MAY I ASK A FAVOR OF YOU?

給仕の女官が、それぞれに温かな紅茶を供して応接室を出て行くと、沈黙を裂くようにバルトが唸った。
「しっかし…お前たちはホント、飽きねェなあ…」
「若…」
 対面で、二人並んで恐縮しているミシェルとキュランを見やり、マルーが軽く夫をたしなめる。
「お騒がせしまして、申し訳ありませんでした…」
 ミシェルが深々と頭を下げると、傍らのキュランもそれに倣う。そんな光景に、バルトとマルーはちらりと視線を合わせて、苦笑しあった。
「それで…キュラン、今、何ヶ月なの?」
 優しくマルーが問い掛けると、キュランは僅かに頬を染めて、小さく答える。
「三ヶ月…です」
「そう…本当に、よかったね。おめでとう、キュラン、ミシェル」
「大教母さま…ありがとうございます」
 ぱっと顔をあげ、嬉しそうに答えるミシェルの隣で、キュランは硬い表情のまま俯いていた。マルーがそれに気づいて、心配そうに声をかける。
「キュラン? どうしたの?」
 すると、キュランは膝の上で揃えた両手を軽く握り締め、ゆっくりとマルーを見やった。キュランの緊張が周囲に伝わり、視線が集中する。
 やがて、キュランが覚悟を決めたように、その唇を静かに開いた。
「…大教母さま。今日、私がこちらに伺ったのは、その件について…お願いしたいことが、あったからです」
「お願いしたいこと?」
 小首を傾げるマルーの斜め向かいで、ミシェルも怪訝そうに眉を寄せた。そんなミシェルには一瞥もくれず、キュランは真っ直ぐにマルーを見据えて頷く。
「はい。今回、妊娠と言う個人的な事情を踏まえて考えたのですが…私を、大教母さま付き随行シスターの任から外し、ニサン本部へ…いえ、ニサン本国へ戻していただきたいんです」
「え?」
 驚いたように、マルーの目が丸くなる。バルトはひょいと片眉を上げ、ミシェルに至っては、硬直したように微動だにせず、ただぽかんと口を開いていた。
「ちょ…キュ、キュウ? それってどういう…」
「突然の申し出で、ご迷惑をおかけしてしまうことは、重々承知です」
 ミシェルの問いかけを途中で遮り、キュランは落ち着いた声音で続ける。
「ですが、妊娠・出産にかかる間、私はニサン正教の職務に従事することは適いません。未だに情勢が安定したとは言いがたいこの時期に、個人的な事情で正教内の活動に支障を来たしてしまう事は、私の本意ではありません。どうか、本国から私の代わりに人を呼び、私を…解任して、頂きたいと思います」
「なっ…」
 跳ね上がるようなミシェルの呟き。けれど、咄嗟には言葉がでてこないのか、彼は喘ぐように口をパクパクとさせ、傍らのキュランを穴が開くほど見つめた。
「…ってことは、つまり、出産・育児休暇を貰いてえってことか?」
 冷静なバルトの問いに、キュランはいいえ、と首を振る。
「そのようなご迷惑はかけられません。私は、出産後もニサン本国で生活しようと思います」
「でも、そうしたらミシェルと離れて暮らすってことになるよ? ミシェルが、アヴェからニサンに行くわけにはいかないんだし…」
 マルーの言葉に、キュランは一瞬瞳を閉じて、再びその、深い緑の色を映した。
「…ミシェルには、キスレブでの任務があります。どちらにせよ、離れることに変わりはありませんから…」
「……」
 瞬間。ミシェルが盛大な溜め息をついて、頭を抱えた。
 大統領や大教母を前にしていると言うのに、酷く不敬なその態度に、キュランは厳しい視線をそちらに転じて、はっとしたようになる。
 ミシェルは、頭を抱えながらも、その大きな水色の瞳をじろりとこちらに向けていた。完全に、目が据わっている。
