ANNIVERSARY WITH YOU


 アヴェ国大統領官邸、東館。
 国会議事堂としても機能するその棟の、地上3階にその部屋はあった。
「とうさーん」
 こんこん、とノックして、少しばかり背伸びをした位置にあるドアノブを掴むと、ユーリはのほほんと声をかけながら扉を開いた。
「ユーリ? エドさまも…どうしたんですか?」
 ノックの意味が解っていないような息子に、多分お小言でも言おうとした唇が、突然の来訪者に怪訝な声を上げる。執務机にかじりついていた父とは対照的に、優雅な様子でソファに座っていた黒髪の男性が、おもしろそうな表情でこちらを見た。
「これはこれは。お久しぶりです、エドさま」
「アレク! 帰ってきてたの? おかえり!」
 ここ数週間、視察と称して各地を歩いていた官房長官の姿に、エドは嬉しそうに駆け寄った。その後を、ユーリもおっとりとついていく。
「ねえ、おみやげは?」
「先ほど到着したばかりで、荷物もまだほどいておりません。のちほど南の方へお持ちします。…ユーリにもあるぞ」
 言って、にやりと笑う怜悧な目元に、優しい色があることを子供たちは知っている。ユーリは父親譲りの可愛らしい顔を思いきりほころばせて、小犬のようにアレクシスにまとわりついた。
「わーい、ありがとう、長官!」
「覚悟しておけ、部屋に入りきらないぞ」
「えっ、そんなに大きいの?」
「お前の母親の分もある」
 しれっと答えるアレクシスに、ミシェルは複雑な表情で笑った。手にしていた書類に最後の捺印をし、子供たちの方へ歩いてくる。
「私ごときの妻子に対し、過分なるご配慮を賜り恐悦でございます、長官」
「なあに。私の居ない間、鬼のような量の政務に奔走していた、有能な副官への褒美だよ」
 子供たちに向けるのとは違う、なんとも人の悪い笑みを向けたアレクシスに、ミシェルは相変わらず優しげな風貌の微笑みをたたえたまま、それでも精一杯厭味を返した。
「鬼が雪達磨式に膨れ上がるような量でしたね。よくもあれだけ押し付けられたものだと、感心しましたよ」
「愛する祖国のためだろう、働け、公僕」
「あのですねえ…」
 更に反論を募ろうとするミシェルの膝元で、彼の一人息子は大きな瞳をくりくりっと見開いて叫んだ。
「ええっ! とうさん、ソコクって言うひとのこともあいしてるの?!」
「は?」
 ユーリの言葉に、ミシェルは唖然としたように目を見開いた。しかし、ユーリはその少女めいた愛らしい風貌を悲嘆に陰らせ、必死に父親の膝に抱きつく。
「とうさん、そのソコクって人とかあさんと、どっちをいっぱいあいしてるの?」
「え? ちょっと、ユーリ……」
「ミーシュ! ユーリとキュウを泣かせたら、おれがゆるさないんだからなっ」
「あの、エドさま…」
「ねえとうさん、答えてよ、かあさんとソコクさん、どっちがいっぱい好きなの?」
「あのね、ユーリ、ちょっと落ち着いて…」
 幼い少年たちの無軌道なツッコミに、ここ数年でずいぶん貫禄がついた感のあるアヴェ国官房庁特別外交室副官が、しどろもどろになっている。そんな様子を傍観し、彼の直属の上司はくつくつと喉を鳴らした。
「いい質問だな、シナモン・ジュニア。直答を許すぞ、シナモン副官」
「からかわないでください、アレク!!」
 吠えたミシェルは、心持ち顔を赤らめて、潤んだ瞳でこちらを見上げる一人息子と目を合わせるべく膝を折った。
「落ち着いて、ユーリ。エドさまも。あのね、ソコクさんって言うのはね、人の名前じゃなくて、この国のことなんだよ」
「…くに? アヴェのこと?」
 くりくりとした深緑と碧玉の瞳に見つめられ、ミシェルは穏やかに微笑む。
「そう。だからね、母さんと比べるものじゃあないんだよ」
「大人はずるいなあ、ユーリ?」
「まぜっかえさないでください、アレク!」
