バレンタイン狂詩曲
誰がなんの目的ではじめたのか、皆目さっぱりわからない行事。
それが、バレンタイン・デー。
特に宗教上の理由はないけれど、ニサン法王府でも古くから伝わっているその風習は、アヴェはもちろん、他の国や地域でも形や意味合いを変えつつ行われている。キスレブでは、恋人や友人同士が花やお菓子などを贈り合う日で、シェバトではもっぱら家族や親しい人へ贈り物をする慣例だとか。
ニサンでは、何故か女性が男性へチョコレートを贈ることで愛を伝える日と定まっている。近年では愛の告白が拡大解釈され、日頃の感謝を込めた義理チョコや、仲の良い友人への友チョコなど、必ずしも恋愛的な意味をなさないチョコレートの贈答も流行り始めているようだが、それはあくまでも他国においての例外で、片翼の天使を教義として大切に伝えるニサン正教においては、ただひとりと定めた男性へ、女性が真心を込めてチョコレートを贈るという、シンプルかつ露骨な求愛行為の意味合いが未だ根深い。
もちろん、ニサン正教と密接なつながりを持つ砂漠の大国アヴェもその解釈であり、バレンタインのチョコレートとは、求婚したい相手に指輪を贈るくらいには厳粛で、かつ真剣な愛情表現とされていた。
ゆえに、今年のバレンタイン・デーにマルーが用意したチョコレートは、正真正銘彼女が生まれて初めて異性に捧げた愛の証であり、他の誰にも与えられない彼女の真心であった。
その、チョコレートが。
「な、な、無い……っ」
真っ青になって呟くマルーは、先ほどまでの狂騒がひと段落した医務室の隅、替えの包帯やリネン類が折り重ねられた一角で途方に暮れていた。
今日という日、戦艦ユグドラシルは補給のため近郊の隠れアジトに寄港していた。物資や燃料の調達に向かったクルーたちだったが、折悪しく見舞われた砂嵐に巻き込まれ、多数の負傷者を抱えての帰艦となった。
隠れアジトはひと目につかないよう考慮された性質上、町や集落への距離があり、またその道のりも困難なものだった。整備された街道を極力避け、道なき道を進む隠密行動は、時としてこのような事故に見舞われてしまう。だが、そんな作戦に慣れたクルーたちは、予期せぬトラブルにも善く対処し、重傷者は一人も出さなかった。
しかし、軽傷であるとはいえ怪我人は怪我人であり、さらに人数も多い。加えて、補給物資のサルベージや周囲の哨戒など、停泊中のユグドラシルはクルー総出での対応を余儀なくされた。
それはもちろん、非戦闘員であるマルーも例にもれず、こういった不測の事態にこそ真価を発揮する彼女は八面六臂の大活躍だった。エーテル回復の担い手として救護にあたり、それを必要としない者への看護もかけもった。目まぐるしく動くクルーたちのサポートに徹し、適切だがさり気ない働きでトラブルに対処していた。
そんな努力の甲斐もあって、すべてが無事に落着し、戦艦ユグドラシルに再びの安穏が訪れたのは、事故発生から五時間余りたったころ。夕刻をすぎからのてんやわんやが終わり、気が付けば日付も変わろうかという時刻、ほとんどのクルーは就寝や夜勤のためそれぞれの持ち場へ戻っている。
そんな時、マルーは、大切な落とし物に気づいたというわけだ。
そもそも、今日という日はよりにもよって、バレンタイン・デーであった。事前に準備してこっそり所持したチョコレートは、可愛らしいオレンジ色の包装紙に包まれた、両手に収まるほどのもの。夕食が終わり、自室にいるだろう目的の人物へそれを渡すために、胸を高鳴らせて回廊を渡っていた時、エマージェンシーコールと共に負傷したクルーたちがなだれ込んできた。
咄嗟のことに、マルーは状況を確認するため走った。そして、負傷者で溢れる医務室に飛び込み、あとは夢中で動いていた。
そして、今である。
「……どうしよ……」
ぽつんと呟き、疲れた肩を落とす。確かにここに置いていたのだが、人や物がごった返した数時間で、行方不明になってしまったマルーの真心。生まれて初めて、こころから愛する男性へと用意した大切なそれは、今頃どこにあるのだろう。
重なったリネンをよいしょと持ち上げて、隅々まで確認するがどこにもない。ベンチの下や包帯の隙間、アクアソルの空瓶の中まで探したけれど見つからない。そうしているうちに、なけなしの体力がつきかけて、マルーはその場にぺたんと尻もちをついた。
