Parallel World


 ぼんやりと目を開けると、焦点が合わず鈍く目が痛んだ。おまけにこめかみの奥がずきずきと痛んで、まるで沼の底から浮き上がってきたようなどろりとした気分だ。
 最悪の目覚めを少しでも軽くするべく、まぶたの上に腕を乗せてそのまま深呼吸をする。出来ればこのままずるずると二度寝をかましたいが、何百というクルーを束ねる立場上、そうも言ってられない……なんて大層な理由じゃねぇけど。
 起床時間を過ぎてもベッドでゴロゴロしてたら、まず確実に来る。
 マルーが。
 たとえ昨夜ちょっと気まずい諍いを起こしていたとしても、あいつの使命感は何にも変わりゃしないだろう。爺から譲り受けた最強のフライパンを片手に、惰眠を貪る俺の耳元でガンガンそれをかき鳴らし、やれ顔を洗えだの、やれ朝飯を喰えだのと、ピーチクパーチク朝からやかましい。
 まあ……拗ねてぶー垂れられるよりは、よっぽどマシだが。
 そんなことを考えて、俺は昨夜の一幕を思い出していた。右腕に負った傷はすっかり完治したようで、今は何の違和感もない。大体、どの程度の傷の深さなら問題があるかないか、俺の方がよほど詳しいって、あいつもわかってるくせに、いつもいつも小言が絶えない。
 ――ま、毎度心配かける俺も俺、だが。
 とはいえ、戦いの最前線に立つ以上、多少の怪我や不調はあってないようなもんだ。戦闘員の俺が、命にも関わらないようなかすり傷でいちいち騒いでいられないことくらい、あいつだってわかってるはず。
 わかっていても、目にすれば心配せずにはいられない……か。
 あいつのああいうところを知っていて手放せない以上、多少の小言には付き合ってやるべきだろう。多少、ならな。
「あー……」
 グシグシと目元を擦りながら、でかい欠伸をする。また今日も、やることは山積みだ。昨日の戦闘で得た情報をもとに作戦を立てて、手に入ったパーツの割り振りと、整備進行のチェック、あとはシグがまとめた報告書に目を通して……補給のことも考えなきゃな。
 艦にまつわる雑事はほとんどシグや爺に任せている俺ですらこの激務。これでなかなか大変なんだって、きちんと理解してくれてる仲間はいるのかねぇ……
 ま、だからこそ、俺の体調やなんかを口うるさく気にかけてくれる、あいつのことはありがたく思ってるんだけど――さ。
 マルーに心配されるたび、哀しそうな顔をされるたび、俺はつい、考える。
 もしも、世界がこんなんじゃなかったら。あのクーデターが起きず、家族が誰一人損なわれず、俺とマルーがあるべき姿であるべき場所で生きていたら。
 マルーに、こんな思いをさせずにすんだのに……なんて。
 馬鹿馬鹿しい夢物語だとわかってる。済んじまったことをグダグダと、女々しく夢想するなんて愚の骨頂だ。
 だけど、俺のことはいいが、ことマルーを思えば。
 どうしても、喪って久しい可能性を、思わずにはいられない。
 ほんの少し運命が違ったら、どれほどマルーは幸せだったろう……どれほど俺は、あいつの幸せな顔を見られただろう、と。
「……はっ。馬鹿馬鹿しい……」
 解決のない物思いを振り払うように、仰向けになったまま天井に腕を突き出した。そのままぼんやりと目を開けると、徐々に視界がクリアになっていく。
「……――ん?」
 すぐに感じた違和感に、ごしごしと瞼を擦った。そしてまた、目を凝らす。
「……は?」 
 ぱちぱちと、瞬きを繰り返す。違和感の正体は、何度目を凝らしても厳然とそこにあった。
「なんだ……ここ……」
 ガバリと起き上がると、スプリングのきいたベッドが小さな音を立てた。改めて見れば、それはユグドラシルの俺の自室にある簡素で機能的なセミダブルよりも、縦にも横にも幅のあるもので、四方には柱、そこから抑えられた色目の刺繍が精緻に施された、帳のようなものが降りている。
 これは天蓋付きのベッド、とやらだと思いつき、ますます混乱した。
「なんだあ……?」
 何が起きたのか、と眠る前のことを思い出そうとしても、全く心当たりがない。昨夜はいつも通り――多少むしゃくしゃはしていたが――自室に引っ込んで、寝酒も食らわずさっさとベッドに入ったはずだ。
 それでなんで、一晩寝たらこんなところに?