 ひたすら楽しそうなアレクシスに強気に怒鳴って、ミシェルはこほん、とひとつ咳をした。
「しかし、一体どこで『愛』なんて言葉、覚えてきたんだろうねえお前たちは」
「とうさんがかあさんに言ってたの、聞いたの」
 無邪気に答えるユーリの言葉に、ミシェルはぴきりと固まった。
「へえ、父さんが?」
 にやにやと笑うアレクと、頷く息子とを見比べて、ミシェルは真っ赤になったまま頭を抱える。叶うなら、このままダッシュで逃げ出したい。
「子は親の鑑だな、ミシェル」
「………」
 言葉もなくうなだれたミシェルと、勝ち誇ったようなアレクシスとを見比べて、エドは難しそうに眉をひそめた。
「ねえ、ミーシュ。『あいしてる』ってことばは、どういうときに使うの?」
「えっ??」
 思わず、ひっくり返ったような声を上げるミシェルに、子供の目はひたすら純真だ。ミシェルは折っていた膝を伸ばし、遥か高みで赤い顔を隠す。
「えーと、えーとね、それは…その」
 政治家には必須の、当意即妙がまだ会得されていない不甲斐ない部下を斜めに見やって、アレクシスが鋭利な目元をすいと細めた。
「父さんは、どんなときに母さんにその言葉を使っていたんだ? ユーリ」
「んーとね、ごはんのとき」
「ほう」
「だからっっ!! あなたは少し黙ってて下さい、アレク!! ユーリも、あんまり人様にぺらぺら喋っちゃいけません!」
「えー」
 不服そうに唇を尖らせる息子からさりげなく目をそらして、ミシェルはこほこほん、と咳を繰り返した。それから、敬愛する上司の愛息子に向き直ると、努めて穏やかな声音で語る。
「愛してる、と言う言葉はですね、そうそう使うべきものではないのですよ、エドさま」
「でも、ミーシュは使ってたって…」
「そこはそれです」
 再び紅潮しそうになった頬を引き攣らせて、ミシェルは言う。
「特に、あなた方のような子供が、おいそれ使うべき言葉ではありません。そういう言葉は、もっと大人になって、とても好きな人ができてから、その相手に使うものです」
「ミシェルにとっての、キュランみたいにな」
「…黙って下さい、アレク」
 泣きそうな声で抗議するミシェルに、アレクはふふんと鼻で笑って、余裕の眼差しを返す。
「情けない副官だな、子供相手に何を語る。いいですか、エドさま。そもそも『愛してる』なんて言葉は、男ならば安直に使うべきものではない。ましてや、食事時になど言語道断」
 言い切ったアレクシスに、ミシェルのため息が重なった。
「そもそも、『愛』なんてものは、あなた方のような幼児に語って解るものではない。そればかりか、ミシェルや私にだって、解りかねる厄介なものなのです」
「アレクたちにも解らないの? どうして? アレクはとっても頭がいいんでしょ?」
「知能指数と愛を語るのとは別問題です。わかりやすく言えば、愛などと言う言葉は、夜眠る時に見る夢のようなもの。見ている間は夢中になれても、朝になれば記憶にも残らないような、曖昧で虚しいものなんですよ」
 そう言って笑うアレクシスに、ミシェルは憮然とした表情で返す。
「あなたの厭世観を、年端もいかない幼い子供に植え付けないでください、アレク」
「お前のおめでたい恋愛嗜好で洗脳するよりはマシだと思うぞ」
「僕のどこがおめでたいんです? 聞き捨てなりませんね」
「飯時に愛を語る男の、どこがおめでたくないって?」
「だから! あれはその言葉のあやと言うか」
「キュラン相手に、逆効果だとは思うがな。殴られないだけもうけものだろう」
「他人の夫婦事情に口を挟まないでくださいっ」
「ねえっっ!!」
 ぽんぽんと始まった舌戦の終止符は、高い幼児の声だった。ミシェルとアレクが、共にはっとしたように下を見下ろすと、不機嫌そうなエドと、困ったようなユーリの顔がある。
