恋までの距離




 夜明けの鳥が鳴いている。
 しんと静まり返った世界。曙がにじむ室内は、霞がかったように薄暗い。
 マルーは、意識と無意識のはざまでたゆたっていた。
 頭は覚醒しているのに、身体が思うように動かない。高熱を出した影響か、節々がきしむように痛み、指一本動かすことさえ難しく思えた。
 その時、ひときわはっきりと、窓辺で鳥の鳴き声が聞こえた。それに呼応するように、マルーのまぶたがふるりと震え、長い睫毛がゆっくりと押しあがっていく。
 ぼんやりとうるむ視界は、夢の中のようにあたたかだった。
 大好きな金の色が、すぐ傍にある。焦点を合わせるように見つめていると、やがて輪郭がはっきりとしてきて、その中心に輝く碧玉があった。
 ぼんやりとした朝まだき。目に映る色はすべてが浅黒く塗りつぶされているのに、どうしてこの色だけは、こんなにも鮮やかなのだろう。

「――……わか……?」

 ちいさく問いかける。これが夢ならばいつも、名前を囁いた瞬間霧のように消えてしまうのだけれど、今日の彼はなぜか、じっと動かずそこにいてくれる。
 嬉しくなって、マルーは思わずほほ笑んでいた。
「……わかだぁ……」
「――……おう」
 低い声。天使のように高く甘やかだった彼の声音は、いつのころからかこんなふうに、耳朶に響く重厚な音に変化していった。機嫌が悪かったり、具合が悪いときは、まるで獣が唸るように響く声。
 いまの声は、それと似ている。
「……わか……? どしたの……どこか、いたいの……?」
 反射的にそう言って、マルーは鉛がついたように重い腕をベッドの中から持ち上げて、彼の方へと伸ばした。エーテル……ボクがこんな状態でも、上手に癒してあげられるかな……
 そんなマルーのちいさな手を、バルトは優しくつかんで押し戻す。
「いいから、寝てろ。俺はどこも怪我してねぇよ」
「……そう……? よかったぁ……」
 その言葉にほっと力を抜くと、少しだけ頭がすっきりした。もう一度まぶたを押し上げて、薄暗がりの先にあるバルトの顔を見つめる。
「……シャーカーン……」
 高熱を発して意識を失う前の状況を思い出し、いまここに無傷で還ってきてくれた彼とを思いあわせて、マルーはただ一言だけ呟いた。バルトはそれに、静かに答える。
「ケジメはつけた」
 彼らしい物言いに、マルーは思わず笑みこぼれた。
「そっか。……うん、お疲れさま、若……」
 この瞬間を迎えたら、もっといろいろな感情がわき上がると思っていた。けれど結局、出てきたのはいつも、戦闘から帰ってくるたびに彼にかけるなんのひねりもない言葉。
 もっと上手に、言葉をかけられればいいのに。若がどれだけの思いで、いまこの瞬間を迎えたのか、ちゃんとわかってあげられるのは自分だけなのに。
 もどかしげに眉を寄せるマルーに、けれどバルトは無言で視線をそらした。その先で水音がして、再び向き直った彼は手にしていたものをマルーののど元に押しつける。
「なに……?」
 じゅわりと熱い感覚に、マルーは思わず声を上げた。肌を蒸らすその感触で、お湯で絞られたタオルだとわかったけれど、彼がなんのためにこんなことをしているのか皆目わからない。
 バルトはじっと視線を手元に落としながら、マルーの問いには答えなかった。マルーはその、あまりにも深刻そうな従兄の表情に不意に不安を覚え、恐る恐る声を上げる。
「若……? どうしたの……なんか、変だよ……」
