恋までの距離
「――お薬が効いていらっしゃるようですわね……」
傍らで、闇をはばかるようにそっと呟かれたシスターアグネスの言葉に、バルトは全身の力が抜けたように長いため息をついた。
ここは、ニサンの街にある正教の持ち家のひとつで、大聖堂になにか異変があった場合の避難所として準備された場所。
シャーカーンの尖兵に占拠されていたニサンは、バルトたちの活躍で事なきを得ていたが、完全に安全だと確認されるまではもう少し時間がかかる。一時的とはいえ敵兵の侵入を許した大聖堂は、徹底的な残党狩りを行うまで大教母を受け容れることは適わず、マルーの静養所として選ばれたのがこの屋敷だった。
シャーカーンを倒し、凱旋したバルトが飛び込んできたのはつい先ほど。ともに無事を喜び合う仲間たちに、ろくに声もかけないまま、彼はこの場に馳せ参じたのだ。
しかし、悲願達成の興奮を伝えようとしていたバルトが目にしたのは、寝室のベッドの上で、浅い呼吸を繰り返している従妹の姿だった。
ギア・バーラー奪取の際に足を撃たれていたマルーは、その怪我がもとで高い熱を出していた。シタンたちのエーテル能力のおかげで初期治療は完璧だったのだが、もともと戦士でもない普通の少女であるマルーの身体は、銃撃に対応する基礎体力に乏しく、回復のための発熱は避けられないものだった。
彼女の病床に付き添っていたアグネスの話では、バルトたちがシャーカーンのもとへ向かった際には、すでに四十度近い熱があったらしい。それを聞いて、バルトはベッドの上で軽口をたたいていたマルーの顔を思い出そうとした。
シャーカーンがニサン付近の障壁〈ゲート〉へ向かっているという報に接し、誰もが畳みかける好機だと思った。いまを逃せば、また旗色が変わるかもしれない。二度とニサンの地にも、アヴェにも足を踏み入れさせないために、出撃をためらっている余裕はなかった。
それがわかっていたからこそ、マルーは必死の思いで平静を装ったのだろう。辛いことや苦しいことを、いとも容易く隠しおおせる従妹の笑顔に、今回もまた、だまされてやることしかできなかった。
「……バルト様、お疲れでございましょう? あとはわたくしに任せて、お休みください。マルー様がお目覚めになられましたら、すぐにお教えいたしますから……」
アグネスの言葉に、バルトはマルーの枕辺においてあった椅子に腰をおろしながら首を振った。
「いや……今日は、こいつについてるよ。アグネスこそ、ずっと看病のし通しで疲れただろう? ここは任せて、休んでくれ」
「ですが……」
「熱もだいぶ下がったみたいだし、それほど急を要することはねぇだろう。いまからだと……夜明けにまでいくらもないが、少しでも寝ておけよ。俺たちはギアの調整で二、三日動けねぇが、シスターは明日からも忙しいだろう?」
アヴェ兵に占拠されていたニサンの街の回復と、大聖堂の残党狩りの指示は、負傷した大教母に代わりすべて正教の上層部へと委ねられていた。その大部分を担う古参のシスターは、少しだけ疲れたような顔で微苦笑し、いま一度マルーを見つめる。
だいぶ安らいでいる幼い寝顔に、慈母のような笑みを浮かべて、アグネスは静かに頷いた。
「……では、申し訳ありませんが、お言葉に甘えさせていただきます。もしなにかございましたら、わたくしは階下に控えておりますので、どうかお声をおかけください……」
「おう、ゆっくり休めよ」
一礼して部屋を辞したアグネスを見送って、バルトは再びマルーへと視線を戻した。
ベッドサイドの細いランプだけが、ほのかな光源となっている。その淡いオレンジ色の中で、彼女は深い呼吸を繰り返していた。高い熱は下がったとはいえ、その間の疲労は重く、やわらかなほほにはやつれたような影が浮いている。