「…あのさ。きみさ、ねえ? 人の話、聞いてる? さっき、僕、なんて言ったっけ?」
「…だって」
「だってじゃない!」
 ぴしゃりと撥ね付けて、ミシェルは再びため息をつき、それからバルトの正面に、ぴたりと視線を合わせた。
「大統領」
「おう」
「先日頂きました、キスレブへの出向命令ですが、ご辞退申し上げます」
 きっぱりと断言したミシェルに、キュランが慌てたように口を挟む。
「ちょっ…ダメよ! それだけは、絶対にダメ!! あんたはもう、アヴェにとって大切な官僚のひとりなのよ!? それに、キスレブ出向は確実にあんたの力になるわ! こんな、個人的なことで、せっかくのチャンスをフイにするなんて…」
 すっ、と静かにミシェルの手が、噛みついて来るキュランの正面にかざされた。シャットアウトされたキュランがあまりのことに口をパクパクさせているのをのんびり眺めて、バルトが鷹揚に問いかける。
「いいのか? キュランの言うことは尤もだぜ。キスレブ行きは、お前のためになる。それは間違いねえ」
「ええ、わかります」
 普段の穏やかさはどこへ言ったのか、ミシェルはまるで、冷酷非常で知られた某官房長官の攻撃性が乗り移ったかのように、うっすらと酷薄な笑みすら浮かべながら答えた。
「ですが、正味な話、『アヴェ』の礎たる人材は、私の他にもごまんといるでしょう。私は、自分の才覚に自惚れないわけではありませんが、それでも自分がアヴェの『唯一無二』だと言えるほど厚顔ではありません。…でも、」
 一度言葉を区切り、ミシェルは真っ直ぐにバルトを見据えたまま、はっきりと断言した。
「キュランにとって、そしてキュランと自分との間に生まれる子供にとっては、『唯一無二』であると自負します。ですから、私は今、アヴェを離れることはできません」
「……」
 呆気にとられたように、キュランが硬直する。ミシェルは何の迷いもないよう、真っ直ぐバルトを見据えたまま微動だにしない。
 そんな二人の前で、バルトは難しげに腕を組みながら、沈黙していた。傍らのマルーがちらりと夫を見やり、それから静かに紅茶のカップを傾ける。
「…そうか」
 やがて、バルトが頷いた。ごく簡単なそれに、はっとキュランが我に返る。
「だ、大統領…! 待ってください、それは…」
「キュラン」
 たしなめるように、ミシェルが傍らのキュランを睨む。キュランは興奮げにそれを睨み返し、きつく拳を握った。
「駄目よ! 何のためにあたしが、あんなに悩んだと…こんなチャンスまたとないのよ!? あんた、言ってたじゃない、アヴェの力となる優秀な官僚になるのが夢だって…どうして諦めちゃうの!?」
「諦めたわけじゃないよ、でも、それとこれとは話が違うでしょ?」
「一緒よ!」
「…じゃあ、キュウも一緒にキスレブに来る? 知り合いの一人もいない見知らぬ土地で、初めての出産育児なんて大変なこと、やる自信ある?」
「っ…無理よ、だって…それでなくてもあんただって大変な時に、あたしがついてっちゃったらなおさら苦労するの、目に見えてるじゃない! だから、あたしはニサンに行って、ちゃんと一人でやれるから…」
「それは駄目だって言ってるだろ!?」
「どうしてよ!?」
「だから…っ」
「ストップ!!」
 その一言に、ミシェルとキュランがはっと我に返った。テーブルを挟んで対岸で、轟然と腕を組んでいたバルトが、苦々しい表情で言い放つ。
「見てらんねえな。お前ら、自分達の仕事舐めてんじゃねえのか?」
「だ、大統領…」
 厳しい一言に、ミシェルとキュランの顔色が変わる。悄然とした二人に、バルトはなおも続けた。