 ざわざわと胸騒ぎを感じて、思わずすがるような声音になった。
 めったに聞かないマルーの不安そうな声に、バルトの右目が彼女に向けられた。目が合うと、マルーはますます鼓動を速める。
 どうしてそんな、苦しそうな瞳をしているの。
「若、やっぱりどこか痛む……? 疲れてるんじゃないの? ボクのことなんていいから、ちゃんと休んで……」
「マルー」
 矢継ぎ早だったマルーの声をさえぎって、バルトがそっと彼女の名前を呼んだ。マルーは反射的に口を閉ざし、そっと従兄をうかがい見る。バルトは再び視線をそらし、それから低く囁いた。
「――おまえ……さっきのこと……」
「え?」
 思いがけない言葉に、きょとんとマルーが声を上げると、バルトは気まずそうに沈黙し、再び重苦しそうにくちびるを開く。
「……さっきのこと、覚えてるか」
「さっき……? 若たちが、シャーカーンのところに行くときのこと?」
「いや……」
「じゃ、いつ?」
 純粋に問うてくるマルーに、バルトは頑なに沈黙を貫いた。そんな彼の様子に、マルーはふと思い当たることを口にする。
「もしかして……ギア・バーラーでのこと?」
「…………」
 答えないバルトに、マルーはゆっくりと起き上がろうと身じろいだ。バルトははっとして彼女の肩に手をかけ、押し戻そうとする。
「馬鹿、起きるな」
「うん……でも、ちゃんと若の眼を見て言いたいから……」
「わかった。寝たままでいい、無理すんな」
 再び枕に頭を乗せると、マルーはふぅっと息をついた。それからじっとバルトを見上げると、バルトは難しい顔をしながらも、視線をそらさずにこちらを見つめていた。
「あの時は……無茶をして、本当にごめんなさい」
「……結果的に俺も助けられたんだ……もういいよ」
「うん……でも、ボクが無茶をするたび、若に助けてもらってばっかで……いつも、ちゃんと役に立ててないから……」
「そんなことねぇだろ」
 バルトの優しい言葉に、マルーはうまく笑えずにくしゅりと目を細めた。
「ありがと、若……。でもね、ボク、がんばるから」
「…………」
「っていっても、危険なことはもうしないよ……たぶん、あ、えっと、うん、しない……」
 思わず正直に言い淀んでから、マルーはそっと、バルトの方へ手を伸ばした。そのちいさな手指が肌に触れた瞬間、電気が走ったようにびくりと震えたバルトに気づき、マルーは眉を寄せる。
「……若?」
「……おまえの『しない』はあてになんねぇからな」
 からかうようなバルトの言葉に、マルーは一瞬感じた違和感を忘れて、むっとくちびるを尖らせた。
「もー、いじわる。しないよ、もう。……でもね、若の力になりたいっていうのは、これからもずっと変わらないよ」
「…………」
「ボクにできることがあったら、なんでもするからね」
 だいぶ明るくなりかけてきた朝の光が、ふいにバルトの碧玉の瞳を照らした。きらりと光ったその目に射抜かれて、マルーはやわらかくほほ笑む。
 ちっぽけな自分に、たったひとつ誇れること。
 いつも、どんなときでも、若の力になりたい。
 その想いだけは、誰にも負けないんだよ。
「――……おまえ……」
 その時、バルトがなにかを言いかけた。水底から浮き上がるような低くかすれた声音に、マルーの本能が警鐘を鳴らしかけたけれど、高熱の後遺症でまだぼんやりとしていた彼女は、致命的なその瞬間、従兄の変事に気づくことはなかった。

