SEESAW-GAME

 人の行き交う通りに面した区画から、路地一本奥まった場所に、その家はあった。
 華美ではないが趣のあるその家の佇まいは、おとなう人をどこか心温かくさせる。
 天気のよい日ともなれば、こざっぱりとした緑の前庭で遊ぶ、男女入り乱れた小さな子供達の姿を、人々は頻繁に目にすることができた。
 手入れの行き届いた季節ごとの花が、訪れる者を楽しませる庭に、楽しそうにまろび笑う子供達は、まるで天使のようだと、異口同音に誰もが語る。
 そして時折、そんな子供達を慈しむように見守りながら、真っ白い洗濯物を風になびかせる、聖母のごとく美しい女性の姿も、この界隈で知らない人間はいない。
 新キスレブ共和国の首都、新生ノアトゥンの一角に居を構えたバンデラス家は、様々な意味で衆目を集める、平和で穏やかな日々を過ごしていた。



 バンデラス家の朝は、まず、母親の優しい声から始まる。
「おはよう、アル。朝ですよ、起きてちょうだいね」
 天上の鈴の音のように、耳に心地よいその美声は、普通の人間であれば、起きるどころかますます眠気を誘われるような穏やかさでもって響く。
 それとともに、姿勢正しく(と言う表現は妙だが、確かにいささかも寝乱れた様子はない)布団に収まっていた小さな額に、ふんわりとマシュマロのように柔らかい唇が落ちた。
「…おはようございます、母上」
「おはよう、アルベルト」
 くちづけに、まるで魔法が解けたように至極あっさりと瞳を開いたのは、年の頃なら十かそこらの、可愛らしい少年。母親の美貌をそっくり受け継いだかのように、白い肌に金の髪を流す彼は、寝起きとは到底思えないほどしっかりとした表情で身を起こし、その琥珀の瞳を数度瞬かせた。
「今朝はえらく早いですね」
 母親に対してもきちんとした言葉遣いをよしとする彼に、豊かな金の髪をさらりと揺らして、サラフィナ・バンデラスは少女のように微笑んだ。
「今日は、『お泊りの日』よ、お寝坊さん。忘れたの?」
「ああ…そうでした」
 納得して、アルベルトことアルは頷く。素直な彼の髪が、頬のあたりで短く揺れると、そこから覗く動物的な耳が、二度三度、ぴくりと震えた。
 サラは、愛する子供達の一番愛しい部位をうっとりと眺めて、優しく囁いた。
「まだ誰も、起きてこないの。アル、お願いね?」
「解りました」
 確かに、家の中に弟妹の声はない。父譲りの聴力でそれを確認し、アルは軽く頷いて、母の手を煩わせることなく、身につける衣服を選ぶためクローゼットに歩み寄った。
 しっかり者の長男に安心すると、サラは上機嫌で部屋を後にする。それから数分の後、アルはきちんと身なりを正して、右隣の部屋をノックした。
「ライ。起きているかい」
 問いかけのような言葉を口にしつつ、その可能性の天文学的低さを了解している兄は、すぐ下の弟の部屋に問答無用で突入した。
 自分の部屋よりも、幾分乱雑な部屋の隅に、こんもりとした山がある。手足を縮めて布団を被る、アルからすれば息苦しいことこの上ない寝相の弟が、今もまだ夢の世界の住人であることを確認して、彼はすたすたとそちらに歩み寄った。
「ライムント、朝だよ。起きなさい」
 促すような言葉を口にしつつ、その手は無遠慮に布団を引っぺがす。言葉と行動に誤差があるのは、これが毎朝恒例の行事だからであり、アルは弟の天下一品の寝起きの悪さを、つまり毎日味わっている結果だった。
 案の定、布団の中で猫の子のように丸くなっていた弟は、そんなことではぴくりとも目を覚まさない。元から癖の強い赤銅色の髪が、夜中の激しい移動のためかなおさらくしゃくしゃになっている。その下には、天使のごとく可愛らしい、兄とよく似たあどけない寝顔があった。
 アルは冷静にそれを観察し、それからすいと手を伸ばした。外見は自分と同じ、普通の人間の形を取る中で、異様とさえ言える特別な部位。
 動物的に長く伸びた柔らかな耳を、容赦なくつまんで口を寄せる。