汗で張り付いた前髪を、武骨な指でそっとすくい上げながら、バルトはマルーがとてもちいさいことに改めて思いを馳せていた。
トレードマークのおおきな帽子をかぶって、太陽のように明るい色のマントを翻し、彼女はいつもちょこまかと走り回っている。困っているひとを放ってはおけず、すぐに誰かの手伝いを買って出て、一時とじっとしていない。年齢のわりに幼い風貌なので、皆は微笑ましくそれを受け容れ、子どもじみた挙動を歓迎していた。
だから、誰も気づかない。瞳を瞑り、静かにベッドに身を横たえた彼女は、痛々しいほど細く、不安になるほど脆く、消えてしまいそうなほど儚いことに。
まだ、たった十六歳の少女なのだ。
普段は意識的に隠されているマルーの弱さを改めて感じ、バルトはその指をそっと彼女のほほに滑らせた。
こんなに頼りない、華奢な身体。そのぬくもりに、どっぷりと頼り切っていた自分がいた。
『わかぁ……おねがい、ぎゅってして……』
不安に潤んだおおきな瞳。細いてのひらを差し伸べて、こちらにすがりつく身体。
ユグドラシルに乗り始めたころ、なにかといえばマルーはそう言って、バルトに身を寄せていた。
雷が鳴っては震え、怖い夢を見たといってはベッドにもぐりこみ、いたずらが見つかってシグルドに絞られた夜は、互いを庇うように抱きしめ合って眠った。
幼いふたりには、自分と相手の境界線などなく、ただひたすらにぬくもりを求めあっていた。
けれどバルトはそのころから、自分がマルーを護っているのだ、護らなければならぬのだと、強く思いさだめていた。
過酷な経験をしたためか、平均よりも発育の遅いバルトだったので、二歳年下のマルーと比べてもそれほど大差のないちっぽけな身体。そんなものひとつで、マルーを護り通せると、本気で信じていた。
なぜならば、マルーは。
どんなときでも真っ先に、ただひとりバルトだけに救いを求めたから。
他に頼れる人間はたくさんおり、大人たちの世界の中、バルトはどんなに背伸びをしてみたところで、満足にマルーを助けてやれないことも多かった。
けれどマルーは頑なに、その手をバルトだけに伸ばし続けた。
だから彼は、確信していた。マルーを救えるのは、護れるのは、この世で自分ただひとりだと。
胸いっぱいの自信と誇り。優越感と独占欲。
幼かった彼は、その時は気がついていなかった。
差し伸べられた細い腕に、頼りないそのぬくもりに、自分こそがすがりついていたことに。
――――もしも、あの時
――――マルーを、失っていたら?
「――……っ」
ずっと打ち消し続けてきた問いかけは、とうとうバルトを捉えてしまった。
ランプの淡い光の中、あたたかな従妹の肌に触れていてなお、バルトは足元から世界が崩れてしまうような感覚に震える。
シャーカーンを打倒し、戦勝の興奮に息巻いていた自分はいつの間にか消え去り、こころはあの、血の匂いのたちこめるギア・バーラーのコクピットへと舞い戻っていた。
意識のないマルーを抱きかかえ、彼女の命が刻一刻と流れ出てゆく恐怖。
決して失われるはずのなかったものが、いつの間にかこの手をすり抜け、あっけなく消えてしまう恐怖。
この先も続くはずの日常を、奪われ踏みにじられる恐怖。
こころが、コクピットに戻る。
牢獄へ還る。
「…………」
柔らかなマルーの肌。しっとりとしたそれを撫でながら、バルトは薄暗い物思いを止められずにいた。
もしもあの時、マルーを失っていたら。
――自分は、この世界に留まっていられただろうか?
いままで、数えきれないほどの喪失を味わってきた。肉親を亡くし、故郷を追われ、仲間を喪い続けてなお、立ち上がり前を向きおのれを鼓舞し続けていられたのは。
絶望に打ちひしがれることなく、いまここに居られるのは。
誰のおかげだった?