 ――――コンコンコン

 はばかるようなノックの音が、ふたりの空間を引き裂いた。バルトはまるで、夢から覚めたような顔で目を瞠り、マルーの枕辺から勢い良く立ち上がる。
「あ、若……」
「安静にしてろよ」
 そっけなく言いおいて、バルトはいつものように颯爽と歩きだした。その迷いのない足取りに、不意にマルーの中のなにかがざわめく。遠ざかる彼に声をかけようと口を開きかけて、その広い背中が自分を拒絶しているような感覚に絶句した。
 なぜそんなふうに感じたのか、自分でもわからない。若がボクを拒むなんて、そんなこと……あるわけがないのに。
「バルト様……」
「おう、早いな、アグネス」
 扉を開けて現れたシスターアグネスの声に、マルーははっと我に返った。それから改めて、か細い声でバルトを呼ばわる。
「わか……」
「アグネスが来たから、俺、行くわ。シャーカーンの野郎とやり合って、ギアもそこそこ損傷してるし、昨日はその辺全部シグに押っ付けて来ちまったからよ」
 戸口から振り返り、バルトはいつものように快活にそう言った。その様子にはどこも不審な点はなく、一瞬感じた強烈な不安を跳ねのけるように、マルーは無理やり笑顔を浮かべる。
「う……うん。ありがとう、若」
「今日くらいは、おとなしくしてろよ」
「うん……」
 バルトと入れ違いに部屋へ入ってきたアグネスは、ぼんやりとしたマルーの様子に、気づかわしげに眉を寄せた。
「マルー様……まだ、お加減が悪うございますか?」
「え……ううん、もうだいじょうぶ……」
 答えながら、マルーはどことなく背筋が冷えるような感覚にぶるりと震える。先ほどから、なにかがちりちりと彼女の神経を焼いていた。
 アグネスはマルーの枕辺に進み、そっとその額に手をあてる。ひんやりとしたやわらかなその感触に、ようやくマルーはほっと安らいだため息をついた。
「――本当ですね。お熱はもう、下がられたようです。シタン様が、エーテルの力で傷口の修復は完全に行われたと仰ってくださいました。あとは、流れた血を補うために、安静にしてお身体を休めるようにと……」
 言いながら、マルーの胸元に落ちていたタオルを拾い上げたアグネスは、それがぬるく湿っていることに怪訝そうな顔をする。
「蒸しタオル……ですか?」
「あ……うん。若が作ってくれたんだ。なんだろう、のどを温めると熱が下がるとかあるのかな?」
 素直に答えるマルーに、アグネスはしばし計りがたい表情で彼女を見つめ、それから不意に朝陽の漏れる窓辺へと歩み寄る。
「マルー様、本日は良いお天気ですよ。お休みになられているのがもったいないくらいですね」
 そう言って、遮光カーテンを開けた先から溢れる光に、マルーはまぶしそうに目を細めた。
 ニサンの空は、どこまでも蒼く穏やかに澄んでいる。ほんの数日前まで、この街がシャーカーンの尖兵によって惨く蹂躙されていたなど、とても信じられない。
「あ……そうだ、アグネス。街の皆は、無事に戻れたのかな。アヴェの兵士に傷つけられたひとはいない?」
 はっと我に返ったようなマルーが、『大教母』の顔で問いかけると、アグネスは起き上がろうとする彼女の身体を支えながら穏やかに返す。
「だいじょうぶです。アヴェ兵が送り込まれる情報を事前に得ていましたので、住民はひとりも欠けることなく避難することができました。そのすべてが問題なく街へ帰還しております」
「そう、よかった……」
「ただ、混乱に乗じて戦線を離脱し、近郊に隠れ潜んだ残党がいる可能性は否めませんので、当分の間は僧兵による市街の警護は続けなければなりません。また、大聖堂の方にも敵が侵入した形跡がありますので、そのあたりの確認が終わるまでは、大教母様にはこちらでご静養して頂くことになります」
 自分の代わりにすべてを取り仕切ってくれているシスターアグネスに、マルーは感謝を込めてほほ笑んだ。
「ありがとう、アグネス。ボクも、もう少ししたら起きて皆を手伝うよ」
「いけません、マルー様。しっかりと休んでいただかなければ……」
「もう平気なんだよ。ただ……ちょっとだけ怠いから、いまはおとなしく眠るね」
「……そうですね。ではその前に、なにかお腹に入れるものをご用意してまいります」
 優しく言いながら、アグネスはもう一度マルーの額とほほを撫で、それからゆっくりと、寝間着のボタンをかけていく。喉元まできちんと整えられたマルーは、なんの疑問もなくにっこりとほほ笑んだ。
「ありがとう。あ……起きたら、お風呂に入りたいなぁ」
「はい。ご用意しておりますよ」
 抜かりなく頷いて立ち上がると、アグネスはバルトが用意したのであろうぬるい湯の張った洗面器と、タオルを持って部屋を出て行った。
 ひとりきりになったマルーは、なんとなく窮屈で少しだけ喉元のボタンを外す。湿ったタオルをあてられていたそこは、外気に触れてひんやりと涼しかった。
 若……だいじょうぶかな。なにか、あったのかな……
 どことなく様子のおかしかった従兄を思い、そっとうつむく。怒っているふうではなかったけれど、なにかどこかに屈託を感じて、いますぐ彼のところへ行って、話を聞きたい衝動がわき上がった。
 それでも、いまは休まなければ。これ以上バルトの足を引っ張りたくない一心で、マルーは再び枕に頭をつけた。
 目が覚めたら、若に会いに行こう。  
 不安な気持ちを振り払うように、マルーはバルトのことだけを考えて、そっとまぶたを閉じた。