「ケンカするなら、おれたちシグに言いつけるからね。それから、ミーシュがキュウにごはんのときにあいしてるって言ってたの、かべ新聞にして議事堂にはるからっ」
「え、エドさまっ!」
 慌てふためくミシェルの傍らで、アレクシスが苦笑して肩を竦めた。
「申し訳ありませんでした、エドさま。もうけんかはしませんよ」
「よし」
 満足そうに笑って、エドはユーリを見やる。安心したように微笑んだユーリは、再び父親を見上げた。
「とうさん、こまらせてごめんなさい。でも、いっこだけきいていい?」
「ん? ……なんだい?」
 優しく笑って、ミシェルはユーリの頭をなでる。琥珀の髪の下で、ユーリは真剣な表情でミシェルを振り仰いだ。
「あのね…もしも、かあさんに『りこんして』って言われたら、どうする?」
「……はあ?」
 目を点にしたミシェルと、珍しくも似たような表情を見せるアレクとを見やって、ユーリはさらに言葉を募る。
「あのね、あのね、たとえばの話! もしもそんなふうになっちゃっても、とうさんは、かあさんのことをあいしてるから、りこんなんてしないよね?」
「……」
 瞬間、ミシェルは棒を飲み込んだような顔を見せた。それから、真剣な表情の息子と、なにかを感じ取ったようなエド、自分の背後で面白そうに成り行きを見守っているアレクシスの気配を感じ、そっとため息をつく。
「……ユーリ」
 小さな息子の身体をひょいと抱き上げて、ミシェルはその大きな深緑の瞳と目線を合わせた。不安そうにこちらを見つめる表情を見ると、適当にお茶を濁せる雰囲気ではないな、と、改めてため息が漏れる。
 背後のギャラリーが気にならないわけではないが、ここで逃げたら父親失格だろう。
「ユーリ。父さんと母さんは、お互いが必要だから、結婚したんだ。どちらが多く、じゃない、どちらも同じだけ、お互いが好きだから、一緒になったんだよ。その気持ちは、たぶん、努力するかぎり続いていく。…だけどね」
 言って、父親としては優しすぎる、彼らしい笑みをひらめかせた。
「それでも、もしも、母さんが、父さんとお別れしたいって言ったら…父さんは、出来る限りのことをして、母さんの気持ちを変えるよ」
「できるかぎりのこと?」
「うん。母さんのために、なんでもいいからしてあげたり、母さんがどうして父さんの事を嫌いになったのか、納得いくまで調べたり…はは、ちょっとかっこ悪いね」
 照れたように笑って、ミシェルは自分とよく似た面差しの一人息子の額を、優しく撫でた。
「でも、どんなにかっこ悪くても、情けなくても、父さんは母さんが好きだからね。自分にできることは全部やって、ギリギリまで頑張るよ。それでも…そうだなあ、考えたくないけど、それでも母さんが嫌だって言うなら…」
「…とうさん、泣かないで」
 至近距離に見える父の目が、潤んだような気がして、ユーリが言う。その瞬間、ミシェルは困ったような顔で唇を曲げ、苦笑した。
「…うん、そうだな、そうなったら、父さんはユーリに慰めてもらおうかな」
 ユーリの丸い額に優しく口付けて、ミシェルは息子をゆっくりと地に下ろした。それから、困ったように微笑む。
「でも、どうして急にそんなことを?」
「キュランの愚痴でも聞いたんじゃないのか? 『ああ、なんだかこの頃急にミシェルが嫌になったわ、そろそろ別の人に乗り換えようかしら』…」
「アレク!! なんて事言うんですか、子供の前でっ!!」
 なかば本気で激昂するミシェルに、アレクシスは軽く肩を竦めた。ユーリは慌てて父の膝元にしがみつく。
「ち、ちがうよとうさん! かあさんはきっととうさんのこと大すきだから、大丈夫!」
「え…ああ……うん。そ、そうだね…」
