恋までの距離




「おい! マルー! しっかりしろ……マルーっ!」
 薄暗いギア・バーラーのコクピット内に、少女の足を濡らす血のにおいが立ち込める。
 仇敵の逃亡を目の端に留めながら、バルトは適うかぎり慎重に、マルーの身体を抱き支えた。
 操縦席の背もたれにすがりついていた彼女は、なじみ深い従兄の腕に抱かれると、反射的にか深いため息をついた。ぐったりと力を抜き、意識を失った彼女の身体はしっとりと熱い。それなのに、薄暗さにもごまかされないほど、そのちいさな顔は雪のように白かった。
「ちくしょう! マルー……おい、目を開けろよ、なぁ、マルー!」
 叫びたいのを懸命にこらえて、バルトは真剣な声音でマルーに呼びかけた。ちいさな手のひらを探り当て、命綱のようにぐっと握りこむ。それに応えるようにマルーの手が動いて、はっと目を輝かせたバルトだったが、すぐにそれはどうしようもないほど震えた自分の手の動きだと悟る。
 それを、どうやって止めたらいいか、わからない。
「……マルー……」
 シャーカーンと対峙していた時は、怒りと憎しみに頭が冴えていた。マルーが負傷したことも知っていたし、出血の箇所も確認していた。応急処置を施す暇もなかったけれど、戦士の目は的確に、それほど急を要するものではないと判断していた。
 だが、いまは。
 マルーの血の匂いを嗅ぎ、意識を失った彼女を抱えてバルトが思うことは、自分がいま、なんの役にも立てないということ。
 治癒エーテルのひとつもない。
 薬や包帯の類もない。
 マルーのために、なにひとつしてやれることのない自分が、――――心底、

〈若、ここを開けてください!〉

「っシグ……!」
 外部からの呼びかけに、バルトははっと我に返った。霧が晴れたように冴えた視界を巡らせて、急いでコクピットの扉を開ける。そのまま、腕の中のマルーを揺らさないように慎重に立ち上がった。
ギアを出ると、仲間たちが待っていた。その中央にいたシグルドが、バルトの腕に抱かれたマルーの、血を流す姿を目にして蒼白になる。
「……マルー様!」
 マルーの白い足を伝う赤い色は、バルトの二の腕を伝って点々と床を汚した。恐怖に凍ったシグルドの背後にシタンの姿を見つけ、バルトは必死に叫ぶ。
「先生! 頼む、なんとかしてくれ……気を失っちまったんだ!」
「とにかく、こちらへ来てください」
 広い場所へバルトを招いたシタンは、立ったままのバルトの腕に乗せられたマルーの足を検分する。
「患部はここだけですね? 弾は……一発か。抜けていますか? あぁ……出血がひどいな……」
「先生! 早く治してくれよ、早く!!」
 思わずバルトが叫んだ瞬間、シタンは厳しい医師の瞳で彼を睨み、端的に命じた。
「座りなさい、若くん。マルーさんを固い床に寝かせたくありませんから、きみが支えるんです」
「わ……わかった」
 頷いて、バルトは静かに腰を落とす。腕にかかえたマルーを揺らさないよう細心の注意を払いながら、床に尻をつけて長い足を投げ出すと、片足を立ててバランスをとり、マルーの身体を自分の胸元にもたれかけさせた。
 シタンは傍らに膝をつき、マルーの足をそっと持ち上げた。その瞬間、彼女の表情が苦悶に歪み、珠のような脂汗がほほを伝って落ちる。
「先生! もうちょっと丁寧にやってくれよっ」
「えーと……ああ、弾は貫通していますね、よかった」
「ヒュウガ! これで止血しろ!」
「なにもあなたの服で止血せずとも、包帯くらい用意がありますよ、シグルド」
「シタン先生っ、いいから早くなんとかしてくれってば!」
「ヒュウガ!」
 バルトとシグルドの声がハモった瞬間、シタンはふうっとため息をつく。右手の中指でそっと眼鏡のブリッジを持ち上げると、背後を振り返ってことさらのんびりと言った。
「ビリーくん、エーテル効果で傷口を修復しますから、手を貸してください。フェイは、アクアソルを小分けにして、マルーさんに飲ませる用意をお願いします」
「は、はい」
「わかった」
 指示を受けてすぐに動き出した仲間たちを後目に、バルトが焦ったように声をあげる。