「生憎だがな、この国は、自分の女一人説得できねえ野郎も、勝手に自己完結してまとめる女も、お呼びじゃねえんだよ。本当に、自分達の都合で回りに迷惑かけたくねえと思うんなら、最低でもてめえら自身が納得いく答え見つけてから偉そうな事言いやがれ」
 鋭い口調と怜悧な言葉に、ミシェルとキュランが言葉に詰まる。押し黙った二人に一瞥をくれてから、バルトは颯爽と立ち上がった。
「行くぞ、マルー」
 簡潔に命じて、大股で歩き出すバルトを見上げて、マルーは苦笑した。さっさと退室してしまった夫を追うでもなく、マルーは手にしていた紅茶のカップをゆっくりとソーサーに戻して、ミシェルとキュランを順番に見やる。
「若の言葉は乱暴だけど、ボクも同じ気持ち。…ミシェル」
「は、はい」
 背筋を伸ばしたミシェルに、マルーは穏やかに言った。
「もう少し、キュランの気持ちを考えてあげて。頭ごなしに正論を言っても、納得できない時だってあるんだから」
「…はい…」
「キュラン」
「…はい」
「あなたは、もう少し素直になること。国とか、ボクとか、仕事とか、全部一旦忘れて、自分の一番大事な気持ち、見せなきゃダメ」
「……」
 静かに俯いたキュランに、マルーは優しく微笑む。
「二人とも、十分頭は冷えたね? じゃあ、もう一度落ちついて、話し合ってみて。二人で出した結論なら、それがどんなものでも、ボクは全力で協力するから。もちろん、若もね」
「大教母さま…」
 申し訳ないような、戸惑った表情でミシェルがマルーを見やる。マルーは一度軽く頷いてから、優雅に立ち上がった。
 そのまま何も言わず、バルトを追って部屋を辞したマルーの後ろ姿からゆっくり視線を離し、ミシェルは改めて、自分の隣に座るキュランを見やる。
 キュランは、じっと俯いたまま自分のスカートを強く握り締めていた。普段の、冷静で豪胆な彼女からは想像もつかない、それは酷く心細そうな風情に見えて、ミシェルはゆっくりと、彼女の方へ膝を向け、距離を縮めた。
「…キュウ」
 先ほどまでの言い争いとは打って変わった、ミシェルの伺うような優しい声に、キュランは一瞬握った拳に力をこめて、それからそろそろと緊張を解く。彼女の表情を覆っていた緩やかなブロンズグレイの髪がひと房、するりと肩を滑った。
「キュウ?」
 その房を追うように、ミシェルが器用な指で彼女の髪をかきあげ、その横顔に再び囁く。それに促されて、キュランは恐る恐る眼差しを上げて、すぐ近くにあるミシェルへと視線を流した。
 ミシェルの掌に、すっぽりと包まれるほど小さな顔中に、およそ彼女らしからぬ不安げな表情が広がっているのに気づいて、ミシェルはなにを言うよりもまず、彼女へとそっと顔を近づける。反射的に瞳を瞑ったキュランの額に一度、瞼に一度、そして薄く開いた唇に、触れるだけのくちづけを落としてから、ゆっくりと手を伸ばし、その薄い肩を抱き寄せた。
 さほど大柄ではないミシェルの胸に、沈むようにもたれかかったキュランが、静かに瞳を開ける。とくとくと、間近で響く彼の心臓の音に耳を澄まして、全身から力を抜いた。その重みが素直にミシェルに伝わって、彼もまた、彼女の温もりに心から安堵する。
 一方の手をキュランの肩に、もう一方の手で、膝の上に置かれた彼女の掌を優しく包んだミシェルは、キュランの髪に頬を寄せながら、独り言のように呟いた。
「…生まれた時から知ってて、家族同然に、解ってると思ってたけど…僕はまだ、キュウのことを、完全には理解できてないんだなあ…」
「……」
 その自嘲的な言葉に、キュランは僅かに眉根を寄せて、けれど沈黙を通した。その代わり、握られていた掌に、きゅ、とわずかに力をこめる。細い指が伝える無言に、ミシェルは口の端で笑った。