「ライ! おはよう良い朝だ!!」
「ふぎゃぁっ!」
 文字通り、ライムントことライは飛び上がるように跳ね起きた。通常の人間よりも、様々な面で身体能力の高い兄弟は、聴力も並外れて良い。従って、至近距離からの大声は、多分何よりも効果的な刺激であろうことを、アルは身をもって知っていた。
 片耳を押さえ、ライは寝起きの琥珀色の瞳を潤ませながら、長兄を睨んだ。
「その起こし方、やめて欲しいって言ったはずだけどなあ!」
「ライが素直に起きるようになったらやめると、言ったはずだよね」
 しれっと答え、アルはさっさと部屋を縦断し、クローゼットを開けた。相変わらず、わけのわからないものが目立つ雑多なそこから、適当に衣服を取り出して、ベッドに投げる。
「ほら、早く着替えて。今日は『お泊りの日』だよ」
「え、あー…あぁ、そっか。道理で、いつもより早いと思った」
 受け取った衣服にもそもそと着替えながら、ライが呟く。弟の様子を確認してから、アルはさて、と腰に手を当てた。
「次が問題だな。ライ、早く」
「え? 僕も行くの?」
「もちろん。まさかお前、僕にばかり貧乏くじを引かせるつもりじゃないだろうね」
 じろり、と明るい琥珀の瞳を向けると、ライは人懐っこい笑みを浮かべて笑う。
「だって、アルは長男じゃないか。一番早く生まれた者の義務として、弟妹を正しく導く責を負ってるはずだよねえ」
「そうだよ。だからこそ、次男のお前に、長男の重責を少しでも実感させてあげようって言うんじゃないか。弟を一人の男として成長させる、これこそ年長者の義務だと思うね」
「う~ん、そりゃちょっと詭弁臭いよなあ…」
「お前に言われたかないよ、おいで」
 言って、有無をも言わせずライの腕を引くアルに、弟はやれやれ、と肩を竦めた。この会話が、僅か十歳と九歳の幼い兄弟のものであることに、今更驚くような人間は少なくともこの場にはいない。
 兄弟は廊下を挟んで向かいにある、可愛らしい装飾の施された扉の前に立った。アルが、その小さな手で軽く扉を殴打し、中からの返答がないことを確認する。
「寝てるね」
 言わずもがなのことを口にして、ライは兄を仰いだ。身長差約三センチの相手は、子供らしくなく整った顔容に何の表情も乗せず、無造作にドアノブを捻る。
 扉の先には、まだ夜の名残を見せる薄暗がりの部屋があった。
「エレオノーレ、朝だよ、起きなさい」
 まず一声。アルが柔らかいボーイソプラノで言うと同時に、ライが一歩足を踏み入れる。その足元で、可愛らしいぬいぐるみが数個、転がっていた。
「ノーラ、おはよう…」
 そろりそろりとベッドに近づき、ライがすぐ下の妹の顔を窺う。
 と。
「わっ!!」
 突然、細い腕が突き出され、ライの顎を捕らえた。尋常ではない反射神経でそれを回避したライに、続いて布団の下から第二破が繰り出される。
「ライ!」
 アルが放り投げてきたぬいぐるみで、辛うじて膝蹴りを受け止めたライが、ふう~、と息をついた。
「今日も元気なお姫様だねえ…」
「ライ、足を押さえておいて。…ノーラ、朝だよ、起きる時間だ」
 弟が、布団の上から足をがっちりと押さえ込んだのを確認してから、アルは妹の布団を容赦なくめくり上げた。
「ん…う~~~~ん…」
 むずがるような低い唸り声を上げて、燃えるように波打つ真紅の髪がシーツに広がる。その中から覗く小作りな白い顔は、彼女の将来の美貌を何より固く確信させる、愛らしいもの。
「ノーラ、起きて。起きなさい」
「んんっ」
 再三に渡る呼びかけに安眠を妨害されて、ノーラことエレオノーレは不機嫌そうに唸ると、再び鋭く拳を繰り出した。それを顔の真横で素早くキャッチすると、アルはふう、と溜息をつく。
「この手の早さ、誰に似たんだか…」
「日に日に早くなってるよね。僕達もそろそろ身の危険を感じるなあ」
 妹の足元に馬乗りになって、ライは呑気に笑う。アルは、掴んだ小さな拳をぐいと引っ張り、赤い髪の眠り姫の上身を引き起こした。