「あーあ……ついてないや……」
大きなため息をついて、湿っぽくひとりごちる。そもそも、ボクがチョコレートを贈ろうなんて、思ったことが間違いだったのかな。疲れ切ったこころと身体は、すぐに後ろ向きになるマルーに追い打ちをかけていた。
今年、マルーが生まれて初めて思いのこもったチョコレートを贈る決心をしたのには、理由があった。
思いがけない状況に翻弄されて、数年ぶりに戦艦ユグドラシルに乗艦し、従兄と近しく住み暮らすことになる前。十六歳になったマルーには、縁談があった。
正確には、そろそろ大教母としての配偶者を定め、後継を考えなければならないという、正教内部の意志を伝えられた。マルーは、数百年の間連綿と続いたニサン正教の最高指導者の末裔であり、唯一の生き残りだ。その血には、国と歴史を背負う義務があり、マルーが将来なすだろう子供にも、それは受け継がれてゆく。
たった十六歳の少女に対し、現実はあまりにも過酷だった。それでもマルーは、いつかは来るであろうその事実を冷静に受け止めた。マルーを扶育してきた古参のシスターたちは、少しでも彼女のこころを慰めるためか、幼い頃からともに育ち、憎からずマルーが想いを寄せる従兄と結婚する未来を示唆したが、彼が祖国を奪われ海賊家業に身をやつしている現状、それは夢物語だということをシスターもマルーもわかっている。
その悲願を達成し、アヴェの王座に返り咲いたならば、なにかが変わるかもしれない。けれども、それを待つ時間がマルーにはあるのか。今はまだ、ギリギリのところで保たれているが、シャーカーンによる内政干渉を退けられる体力が、ニサンにはあとどれほど残されているだろう。
そんな中、偽情報に踊らされたマルーがシャーカーンに捕まったことから端を発した現在までの状況は、諸々の事情をすべて混乱させた。
ニサンに戻ることが出来ず、戦艦に起居する自分は今後どうなるのか。ニサン正教大教母としての責務がどう変わるのか、まったく予測がつかない。
その、奇跡のような猶予期間に。
マルーは、バルトに想いを告げることを決心したのだ。
マルーにとってのバルトは、唯一残された肉親であり、ともに育った従兄であり、頼りになる親分であり、この命に代えても守りたい存在だ。そこに男女の情愛は薄く、それよりはまるで、神を崇拝するように無垢なこころで慕っていた。
だが、十六になって突きつけられたタイムリミットが、彼女のこころを急激に成長させた。
自分が女であること、か弱く守られる存在であることを忌み嫌っていたマルーは、けれど結局のところ、自分が『女』として『子をなすこと』を求められる存在だということを否が応にも自覚させられ、その先に求めた光が、バルトだった。
そしてさらに、戦いが激化する中で、お互いに明日をも知れぬ身となった。今までも、亡国の王子として身を隠し、祖国奪還を掲げて活動してきたバルトには、危険はつきものだった。けれども、ことが急激に動き出したような今、その危うさは比べ物にならないくらい大きい。
自分も、いつどうなるかわからない。もし、なにも告げずなにも知らせず、若と離れ離れになってしまったら。一生会えなくなってしまったら。
そう思うと、マルーはもう、いてもたってもいられなかった。
前日に女の子たちだけが集まって作られたチョコレート。エリィはソラリスの風習にそって、フェイはもちろんマルーや他の仲間にも贈ると言っていた。マリアやプリメーラも、日頃の感謝や親愛の情として、楽しそうに用意していた。
そんな中、マルーだけは。
誰にも気持ちを打ち明けられず、悲壮感すらもって、この世に唯一の、もしかしたら最初で最後になるかもしれない、こころのこもったチョコレートを作った。
その、チョコレートが。
「……こうしちゃいられない……まだ、諦めてなんかやるもんかっ」
医務室の床の上、マルーは握りこぶしを作って顔を上げた。疲労は人を駄目にする。疲れてて、お腹が空いてるから、こんなふうに弱気になるんだ。深夜に近いこの時間でも、ガンルームに行けばなにかつまめるものがあるだろう。
腹ごしらえをしたら、チョコレート捜索の開始だ。マルーは、勢いをつけて立ち上がった。