「アレク長官や医療長がさ…、いや、結局は僕が、キュウのことを信用しきれてなかったってことなんだけど…とにかく、キュウが、子供…僕とキュウとの間に生まれる赤ちゃんを、堕ろしてしまうって思った時さ、こう…世界が、真っ暗になった気がしたんだ」
「……」
「僕は、キュウが、言葉にしなくても、きっと『家族』っていうものを、誰よりも求めてて、大事にしたいと思ってるって、信じてたから。だから、にわかには信じられなかった。君が、生まれてくる『命』…『家族』を、望まないなんてことは、さ」
 きゅ、と、ミシェルの掌に、痛いほどの力が伝わった。それはまるで、迷子になった小さな子供が、不安をぶつけてくるような、そんなひたむきさがあって、ミシェルは安堵させるように、もたれているキュランの髪にくちづける。
「うん…。今思っても、馬鹿だね、僕は。この世の誰よりも、君のことを知ってると…自惚れてたくせにさ。肝心なところでこうだよ。これじゃあ、君にぼっこぼこにされたって、文句言えないね…」
 おどけたように言って、ミシェルはだけどね、と低く続ける。
「一方で僕は、どこかでそれを、いつも考えていたような気がする。いや、堕胎がどうとかってことじゃなくてさ…そう言う具体的なことじゃなくて、もっと抽象的な…例えば、僕たちは一応、その…『恋人』って言える関係になってから、一度も『結婚』の話はしなかったよね?」
「……」
「もちろん、照れ臭かったって言うのもあるけど…まだまだアヴェもニサンも大変な時期で、個人的なことを考える余裕なんてなかった。僕と君の優先順位は、いつだって『国』や『仕事』だったよね」
 一度言葉を区切り、ミシェルは深く息を吸いこんだ。
「だから、僕はどこかで不安だった。例えばいつか『相手』か『国』か、どちからを選ばなければならない局面に立たされた時、僕たちはどうなってしまうんだろうって」
 ふと、ミシェルの肩にもたれていたキュランが頭を浮かし、ミシェルを見つめた。その視線に気づいて、ミシェルがそちらを向くと、辛そうに眉根を寄せた彼女が、何かを訴えるように唇を震わせていた。
 それを宥めるように、ミシェルはキュランの肩をぽんぽん、と優しく叩き、苦笑する。
「でもさ、ちゃんと自信、あったんだよ。僕の気持ちにも、君の気持ちにも、さ。いろいろ不安はあったけど、それでも『大丈夫だ』って信じてた…んだけどさ」
 言いながら、ミシェルは女の子のように優しげな瞳に一瞬だけ、酷く切ない色を浮かべた。
「だめだね。やっぱり、どんなに近づいたって、所詮違う人間なんだ。ふとしたことでこんなに簡単に、お互いを見失ってしまう。僕はそれがすごく驚きだったよ」
「……」
「大教母様がさ、仰ってたよ。お互いの事を、ここまでわかってればもういい、なんて、満足出来ないって。…僕は少し、自惚れていたのかも知れない。小さな頃からキュウを知ってるから、今更君のことで、知らないことなんてない、って。だから、『今の』君の気持ちを、理解する事を怠けていた。そのせいで、こんなに君を悩ませて…」
 そこまで言いかけたミシェルの唇を、キュランが唐突に自分のそれで塞いだ。突然のくちづけに、ミシェルは驚いたように目を見開く。キュランはゆっくりと唇を離しながら、静かに睫毛を開いた。至近距離で、彼女のそれが濡れていることに気づき、ミシェルが息を飲む。
「キュ…」
「…ミーシュはなにも悪くない…あたしが…ずるかったの。卑怯だった…逃げてただけなの…」
 沈黙を破り、キュランが口にした言葉は、酷く切れ切れの、切なそうなものだった。その意外な台詞に、ミシェルはただ呆然とする。
