ANNIVERSARY WITH YOU


 翌日、エドは早起きして母親の自室に駆けこんだ。
「おはよう、おかあさん!」
「おはよう、エド。今日は早いんだね」
 そう言いながら、マルーは優しくエドの身体を抱きしめて、おはようのキスを贈る。その瞬間、エドの鼻腔に昨日贈った花の香りが薫った。
「あ! おかあさん、この香り…」
「ふふ、わかった? お母さんの大好きな花の香りだよ。昨日、お父さんがたくさんくださったの。見て、綺麗でしょう?」
 そう言って、少女のように嬉しげに微笑む母親を見て、エドは誇らしいようなくすぐったいような、とても幸せな気分になった。
「よかったね、おかあさん!」
 心からそう思ったエドの言葉に、マルーは優しく彼の髪を撫でて頷く。
「うん。でも、本当は、お花をもらうんなら今日だったんだ」
「え?」
 きょとんとしたエドに、マルーはふわりと暖かく微笑む。
「今日はね、お父さんとお母さんの『特別な日』なんだよ」
「…え?」
 瞬間、エドの表情が凍り付いた。大きな瞳を瞬かせ、高みにある母親の顔を凝視する。彼女は少し寂しそうに、息子の髪を撫でた。
「でも、お父さんこのところすごく忙しいから、忘れちゃったのかな? …仕方ないよね」
「お、おかあさん!」
 諦めたような母親の声音に、エドは彼女の膝に取り縋って声を震わせた。
「ど、どうして『とくべつなひ』になっちゃうの!? だって、昨日お父さんからお花もらったんでしょ!?」
「え?」
「だったら、だったらおとうさんは、おかあさんのことあいしてるんだよ! だから『とくべつなひ』じゃないよ!!」
「エド?」
 必死に言い募る息子の様子に、マルーは困惑げに膝を折る。目線を合わせると、今にも泣きそうな顔でエドが言った。
「お…おねがい…おかあさん、おとうさんと『りこん』しないで…おれ、おとうさんのことも本当はだいすきだよ…おかあさんとおんなじくらい、すきだよぉ…っ」
「エド…」
 大粒の涙を流して、エドはマルーの首に抱き付いた。肩口に滲む涙の量に、マルーが困ったように彼を抱きしめる。彼の父によく似た、太陽の色の髪がマルーの口元をくすぐった。
「エド、泣かないで…だいじょうぶだから。お母さんとお父さんが離婚するなんて、そんなこと誰から聞いたの?」
「うぇっ…えっ……って…だって、あし、たはっ…とくっべつなひ、だって…っ」
 つっかえつっかえ訴える息子に、マルーはしばし眉根を寄せて、それからああ、と声を上げた。
「もしかして、ニサン教の『特別な日』のことと、勘違いしたの?」
「かん…っ、ちが、い?」
「そうだよ。あのね、エド。お母さんとお父さんの特別な日って言うのはね…」
 泣き止まない息子を抱き上げて、あやすように彼の背を撫ぜるマルーが、優しい言葉を継ぐ前に。
「結婚記念日だよ」
 聞き慣れた深いテノールが、僅かに楽しそうに響いた。
「若?」
 驚いたように振り返ったマルーと、弾かれたように顔を上げるエド。二人の目の前で、部屋の扉に片手を預けてこちらを見やるアヴェ国大統領は、にやりと彼らしい笑みを浮かべた。
「どうしたの、明日まで議事堂に缶詰だって聞いたけど…」
 都合二日ぶりにまみえた多忙な夫の顔色が、あまり良くないことにマルーの愁眉が陰った。そんな彼女に微笑みを向けて、バルトがつかつかと部屋に入る。
「それはフェイントだ。ホントは、今朝の段階で一段落ついてんだ」
「ええ?」
「その方が、今日って日のありがたみが増すだろ?」
 ひょいと眉を上げて、子供の頃から変わらない悪戯っ子のような表情を見せるバルトに、マルーは呆れていいのか怒っていいのか、考える前に苦笑が浮かんだ。
「もう…相変わらずなんだから」
 けれどきっとそのために、目の前の彼がどれほど苦労したか解るから。
「ありがとう…若」
 心から囁いて、彼にしか見せない極上の笑みをひらめかせた。
 優しく微笑み返したバルトは、次に妻の肩にすがって顔を上げない息子の髪を乱暴に撫でる。
「で? ウチのやんちゃ坊主は、また何を勘違いしたって?」
 そう言う父親から、エドは必死に顔を背けていた。その理由は。
「エード。こっち向けよ。久しぶりに泣き顔見てぇな」
「……っ」
「若、からかっちゃ可哀相でしょ!」
 人の悪い笑みを見せるバルトに、マルーが唇を尖らせる。そんな母親の首筋にしがみついている息子のつむじを、ぴんと指で弾いてバルトが言った。