「ノーラ、起きなさい。ノーラ」
「ん…んん~…? ん、あ。あぁ…ふ」
 長兄に抱き起こされる形で、ようやく妹の大きな瞼が震えた。長い睫毛がゆっくりと上向き、罪のない欠伸と一緒にとろんとした紺碧の瞳が開く。
「あ~……おはよぉ、アル…」
「おはよう」
 ようやく安全を確認して、アルがノーラの拳を離した。それと同時に、ライも布団の上から降り、妹の顔を覗く。
「おはよう、ノーラ。今日もいいパンチだったよ」
「えぇ…? ん~…あっ、やだ、なにしてんのライ! ねおきのレディの部屋に入ってこないでよっ」
 ぱちぱちと、音が出るほど長い睫毛を瞬かせて、ノーラが完全覚醒する。非難の先で、次兄が肩を竦めた。
「何で、アルにはおはよう~で、僕にはそれなわけ?」
「アルはいいの! でも、ライはダメ!」
 弱冠七歳の幼さながら、しっかり『淑女』らしい妹の抗議に、長兄が苦笑した。
「それは、僕を信用していると言うこと? ノーラ」
「そうよっ。アルなら、私のいやがることは絶対言わないわ。ライなんて、すぐあることないことからかうんだもの、いやになっちゃう」
「あることないこと? 僕は事実しか言わないよ、ノーラ。例えば君のその黄金の右膝で、何度僕のお腹に青痣が出来たかとかね」
「ライ!」
 ライのからかい半分の言葉に、ノーラは白くふっくらとした頬を赤く染め、素早く手元にあったぬいぐるみを投げつけた。それを笑いながら受け止めて、ライは肩を竦める。
「やれやれ、こんなおてんばじゃあ、お嫁の貰い手を捜すのだって一苦労だね、アル。長兄のご苦労お察しするよ」
「ライのいじわる! いいわよっ、私べつにお嫁になんか行かないもの! お父様より弱いだんなさまなんていらないわ」
 可愛らしくそっぽを向くノーラの言葉に、アルは僅かに眉を上げた。
「それはまた、えらく高い基準設定だね」
「当然よ。でも近頃の男の子ってホント『なんじゃく』でいやになるわ。何かってゆうとぴぃぴぃ泣いてさ。あーあ、どこかにお父様くらい強くて、アルくらい頭がよくて、おじいさまたちくらい優しい男の子、いないかしら」
 ぽんぽんと出てくる無邪気な理想に、長兄と次兄は顔を見あわせる。
「ノーラは美人だけど、高望みが災いして嫁かず後家になりそうだね」
 ライの指摘に、ノーラが再び頬を膨らませる。アルはその機先を制してぱんぱん、と手を叩くと、妹の豊かな赤い髪を撫でながら言った。
「さあ、ノーラ。お喋りはそのくらいにして早く着替えておいで。今日は『お泊りの日』だよ」
「え? あっ、そうだったわね! いっけない、急いでしたくしなくっちゃ」
 慌てたように、ノーラがベッドを飛び出す。それから長兄次兄を可愛らしく見上げ、にっこりと微笑んだ。
「さ、早く出て行って? お兄様方。レディのきがえよ」
「はいはい」
 七つの妹のおしゃまな台詞に、十歳の長兄は苦笑して、九歳の次兄は肩を竦めた。
「この間まで一緒にお風呂に入っていたレディ、お早く着替えてくださいよ」
 出て行きしな、からかうように残したライの台詞に、閉めた扉の向こうでノーラが何かを投げつけた音が響く。くつくつと笑う弟の額を、アルは軽く小突いた。
「からかうなよ」
「可愛さあまってさ」
 悪びれないライを促して、アルはさらに隣の部屋へ向かう。最大の難関である長女の部屋はクリアしたので、それについて行く義理もないのだが、ライは手持ち無沙汰に兄の後について扉をくぐった。
「ジーク、リーチェ、朝だよ。起きなさい」
 アルの淡々とした呼び声に、ベッドの中の固まりがもぞりと動いた。部屋の両端にひとつづつあるベッドのうち、一方はもぬけの殻で、もう一方にふたつのふくらみがある。
「またか…」
 嘆息するアルに、ライが苦笑した。
「問題だよね? お兄様」
「仲が良いのははいいことだけどね」
 言って、アルがベッドに向かう。ふたつの山は、仲良く寄り添うように布団の中に収まっていた。