それが、バレンタイン・デー。
特に宗教上の理由はないけれど、ニサン法王府でも古くから伝わっているその風習は、アヴェはもちろん、他の国や地域でも形や意味合いを変えつつ行われている。キスレブでは、恋人や友人同士が花やお菓子などを贈り合う日で、シェバトではもっぱら家族や親しい人へ贈り物をする慣例だとか。
ニサンでは、何故か女性が男性へチョコレートを贈ることで愛を伝える日と定まっている。近年では愛の告白が拡大解釈され、日頃の感謝を込めた義理チョコや、仲の良い友人への友チョコなど、必ずしも恋愛的な意味をなさないチョコレートの贈答も流行り始めているようだが、それはあくまでも他国においての例外で、片翼の天使を教義として大切に伝えるニサン正教においては、ただひとりと定めた男性へ、女性が真心を込めてチョコレートを贈るという、シンプルかつ露骨な求愛行為の意味合いが未だ根深い。
もちろん、ニサン正教と密接なつながりを持つ砂漠の大国アヴェもその解釈であり、バレンタインのチョコレートとは、求婚したい相手に指輪を贈るくらいには厳粛で、かつ真剣な愛情表現とされていた。
ゆえに、今年のバレンタイン・デーにマルーが用意したチョコレートは、正真正銘彼女が生まれて初めて異性に捧げた愛の証であり、他の誰にも与えられない彼女の真心であった。
その、チョコレートが。
「な、な、無い……っ」
真っ青になって呟くマルーは、先ほどまでの狂騒がひと段落した医務室の隅、替えの包帯やリネン類が折り重ねられた一角で途方に暮れていた。
今日という日、戦艦ユグドラシルは補給のため近郊の隠れアジトに寄港していた。物資や燃料の調達に向かったクルーたちだったが、折悪しく見舞われた砂嵐に巻き込まれ、多数の負傷者を抱えての帰艦となった。
隠れアジトはひと目につかないよう考慮された性質上、町や集落への距離があり、またその道のりも困難なものだった。整備された街道を極力避け、道なき道を進む隠密行動は、時としてこのような事故に見舞われてしまう。だが、そんな作戦に慣れたクルーたちは、予期せぬトラブルにも善く対処し、重傷者は一人も出さなかった。
しかし、軽傷であるとはいえ怪我人は怪我人であり、さらに人数も多い。加えて、補給物資のサルベージや周囲の哨戒など、停泊中のユグドラシルはクルー総出での対応を余儀なくされた。
それはもちろん、非戦闘員であるマルーも例にもれず、こういった不測の事態にこそ真価を発揮する彼女は八面六臂の大活躍だった。エーテル回復の担い手として救護にあたり、それを必要としない者への看護もかけもった。目まぐるしく動くクルーたちのサポートに徹し、適切だがさり気ない働きでトラブルに対処していた。
そんな努力の甲斐もあって、すべてが無事に落着し、戦艦ユグドラシルに再びの安穏が訪れたのは、事故発生から五時間余りたったころ。夕刻をすぎからのてんやわんやが終わり、気が付けば日付も変わろうかという時刻、ほとんどのクルーは就寝や夜勤のためそれぞれの持ち場へ戻っている。
そんな時、マルーは、大切な落とし物に気づいたというわけだ。
そもそも、今日という日はよりにもよって、バレンタイン・デーであった。事前に準備してこっそり所持したチョコレートは、可愛らしいオレンジ色の包装紙に包まれた、両手に収まるほどのもの。夕食が終わり、自室にいるだろう目的の人物へそれを渡すために、胸を高鳴らせて回廊を渡っていた時、エマージェンシーコールと共に負傷したクルーたちがなだれ込んできた。
咄嗟のことに、マルーは状況を確認するため走った。そして、負傷者で溢れる医務室に飛び込み、あとは夢中で動いていた。
そして、今である。
「……どうしよ……」
ぽつんと呟き、疲れた肩を落とす。確かにここに置いていたのだが、人や物がごった返した数時間で、行方不明になってしまったマルーの真心。生まれて初めて、こころから愛する男性へと用意した大切なそれは、今頃どこにあるのだろう。
重なったリネンをよいしょと持ち上げて、隅々まで確認するがどこにもない。ベンチの下や包帯の隙間、アクアソルの空瓶の中まで探したけれど見つからない。そうしているうちに、なけなしの体力がつきかけて、マルーはその場にぺたんと尻もちをついた。
「あーあ……ついてないや……」