 急に居たたまれなくなったように、ミシェルは赤い顔をして咳払いを繰り返した。そんなミシェルからユーリを引っぺがして、エドが妙に大人びた表情になる。
「…いろいろありがとう、ミーシュ、アレク。おれたちもう、行くから」
「え? ああ…ですが、エドさま…」
「何か用事があったのでは?」
 きょとんとするミシェルとアレクシスに、エドはきびすを返して振り返らない。彼に引きずられるようにして、ユーリが愛想良く父親たちに手を振った。
「じゃあ、またね、とうさん、長官~」
「……」
 来た時同様、嵐のように消え去ってしまったふたつの小さな台風に、ミシェルとアレクシスは思わず顔を見合わせる。
「しかし…最近のガキはませてるな。親の悪影響か?」
「…アレク……」
 本当にいやな相手に弱みを握られたと、ミシェルは心の底から苦々しく思った。



 ミシェルの執務室から飛び出したエドは、全力疾走で南棟まで戻ってきた。そのあとをついてきたユーリは、すでにぜいぜいと息をあがらせている。
「ど、どうしたの…エド…?」
「………」
 乱れた息の下で問い掛けるユーリに、エドは俯いたまま答えない。午後の温い風が、二人の少年の間を悪戯に吹き抜けていった。
「……おとうさんなんか…」
「え?」
 ようやく聞こえてきたエドの言葉に、ユーリはきょとんと首をかしげる。エドはきつく拳を握ったまま、俯いて続けた。
「おとうさんなんか、おかあさんに、全然なんにもしてない! いっつも仕事仕事って、忙しそうにしてさ、おかあさんが『とくべつなひ』を思って悲しそうなのに、ミシェルみたいに努力しようとしてない!」
「…エド、それはさあ…」
 痩せても枯れても、アヴェ国大統領の忠臣の息子である。ユーリは、いつも父親に教えられている、大統領とはいかに素晴らしいか、尊いか、その講釈の成果を、誰あろう大統領の愛息子に言って聞かせようとした。
 しかしその時、少年たちの背後から、低い穏やかな声が振ってきた。
「このようなところで、なにをしているのですか? エドさま、ユーリ」
 深みのある穏やかなバリトンに、弾かれたように少年たちが振り返る。
「シグ!」
「筆頭!」
 果たしてそこには、銀色の髪に褐色の肌を持つ、精悍な美貌の大統領筆頭補佐官が、いつも通りの端然とした様子で立っていた。それから、臣下の礼を取るように、そっとエドの前に片膝をつく。
「おや…なにやらお顔の色が優れませんね。具合でも悪いのですか?」
「……」
 ぶんぶん、と首を振って、エドはシグルドの首にぎゅっと抱きついた。このところ、とみに幼さからの脱却を図る生意気盛りの少年にしては、珍しく甘えた行為に、シグルドは多少驚いたように目を上げる。
「エドさま?」
「………シグぅ~…」
「どうしました? …ユーリ?」
「…あ、ええと…」
 一向に顔を上げないエドの傍らで、心配そうに見守っていた幼い親友に目をやると、ユーリは困ったように指先を絡ませた。少年たちの尋常ではない様子に、シグルドは静かに嘆息をつく。
「エドさま…シグルドも、できればゆっくりとエドさまのお悩みを聞かせていただきたいのですけど、これからとても大事な会議があります。お夕飯のあとにでも、シグルドのお部屋に来て、お話していただけませんか?」
「……」
 シグルドの優しい声音に、エドは埋めていた顔をシグルドの首から離した。涙こそ浮かんではいなかったものの、途方にくれたように頼りない目を上げるエドに、シグルドは困惑したように唇を開く。
「エドさま…本当に、どうなさったのです? そんなに悲しそうな顔をしないで下さい…」
 普段が快活でやんちゃなだけに、こうまで憔悴されると酷く胸が痛む。シグルドが、その実年齢には似つかわしくないほど、若々しい美貌を悲しそうに陰らせた時、回廊の向こうから声が上がった。
「シグ! なにやってんだ、時間ねぇぞー」