 そのうち、銀色の髪の方が先に、ぱかりと紺碧の瞳を開けた。近づいてきた長兄を胡乱な眼差しで認めると、何も言わずに傍らの少女を揺り起こす。
「リーチェ。リーチェ、あさだって、おきろ」
「ん……んぅ~…」
 金色の素直な髪が、むずがるように揺れた。そのまま、自分を揺らす細い腕に、猫の子が甘えるように擦り寄っていく。
 ジークことジークベルトはその様子に満足そうに笑って、そのまま少女を抱きしめるようにまた眠りにつこうと、もぞもぞと布団の中に潜った。
「こらこら」
 呆れた長兄の声に、ちぇ、と軽く舌打ちを返して、ジークは再び布団をめくる。それから、先程よりもやや強めに、小さな妹の身体を揺らした。
「リーチェ、リーチェ、おきろって。ほら、あさだよ」
「ん~…ジー、ク? …」
「うん」
「おはよ…ジーク」
 とろんとした大きな瞳がふんわりと微笑み、自分を揺り起こす双子の兄へ可愛らしい挨拶を返すと、すぐ傍らに立つ長兄次兄に気づいた末子は、同じような笑みを向けた。
「アルにいさま、ライにいさま、おはようございます」
「おはよう、ベアトリーチェ」
「おはよう、リーチェ」
 天使もかくやというほど愛らしい妹に、アルとライの表情も柔らかくなる。それに、同じく末子の双子の片割れが、あからさまに不機嫌になった。
「リーチェ、さっさとおきるぞ。ほら」
「うん…あっ、きょうは『おとまりのひ』ね? そうでしょう? にいさま」
 無邪気に問い掛けてくる妹に、アルは軽く頷く。
「そうだよ、リーチェ。だから早く支度をしなさい。ジーク、お前もだよ。だけどあまり、ガラクタばかり詰め込まないように」
「ガラクタじゃねーよ、ひみつへいき! きょうこそじいちゃんにたのんで、ギアにのせてもらうんだ。リーチェとやくそくしたんだもんな」
 そう言って悪戯っぽく笑うやんちゃな弟に、アルとライは顔を見合わせた。
「ってお前、まさか本気で?」
 ライが問うと、ジークはむっとした唇を突き出して「当然だろ」と返す。
「とうさんはいいってったんだ。やれるもんならやってみろって。そこまでいわれてひきさがるのはおとこじゃねえだろ」
「いや、あのね、ジーク。それはきっと、父上がからかったんだよ…だってお前、ギアのコクピットで満足に足も届かないだろ?」
「うっせーな、おとこはきあいだ、きあい!」
「ジーク…」
 呆れたように嘆息するアルの傍らで、ライは至極面白そうに笑った。
「いいじゃないの。ジークだって、バトリング最強のキングと謳われた父上の息子だ。やってやれないことはないよねえ?」
「おう、まかせとけって!」
 兄弟の中で、最も喧嘩っ早い三男坊の啖呵に、長兄はもはや嗜めることもなく、ただやれやれと肩を竦めるにとどめた。
「ところでジーク、怪我だけはするんじゃないよ?」
「わかってるよ、ライはおれのことしんようしてねえの?」
 むうと唇を尖らせる弟に、次兄は鷹揚に首を振って、傍らにあった妹の、柔らかな金の髪を優しく撫でた。
「お前が怪我をして、誰が一番悲しむのか、よくよく考えて行動するんだね。ねえ、リーチェ? 覚えてるだろう、前に、ジークがお前のために、りんごの木に登って頭から落ちた時のこと」
 すると、リーチェことベアトリーチェは、素直な髪を揺らして頷き、それからその、深い海の色の瞳を見る間に潤ませて、くすんと鼻を鳴らした。
「ジーク、ぜったいぜったいけがしないでね? もう、あんないたいおもいはいやよ…」
 厳しい父に叱られても、長兄次兄に窘められても、決して動じない利かん気の弟は、けれどこの一言にあっさり陥落した。
「わかってるよ、ばかだなあリーチェ。おれがリーチェのかなしむようなことするわけないじゃん」
「ほんと? ほんとによ、ジーク? おやくそくしてね」
「だいじょうぶだって、しんぱいしょうだなリーチェ。さあもうなくなよ、な?」