「あたし…、赤ちゃん、どうしても産みたかった…どうしてもどうしても、欲しかった…例えそれで、誰にどんな迷惑をかけたって、絶対に…。そんな風に思ったの、初めてだったの…」
 弱々しい声で、キュランが懸命に言葉を続ける。彼女の深緑の瞳が、ゆらゆらと陽炎のように揺れて、窓から差し込む日の光に信じられないほど美しく輝いた。ミシェルは半ば、見とれるようにそれを見つめた。
「自分で自分が信じられなかった…だって、今までのあたしは、ニサンや…大教母さまにご迷惑をかけるくらいなら、死んだ方がましだって、思ってたのに…でも、この子は、どうしても…この子だけはどうしても、諦められなくて…」
「……」
「ミーシュに話したら、絶対に喜ぶって解ってた。産んでもいいよって、言ってくれるって、信じてた。だけど、だけど…そう言われちゃったらあたし、なにもかも、あんたに押し付けちゃう気がした…ニサンに対する負い目も、迷惑をかけちゃうってことも、全部…あんたが、嬉しい、って言ってくれるだけで、全部忘れちゃう…そう思って…だから、あたし、それが自分で許せなくて…」
 不意に、キュランの揺らいでいた瞳から大粒の涙が零れた。そしてそれは瞬く間に、幾筋もの流れを作り、まるで何かの糸が切れたように、絶え間なく流れ始めた。子供のようにしゃくりあげて、キュランは涙を拭いもせずに、一心にミシェルを見つめる。
「だ…からっ…、だから、あたし、あんたが、キスレブに行くって、聞いて…っ、こ、これ以上、これ以上はダメって、絶対ダメって、思って…ミーシュ、怒ると思ったけど…きっと、怒ると思ったけど、ひ、ひとりでこの子…産まなきゃダメって思っ…」
 キュランがそこまで言った時、堪えきれずにミシェルが、彼女の身体をかき抱いた。我武者羅に抱き締めて、震える小さな肩を強く握り締めた。瞳を閉じて、彼女の香りを胸一杯吸い込み、溜め息のように囁く。
「……がんばったんだね、キュウ……。辛かったね、苦しかったよね? …ごめんね、気づくのが遅れたね…」
「……っ……」
 ミシェルの肩口が、じんと熱くなった。とうとうと流れる涙が染み込んだそこに、キュランが子供のように額を擦りつける。
 彼女の背を優しく撫でながら、ミシェルが言った。
「ありがとう…たくさん悩んでくれたんだね。僕のために…ニサンのために。どっちも傷つけたくなかったんだよね? どっちも大切だから、辛かったね」
「…ぅん…っ」
 こくん、と、キュランが頷く。その頭を包み込むように撫でながら、ミシェルは抱き締めたキュランの髪に頬擦りをした。
「でも…もう、いいよ。ひとりで悩まなくったっていいんだよ。強くなくたっていいんだ。折れちゃってもいいんだよ? そのために、僕がいるんだから」
「…ミーシュ…っ…」
「だって…僕たち、親になるんだよ? これから先、二人で考えて、悩んで、乗り越えなきゃいけないこと、きっとたくさんある…なのにさ、こんなところでつまずいてたら、お腹の子に笑われるよ。しっかりしてよ、お父さん、お母さん…ってさ」
「……っ」
 そのまま、キュランは強くミシェルの服を握り締め、子供のように泣き続けた。声を殺さず、我慢もせずに、ただ強く、ミシェルにしがみついたまま、全てを押し流すように、いつまでも泣く彼女の背を、ミシェルは優しく撫で続けた。



 ミシェルの執務室に、花束を抱えたキュランがやってきたのは、大統領私邸の一件から、三日ほどたった午後のことだった。
「キュウ? どうしたの、それ…」
 腕いっぱいの豪華な花束は、ひとつふたつではきかない。色とりどりの、様々な種類のひとつひとつをテーブルに並べて、キュランはそれがね、と苦笑した。
