Parallel World
はっと我に返ると、そこは見慣れた自室だった。
少し頭を冷やすべく引きこもっていたうちに、つい転寝でもしたらしい。時計を見ると、長針が一回りするくらいの時間が経過していた。
今の今まで見ていた、あまりにも生々しくあまりにも非現実的な夢が、追い立てるように心臓を蹴っている。たまらなくなって立ち上がり、がむしゃらに自室を飛び出した。
何も考えることができずに、ただひたすらに顔が見たくて、その姿を探し求める。そんな必死な様子を何事かとクルーに見送られて、ユグドラシルの回廊を右往左往した挙句、たどりついたのはひと気のない備蓄倉庫へ向かうルート上。
互いに慌ただしいスピードで角を曲がった瞬間、どしんと勢いよくぶつかった。
「うわっ」
「きゃあっ」
弾き飛ばされたのは、もちろんマルーの方だった。思いっきり背後によろめいた彼女を、さすがの反射神経でがしりと掴み、引き寄せる勢いのままバルトはくるりと体を交わして衝撃を受け容れた。
「いっ……てェ……」
マルーを抱き込むようにして、バルトの背中が壁にぶつかる。それを直に感じて、マルーはバルトの腕の中で目を見開いた。
「わ、若!?」
「おう……いちち……」
「ごっ、ごめんね、大丈夫?」
「へーきだ」
覚悟の上の痛みに、バルトはすぐに立ち直って笑う。彼の腕に守られて、マルーは泣きそうな顔になった。
そんなマルーの頬を大きな手の平で包み込み、バルトはまじまじと彼女を見つめた。まるで、何年も離れていた相手を確かめるように、真剣で熱心な彼の視線の先で、マルーもまた、食い入るようにバルトを見つめる。
「……マルー」
瞬きの音すら聞こえそうなほど近づいた碧玉の瞳が、その呼びかけに応えるように潤んだ。
「――うん、ボクだよ」
「ああ……」
「若……若、わか」
言葉にしないと消えて無くなる。そんな焦りに似た気持ちで、マルーがバルトの名を繰り返す。他になにも、言葉が浮かばない。目の前にいるその人を、きつく戒めて、貪欲につなぎ留めたい。
そんな彼女を、バルトは強い力で抱きしめた。
腕の中にいるマルーを、ずっと求めていた気がする。重ねてきた十二年間を共有する、ただひとりの彼女を。
こうして互いを感じられる、その小さくて得難い奇跡を噛みしめながら、二人は何も言わずにただ抱き合っていた。
「……若、ボク……」
「……ン?」
「ボク、女の子でよかった……」
「え?」
一瞬、何かの聞き違いかと思ってしまった。それほどに意外な言葉を、けれどマルーは重ねて言った。
「ボク、女の子でよかった。ボクはボクのままで若の傍にいられるのが嬉しい」
「マルー……」
幼い頃からずっと、自らの女性性を恥じるように頑なだったマルー。ひたすらバルトの力になりたいと、叶わぬ望みに自分を罰するようだった、マルーが。
はじめて、自らのあるべき姿を受け容れた言葉だった。
「ずっと、男の子になって、若の力になりたいって願ってた。今も、若の役には立ちたい。でも……ボクは、女の子がいい」
「……俺も、そっちの方がいい」
顎の下にあるマルーの旋毛に頬を寄せ、バルトはほう……とため息をついた。なにか、酷く悲しくて苦い重荷のようなものが、ようやく降ろされたような気分だった。
マルーは大人しくバルトにしがみつきながら、ぽつりぽつりと続ける。
「……だって、ね……。もしもボクが男の子だったら……若の隣に、ずっとはいられないでしょ? や……いられるかもしれないけど、シグみたいにね? ……でも、それじゃボク、いやなんだもん……」
珍しく甘ったれたようなことを言うマルーを、バルトは胸の奥から込みあがる情動を堪えるように抱きしめる。
「……だから、俺もそっちの方がいいって……」
「そっちって、どっち?」
「…………」
わざとなのか、そうではないのか。とにかくも、バルトの脳髄を引っ掻き回して、言葉に詰まらせるほどに甘い声音で、マルーが答えをせがむ。単なる従兄妹同士だった時とは明らかになにかが違う、マルーの女の子らしい挙動に、バルトはだんだんと胸が苦しくなってきた。