 とりあえず俺は、お約束通り自分の頬をつねってみた。肉の薄いそれは、当たり前のように強烈な痛みを訴える。だよな、と呟いて、俺はさらなる混乱に気づいた。
「――嘘だろ…!」
 今の今まで気づかなかったのは、寝ぼけていたせいだ。見覚えのないベッドの上で、混乱していたせいだ。
 でなきゃ一番初めに気づいてた……ここ数年、すっかりご無沙汰だった左目の視力が、完全に回復してるんだから。
「なんでだよ……なんで見えんだよ……!?」
 我ながら情けないが、細かく震える手で右目を覆ってみても、全く支障なくものが見える。奥行きの感覚があまりに久しぶり過ぎて、両眼で見る違和感に眩暈がしそうだ。
「どうなってんだ……」
 わけもわからず、ベッドから降りる。毛足の長いカーペットにそろえられた室内履きが、ふかりと上質な感触を足の底に伝えてきた。帳の隙間から見える部屋の内装は、ユグドラシルの機能的なそれとは比べ物にもならないほど豪奢な設えで、生まれてこの方お目にかかったこともないような――否、違う。
 俺はこれを、どこかで見ている。
 茫然と目を見開いていると、その時続き間の奥からコンコンコン、と恭しいノックの音が響いてきた。俺の応答も待たず、それは当然のように開かれ、音もなく誰かが室内に入ってきた。
「――これはこれは、お目覚めでございましたか。たいへんお珍しゅうございますね」
 帳の向こうからかけられた声に、俺は思わず乱暴に布をかき分け、叫んだ。
「……爺! おい、こりゃ一体どうなってるんだ!? ここはどこで、なんで俺、目が見えてるんだ!」
 そこに立っていたのは、いつも通り品のいい立ち姿の老侍従、ローレンス・メイソン。俺の驚きに、僅かに目を瞠ったように硬直し、次にすっと半眼を閉じた。その表情に覚えがあって、俺は反射的にぎくりとなる。
 ガキの頃、礼儀作法やマナーの勉強の時間、散々俺やマルーをたしなめた、あの『鬼』の顔だ……!
「畏れながら、殿下。まだお目覚めにはなっておられないご様子。頭をはっきりとさせてから、明瞭にお話しくださいませ。……なにが、なんですと?」
「……は? でんか?」
 なんだその、カビの生えたような呼称は。
 俺が呆気に取られていると、爺はやれやれと肩を竦めながらさっさと部屋を縦断して、その先にある分厚いカーテンを引き開けた。その途端、爆発的に弾けた朝の光に思わず目を瞑る。
「……ここは……!」
 窓越しに見える、眩しい世界。強烈な太陽光線と、特徴的な空の色。
 そしてなによりも、光に馴染んできた俺の両目が捕らえたのは、その風景……見覚えがあるその庭園は、だがしかし、今はもうこの世のどこにもないものだ。
「目が覚められましたかな。殿下、庭師のスキャルドが丹精を込めました薔薇が、蕾をつけておりますぞ」
「――スキャ……ルド……?」
 ずいぶん久しぶりに聞いた名だった。その瞬間、背筋が凍るような感覚に、思わず身震いが出る。
 何故だ……どうしてここには、シャーカーンによって壊された、ファティマ城の中庭があり……クーデターの日、ガキだった俺を庇って死んだはずの庭師の名前が出てくるんだ……!?