「……マルー」
ちいさな声で、その名を呼んだ。
何千、何万回と繰り返したかけがえのない肉親の名前。最後に残された、バルトだけの希望。
おしみないぬくもりで、飾らない言葉で、せつないほどのやさしさで、彼の傍らを歩き続けてきたちいさな少女。
ずっとともにあると、疑いもなく信じてきた。
その、傲慢に。
「…………マルー」
彼は気づいてしまった。
彼女を失う未来もあると。そんな当たり前のことを、何度とない喪失を繰り返してきたはずの彼が、いまのいままで想像もしていなかった。
マルーは、マルーだけは、奪われるはずがない。
ひどく無邪気に、そう信じていた。
だが、実際は。
「………ん……」
その時、かすかな吐息がマルーのくちびるからこぼれ落ちた。その振動が彼女のほほを包んでいたバルトの手のひらに伝わり、彼は弾かれたようにその手を引いた。
いまの自分は、きっとひどく情けない顔をしているだろう。迷子のように寄る辺ない、不安に押しつぶされそうな顔。
マルーを失うかもしれないと、想像しただけなのに。
その時バルトは、自分の中に昔から当然のようにあった巌のような確信が、根底から崩れゆく音を聞いた。
バルトはずっと、マルーを大切に想い護るのは、彼女が自分に残された唯一の肉親だからだと思っていた。
ともに命の危機を乗り越え、大切な者たちとの別れを経験し、突然いままでとは全く違った過酷な環境に放り出された。互いがいなければ、乗り越えられなかっただろう現実を、手を取り合って生き抜いた。
だから、バルトにとってマルーは、護るべきもの、護らなくてはいけないもの。
従兄として、肉親として、家族として。
だが――――
実際は、そんなうつくしいものではない。
そのことを、今更のように思い知らされた。
もしもマルーが失われたら……そのぬくもりが、まなざしが、バルトの手からすり抜けてしまったらきっと、自分が滅ぶと思い知った。
幼い頃から、ずっと。自覚もないまま根を張り、芽吹き、いつの間にか狂おしく咲き誇ったこの感情に、名前などない。
マルーを失ったら、生きていけない。
生きる意志を失う前に、身体の機能が停止する。
他の誰かがこんなことを言えば、なにを大げさなと笑うだろう。人間は、そう簡単に死にやしない。誰かを失ったとしても、また他の誰かを見つけるだろう。そうやって生きるしかないのだ。
だが、バルトは明日の朝日が昇るように、確信していた。
マルーを失うことは、おのれを喪うことなのだと。
――我ながら思う。これは、おぞましい感情だ。
自分が生きるために、彼女を求めている。
マルーを護りたいのは、傍にいてほしいから。
傍にいてほしいのは、そうしなければ自分が喪われるから。
どこまでも、ひたすらに、自分のためだけの欲。
死にたくない本能が、彼女を求めている。
――――こんなものは、愛とはいえない。
「……ぁ……」
その時、先ほどよりもはっきりと、マルーが身じろいだ。
凍り付いたように彼女を見つめるバルトの目の前で、長い睫毛が蝶の羽のように細かく震え、何度か瞬く。薄く開かれたまぶたの奥から、宝石のようにきらめく蒼が、まるで奇跡のようにうるわしくバルトを捉えた。
「――――……わか……?」
ぼんやりとしたかすれ声に、バルトはぞくりとしたものが背筋を這い上るのを感じた。
何千、何万回と呼ばれたその名を、マルーの声が形作るだけで、昨日までとは違う感覚に襲われる。
自分のこと以上に知り尽くしていると思っていた、年下の従妹。
幼い頃から犬の仔のようにじゃれ合ってともにいた、おのれの半身。
そんな、マルーを。
失いたくない誰にも奪われたくない傍にいてほしいずっといてほしい――
身体中の血が、沸き立つように暴れた。
「……わか……ぁ」
熱の影響か、マルーはぼんやりとしている。まるで幼い頃、眠りのはざまでよく見せていた、頼りなくいとけない風情に、バルトののどが鳴る。
彼は混乱していた。ひどく混乱していた。
コクピットで味わった恐怖が、古い馴染みのようにすぐ傍にたたずんでいる。あの日の監獄の匂いが、音が、まるで昨日のことのように思い出された。
いまここにいるマルーが。
本当にここにいるのかどうか。
明日もここにいるのかどうか。
それを確かめるために、その手を伸ばした。
「……ッ……」
しっとりと汗ばんだ白い喉元に、あとわずかでふれそうになった瞬間、バルトはまぎれもない恐怖に息をのんだ。
いま、この手で触れたら。
なにかが始まってしまう。