「何言ってんだ。こっちは、昨日からこいつにわけのわかんねぇいいがかりつけられてんだぞ。あげくに「お父さんなんかいらない」まで言われてんだからな」
「ええ? エドそんなこと言ったの?」
 驚いたマルーがしがみつく息子に問い掛けると、エドはマルーの首筋に顔を埋めたまま、無言で頷く。マルーは少し眉根を寄せて、エドを抱きしめる力を緩めた。
「…エド、お父さんに謝りなさい」
「………」
「言っていいことと悪いことがあるって、教わったでしょう?」
「………」
「ちゃんと、ごめんなさいって言うの」
「………」
「エド?」
 厳しい声音のマルーに、エドは無言のままだった。マルーは一つため息をついて、本格的にお説教に入ろうかと唇を開く。
 しかしその前に、彼女の夫がすいと手を伸ばして、しがみつくエドの身体を楽々と引き剥がした。
「若?」
「マルー、ちっと部屋出ててくれ」
「でも…」
 エドを小脇に抱えたバルトを、マルーは不安そうに仰ぎ見る。心配性な母親の顔に、苦笑してバルトは唇を寄せた。
「親父と息子の一騎打ちなんだ。加勢要員は隣室で待機」
 ちゃっかりと息子に目隠しをしてから、大統領夫人の唇を奪ったバルトは、至極楽しげに笑う。マルーは呆れたように眉を上げて、夫とそのミニチュアを眺めた。
「…ほどほどにね」
 肩を竦めて部屋を出るマルーに、エドは最後まで視線を向けない。ただ黙って、父親のたくましい腕に抱えられるままでいる。
 バルトはずかずかと足を進めて、心地いいスプリングの利いたソファにどっかりを腰を下ろした。そしてそのまま、自分の膝にちょこんと息子を乗せると、うなだれる彼の金の髪にあごを乗せる。
「…むかしむかし」
 低いバルトの声が、エドの頭に直接響く。エドは俯いたまま、じっと父親の言葉を追っていた。
「あるところに、生意気な小僧がいた。小僧は負けん気が強くて、何でも一人前にしたがる、活発なガキだった」
 エドの瞳がうっすら開く。バルトはエドの頭からあごを降ろし、彼の背に大きな手の平を添えながら続けた。
「小僧には、大事にしたいもんがあった。欲張りなガキだから、たくさんあった。だけどその中でも、一番大切にしたいもんがあった。たぶん、ちっぽけなガキにとっては、自分の命よりも大切なもんだ。…二つ歳下の、小さな子分だった」
 バルトのゆったりとした語り口調に、強張ったエドの肩からそろそろと力が抜けていった。エドは少しずつ、長い睫毛を上向かせるように、父親の喉のあたりを見つめる。
「ガキは子分を守るために一生懸命だった。小さな腕を振り回して、どんな事からも子分を守ろうとしていた。だけど、ガキはガキだ。力も弱い、知恵も足りねえ。おまけにそのガキは、突っ走ったら止まらない、鉄砲玉みたいなタチでな、から回って周囲に迷惑かけるなんざ、数え切れなかった」
「………」
 エドは一瞬、自分のことを言われているような錯覚に陥った。その不安からか、視線がまた少し上がる。彼の父親の唇が、薄く開くのが見えた。
「ある日、ガキと子分が大人の言いつけを破って、危険なところに遊びにいった。ガキは子分を守れると、自分を過信していた。…ようするに、調子に乗ってたんだ」
「………」
 高く通った鼻筋と、すっきりした頬骨。自分の肌の色よりもわずかに濃い、荒い褐色が広がる。
「案の定、ガキと子分は迷子になって、あげく子分が怪我をした。それはまったく、ガキの不注意からの怪我で、ガキは大層ショックだった」
「………」
「で、迎えにきてくれた大人に、ガキは癇癪を起こした。子分に怪我をさせちまったっていうのが、とにかく辛くてな。その上、大人は子分を軽々持ち上げて、ガキはなおさら悔しくてしょうがねえ。だからさ、言ったんだよ」
 不意に口を閉ざしたバルトに、エドは眼差しを上げた。穏やかな深い蒼の隻眼が、エドの視線の先で静かに微笑む。
「おまえなんか、大嫌いだ。…ってな」
「…そしたら?」
「ん? …大人はガキの癇癪を、笑って許してくれたけどな。ガキが一人で拗ねて、突っ張ってるうちに、闘いに巻き込まれて…そのまま、二度と会えない人になった」
「…!」
 びくり、とエドの総身が震えた。まっすぐバルトと視線を合わせたまま、見る間にエドの表情が曇っていく。バルトは息子の前髪を軽くすくい上げ、噛み締めるように呟いた。