 そう言って、小さな手でたどたどしくも妹の頭を撫でる三男坊に、兄達は複雑な目配せを交わした。そのまま、何も言わずに部屋を辞し、ぱたんと閉じた扉の向こうで同時に嘆息をつく。
「アレはどんなもんなんだろうねえ、兄上」
「どうもこうも…ジーク殺すに刃物はいらぬ、ベアトリーチェを泣かしゃいいってことだろう」
「刹那的だねえ」
 弟と妹の未来を憂慮してか、次男がわかったような口を利くのに、アルは軽く肩を竦めるにとどめた。
「何が刹那的だ。そもそもお前、この一家に生まれて、普通の感覚で人を愛せると思ってるのかい?」
 冷静で現実的な兄らしくもないその言葉に、ライはきょとんとした表情を返した。アルはさっさと歩を進め、家族が集まるリビングへと向かう。
「どういう意味?」
「ノーラの向上心、ジークの執着心、リーチェの依存心。これすべて、誰の遺伝だと思う」
「…あぁ、そう言うことか」
 納得したように頷いて、ライは兄を仰いだ。アルは至極冷静そうな表情で弟に視線を返し、それから目前にあったリビングの扉を開く。
 朝の光が溢れたそこには、一家の長であり五人の兄弟の父親でもある巨体の主が、しかつめらしく定位置につき、新聞らしき紙面に視線を注いでいた。
「おはようございます、父上」
 兄弟が声を揃えると、リカルド・バンデラスがちらりと顔を上げる。初対面の人間ならばぎくりとするような厳つい様相に、尋常ではない淡緑色の肌の色はいかにも恐ろしげだが、幼い息子達に対する声音はどこまでも深く、穏やかだった。
「ああ。早いな、他のはもう起きたか」
「今、全員起こしてまいりました。きょうは『お泊りの日』だからと、母上が特に力を入れたようで」
「…そうか」
 アルの言葉に、リコが不意に口をつぐむ。不機嫌そうな表情だったが、十年の付き合いになる息子には、それが父特有の照れ隠しであることは、容易に察せられた。
「母上はどちらです?」
 ふと、弟妹たちの面倒を全て自分に任せて、恐らくは夫の元に向かったであろう母親の姿がないことに疑問を感じでアルが問うと、リコは目を通していた新聞をざっと畳んで、鷹揚に返した。
「知らん。俺は起きてすぐ新聞を取りに庭へ出て、そこでちょっと隣の爺さんと立ち話をしてたからな。戻ったらここにはいなかったぞ」
「え、それでは…」
 母は朝起きて、朝食の準備をし、父を起こしに行く前に、恐らく自分の部屋へ寄ったはずである。その間に父が庭へ出ていたとなると、今頃母は、どこで何をしているのだろう…
 アルの素朴な疑問には、その時タイミングを見計らったようにリビングに駆け込んできた絶叫が答えてくれた。
「リカルドー!! どっ、ど、どちらに…っどちらに行ってらしたんですの!?」
「は?」
 突如現れて、取り乱したように叫ぶ尋常ではない妻の様子に、リコは呆気に取られたように固まった。その彼に、サラは美しい金の髪を若干乱し、大きな深海の瞳にほとほとと涙を浮かべながら、軽やかに地を蹴って屈強な夫の胸に飛び込んだ。
「お、おい?」
「ひどいです! 起こしに行ったらあなたいなくて…ずっと捜していたんですのよ? わたくしが起きた時には、ちゃんと隣に眠ってらしたのに…っ」
「あのなぁ…庭に新聞を取りに行ってただけだ」
「新聞!? まぁっ…すみません、わたくしったらうっかりして! でも、それではずっとお庭に?」
「あぁ、まあ」
「…どなたかと、お話でも?」
「ああ、隣の爺さんと…」
「ずるいですわー!!」
 リコの太い首に腕を回し、彼の膝に横乗りになりながら、サラは高い声できゃんきゃんと叫ぶ。リコは呆れたように額を抑え、妻の狂態に溜息を堪えた。
「なにがだ」
「だって! …だって、リカルドに一番最初に『おはよう』を言うのは、わたくしの特権ですのに…!」
「…はぁ?」
 これには、リコも呆然とする。もう十年以上連れ添った妻は、けれど出会った頃よりいささかも変わらない、いや、下手をすれば一層磨きのかかった美しい顔容を悲しそうに歪めて、水を含んだ長い睫毛を忙しなく瞬かせた。