取り返しのつかない、なにかが。
そんな予感に―――バルトは恐怖し、けれど同時にひどく。
ひどく、興奮していた。
マルーは熱で潤んだ瞳を細め、ぐっと眉根を寄せた。探し求めているものが、見つからないとぐずる子どものように。
ここにあって当たり前のぬくもりを、ただひたすら求めた。
「わかぁ……おねがい、ぎゅってして……」
それは、聞き慣れていたはずの、言葉だったけれど。
幼い頃の、彼女の口癖だと、わかっていたけれど。
ちいさな彼女が、安心を求めるための、清い呪文だったのだけれど。
「……っ」
バルトの身体が、斜めに傾いだ。
餓えた獣のように、ひたすら貪欲に、バルトはマルーのくちびるを奪った。
熱で乾いたちいさなくちびるは、突然の嵐になすすべなく翻弄された。なんの備えもなかった彼女は、呼吸すら許されないほどの激しいくちづけに、むせるように喘ぐ。
「……っ、は、ァ……っ」
くちびるをずらし、酸素を求めて胸を弾ませるマルーの顎を、バルトの容赦ない手指がつかんだ。彼女の吸う息を追うように、再び重ねられたくちびるは熱く、湿った熱で渇きを潤す。
「んっ……ゥ」
ひどく冷たい舌が、マルーの口腔に現れた。異物であるそれは、我がもののようにそこを舐り、行き場を失ったマルーの舌を探し当てては、ていねいに絡みつく。粘膜同士の触れ合いは奇妙な感覚を呼び起こし、誰に教わったわけでもないのに、マルーは呼吸を合わせるように息を継いでいた。
気持ち悪いような、気持ち好いような、不思議な気分。くらくらとゆれる頭の中はまるで嵐の中の小舟のように混乱していて、マルーはなにかを求めるようにその手を伸ばした。
指の先にふと、なじみ深い感触がして、すがるようにそれをつかむ。バルトの金の髪だけが、落ちてゆくマルーの命綱となった。
「はぁ…っ、ァ…っ」
真っ赤な顔でのけぞったマルーののどが、無防備にさらされた。バルトのくちびるが、追いたてるようにそこをすべり、きつく吸い上げる。じわりとした痛みが、やけどのように感じられた。
バルトは夢中で甘い肌を吸った。なにを考えている余裕もなく、けれど頭のどこかはひどく冴えていて、これは俺のものだと…………『俺』なのだと、すべての人間に思い知らせるように歯を立てた。
薄い寝間着の奥で、せわしなく震える胸に手を伸ばし、さらに蹂躙を重ねようとした彼の耳は、その時かすかな呼吸音を拾った。
「――――マ、ルー……?」
ひきつれるような喘鳴は、彼女の震えるくちびるから漏れ出ていた。力を失った手指が、ベッドの端から投げ出されている。真っ赤な顔は先ほどまでの緩やかな小康状態ではなく、再びの高熱を示唆していた。
「……!」
はねつけられるように、急激に冷める熱。バルトはマルーの華奢な身体からのけぞって離れると、混乱したように頭を抱えた。
身体中の血液が、耳朶に集中している。自分の心音しか聞こえない世界で、バルトは右目を見開いて唸った。
横たわるマルーは、先ほどまでの無体を責めるように、無防備に肌をさらしていた。開かれた喉元には、血の色に浮いた赤い痕が、ふたつ……三つ。
「ッ……」
ぐぅっと迫ってきた吐き気に、バルトは思わず海老のように身体を丸める。戦闘のあとのような、ひどく獰猛なアドレナリンの放出に、わなわなと震えた。
それから勢いよく顔をあげ、思い切りこぶしを握っておのれのほほを殴りつける。容赦ない痛みに一瞬で頭が冴え、くちびるの端から滴った鮮血をぐいと拭った。
―――――いま。なにをした。
敢えて自問する。確認せずともわかっている。記憶を失ったわけではない。
なにか……この十数年、ずっとこころのどこかに巣食っていた得体の知れないものが、おのれの身体を衝き動かしていた。その抗いようのない事実を前に、バルトは改めてこぶしを握る。
「……最悪だ……」
どくどくと、治まらない鼓動を感じながら、バルトは震える声で呟いた。
なにかが狂ってしまった。建前と大義名分がどこかへ消えてしまって、残ったのは獣のような本能。
思いは募る。
募れば溢れる。
溢れれば――――
「……俺は――――」
こんなものは、恋ではない。
そんなきれいなものではない。
マルーがいないと、生きていけない身体。
男としての本能が、当然のように求めるもの。
一方的なその欲は、どんなうつくしいおためごかしさえも受け付けない。
そんなものは、恋ではないのだ。
「――――最低だ」
きつくきつくこぶしを握って、バルトはうつむいたまま動けなくなってしまった。