「昨日、正式に室長が、今回のことを皆に発表してくださったら、次々に色んなものが贈られてきて…あんたのところにもあるかなーて思ったけど、とりあえずこっちでは手に余るから、おすそ分けに来たの」
「…僕んとこは何にもないけど」
「ホント? だって、官邸の官僚の皆さんからも来たのよ? 面識ない人とかからも結構…」
「…ふ~~~ん。後で、メッセージカード全部見せてくれる? 僕から直々にお礼言っとくから」
 引きつった笑いを浮かべながら、心当たりのある自称他称問わない『シスターヒューイットファン』の同僚たちの名前を思いだし、ミシェルは『直々のお礼』の趣向をさてどうしようかと内心呟いた。
 そんなミシェルには気づかず、キュランはミシェルの執務机の傍らで書類を検めていたナシュカに向かって声をかける。
「それから、ナシュカ」
「はい?」
 顔を上げた、美少年のような容貌のナシュカに、キュランは一番上に重ねていた可愛らしい色目の控えめな花束を差し出して、にっこりと笑った。
「これは、あなたによ」
「私に…ですか? …シスターが?」
 不思議そうな顔で小首を傾げるナシュカに、キュランは違う違う、と首を振る。
「それは、シスターモーガンから。何でも、先日とてもお世話になったお礼に、ですって。自分で渡せば、って言ったんだけど、彼女ひどくはにかんじゃって…あなたにすごく感謝してたわよ」
「エセルから?」
 さらりと、シスターモーガンのファーストネームを口にして、ナシュカは受け取った花束を優しく見つめた。普段表情に乏しい彼女の変化に気づき、ミシェルがひょいと眉を上げる。
「シスターモーガンって、あの例の、おっちょこちょいの彼女?」
「そう、あんたが脅して泣かした可哀想な彼女」
「だっ、だってそれは、彼女が、キュランが行方不明だなんて言うから、焦って…!」
 慌てたようなミシェルに、キュランは苦笑して肩を竦めた。
「ちゃんと、大教母さまの私邸に行くことは室長に断ってたんだけどね。うっかりあの子に言い忘れてたあたしも悪かったんだけど…でも、いきなり『行方不明』にされちゃった時には参ったわ」
 あの日、私邸から正教支部に戻ったキュランは、エセル・モーガンの早とちりのせいで一部のシスターたちに心配をかけていた事実を知り、面食らったのだった。たまたま事実を知るウェルス対策室が早朝会議をしていたために、真相の解明が遅れた事も、騒動を大きくした要因であった。
「誤解を解いた後も、あなたが色々と立ち回ってくれたおかげで、エセルも随分助けられたみたい。ずっとついていてくれたんですって? あたしからもお礼を言うわ、ナシュカ」
 そう言うキュランに、ナシュカは珍しく、淡く微笑んで答えた。
「いいえ、お礼を言われる事ではありません。単に、私がエセルを放っておけなかっただけですから」
「え?」
「このお花、このままにしていてはいけませんね。シナモン補佐官、これを活けてきてもよろしいでしょうか? 余った分は、他の執務室に回してきます」
「ああ、ありがとう、ナシュカ、頼むよ」
 ミシェルが答えると、ナシュカはテーブル一杯の花束を抱えて、優雅に一礼した。そのまま颯爽と退出する彼女を見送って、キュランはミシェルの執務机へと歩み寄る。
「ねえ…ミーシュ?」
「キュウ、世の中には、知らない方がいい事もあるんだよ」
「…ふうん」
 悪戯っぽいミシェルの言葉に、キュランも深くは問わず、何となく肩を竦めた。そしてそのまま、彼の方を向いて執務机に浅く腰掛け、足を組む。一応僧服のシスターだが、そういう仕草がよく似合う恋人に、ミシェルは一言もなく微笑んだ。