雷のように高鳴る鼓動は、きっと胸郭を隔ててマルーにも伝わっているだろう。
「……おまえが、男でも女でも……まあそれはいいとして」
「よくなーい」
「いいから、聞けよ……そうじゃねえんだ、根本はさ。もし、とか、だったら、とか、そんな話じゃねえだろ?」
言いながら、バルトはマルーを抱きしめる力を強めた。さすがに少し苦しくなって、マルーはもぞもぞと身じろぎ、バルトの胸に頬をあててふうと息をつく。それでも、『離して』とは口が裂けても言えない言葉だ。
そんな彼女の様子に、バルトは不器用に腕の力を緩めて、気づかわしげにマルーを見やる。
「……もしも、の話じゃねえんだよな。そんなことに、ぐずぐずこだわってたかと思うと、自分が情けなくなってくる」
「……若?」
「今ある現実から目を背けて、過去の幻想や幸せな妄想に逃げ込んだって、虚しいだけだぜ」
「……うん」
きっぱりとしたバルトの言葉に、マルーも頷く。そのまま、ゆっくりと顔を上げてバルトと目を合わせると、彼の大きな手のひらが、そっと優しくその頬を包み込んだ。
「……俺は、どんな世界のマルーよりも、おまえのことを、幸せにするって決めたんだ」
「…………」
「だからもう……逃げねえ」
真摯な眼差しに、マルーの指が強くバルトのそれと重なった。
「ボクも……逃げない」
幻に憧れ、無力を嘆くのはもうおしまい。
必要なのはそんなことじゃなく、今ある現実で、勇気を出すこと。
誰にも譲れないものを、この手に掴むこと。
「――俺の片翼に……一生ここに、いてくれるか? マルー」
問われて。
「――ボクの片翼に……一生ここに、いてくれる? 若」
問い返したのは多分、自分の答えなんかもう、言わなくてもわかっていると。
「もちろん」
同時に呟いた言葉がそう、教えてくれていた。
少し頭を冷やすべく引きこもっていたうちに、つい転寝でもしたらしい。時計を見ると、長針が一回りするくらいの時間が経過していた。
今の今まで見ていた、あまりにも生々しくあまりにも非現実的な夢が、追い立てるように心臓を蹴っている。たまらなくなって立ち上がり、がむしゃらに自室を飛び出した。
何も考えることができずに、ただひたすらに顔が見たくて、その姿を探し求める。そんな必死な様子を何事かとクルーに見送られて、ユグドラシルの回廊を右往左往した挙句、たどりついたのはひと気のない備蓄倉庫へ向かうルート上。
互いに慌ただしいスピードで角を曲がった瞬間、どしんと勢いよくぶつかった。
「うわっ」
「きゃあっ」
弾き飛ばされたのは、もちろんマルーの方だった。思いっきり背後によろめいた彼女を、さすがの反射神経でがしりと掴み、引き寄せる勢いのままバルトはくるりと体を交わして衝撃を受け容れた。
「いっ……てェ……」
マルーを抱き込むようにして、バルトの背中が壁にぶつかる。それを直に感じて、マルーはバルトの腕の中で目を見開いた。
「わ、若!?」
「おう……いちち……」
「ごっ、ごめんね、大丈夫?」
「へーきだ」
覚悟の上の痛みに、バルトはすぐに立ち直って笑う。彼の腕に守られて、マルーは泣きそうな顔になった。
そんなマルーの頬を大きな手の平で包み込み、バルトはまじまじと彼女を見つめた。まるで、何年も離れていた相手を確かめるように、真剣で熱心な彼の視線の先で、マルーもまた、食い入るようにバルトを見つめる。
「……マルー」
瞬きの音すら聞こえそうなほど近づいた碧玉の瞳が、その呼びかけに応えるように潤んだ。
「――うん、ボクだよ」
「ああ……」
「若……若、わか」
言葉にしないと消えて無くなる。そんな焦りに似た気持ちで、マルーがバルトの名を繰り返す。他になにも、言葉が浮かばない。目の前にいるその人を、きつく戒めて、貪欲につなぎ留めたい。
そんな彼女を、バルトは強い力で抱きしめた。