「若…」
 はっとして顔を上げたシグルドと同時に、小さなエドの肩が大げさに揺れた。それに気付いたシグルドが訝しむ前に、回廊を曲がってこちらにやってきた人物が、嬉しそうな声を上げる。
「お! なんだ、エドとユーリじゃねえか。こんなところでなにやってんだ?」
「あ…こんにちは、大統領…」
 ユーリがもじもじとあいさつをして、ぱっとシグルドの陰に隠れる。未だに人見知りをする少年に苦笑して、現アヴェ国大統領バルトロメイ・ファティマは、男性的な頬のデティルを穏やかに微笑ませた。
「おう、久しぶりだな、ユーリ。つっても、ミシェルのヤツが毎日おまえの事を話題に出すから、全然『久しぶり』って感じがしないけどな」
 言いながら、シグルドの胸にすがってこちらを振り向かない、小さな金色の頭を見やる。
「エド? なんだ、またなんかやらかして、シグにしかられてんのか?」
 しょうがないヤツだなーと明るく笑って、エドの頭をくしゃくしゃと撫でるバルト。一向に父親を見ようとしないエドに、バルトより先にシグルドが気付いた。
「エドさま?」
「ん? どうした、エド?」
 さすがに不思議に思ったのか、バルトが軽く首を捻った。彼の肩をすべる、太陽の光を集めたような金髪と、まったく同じ毛質の金色が、彼の手のひらの下でわずかに震えている。
 息子の様子に、バルトの表情が改まった。
「どうした? 具合でも悪いのか? …おいシグ、マルー呼んできてくれ…」
 心配そうな父親の言葉に、エドは弾かれたように顔を上げて、まっすぐに父を睨んだ。
「おとうさんの、バカ!!!!」
「……???」
 呆気に取られたバルトが、碧玉の右目を見開くと同時に、エドは小さな手を振り上げて、バルトの厚い胸板を叩く。
「バカ! バカ! バカあ!!」
「お、おい、エド?」
「おとうさんが、おとうさんがしっかりしないから、おかあさんは」
「おちつけ、エドっ」
「エドさま、どうしたんですか、いったい」
 父とその腹心、二人がかりに制されて、エドはその小さな手を振るのをやめた。そのかわり、怒りに燃える碧玉の瞳を父親に向けて、涙をほとばしらせる。
「おとうさんがちゃんとおかあさんに『あいしてる』って言わないから、明日はとくべつなひになっちゃうんじゃないかぁっ!!」
「!?」
 言われた言葉に、バルトは年相応に深みの増した男っぽい顔容をあからさまに凍りつかせた。彼の血を分けた息子は、皮肉にも幼いころの彼そっくりの容貌で、さらに言葉を続ける。
「おとうさんなんか、もう知らないからなっ! おかあさんと『りこん』したって、知らないんだから! おれがおかあさんとエヴァを守るんだからなっ! おとうさんなんか、いらないんだっ!」
 言って、そのまま呆気に取られた大人の腕を振り払って走る少年に、彼の親友が大急ぎで追いかける。パタパタと軽い足音が遠ざかると同時に、硬直状態だった大統領の耳朶に落ち着いたバリトンが流れこんだ。
「…どういうことですか? 若…」
「………」
 問われても、答える術はない。まだショック状態から覚めやらぬ主君を仰ぎ見て、シグルドはふうと嘆息をつく。
「…マルーさまとケンカをされているとは、存知ませんでした」
「してねっつの!!!」
 ようやく我に返ったか、バルトは酷く不機嫌そうに怒鳴って、床についていた膝を伸ばす。立ち上がった彼が、不機嫌そうに髪をかきむしるのを、シグルドは疑わしそうな目で眺めた。
「本当ですか? しかし、いまのエドさまの口ぶりからすると、とても夫婦仲円満とは…」
「だーから! そんなん、俺の方が聞きたいぜ! エドのヤツ、なんだってあんな事急に…」
 乱暴にため息をついて、バルトは精悍な面を上げた。大きな窓から漏れさす、アヴェ国の強烈な日差しが、彼の黄金色の髪に反射する。