「先生! 俺は? 俺はなにすりゃいいんだよ……っ」
 勢い込んだバルトの額を、シタンはぺちん、と平手で叩いた。
「きみは、マルーさんのベッドです。余計な口は利かないで、じっと彼女を抱いていなさい。シグルドはその間、外との連絡をお願いします」
「あ……ああ」
 冷静なシタンの挙動に、ようやく我に返ったような顔でシグルドは頷き、あわただしく踵を返した。褐色の肌でもごまかせないほど蒼白になっていた朋輩の姿に、シタンはやれやれとため息をつく。
「まったく、あなたたち主従ときたら……まあ、気持ちはわかりますのでお説教は勘弁してあげましょう。さあ、ビリーくん、始めますよ」
「はい」
 銀の髪のうつくしい少年神父は、シタンの傍らに膝をつき、そっと患部に手をかざした。その表情は硬く、普段ならば狼狽しきったバルトをからかわないではない毒舌の彼もまた、言葉には出さない衝撃と不安を感じていることは明らかで、シタンは横目でそれを確認し、ふうむと唸る。
 シタンとビリー、ふたりのエーテル治療を施されたマルーは、少しずつその呼吸を楽にしていった。バルトは彼女の様子をつぶさに見つめ、息をすることさえ忘れたようにじっと沈黙している。
「バルト」
 肩越しに声をかけたフェイは、のろのろと顔を上げたバルトの目前で、薄いガラスの小瓶を振った。
「アクアソル。おまえが飲ませてやれよ」
「あ、あぁ……」
 マルーを抱えていない方の手をあげて、バルトが頷く。小瓶を受け取る彼の指は、まだわずかに震えていたけれど、フェイはしっかりとバルトの目を見つめ、深く頷いてやった。
 バルトはそっと、マルーのほほに手を添えた。汗で冷えた肌は、けれどいつものようにやわらかく、下唇に優しく指をかけて押し下げると、色の抜けたそれがもの言いたげに開かれる。
 ちいさなくちびるに、ちいさな小瓶を傾けて、バルトはゆっくりと彼女の回復を願った。
「……さあ、これでひと安心だ」
 小瓶の中身がなくなるころ、マルーの足を治療していたシタンが安堵の声を上げた。はっとしてバルトが顔を上げると、視線の先でシタンがほほ笑む。
「幸い弾丸はきれいに貫通していますし、骨にも健にも異常ありません。機能障害が残る可能性はありませんよ」
「ほ……ほんとかい、先生」
「流した血が多いので、エーテル治療のみでの完治は難しいですが、ゆっくりと療養すれば、たぶん二、三日で普通に動けるようになるでしょう」
 優秀な医師であるシタンが請け負う言葉に、放出したエーテル能力に疲労の色を浮かべていたビリーが、こころから安堵した笑みを浮かべた。
「よかった……」
「おい、バルト? だいじょうぶか?」
 ビリーのため息にかぶさるように、フェイが怪訝そうに問いかける。ピクリとも動かない悪友の眼前でひらひらと手を振ると、バルトは一瞬夢から覚めたような顔で身じろいで、それから軽く首を振った。
「――あぁ……」
 散らばった金の髪が、バルトの胸で安んじていたマルーのほほに降りかかる。かすかに濃茶の睫毛がふれて、血の色が戻りかけていたくちびるが震えた。
「………わか?」
 瞳を開けて、一番初めに飛び込んできた金と褐色の洪水に、マルーは舌ったらずな声を上げる。彼女に覆いかぶさるように力を抜いていたバルトは、その声にはっとして顔を上げた。
 目が合うと、マルーのおおきな碧玉の瞳がぼんやりとうるんでいる。まばたきをし、不思議そうな表情で従兄に問いかけた。
「……わか……どうしたの?」
 見たことがないような顔で、バルトが固まっている。困ったような、泣きたいような、そんな彼に戸惑って、マルーはそっと手を伸ばした。
「マルーさん!」
「マルーさん、気がつきましたか?」
「マルー、だいじょうぶか?」
 口々に声をかけられて、マルーははっと目をまるくした。伸ばした指先がバルトの肌に触れる前に、時計の針がまき戻るように状況を理解し、それから至近距離にある従兄の顔をまじまじと見やって、照れたようなほほ笑みを浮かべた。
「……若」
「……だいじょうぶか」
「うん……」