「殿下、朝の支度をお急ぎください」
 茫然としていた俺の耳に、爺の声が届く。ふと見れば、いつの間にかお仕着せの侍従服に身を包んだ数名の少年が、水の張った盥や白い布、櫛や鏡などを手に爺の後ろに並んでいた。
 そしてそのまま、俺はいちいち人の手によって洗面や着替えといった朝の支度をすませていた。状況がわからなくてぼんやりしていたのが却って良かったのか、まるで抵抗なく身支度を終えると、少年侍従はしずしずと部屋を辞していき、後に残ったのは姿勢よく佇むメイソン爺だけだった。
「殿下、本日のご予定を申し上げます」
 恭しくそう言う爺の態度は、馴染みがあるようで違和感がつきまとう。雑駁な海賊たちの中で、せめて出自を忘れるなと威儀を正していた時とは違う、完全に俺を『王子』として扱う、臣下の態度…… 
「爺……どういうことなんだ、一体何がどうなって……」
 まだ混乱している頭のまま、爺に詰め寄ろうとした俺の耳に、再びノックの音が響いた。と同時に、今度も聞き覚えのある声が届く。
「バルトロメイ殿下、お目覚めですか」
「シグルド卿。殿下はすでにお目覚めでございます、どうぞ中へ」
 俺の代わりに答えた爺の声に、続き間の扉がゆっくりと開いた。そしてこちらにやって来たのは、正式なアヴェの騎士服を身にまとった、銀髪の青年……顔を覆う眼帯のないシグを、俺はずいぶん久しぶりに目にしていた。
「シグ……」
「おはようございます、殿下。国王陛下、並びに妃殿下が、すでに朝食の間にてお待ちでございます」
「――え……」
 ドクン、と心臓が痛いくらいに鳴った。涼しい顔をして俺に告げるシグの顔をまじまじと見やり、震える唇を開く。
「シグ……冗談キツイぞ、いくらお前でも……言っていいことと悪いことがあるぜ。親父とお袋が、待つって……」
 笑い飛ばそうとして失敗した情けない俺の顔を、シグと爺が弾かれたように凝視してきた。鳩が豆鉄砲を食らったようなその顔に、俺は思わずびくりと肩を震わせる。
「な、なんだよ……」
「でっ……殿下! そ、そのような下賤な言葉を、一体どこで覚えられました!?」
「へ?」
 取り乱した声を上げる爺の傍らで、シグが絶対零度の視線でこちらを見据える。
「殿下。雑駁な物言いが珍しいと思うお気持ちもわかりますが……貴方は、アヴェ王朝の正当な王太子であり、人民を導く尊い御身分です。言葉遣いには重々お気を付け下さい」
「はあ……!?」
 俺の口の悪いのなんて、今に始まったことじゃない。散々荒くれた海賊共の中に突っ込んでおいて、今更何言ってんだ。
 俺の違和感をよそに、シグは冷静な様子で淡々と俺を促した。
「さあ、参りましょう。朝食の後には、お客様をお迎えするのですから、急がねばなりません」
「お、おう……」
「――殿下」
「……わ、かった」
 ぴしりと睨まれて、まるで散々泣かされた鬼の躾が戻ってきたような錯覚に、俺は反射的に背筋を伸ばして答えていた。    


 



 ガキの頃のあやふやな記憶ってのも、案外正しいもんだ。
 俺は、覚えのある王宮の回廊を歩きながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
 朝食の間と呼ばれる広間は、この角を曲がるとすぐだ。――前を歩くシグの背中を眺めながら、俺はどこか、そわそわと落ち着かなかった。
 さっきから警戒していたが、城内にはシャーカーンの息のかかった武装兵なんか一人もいない。いたって呑気に、平和そのものだ――あの頃、のように。
 ここまでくると、今の状態が現実なのか夢なのか、そもそも何が起きているのかすら考えることを放棄していた。夢ならそのうち覚めるだろうし、現実なら……俺の頭がイカれたか。
 敢えてそんなふうに逃避していた俺の前で、シグが歩を止める。開け放たれていた扉の中へ、よく通るバリトンを響かせた。
「失礼いたします。バルトロメイ王太子殿下をお連れいたしました」
 俺は一旦ごくりと喉を鳴らし、脇に下がったシグの傍らを進んだ。
「……」
