
 つむじの上に直接響いた低い声に、マルーは思わずうわずった返事をする。バルトはマルーの背骨に手を添えて、ギリギリの力加減を加えた。
「このチョコは……ニサン式で、いいんだな?」
 その持って回った問いかけに、マルーは真っ赤になる。ニサン正教内のバレンタイン・チョコ。それは婚約指輪とも、結婚証明書ともいわれる重い重い愛の証明。
 マルーはおずおずとバルトの背中に手を回し、こくりとちいさく頷いた。
 するとバルトは力を抜いて、マルーのつむじに顎を預けた。そのままはぁ~っと息をつき、彼女に覆いかぶさっていく。
「えっ、わっ、わかっ、ちょ、まっ……っ」
 バルトの体重を支えることなどできるはずもなく、マルーが膝を曲げて倒れそうになると、バルトの両腕がその背中をさらうようにすくい、あっという間に天地が回った。足が地面から離れたことに気づくと同時に、マルーは胡坐をかいたバルトの足の間にすっぽりと収まっていた。
 乱れた前髪の下、大きな瞳を真ん丸にして驚いているマルーを見下ろすと、バルトはほんの少し悪戯気な瞳で、二ッと笑う。
「俺を驚かせた、罰」
「わ、わかっ」
「あと、俺のチョコをフェイたちに食わせた罰」
「食わせたって……、それ、ボクのせいじゃないじゃんか……」
 唇を尖らせるマルーの目の前で、バルトが器用に片手で箱のふたを取り、もう片方の指でトリュフをひとつ摘まんだ。
「十八年の人生で、初めてもらったバレンタイン・チョコだっつーのに、一人で堪能する暇もなかった罰」
「だから、それは……っんぐ」
 開いた唇に、バルトがトリュフを押し込んだ。マルーはとっさのことに目を白黒させてそれを含む。口内に、甘いカカオの味が広がった。
 それと同時に、バルトの唇がマルーの唇を塞いだ。驚いて思わず目を瞑ると、彼の舌がチョコを追うようにもぐりこみ、ふたりの熱に溶かされたカカオが、お互いの口内に広がっていく。
 チュッと甘い水音とともに、バルトの唇が離れると、マルーは熱に浮かされたような赤い顔で目を開けた。潤んだまなざしの向こうで、バルトは相変わらず真剣な眼をしていた。
「覚悟、できてんだろうな」
「…………」
「俺は重いぞ」
「……ボクの方が、重いよ」
 くすくすと笑って、マルーは涙のにじんだ瞳を細めた。真剣な顔をしてたって、唇がチョコレートで汚れている。きっと自分も同じだと思うと、こんなふうに一世一代の告白をしているのが、なんだか自分たちらしくて笑えた。
 マルーはちいさく舌を出し、バルトの口元をぺろりと舐めた。チョコレートの味がする。バルトは少しだけ上気した頬で、自分の唇を親指で拭った。
 それから不意に、マルーのちいさな頭を抱きしめる。先ほどと同じように、マルーの頬がバルトの胸板に押しつけられると、どくどくとせわしない鼓動が肌に伝わってきた。
「……さて。ンじゃ、さっさとシャーカーンのハゲ野郎をぶっ飛ばしてくっか」
 全身に響くバルトの声。そのぬくもりと強い力に、マルーは改めてにじむ視界をごまかすように目を瞑る。
「うん、そだね。がんばろうね、若」
「やることやんねぇと、話が始まんねぇからな」
「うん」
「シャーカーン片付けて、フェイたちの方も何とかして、まあ……いつになるかわかんねぇけど」
「うん」
「待ってろ」
 その言葉に。
 明日はどうなるかわからない、お互いに不確かな未来に。
 マルーは、こころの底からわき上がる喜びを感じて、力の限りバルトの身体を抱きしめた。
「……っ、うん、うんっ! まってる、待ってるよ、若……!」
 バルトのたった一言で、世界はこんなにも変わる。厳密にいえば状況はまだなにひとつ変わっていないけれど、バルトを待っていることこそが、マルーをマルーたらしめる希望だった。
 そんなマルーをさらにきつく抱きしめながら、バルトが言う。
「それにしても……ちくしょう、やっぱムカつくぜ」
「え?」
「このチョコ、フェイとビリーも食いやがった」
 俺のなのに……と、まだブツブツと悔しがるバルトに、マルーは心底幸せそうにくふくふと笑う。
「しょうがないじゃないか。それに、まだ残ってるでしょ?」
「あのなあ、アヴェの男にとって、バレンタイン・チョコってのはそんな簡単に割り切れるもんじゃねえんだぞ」
「ニサンの女の子にとったってそうだよ」
 指輪より、プロポーズよりも重いもの。自分のむき出しの真心を、可愛らしい包装紙に包んで、愛しい人に食べてもらう。
 実はそれには、もうひとつ意味があった。敬虔なニサン正教徒であるけれども年頃の娘でもある若いシスターたちが、年かさのシスターの厳しい目を盗んでコソコソとかわす内緒話。それは、風に乗りマルーの耳にもこっそりと届いている。
 愛する人に、自分の思いを食べさせる。ひいてはそれは、自分をまるごと相手に捧げることと同義で。
 そんな俗習を思い出し、マルーは頬を真っ赤に染めた。バルトと抱き合っている状態でこんなことを考えるのは、いささか間が悪い。恥ずかしさにいたたまれなくなって、マルーは少しだけバルトと距離を取ろうと、もぞもぞと動いた。
 それに気づいてか、バルトが腕の力を緩めた。マルーが、そっと顔を上げてバルトを見上げると、彼はまるで知らない男性のように、なんともいえない色を含んだ微笑みを浮かべてこう言った。
「――ま、俺はチョコより美味いもんもらえるから、許してやるか」
「っ」
 背中に添わされていたバルトの熱いてのひらが、仰向いたマルーのうなじに這いのぼる。その微妙で露骨な意思表示に、マルーは火が出るほど赤くなった。
 そんなマルーの反応に、けれどバルトはしてやったりというふうに声を上げて笑う。
「ははっ、その顔。なーんだよ、ちゃんと意識してんのか」
「なっ……ちょ、若っ!」
「オトナになったもんだな、マルー」
「もーっ、からかわないでよ、いじわる!」
 ずいぶんと余裕ぶったバルトの腕の中で、マルーはむくれたように声を上げた。そんな彼女に、バルトは満足そうな顔をする。
「そうむくれんな。心配しなくても、いきなり取って食ったりはしねぇよ」
「いっ……! き、なり、とか、むり……っ」
「だから、しねぇって」
 これ以上ないほど真っ赤に熟れたマルーの頬を両手で包み、バルトは彼自身うっすらと赤く染まった浅黒い頬を緩ませて、こつんと額を合わせる。
「けど、お前の気持ちは受け取った。待ってろ、必ず迎えに行ってやる」
「……うん……」
「――いいか。俺は、ニサンの大教母でも、正教の正嫡でもない、マルグレーテ・ファティマを貰い受ける」
「っ」
 静かなバルトの言葉に、マルーは思わず息を呑んだ。そのまま、あまりに近いところで輝く一粒の碧玉から目を離せずに見守る。
「だからお前も、周りがなんて言ったって、バルトロメイ・ファティマだけを待ってろ」
「……うん……わかった……」
「……待ってろよ」
「はい……」
 そのまま零れたマルーの涙を追うように、バルトの唇が再び彼女の唇を優しく包んだ。
 それは塩辛く、けれど甘い、とびきりのバレンタイン・チョコレートの味がした。 



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