「リカルド、ここしばらくお仕事で忙しくて、外泊の日も多くて、わたくしすごく寂しくて、でもワガママは言えなくて、だから、朝から一緒にいられる今日と言う日を、本当に本当に楽しみにしてて…っそれなのにそれなのに、酷いですわ、リカルドの『おはよう』という言葉を、誰より一番望んでいたのは、わ、わたくしなのに、それなのに…」
 言うなり、サラは感極まったように声を上げ、リコの厚い胸板に顔を埋めて泣きじゃくった。さらさらとした妻の髪に身体中をくすぐられて、リコは居心地が悪そうにため息をつくと、まるで小さな子供をあやすように、優しく彼女の背を撫でる。
「…わかった。俺が悪かった、だから泣くな」
「っ、だって、だって…」
「つまらないことで駄々をこねるのは損だぞ。せっかくの休みを、ふいにするのか?」
「……」
 リコの言葉に、サラの泣き声がぴたりと止まった。彼女の細い身体をゆっくりとあやすように揺らして、リコはその厳つい指で金の髪をすくい上げる。現れた白い頬には涙が光っていたが、上向いた深海の瞳はどこかうっとりと輝いていた。
「…本当に、そうです。わたくしとしたことが…申し訳ありませんでした、リカルド」
「ああ」
「せっかくの『お泊りの日』ですものね…今日と、明日、まる二日は、わたくしだけのリカルドでいてくださるんですものね」
 いつ、俺がお前以外のものになったんだと苦く笑いながらも、リコはただ「ああ」と頷くにとどめた。何年たっても飽きることのない、彼女の可愛らしい破天荒ぶりに、すでに骨の髄までやられている。
 それでようやく納得したのか、サラは白魚のような指で涙の跡を拭くと、改めてリコの胸に頬を摺り寄せ、幸せそうに囁いた。
「嬉しい…愛してます、リカルド…本当に、心からあなたが好きです」
「……」
 ためらいのない愛の言葉に、こちらがためらうのはおかしい。解ってはいるが、直裁的な愛情表現に一向慣れることはない無骨な男は、だから千の言葉よりも如実に、自分の気持ちを表せる、最も効果的な行動に移った。
 妻の小さな顎を取り、ゆっくりと上向かせて静かに唇を重ねる。柔らかで暖かな感触は、もう何年、何万回と繰り返そうとも飽きることも慣れることもなく、自分に応える彼女の愛情を感じるにつけ、彼の半生が培ってきた、強固な鎧がぽろぽろと崩れていくのがよく解る。
 護るようでいて護られている、そんな不思議な愛しさに、リコが無骨ながらも素直にそれを伝えようと、一層妻の身を強く抱き寄せた瞬間、彼の冴え渡る聴力が、こほんこほんという軽い咳を捕らえて、我に返った。
 唇を離し、甘えるようにこちらを見上げる妻の向こうで、弟の目を塞ぎ慎み深く天井を仰いだ長男と、その指の隙間からこちらをのぞき見てにこにこと笑う次男の姿に気づいて、リコはその淡緑色の肌を一瞬赤く染め上げた。
「っ…と、とりあえず、飯だ、サラ」
「…もうおしまいですか?」
 つまらなそうに囁く妻に、リコは冷や汗を返しながらすっかり読み終えたはずの新聞で顔を隠す。仕方なく、リコの膝から下りたサラは、その時ようやく息子達の存在に気づいたように、あら、と明るい声を上げた。
「アル、ライ、おはよう。みんなももう起きているの?」
「はい、母上。とりあえず全員起こしました」
「ありがとう、アル。あなたは本当に頼りになるわ」
 そう言って、柔らかく額にくちづける母に、それは家庭環境のおかげですよ、とアルは内心思ったのだが、口に出す愚は犯さない。
 その代わり、隣で同じようにくちづけを受け、続々と現れたきょうだいたちに向かう母親を見ながら、
「僕達も、確実のあの人の遺伝子を受けてるんだよねえ」
 と呟く弟の、したり顔を軽く小突くことで、漏れそうになる嘆息を抑えることに成功したのであった。
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