 部屋の中央にある、大きなテーブル。その上座につく銀髪の男性と、傍らに座る金髪の女性が、二人同時にこちらを振り仰いだ。
「――おはよう、バルトロメイ。相変わらずお前は、寝起きがよくないな」
 からかうような深い声音に、俺の中のなにかがぞくりと震えた。記憶の中のそれよりも、はっきりとわかる。この声は、シグに似ている。
「おはよう、バルトロメイ。…あなたの寝起きの悪さは、父上に似たのね」
「おいおい……朝から一国の王をからかうのかい、マリエル?」
「あら、本当のことですわよ、陛下…うふふ」
 軽やかに笑いながら、金髪の女性が親しげに男性を見やる。それは驚くほど美しく、はつらつとした笑顔だった。
 その、仲睦まじい様子に。
 俺は、指の先まで冷たくなっていった。
 今そこに……手を伸ばせが触れられるほど近くにいる二人は、記憶の中よりも少し歳はとっているけれど……どこも、なにもかわらない、俺の大切な――……
「……バルトロメイ?」
 その柔らかな声に、俺ははっと我に返った。怪訝そうにこちらを見つめる母親の瞳に、こみ上がりそうになるなにかを必死に抑えるよう、首を振る。
「あ……いや、なんでも……」
「席に着いて朝食をとりなさい、バルト。早くしないと、もうすぐエルヴィラたちが来るのだから」
「え?」
 ぎくしゃくと席に着きつつ、父親の言葉に顔を上げる。間近にある彼の瞳は、俺と同じ、曇りのない碧玉の色。それが柔らかく微笑んだ。
「おまえも、楽しみだろう? 従妹のマルグレーテとは、ずいぶん久しぶりに会うのだしね」
「マルーが? 来るの……ん、です、か?」
 慣れない口調にしどろもどろの俺に、父親は少し面白そうに眉を上げて、母親を見やる。
「どうやら、私たちの息子はまだ、夢の中にいるようだね。寝ぼけ癖があるのは、まさか私じゃないだろう?」
「あら、いやですわ陛下。もちろん、わたくしでもありません……そうね、バルト、コーヒーでもおあがりなさい。頭がはっきりしますよ」
 そう言って、母親は自ら給仕をし、俺にコーヒーを淹れてくれた。ぎこちない手つきでそれを受け取り、静かに口にする。目の覚めるような清々しい苦味の、熱いコーヒーを含んで、俺はこれが夢か現実か考えるのを再び放棄した。
「そういえば、マルグレーテはいくつになったかな?」
 おとなしく食事を進めていると、父親がそう言って、懐かしげに目を細めた。マルーの名前に、どうしても挙動が止まる俺に気づかず、二人は楽しそうに続ける。
「確か、バルトロメイの二つ下ですから……もう、十六歳ですわ、陛下」
「ほう、早いね、もうそんな年頃か。最後に会った時は、まだ小さな女の子だったがね……では、そろそろ縁談なども来る頃だろう」
 その途端、俺は飲みかけだったコーヒーを取り落としそうになり、慌てて口を離す。
「ええ、先日エルヴィラ様からお手紙を頂きましたの。幾人か候補がいらっしゃるというお話でしたわ」
「そうか。フランシスも悩ましいところだろうね。可愛い娘を手放す覚悟ができているのかな……」
「手放すといっても、マルグレーテ様は次期大教母ですもの。遠くへ輿入れさせるわけではないのですから、フランシス様も、エルヴィラ様もご安心でしょう」
「いやいや、我が母シグリッドの例もある。遠隔の地より大教母として責務をこなす前例はあるのだから、どこへ輿入れするとしても不思議ではないよ」
「それはそうですけれど……でも、エルヴィラ様のお手紙では、候補はニサン正教所縁の方をお考えのようですし、やはり娘は手元に置いておきたいというのが親心でしょう」
 居心地の悪い会話が、押し黙った俺の上を通りすぎていく。すっかり味のしなくなった朝食の皿を押しやり、苦み走ったぬるいコーヒーを口に含んだ。
 ――一体、どうなってんだ……
 考えても詮無いことが、再び頭の中を占める。油断すると、その疑問が口をついて出てきてしまいそうで、俺は奥歯を噛んだ。
 夢でも幻でも、もうどっちでもいい。それを暴いてしまったら最後、この夢のような空間が、一瞬で消えて無くなるような気がして、そんな鈍い感傷が、結局何度も俺の口をふさいでいる。