大きなため息をついて、湿っぽくひとりごちる。そもそも、ボクがチョコレートを贈ろうなんて、思ったことが間違いだったのかな。疲れ切ったこころと身体は、すぐに後ろ向きになるマルーに追い打ちをかけていた。
今年、マルーが生まれて初めて思いのこもったチョコレートを贈る決心をしたのには、理由があった。
思いがけない状況に翻弄されて、数年ぶりに戦艦ユグドラシルに乗艦し、従兄と近しく住み暮らすことになる前。十六歳になったマルーには、縁談があった。
正確には、そろそろ大教母としての配偶者を定め、後継を考えなければならないという、正教内部の意志を伝えられた。マルーは、数百年の間連綿と続いたニサン正教の最高指導者の末裔であり、唯一の生き残りだ。その血には、国と歴史を背負う義務があり、マルーが将来なすだろう子供にも、それは受け継がれてゆく。
たった十六歳の少女に対し、現実はあまりにも過酷だった。それでもマルーは、いつかは来るであろうその事実を冷静に受け止めた。マルーを扶育してきた古参のシスターたちは、少しでも彼女のこころを慰めるためか、幼い頃からともに育ち、憎からずマルーが想いを寄せる従兄と結婚する未来を示唆したが、彼が祖国を奪われ海賊家業に身をやつしている現状、それは夢物語だということをシスターもマルーもわかっている。
その悲願を達成し、アヴェの王座に返り咲いたならば、なにかが変わるかもしれない。けれども、それを待つ時間がマルーにはあるのか。今はまだ、ギリギリのところで保たれているが、シャーカーンによる内政干渉を退けられる体力が、ニサンにはあとどれほど残されているだろう。
そんな中、偽情報に踊らされたマルーがシャーカーンに捕まったことから端を発した現在までの状況は、諸々の事情をすべて混乱させた。
ニサンに戻ることが出来ず、戦艦に起居する自分は今後どうなるのか。ニサン正教大教母としての責務がどう変わるのか、まったく予測がつかない。
その、奇跡のような猶予期間に。
マルーは、バルトに想いを告げることを決心したのだ。
マルーにとってのバルトは、唯一残された肉親であり、ともに育った従兄であり、頼りになる親分であり、この命に代えても守りたい存在だ。そこに男女の情愛は薄く、それよりはまるで、神を崇拝するように無垢なこころで慕っていた。
だが、十六になって突きつけられたタイムリミットが、彼女のこころを急激に成長させた。
自分が女であること、か弱く守られる存在であることを忌み嫌っていたマルーは、けれど結局のところ、自分が『女』として『子をなすこと』を求められる存在だということを否が応にも自覚させられ、その先に求めた光が、バルトだった。
そしてさらに、戦いが激化する中で、お互いに明日をも知れぬ身となった。今までも、亡国の王子として身を隠し、祖国奪還を掲げて活動してきたバルトには、危険はつきものだった。けれども、ことが急激に動き出したような今、その危うさは比べ物にならないくらい大きい。
自分も、いつどうなるかわからない。もし、なにも告げずなにも知らせず、若と離れ離れになってしまったら。一生会えなくなってしまったら。
そう思うと、マルーはもう、いてもたってもいられなかった。
前日に女の子たちだけが集まって作られたチョコレート。エリィはソラリスの風習にそって、フェイはもちろんマルーや他の仲間にも贈ると言っていた。マリアやプリメーラも、日頃の感謝や親愛の情として、楽しそうに用意していた。
そんな中、マルーだけは。
誰にも気持ちを打ち明けられず、悲壮感すらもって、この世に唯一の、もしかしたら最初で最後になるかもしれない、こころのこもったチョコレートを作った。
その、チョコレートが。
「……こうしちゃいられない……まだ、諦めてなんかやるもんかっ」
医務室の床の上、マルーは握りこぶしを作って顔を上げた。疲労は人を駄目にする。疲れてて、お腹が空いてるから、こんなふうに弱気になるんだ。深夜に近いこの時間でも、ガンルームに行けばなにかつまめるものがあるだろう。
腹ごしらえをしたら、チョコレート捜索の開始だ。マルーは、勢いをつけて立ち上がった。
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