腕の中にいるマルーを、ずっと求めていた気がする。重ねてきた十二年間を共有する、ただひとりの彼女を。
こうして互いを感じられる、その小さくて得難い奇跡を噛みしめながら、二人は何も言わずにただ抱き合っていた。
「……若、ボク……」
「……ン?」
「ボク、女の子でよかった……」
「え?」
一瞬、何かの聞き違いかと思ってしまった。それほどに意外な言葉を、けれどマルーは重ねて言った。
「ボク、女の子でよかった。ボクはボクのままで若の傍にいられるのが嬉しい」
「マルー……」
幼い頃からずっと、自らの女性性を恥じるように頑なだったマルー。ひたすらバルトの力になりたいと、叶わぬ望みに自分を罰するようだった、マルーが。
はじめて、自らのあるべき姿を受け容れた言葉だった。
「ずっと、男の子になって、若の力になりたいって願ってた。今も、若の役には立ちたい。でも……ボクは、女の子がいい」
「……俺も、そっちの方がいい」
顎の下にあるマルーの旋毛に頬を寄せ、バルトはほう……とため息をついた。なにか、酷く悲しくて苦い重荷のようなものが、ようやく降ろされたような気分だった。
マルーは大人しくバルトにしがみつきながら、ぽつりぽつりと続ける。
「……だって、ね……。もしもボクが男の子だったら……若の隣に、ずっとはいられないでしょ? や……いられるかもしれないけど、シグみたいにね? ……でも、それじゃボク、いやなんだもん……」
珍しく甘ったれたようなことを言うマルーを、バルトは胸の奥から込みあがる情動を堪えるように抱きしめる。
「……だから、俺もそっちの方がいいって……」
「そっちって、どっち?」
「…………」
わざとなのか、そうではないのか。とにかくも、バルトの脳髄を引っ掻き回して、言葉に詰まらせるほどに甘い声音で、マルーが答えをせがむ。単なる従兄妹同士だった時とは明らかになにかが違う、マルーの女の子らしい挙動に、バルトはだんだんと胸が苦しくなってきた。
雷のように高鳴る鼓動は、きっと胸郭を隔ててマルーにも伝わっているだろう。
「……おまえが、男でも女でも……まあそれはいいとして」
「よくなーい」
「いいから、聞けよ……そうじゃねえんだ、根本はさ。もし、とか、だったら、とか、そんな話じゃねえだろ?」
言いながら、バルトはマルーを抱きしめる力を強めた。さすがに少し苦しくなって、マルーはもぞもぞと身じろぎ、バルトの胸に頬をあててふうと息をつく。それでも、『離して』とは口が裂けても言えない言葉だ。
そんな彼女の様子に、バルトは不器用に腕の力を緩めて、気づかわしげにマルーを見やる。
「……もしも、の話じゃねえんだよな。そんなことに、ぐずぐずこだわってたかと思うと、自分が情けなくなってくる」
「……若?」
「今ある現実から目を背けて、過去の幻想や幸せな妄想に逃げ込んだって、虚しいだけだぜ」
「……うん」
きっぱりとしたバルトの言葉に、マルーも頷く。そのまま、ゆっくりと顔を上げてバルトと目を合わせると、彼の大きな手のひらが、そっと優しくその頬を包み込んだ。
「……俺は、どんな世界のマルーよりも、おまえのことを、幸せにするって決めたんだ」
「…………」
「だからもう……逃げねえ」
真摯な眼差しに、マルーの指が強くバルトのそれと重なった。
「ボクも……逃げない」
幻に憧れ、無力を嘆くのはもうおしまい。
必要なのはそんなことじゃなく、今ある現実で、勇気を出すこと。
誰にも譲れないものを、この手に掴むこと。
「――俺の片翼に……一生ここに、いてくれるか? マルー」
問われて。
「――ボクの片翼に……一生ここに、いてくれる? 若」
問い返したのは多分、自分の答えなんかもう、言わなくてもわかっていると。
「もちろん」
同時に呟いた言葉がそう、教えてくれていた。
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