 自分の中にある、こんな女々しい感情が、信じられなかった。
 それでも――どうしても、自分からこの瞬間を手放すことは……できない。
「失礼いたします。フランシス大侯、エルヴィラ様、マルグレーテ様ご到着の由にございます」
 その時、テーブルにやって来た爺が恭しくそう告げた。父親と母親はにっこりと笑い、俺を見つめる。
「ああ、では応接間に通しなさい。マリエル、バルトロメイ、行こうか」
 父親の言葉に、母親は嬉しそうに席を立つ。俺も慌てて立ち上がると、記憶の中では見上げていた小作りな顔は、俺の肩までにしか届かない。
 その華奢なひとは、俺を見上げてにっこりと微笑んだ。
「バルトロメイ。応接間までエスコートしてちょうだい」
 そう言って、細い手を差し伸べてくる。幼い頃、何度も抱きしめてくれたその手の形、指の細さを目の前にして、俺は叫びだしたいような衝動をなんとか堪え、恐る恐る手を取った。記憶の通りのあたたかさに、喉の奥がつんと痛む。
 そのまま俺たち三人は、広間を抜けて一番豪奢な応接間へと向かった。母親の手を取りながら、傍らを歩く父親をちらりと盗み見ると、すっかり背丈も追いついたようで、なんともいえない近しさに胸がうずいた。
 やがて先導していた爺が、静かに応接間の扉をノックし、それを開いた。
「やあ、よく来てくれたね」
 部屋に入るなり、父親が嬉しそうな声を上げる。その背後から入室した俺と母親の前で、銀色の豊かな髪の女性が、嬉しそうに父親と抱き合っているのが見えた。
「お久しぶりです、兄上! ……マリエル義姉上、お元気そうで何より!」
「ああ、エルヴィラ様、本当に、お久しぶりです……お会いできて嬉しいわ!」
 父親の次に、母親を抱きしめて喜ぶ背の高い女性は、すぐにこちらに気づいて、その特徴的な碧玉の瞳を瞠った。
「貴方……バルトロメイね! まあ、こんなに大きくなって……見違えたわ、なんて凛々しい青年になったの」
 そう言うなり、エルヴィラ叔母上は問答無用な速さで俺に近づくと、有無をも言わせず抱きしめてきた。その熱烈な抱擁に目を白黒させている俺に、穏やかな笑い声が届く。
「こらこら、エル……そんなに強く抱きしめては、バルトロメイ殿下もお困りだろう」
「そうですよ、お母様」
 ゆったりとしたテノールと、重ねて聞こえたその声に、俺ははっとして視線を向けた。父親の背中越しに、背の高い棗色の髪をした男性と、その陰に隠れる小さな人影が見える。
「おや……君はもしかして、ニサンの姫君かな?」
 父親の言葉に、棗色の髪の男性の傍らから一歩進んで、ふわりと柔らかなオレンジ色の花が咲いた。
「はい、陛下」
 恥ずかしそうに小さく答えて、淡いオレンジ色のドレスを身にまとった少女が、丁寧にお辞儀をする。一挙手一投足が信じられないほど綺麗で、俺は思わずぽかんと口を開けてその光景を凝視していた。
「さあ、マルグレーテ。きちんとご挨拶しなさい、久しぶりにお会いするのだからね」
「はい、お父様」
 傍らの男性に促され、彼女が改めてこちらを向いた。
 棗色の髪を愛らしく結い上げて、華奢な身体に似合いのドレスを着て立つ少女は、ふっくらといとけない頬を薔薇色に染めながら、指先まで洗練された仕草で礼をする。
「エドバルト国王陛下、マリエル妃殿下、バルトロメイ殿下、お久しぶりでございます。ニサンのマルグレーテにございます」
 耳に馴染んだその声で、マルーの名を告げるその少女は、真っすぐにこちらを向いて微笑んだ。吸い込まれそうなほど蒼い、その大きな碧玉の瞳が、彼女が『マルー』なのだと疑いようもなく示していた。
「まあ……マルグレーテ様……本当に、お美しくなられて……」
 思わずのように呟く母親と、同調するように父親が言った。
「本当に。これはまた、素晴らしく洗練された淑女に変身したね、マルグレーテ。見違えてしまったよ」
「まあ、伯父様ってば……あ、ごめんなさい、陛下……」
 言ったとたん、ポッと頬を染めて恥じ入るマルーに、父親と母親は骨抜きになったような顔で頷き合った。
「いやいや、伯父様で構わないよ、昔のようにね? マルー」