「…『特別な日』とか、言ってたよな…」
「そうですね」
「…何であいつ、知ってんだ?」
「さあ…」
 ちらりと視線をやると、シグルドはわからない、と首をかしげている。どうやら、この副官が口を滑らせたわけではないと頷くと、バルトは軽くため息をついた。
「は~あ、やんなるねえまったく…『俺がお母さんとエヴァを守る』だと? …一丁前によお…」
 不機嫌そうに言いながらも、後半部は堪えきれないように愉快な笑みに崩れる。そんなバルトを眩しげに見やって、シグルドも微笑んだ。
「多忙な父に代わって、母と妹を守る…健気ですね」
「ああ。あいつもいつのまにか、『男』っぽくなってきやがったなあ」
「血は争えないと思いますよ」
「お前が言うか?」
 くすくすと笑いあいながら、バルトとシグルドはのんびり歩き始めた。
「なにかフォローは?」
「んん? 大丈夫だろ…なに勘違いしてんだか知らねえが、明日が来ればわかるさ…」
 答えるバルトに、シグルドはちらと視線を流す。
「…もしかして、本当にマルーさまが拗ねられている可能性は?」
「………ない。………ことも、ない」
 ぽりぽりと鼻の頭をかきつつ、バルトが苦笑する。
「それもこれも全部、明日で精算するさ」
「…まったく。日ごろのツケを一括で払うなんて、また大雑把な真似を…」
「ンな事言うんだったら、ここ最近の鬼のような仕事量をどうにかしてもらおうってんだよ」
「それはそれ、これはこれです。改革時はどうしたって忙しいんです。駄々をこねない」
「くっそ…理不尽だぜ、相変わらず…」
 言いながらも、バルトは充実したため息をついて、会議室への道程を急いだ。



 西日が傾き始めたころ、ようやく少年たちは官邸内に帰り着いた。
「急げ、おかあさんたちに見つかるぞ」
「うん」
 なにやら、こそこそと人目をはばかるようにして、少年たちはエドの自室に入る。誰にも見とがめられなかった事を確認してから、エドとユーリは顔を見合わせて息を吐いた。
「はーっ、よかった。大成功だね、エド」
「うん。あとは、これをおかあさんにどうやって渡すかだよな…」
 言って、エドは腕に抱えていた何百という花を丸いテーブルの上に置く。汗だくになった彼の頬や額に、白い花粉がついているのを見つけたユーリは、笑って手の平を伸ばした。
「エド、花の粉だらけ」
「ユーリだって。けど参ったな、お風呂に入らなくちゃ、花の匂いがするよ」
「そうだね、でも、かあさんがいないとお風呂使っちゃいけないからなあ…」
「う~ん…」
 腕組みして悩むエドに、ユーリはふと穏やかに微笑みかける。
「…でも、それにしてもエド、えらいね」
「ん?」
「だって、このお花、やっぱり大統領がおくるってことにするんでしょう?」
「………」
 言われて、エドは少しだけ怒ったようにそっぽを向いた。
「…だって、しょうがないじゃないか。おかあさんは、そのほうが喜ぶんだからっ。おれは、おとうさんなんかもう、…いらないんだけどっ…」
 言いながらも、苦しそうに唇を歪めるエドを見つめて、ユーリは優しく微笑んだ。
「エド、おとなだなあ」
 しみじみ呟いて、ユーリが賞賛の眼差しをエドに向ける。けれど、エドはかぶりを振って肩を落とした。
「そんなことないよ…俺が子供だから、おとうさんのせいでおかあさんが悲しんでいても、なんにもできないんだ」
「できてるじゃないか、エド。このお花を大教母さまに贈れば、二人の『とくべつなひ』はきっとなくなるよ」
 エドを勇気づけるように、ユーリは明るく笑った。そんな乳兄弟をちらりと見やって、エドも弱く微笑む。
「うん…」
「さあ、じゃあこのお花をどうするか考えよう。そうだな、まずお風呂に入って花の香りを落としてから、大教母さまのお部屋にそっと…」
 ユーリがそう、言いかけた時。