「それで?」
「ん?」
 上機嫌にこちらを見上げるミシェルの鼻先を、細い指でピンと弾いて、キュランが瞳を細める。
「あんたの後釜、決まったんだって?」
「あぁ…キスレブ? うん。人選はアレク長官」
「ふーん。優秀なの?」
「もちろん。長官のお墨付きだよ」
「ってことは、悪どいわね、そいつ」
 断言するキュランに、ミシェルは苦笑した。
「どうかなあ。僕はいい人だと思うよ、いつもにこにこして…ま、多少掴み所はないけどね」
「この際、悪人だろうがなんだろうが、国の役に立つ優秀な人材なら文句は言わないわ」
 偉そうに胸を張るキュランに、ミシェルはやれやれと肩を竦める。その様子に気づき、キュランはむっと唇を尖らせた。
「なによ、他人事みたいに。あんたの代わりの人材よ? 少なくとも、あんたと同等の働きをしてもらわなくちゃ困るじゃない」
「まあ…そうだねぇ」
「それでなくとも、今回の件で大統領にも、大教母様にもたくさんご迷惑かけちゃうんだから。あんたも、こっちでバリバリ頑張んのよ? じゃなきゃ…」
 言葉を切って、キュランはそっとミシェルの頬にかかる、琥珀の髪をすくい上げた。
「…じゃなきゃ、あたしが傍にいてあげる意味、ないわ?」
「…肝に銘じるよ」
 苦笑して、ミシェルはキュランの手を取り、軽くくちづける。それから、浅く机に腰掛ける彼女へと椅子を進め、そっとその腹部に手を伸ばした。
「君はどう? 調子は」
「…良好。でも、もう少ししたら悪阻が来るかもって、医療長が言ってたわ…」
 柔らかく撫ぜるミシェルの手に自分のそれを重ねて、キュランが笑った。
「まだ動かないって言ってんのに。あんたもう、それ癖ね?」
「うん…なんかこう、不思議な感じだよね。ここに、命がいるんだもんね…」
「…そうよね……ここに、家族がいるのよね」
 幸せそうに呟くキュランに、ミシェルも優しく微笑む。上向いた彼と目が合い、キュランは自然な仕草で身を屈めて、そっとくちづけた。
「…それで、これからのことなんだけど」
「ん?」
 唇を離すや否や、キュランが言う。ミシェルはきょとんと目を丸くして、素直に彼女を見上げた。
「まず、次の休みに二人で、あんたの実家に行くわよ」
「へ?」
「へ、じゃないでしょう。こういうことは早くしなきゃ。きちんと報告して、了承を得て…ああどうしよう、緊張するわ。あんたはいいわよね、あたしの親に頭を下げることないんだもの」
「はあ…」
「それから、出産までのあたしの仕事の調整をして…あ、勿論あんたは今まで以上に身を粉にして働く! それだけよ、いいわね?」
「うん…」
「それから…いつまでも独身寮にはいられないわよね。早いとこ、いい物件を探さなきゃ。官邸に近い場所がいいわよね? 確か最近、新しく区画整理になった住宅地があるって話よね…そこ、調べてみる」
「…ね、キュウ」
「ん? なに?」
 気のない相槌を返していたミシェルが、くい、とキュランの袖を引いた。顔を向けたキュランが首を傾げると、ミシェルは何とも言えない複雑な顔で、あのさあ、と呟く。
「…僕、確か、プロポーズ断られたままなんですけど?」
「……」
 その言葉に、キュランは一瞬虚を突かれたようにぽかんと口を開いて、目を丸くした。それから見る間に、顔中を真っ赤に染めて眉を寄せる。
「なっ…何言ってんのよ、今更! あんた、散々父親になるとか、家庭を持つとか、言っておいて…!」
「うん。だけどさあ、これってやっぱり大切な事じゃない? 僕としては、一世一代の覚悟で言った言葉をああ返されて、このままなあなあに流しちゃうの、すご―――く抵抗あるんだけど?」