「ええ、そうよ、わたくしのことは伯母様と呼んでちょうだい、マルー」
「はい、ありがとうございます」
 嬉しそうに笑って、マルーがお辞儀をする。その傍らで、満足そうに棗色の髪の紳士が言った。 
「朝の慌ただしい訪問だというのに、歓迎してくださって感謝します、エドバルト陛下、マリエル妃殿下」
「なにを水臭いことを。それにしても、ずいぶんご無沙汰だったじゃないか、フラン」
「いや、申し訳ない。ここ数年、国内がバタバタしていてね」
 すぐに打ち解け合うようなふたりの父親と、手を取り合うようにして話に興じる母親たちの傍らで、俺とマルーの視線が初めて重なる。
 マルーは……そこに立つ、淡いオレンジ色のドレスがよく似合う華奢な女の子は、きらきらと光る碧玉の大きな瞳をちらりとこちらに向けて、すぐにぱっとそれをそらした。まるで、よく知らない人間に対して人見知りをするようなそれに、俺の中の何かが軋んだ。
「あら、あなたたち、従兄妹同士で何を遠慮しているの? 久しぶりに会えたのだから、沢山おしゃべりしなさいな」
 叔母上の屈託ない言葉に、俺は居心地が悪くて仕方なかった。この状況で、何をどう話せっていうんだ。まともにマルーを見ることも難しいってのに……
「そうだわ、バルト。マルーにお庭でもご案内して差し上げなさい。東屋の傍の早咲きの薔薇が美しいですよ」
 母親の提案に、俺が咄嗟に答えられずにいると、なにかとても良いことを聞いたような上機嫌な顔で、父親が手を打って賛同した。
「ああ、そうしなさい、バルト。庭を楽しんだら、あとで戻っておいで。お茶にしよう」
「行ってきなさい、マルー」
「はい、お父様」
 父親たちに朗らかに促されて、マルーがはにかんでこちらを見上げる。ぎこちなく微笑む彼女は、俺のエスコートを待つように小首をかしげた。
「――い……行こう」
「はい、殿下」
 どうにも居心地が悪い空間から逃れるように、俺は見知らぬマルーの手を腕にかけて、逃げるように部屋を辞した。






「前にお会いした時よりも、背が高くなられました」
 中庭へと続く階段を下りる途中、沈黙にしびれを切らしたのか、マルーが不意に口を開いた。いつものマルーとは違う、よそ行きの声色や口調に、一瞬聞き流しそうになって我に返る。
「……え? ああ、俺? ……いや、僕……う~ん、私、か?」
「バルトロメイ殿下?」
「…………」
 マルーの顔で、マルーの声で、そう呼ばれることに何かが拒否反応を示しているのか、俺はがりがりと首の後ろを掻いた。ぎこちなく俺の腕に添うマルーの小さな手が、僅かに不安そうに力を込める。
「――折に触れ、お手紙を交わす程度でしたけれど……マルグレーテは、今日殿下にお会いできることを楽しみにしていました」
「そう……か」
「はい。幼い頃、母に連れられて訪ったこの宮殿で、よく遊んでいただいたのを覚えています。大きくなってからは、互いに国の雑事にまぎれてお会いする機会も減り……それを、少し寂しく思っておりました」
 丁寧な口調でそう言うと、階段を降り切ったところでマルーが俺の腕を離す。
「わたくしには、他にきょうだいがありませんので、僭越ながら、殿下をお兄さまのように慕っておりました」
 そう言って笑うマルーの素直な言葉に、俺は胸の真ん中をぐさりと一刀両断されたような気がして、思わず呟く。
「――……兄貴、か」
「え?」
「いや、なんでもね……ない、よ」
 不器用に首を振り、ふっと視線を空に向ける。
 抜けるようなアヴェの蒼穹は、幼い頃の思い出と、なにひとつ変わらない。強烈な太陽の光も、それを受けて輝く白亜の宮殿も、緑豊かな中庭も、優しい両親の顔も、何もかも。
 俺が過去に置いてきた、大切な思い出だ。
「――この世界は、クーデターのなかった、世界なんだよな」
「え?」
 俺の小さな呟きに、マルーが不思議そうに問い返す。その顔が、俺の良く知るあいつの顔と重なって、思わず拳を握った。
「シャーカーンもいない、ソラリスもない……俺と、おまえの家族が、失われることもない世界」