「言って死ぬほど後悔するなら、そんな言葉は吐くもんじゃねえ。泣くほど後ろめたいんなら、ハナから心にもねえ事言うな。じゃねえと、そのガキみたく、素直じゃねえ口下手な野郎になっちまうぞ」
「……っ…おとうさん……」
 ぼろぼろ、と、大粒の涙が零れる。昔、確かに『ファティマの碧玉』と称された、並びなき美しい碧眼が、潤んで溢れて大洪水となった。
「ごめ…なさい…っ…おれ、おれ…ホントはおとうさん…ことっ、すき…だッ、からね…っい、らなくなんかっ…ないッ…からねっ!」
「…知ってる」
 言って、バルトは小さな息子の額に唇を寄せる。エドは泣きながら、バルトの太い首筋にすがりついた。
「おれ、おれ、ホントはこわかったんだ…っ、もし、お、おとうさんとおかあさんが、ほ、ホントに『りこん』したら、おれ、おれ……っ」
「…ああ、わかってる。怖い思いさせたな。もう大丈夫だ、…泣くな」
「う、うわああああぁぁんっ」
 言われて、エドは今度こそ本当に、遠慮なく声をあげて泣きはじめた。バルトは苦笑しながら、息子の身体を抱きしめて、よしよしと頭を撫でてやる。
「泣くな、エド。男だろう?」
「うっ、ひっく…ひっ……う、うぅ~ッ…」
「大体、俺とマルーが別れるなんてヨタ、どっから吹き込まれたんだ? お前は…」
「う、ううう……っく…ひっく…」
「ああもう、泣くんじゃねえ。…わかったから、お前の気持ちはよくわかった。まあ、確かにその、俺も悪かった。ガキによけいな気を回させて、父親失格ってヤツだな…」
 言って、ぽりぽりと頭をかくバルトの背後から、柔らかな声が降ってくる。
「そんなことないよ。若は立派なお父さん、ね? エド」
「マルー」
 振り仰いだバルトの視線の先で、マルーは優しく微笑む。彼女の腕の中には、二歳にもならない小さな娘が抱かれていた。
「ほら、エド。エヴァが心配してるよ? どうして泣いてるの? 泣かないで、おにいちゃんって」
「…………」
 言われて、エドは急いで涙をぬぐって、母親の腕にある妹の顔を見る。銀の巻き毛に蒼い瞳の小さな妹は、泣きそうな顔で自分を見つめ、もみじの手を伸ばしてきた。
「いーちゃ、ないちゃめ、めーよ」
「…エヴァ…」
 ふくふくとした手の平が、濡れた頬に優しく触れる。エドは再びごしごしと涙をぬぐうと、照れくさそうに父親の膝から降りた。
「おれ……おれ、顔あらってくるっ!!」
 言うが早いか、エドは脱兎のごとくその場から逃げ出す。その鮮やかな逃走に、マルーはなかば呆れたように笑った。
「あの逃げっぷりは、まるで若そのものだね。照れ屋なところなんてホントにそっくり」
「うるせえよ。…っと、うちのお姫様にも久しぶりの再会だなあ、エヴァンゼリン、機嫌はどうだ?」
 マルーの手から小さな娘を受け取って、バルトは慣れた手つきで彼女をあやした。エヴァは嬉しそうに笑い、バルトの顔に手を伸ばす。
「起きたばかりだから、少しむずがってたけど、お兄ちゃんの涙ですっかりびっくりしたみたいだね。エヴァ、お父さんだよ、わかる?」
「おい、わかる? ってなんだよ。そう簡単に忘れられてたまるか」
 顔をしかめた夫に、傍らに座ったマルーは意地悪な笑みを向けた。
「だって、この間会ったのはもう四日も前だよ? エヴァのちっちゃなのうみそじゃ、忘れちゃうもんねえ?」
「うっ…し、しゃあねえだろうが! 今はちょうど改革の時期で、来年度の編成案の見通しも…」
 ついつい言い訳じみた口調になったバルトの頬に、マルーは音をたててくちづける。
「わかってます。だから、ボクは忘れてないよ? だんなさまの顔」
「……それこそ、忘れられてたまるか、ってんだよ…」
 囁いて、バルトは腕にエヴァを抱いたまま、ゆっくりと顔を近づける。マルーは唇を笑みの形にしたまま、そっと瞳を閉じた。
 その瞬間。
「おとうさ~ん!! おかあさ~~ん!!!」
「っ!!」
 バターン! と盛大な音をたてて、部屋の扉が開かれた。バルトとマルーは寸でのところで顔を離し、慌ててそちらを振り返る。
 息を切らしながら立っているエドの傍らには、同じくにこにこした顔で立つユーリの姿があった。
「早く早く! 朝ごはん食べたら、海に行くんでしょう? シグに聞いたよ、お父さん、たくさんお休みもらったんだよね!」
 嬉しそうなエドの言葉に、マルーが驚いたようにバルトを振り返る。バルトは照れたように苦笑して、エヴァを抱いたまま立ち上がった。