 じろり、とミシェルに見据えられて、キュランは言葉に窮した。深緑の瞳を忙しなく動かして、居心地が悪そうに唇を尖らせる。
「別に、いいじゃないの、そんなの…」
「だめ。将来、この子に『お父さんのプロポーズはなんて言ったの?』って聞かれた時、答えられないじゃないか」
 真剣な顔でそんな事を言うミシェルに、キュランは思わず吹き出した。くすくすと笑う彼女の両脇に手をついて、ミシェルは拗ねたように上目遣いになる。
「笑いごとじゃないよ? これって結構、父親の沽券に関わると思うな」
「ふふっ…そんなもんかしら? じゃあ…仕切り直し、する?」
 囁いたキュランに、ミシェルは嬉しそうに微笑んだ。
「する」
「…どうぞ?」
 苦笑して促すキュランの前で、ミシェルは何度か咳をして喉をさすり、それから改めて顔を上げた。見上げていたことに気づき、おもむろに立ち上がると、机に腰掛けるキュランをそっと立たせて、その腰を引き寄せる。
 それからじっと、彼女の瞳を見つめて、囁いた。
「キュラン、僕と結婚してくれますか?」
「…はい」
 にっこりと、花のように微笑んで。キュランは嬉しそうに頷いた。
 その瞬間、ミシェルはほーっと大きくため息をつき、また椅子に腰掛ける。力尽きたような彼に、キュランは半ば呆れて目を見張った。
「何やってんのよ。こんな、答えの決まってるようなプロポーズで、そこまで緊張する?」
「いや…だけどさァ…君ってひとだからね、またどこでどんなどんでん返しを仕掛けられるかわかんないし…」
 弱々しく答えるミシェルに、キュランはむっとしたように唇を尖らせ、琥珀のつむじを軽く叩く。
「失礼ねえ。少しは信用しなさいよ、自分の『妻』を!」
「……」
 その瞬間、ミシェルが勢いよく顔を上げて、まじまじとキュランを凝視した。その迫力に、キュランはぎょっとして目を見張る。
「な、なに?」
「…『妻』…かぁ…。何かイイ響きだねぇ…」
 そう言って、へらりと締まりなく笑う幸せそうな『夫』の顔に、キュランは呆れるやら照れ臭いやらで、わざとつっけんどんに顔をそらした。
「いずれは、だけどね! 今はまだ違うわ、『ヒューイット』のままよ」
「あ、そうか。早く籍いれないとね。いつにしようか? 今月中? …あッ!! そうだ、大事な事忘れてた!!」
 突然大声を張り上げて、また立ち上がったミシェルを見上げて、キュランは訝しげに眉を吊り上げた。
「なによ? さっきから忙しないわね」
「キュウ! 式だよ、結婚式!! うわ、どうしよう、急いで計画立てなきゃね!」
「えぇっ!? し、式? 式をあげるの!?」
「当たり前でしょ! 結婚するんだから!」
 断言するミシェルに、キュランは頭を抱えた。
「いいわよ、別に…そんなことしなくたって~。いずれ、お腹だって目立ってきちゃうんだから、無理よ」
「だから、早いうちにしなきゃ! あのね、キュウ、結婚式は大事だよ? 僕たちが結婚したってことを、徹底的に知らしめるいいチャンスなんだから!」
「はあ…?」
「とにかく、絶対に式はするよ!! ああ、忙しくなるなあ」
 やにわに張り切りだしたミシェルを見やって、キュランは小さくため息をついた。
 それから、こうしちゃいられない、ちょっと大統領と筆頭に相談に行って来る、と、止める間もなく部屋を出て行ったミシェルを見送り、キュランは困ったように肩を竦めつつ、未だ目立たないその下腹へと、しなやかな手を伸ばす。
「ホントに…困ったお父さんね?」
 小さく囁くと、世界一幸せそうな顔で、にっこりと微笑んだ。



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