「エドさま、ユーリ? いるの?」
 こんこん、と自室の扉がノックされて、エドとユーリは飛び上がるほど驚いた。
「あ、あ、あの…」
「かあさん、あの、ちょっと…」
 キュランの声に、エドとユーリはばたばたと慌てふためくが、驚きすぎて要領を得ない。そんな彼らに、キュランは無情にも扉を開けて部屋に入ってきた。
「まあ、二人ともどこへ行っていたの? もうお夕飯の時間ですよ……あら?」
 薄暗い夕景の滲む室内に、ふわりと薫る花の香りに目を丸くする。キュランは、子供たちが必死に背後に隠そうとしている花の束に驚いたように声を上げた。
「まあ! どうしたの、そのお花は…アウグリオじゃない! しかも、こんなにたくさん…」
 呆気にとられたようなキュランに、ユーリがパタパタと駆け寄る。
「あの、あのねかあさん! これね、えっとね、」
「おとうさんが買ってきたんだ!!」
 必死にごまかそうとするユーリの背後から、決然としたエドの声がかぶる。キュランはきょとんとして、エドの顔を見やった。
「大統領が?」
「うん! おかあさんにわたしてくれって、言われたんだ」
「大教母様に?」
「うん!!」
 力強く頷くエドとユーリを見比べて、キュランは小首を傾げる。
「まあ…どういうことかしら? 明日ならまだしも…」
 小さな独り言に、エドとユーリが顔を見合わせる。けれどキュランはひとつ頷いて、納得したように微笑んだ。
「まあいいわ。大教母様はアウグリオが大好きだから、きっと喜ばれるわね」
「でしょう? 良かった! キュウ、このお花を生けて、おかあさんにわたしてくれないかな。おとうさんからだって、ちゃんと言ってよ」
 ほっと胸を撫で下ろすエドを見下ろして、キュランは優しく微笑んだ。
「わかりました、エドさま…ところで、二人ともお夕飯の前に、お風呂に入った方がよさそうですね。アウグリオの香りがすごいわ」
 言って、キュランはアウグリオの花束を手にする。
「私はお花を生けてまいりますから、エドさまたちは先に浴場の方へ向かってくださいませ。脱衣所でおりこうにしているんですよ」
「は~い」
 仲良く返事を返すエドとユーリの額に、それぞれ優しく唇を落として、キュランはアウグリオの花と一緒に部屋を出ていった。それを見送ると、少年たちは同時に安堵のため息をこぼす。
「よかったぁ~! キュウ、全然うたがってないね」
「うん! エドのお話が上手だったんだよ!」
「へへっ。これで、おかあさんが『とくべつなひ』をなしにしてくれるといいけど…」
 少し寂しそうに呟いたエドの肩に、ユーリは力強い手の平を乗せた。
「だいじょうぶ! エドが頑張ったんだもん、きっとうまくいくって! それに…」
 言いかけて、ユーリは少し困ったように眉を寄せた。ぽりぽり、と鼻の頭をかいて、エドの瞳を窺うようにして続ける。
「それに、さ…もし、まんがいち、たぶん絶対ないだろうけど、もしも…大統領と大教母さまがお別れしても、さ…ぼく、エドのこと助けるから。絶対に、助けるから」
「…ユーリ…」
 頼もしい乳兄弟の台詞に、うっかり緩みかけた涙腺をごまかすために、エドは苦労して変な顔を作った。とたんに、ユーリがはじけたように笑う。
「あははっ! なにその顔、エド!」
「へん、ユーリの真似だよっ」
「あ、ひどい! ぼくそんな顔してないもん! だったらエドは…こうだっ」
「ぶははっ!! なんだよその顔、おっかし~!」
「エドこそ~~!」
 それからしばらく、少年たちはまるで互いを慰めあうように、一生懸命笑い転げた。
 そんな彼らを迎えに来たキュランに、呆れたようなお小言をひとつもらったのは、言うまでもない。
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