「ああ、そうだ。急いで支度しろよ、エド。お前の会いたがってた、イルカも見せてやるからな」
「わーいっ!! ねえ、ユーリもいっしょに行っていいんだよねっ?」
「ああ、かまわねえよ」
「やったー!! 行くぞ、ユーリ! 朝ごはん食べたら、にもつつめこまなきゃ!」
「うんっ」
 はしゃいで駆け去っていく少年たちを見送って、バルトは大きく肩を竦めた。彼の背後から、マルーが驚いたように声を上げる。
「若、今の話本当なの?」
「まあな。ちなみに、大教母さまのスケジュールもあけとくように手配してるから、まる一週間は付き合えよな。海のあとはフェイのとことか、馴染みの顔も見る予定だし」
 そう言って、悪戯っぽく笑うバルトを見上げて、マルーは弾けるような笑みを浮かべた。
「うんっ!!」
「ま、結婚記念日にしちゃ家族旅行じみてるけど…勘弁してくれよ」
 マルーの腕にエヴァを返しながら、バルトがおどけたように眉を上げる。マルーは首を振って、小さな娘を抱きしめながら言った。
「ううん…最高の記念日だよ。ボクたちは今日って言う日に、こんなにたくさんの宝物を手に入れたんだ…ありがとう、若、大好き!」
 少女のように屈託なく笑うマルーに、バルトは一瞬言葉をつまらせたけれど、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべて、マルーの細い肩を抱き寄せた。
「…俺も」
 いくつになっても照れ屋で不器用な夫にしては、珍しく素直に感情表現をして、その唇を妻の額に寄せた、瞬間。
「…なんで『あいしてる』じゃないの~??」
「ばか、ユーリ、しーっ!!」
 薄く開いた扉の向こうから、やんちゃな少年たちの声が漏れる。バルトは瞬間的に頬を引きつらせて、ずかずかとそちらに歩み寄った。
「コラっ!! この悪ガキども!!!」
「うわ~!!」
「逃げろ、ユーリっ!!」
「待てコラっ!!」
 騒がしい一団が、あっという間に駆け去っていく。マルーはそれを、なかば呆気にとられたように見送ってから、くすくすと声をあげて笑った。
「まーったく…いくつになっても、若は若だなあ」
 言いながら、そんな現実がいとおしくてたまらない。
 マルーは、腕の中でいつのまにか眠りに落ちている小さな娘を暖かく包み込み、優しい足取りで部屋を後にした。



  ~おまけ~

「…なんだ、この請求書は」
 アヴェ国大統領私的執務室。
 重厚なアイボリーの執務机に舞い込んだ、一枚の請求書を摘み上げて、バルトの瞳がどっかりと座った。
「なんだと仰いますと?」
 手馴れた作業で書類を整理していた筆頭補佐官が、ひょいと視線を向ける。バルトが指先で請求書を弾き飛ばすと、シグルドの手にちょうど良くおさまった。
「請求額…ほお、なかなか豪気な。若の経済観念は、今も昔も破れ綻びてますね」
「あーのーなー。よく見てみろ」
「うん?」
 シグルドの視線が、請求書の明細に映る。しばし黙読したあと、有能なるアヴェの懐刀はあっさりとのたまった。
「まあ、相場ですね。ただでさえ流通事情の思わしくない花を、ましてこの時期に大量入荷すれば、価格はバベルタワー並みに上昇します」
「…だーかーらーよー」
「おや、バルトロメイのつづりが間違っている。先日みっちり教え込んだはずなのですが…これは、復習の必要がありですね」
「シグっっ!!!」
 だん! と派手な音をたてて、執務机がその本来の勤めとはかけ離れた衝撃に耐える。眦をあげるバルトの眼前で、銀髪の眉目秀麗な男がしれっと答えた。
「まあ、そもそも今回の騒動の一端は、若の常日頃の不肖が噛んでいるのですから、これも勉強料だと思って諦めてください」
「勉強料で片付く額かッ!!」
「その昔、若が戯れに発射したバルトミサイルの補修費は、これにゼロが三つ加算されましたよ」
「………」
 なんだかんだ言いつつ、幼いころの主君の面影を見せる小さな少年を、目の中に入れても痛くないほど溺愛する懐刀の、軍配は火を見るよりも明らかで。
 数週間前、愛する妻を殊のほか喜ばせた代償は、その後アヴェ国大統領の個人的な経済事情を、慎ましやかなものにせしめたと言うが。

 それはまた、別の話である。 
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