「バルトロメイ……殿下?」
 不安そうに表情を曇らせて、マルーが俺を窺う。その瞬間、どうしても抑えきれない苛立ちに、俺の手が彼女の肩を掴んだ。
「若」
「えっ?」
「お前、俺を『若』って呼んでたろ」
 突然のことに驚いて、マルーが怯えたように後退ろうとするのを、俺は手のひらに力を込めて留めた。ドレスの下の華奢な肩が、びくりと震える。
「あの、殿下、わたくし……」
「わたくしじゃねえ、『ボク』だ!」
「っ!」
 声を荒げた俺に、マルーはびくりと身体を竦ませて、それから潤んだ碧玉の瞳を向けた。
「ご……ごめんなさい、わたくし、何かお気に障ることを……っ」
「――違う……すまん、違うんだ。だが、あんたは違う、俺の……俺の、マルーじゃねえ」
 ギリ、と奥歯を噛みしめて、俺はため息とともに腕の力を抜いた。マルーの肩から手を離し、爺が整えてくれた髪をぐしゃぐしゃに掻きむしる。
 父親や母親の前では耐えられた。
 けど――マルーの前では、これ以上耐えることは出来ない。
 俺は、乱暴に乱れた金の髪の下からマルーを見つめた。怯えた顔でこちらを見上げる彼女は、それでも逃げようとはせず、誠実にまっすぐ俺と向き合っている。
 どんな世界でも、マルーはマルーなんだ。
 それでも――どうしても。
「……今まで、俺はあのクーデターさえなかったら……――と、何度も思った」
 彼女に言っても仕方がない。わかってる。けれど、俺の言葉は留まることなく唇から零れ続けた。
「親父も、お袋も、マルーの家族も……皆奪ったあの惨劇さえなけりゃ、俺は――おまえは、ずっと幸せだと……でも違う、違うんだよ、こんなのは!」
「……殿下……」
「辛かろうが、苦しかろうが、俺をここまで作り上げたのは、十二年間の『あの時間』なんだよ! それを全部無視して、無かったことにして……こんな夢見せられても、俺は納得できねえ!」
 ――この夢に縋りたいと、思わなかったと言えば嘘になる。
 一族を滅ぼされ、帰る場所を奪われ、地獄のような喪失を味わった。そんな過去を抱えた俺たちは、互いを失う恐怖に怯えるあまり、時折酷く自分を傷つける。
 そんな過去さえなければ、もっとずっと、マルーは俺の傍で、笑っていられると思った。
 クーデターさえなければ、皆が生きていれば。そうすれば、もっと自由に、もっと長く、一緒に……
 そこまで考えて、俺はふと、息を呑んだ。
 俺の、マルーに対するこの感情は、その『過去』があったからこそのもので。
 もし仮に、クーデターなんて起こらずに、今浸っているこの夢のような世界が現実だったら……俺は、どんな感情でマルーを見ていただろう。今のこの状況のように、ただの従兄妹同士の関係だったかもしれない。お互いに、兄妹のように思い合って、それぞれの道を生きたのかもしれない。
 あの濃密な十二年間で、俺とマルーの関係は作れらた。
 たったひとつ何かが変わっただけで、それが喪われるというのなら……
「……殿下……」
 俯いた俺の腕に、恐る恐るマルーの手が触れる。蒼い顔をして、それでも心配そうにこちらを仰ぎ見るマルーの顔を、俺はゆっくりと凝視した。
 ふっくらと健康そうな白い肌。なんの憂いも不安もなく、ただ大切に慈しみ育てられた美しい従妹に、俺はありったけの力で微笑んだ。
「――マルー、ひとつ聞かせてくれ」
「は、はい」
 ぎこちない笑みの先で、マルーが緊張したように頷く。その様子に、今度はだいぶ肩の力が抜けたように、俺は笑えた。
「……今、幸せか?」
 俺のその、多分意外だろう問いかけに。
 マルーは、大きく瞳を見開いて、それからゆっくりと、屈託なく微笑んだ。
「……はい、幸せです」
「……そっか」
 その言葉に、俺は安心してため息をつく。
 ここは、俺のいるべき場所じゃない。けど、どんな世界であれ、おまえが不幸でないのなら、それでいい。 
 どんな『マルー』であれ、幸福であってほしい。
 だから、『俺の世界』のマルーも……
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