 ぎこちない会話のあと、マルーは他のみんなにこたえようかと一瞬視線を外しかけ、けれどすぐに、バルトの顔へと向き直った。
 不機嫌そうに眉を寄せ、頑ななまなざしでこちらを見つめるその表情が、こころの痛みに必死に耐えているときの癖だと、思い出したから。
 マルーは、先ほど伸ばしかけてやめた指先を、再びそっと持ち上げた。少しだけざらついているバルトの顎の線に添わせ、冷えた彼のほほを包む。いまは自分の指先も冷たいけれど、なんとかして彼に、あたたかなものを与えたかった。
「……あのね、気を失ったあともずっと、若の声だけは聞こえてたんだ」
「…………」
「すごく不思議だけど……若の必死の声は、届いていたの」
「…………」
「だから、ボクも若の力にならなきゃって思って……」
 その言葉に、バルトは不機嫌そうな顔のまま、ゆっくりと瞬いた。そのまぶたが細かく震えていることに気づいて、マルーがとっさに指を伸ばすと、バルトは犬のように首を振ってそれを払い、深くうつむいた。
「……そうか」
 くぐもった声で一言呟くと、バルトは腕に抱いたマルーに覆いかぶさるように身体を傾ける。
「……俺はおまえに守ってもらったんだな。……一緒に、戦ってたんだな……」
「……!」
 目の前のくちびるからこぼれた言葉に、マルーの両目が見る間に潤んだ。熱い喉にぐっと力を込めて、マルーはバルトの髪に鼻先を埋める。彼の匂いに、力が抜けるようだった。
「……思い知ったよ……俺」
「……わか……?」
 かすれるようにちいさく続いた囁きに、うまく聞き取れなかったマルーが問い返した時、ふたりの頭上でわざとらしい咳払いが響いた。
「……あっ!」
 期せずして深く抱き合うような形になっていた自分たちに気づき、今更のようにマルーが慌てる。気まずそうに、あるいは愉快そうにこちらを見守る周囲に、ごまかすようにほほ笑んだ。
「えーっと、心配かけてごめんなさい! それと、治療してくれてどうもありがとう!」
「いえいえ、大事に至らなくてなによりでした。しかし、いまはあくまでも応急処置をしたまでです。一刻も早く、きちんとした治療を施す必要がありますよ」
 含み笑いを浮かべたシタンに、マルーは困ったように頷く。けれど、彼女の身体を拘束している主は、一向に顔を上げようとしなかった。
「……ほら、なにやってんのさ、バルト!」
 少々苛立たしげなビリーの声に、ようやくバルトは顔を上げた。顔色の冴えない彼に、マルーが心配そうに眉を寄せる。
「若? どうしたの……?」
「……いや、別に……」
「早く戻るよ。もたもたしてたら、マルーさんの傷に障るだろ」
 畳みかけるビリーの言葉にも、バルトはいつもの調子を見せず、ただ緩慢に頷くだけだった。
「……若? どうされました」
 その時、外部との段取りをつけて戻ってきたシグルドが、様子をうかがうようにバルトに問うた。バルトは一瞬沈黙してから、ゆるく首を振ると、マルーを抱えたまま体勢を変え、軽々と立ち上がる。
「いや……なんでもねぇよ。俺は、少しこいつのことで先生と話していくから、シグ、マルーのこと頼むわ」
「承知しました」
 ギア・バーラーを顎で指し、バルトはそう言ってシグルドへと向き直った。シグルドは厳かに少女を受け取って、しっかりと頷く。        
「若……」
 二人の青年の間で、マルーが不安げにバルトを見つめた。バルトは先ほどまでの不機嫌そうな様子から一変し、いまはただ、おだやかな顔でマルーにこたえる。
「すぐに行くから、おまえは先に戻ってろ」
「……うん」
 頷いたマルーは、不安を吹っ切るようにやわらかくほほ笑んで、シグルドの胸に頭を預けた。シグルドは、まるで宝物を扱うように静かに歩きだし、時おり甘い声でマルーの安否を問いかけながら、ギア・バーラーの部屋をあとにした。
 それを見送る間、バルトは胸の内に渦巻く感情を、ひたすら抑えようとこぶしを握る。
「――――ちくしょう……」
 呟かれた言葉はちいさく低く、誰の耳にも入ることはなかった。


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