「――……る…わね……」
「――……い…いまは…まだ……」
「――……ええ…でも、起きたらいずれ――」
「……そうですね……」
 深い眠りの底から浮上する途中で、ちいさなささやき声が耳に届いた。
 マルーは、今朝方と比べると格段に楽になった体調を感じながら、ゆっくりとまぶたを開ける。朝の光に溢れていた室内は、いつの間にかオレンジ色の西日に染まっていた。
「……あれ……? ボク、寝ちゃってた……?」
「マルー、目が覚めたの?」
 マルーの独り言を聞きつけて、枕辺から声が上がる。耳に馴染んだそれに、マルーは反射的にほほ笑んだ。
「エリィさん」
 目を向けると、夕日に輝くうつくしいマリーゴールドの髪をさらりと揺らして、エリィがマルーをのぞき込んでくる。その傍らから、シスターアグネスの顔も見えて、マルーはますます笑みを深くした。
「ふたりとも、来てくれてたんだ」
「ええ、ついさっきね……起こしちゃった?」
「ううん、ちょうど目が覚めたところだよ」
 言いながら、マルーは力を込めて上体を起こす。身体の節々が少しきしんだけれど、鉛のようだった身体は嘘のように軽く、靄がかかったようだった頭もすっきりとしていた。
「マルーさま、お顔の色がだいぶお戻りになられましたね」
 ほっとしたようなアグネスの言葉に、マルーはもう大丈夫だと請け負った。それから壁にかけられた時計を確認すると、夕飯の時刻に近い。
「けっこう寝ちゃったねぇ。みんな、どうしてる?」
「街の者たちは、警護している僧兵への炊き出しなどで広場に集まっております。大聖堂の方も、問題なく作業が進められているとの報告がありました。それから、さきほどユグドラシルから連絡が入りまして、明日にはニサンへ帰還するとのことです」
 アグネスの言葉に、マルーははっと顔を上げる。
「爺たちの方は、作戦成功したんだよね?」
「はい。無事に王宮を制圧して、民衆の支持も得たとのことです。シャーカーンに与した兵たちは、ほとんどが捕らえられたり、国外へ逃走したと」
「よかった……」
 自分が倒れている間に、本当に色々なことが動いたのだ。マルーは改めておおきな流れを感じ、その瞬間にバルトの傍らにいられなかったことをチクリと悔やむ。
 それから急に、寝汗で湿った自分の身体が気になりだした。
「アグネス、お風呂っていまから入れるかなあ…」
 バルトのことを考えた途端、朝のやり取りで感じた焦燥感を思い出したマルーは、一刻も早く彼の顔を見たいと気持ちが逸った。けれど、着の身着のままでは会えない。そんな乙女心を汲んで、アグネスはきびきびと動いた。
「いますぐにご用意いたします」
「ありがとう」
 部屋を出たアグネスを見送ると、マルーは改めて年上の親友へと顔を向けた。
「エリィさんにも、心配かけちゃったよね。……ごめんなさい」
「ううん、いいのよ……マルーの気持ち、わかるもの」
 そう言って、エリィがマルーのベッドに腰をおろす。その横顔が、どことなく暗く沈んで見えて、マルーは心配になった。
「エリィさん? どうかしたの……?」
「え……」
「なんか、すごく難しい顔してる」
 眉間に寄ったしわに気づき、エリィが慌てて首を振る。それから少し、考えるふうに沈黙してから口を開いた。
「……さっきみんなで、これからのことを軽く話し合ったの」
「これからのこと?」
「ユグドラが帰還したら、ギアの調整が済み次第、もう一度アヴェに向かうことになったわ。シャーカーンがいないいま、アヴェの正当な王位継承者として、バルトには為すべき責任があるって……」
「うん……」
 いよいよ、その時が来るんだ。十二年前のあの日、自分たちの肉親がすべて奪われ、簒奪者の手で囚われの身となった瞬間から、いままでずっと苦しんできたバルトを想い、マルーの胸は苦しいほど熱くなった。
 エリィはそっと、マルーの視線を捉えて見つめる。その表情が冴えないことに気づき、マルーが小首をかしげた。
「エリィさん?」
「……その、打ち合わせの席でね。バルトが言ったの」
 静かなエリィの声。マルーの大好きな、落ち着いたメゾソプラノは、次にこんな言葉を形づくった。
「この先は、マルーはニサンに置いていく……ユグドラシルにはもう、乗せない、って」
「……え?」
 言われた意味がわからずに、マルーは本気できょとんと眼を丸くした。
 そしてそれから――――すぐに気づく。

 やっぱり、あの時バルトに感じた違和感は……背筋を凍らせるような恐怖は、本物だったのだ、と。


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