MAY I ASK A FAVOR OF YOU?

 アヴェ国大統領、バルトロメイ・ファティマの一日は、柔らかな声から始まる。
「若、朝だよ、起きて」
 到底、そんな甘い囁きでは起きようはずもないことを知っていて、まずはこちらも小手調べ。きちんと身なりを正し、すでに朝のお勤めを済ませて再び寝室に戻ってきたマルーは、案の定惰眠をむさぼっている夫の枕辺に寄って、軽く肩を竦めた。
「んもう…。相変わらずねぼすけなんだから」
 それでも、無防備に眠る姿に愛おしさが募り、生まれた時から見慣れているはずの、すでに結婚一周年すら過ぎた相手に今更目を奪われたことに苦笑して、マルーはぎしりとベッドをきしませた。
 マルーが腰掛けた分シーツが沈み、バルトの顔が自動的にこちらを向く。子供のようなあどけなさに、マルーは優しい指を滑らせた。
「わーか。いい加減起きないと、痛くしちゃうよ?」
 悪戯に囁いて、夫の頬骨の下、薄い肉をきゅっと摘む。男らしい精悍な美貌が間抜けに変化して、マルーはくすくすと笑った。
「ん…ん~…」
 痛みにか、バルトはむずがるように唸って腕を上げる。自分の頬を摘むマルーの細腕をぱしりと掴み、そのまま抱き込むように引き寄せた。
「わっ…」
 寝惚けているのか、力任せに引き寄せられて、マルーはバルトの正面に倒れこむ。小柄な彼女が胸に乗り上げ、その体重で圧迫しても、バルトは微動だにせず満足そうに寝息を深くした。
 平和な顔に、マルーはまったく、と溜息をついた。
「これは、本格的に痛くしないと、ダメなようですねえ…」
 素早くチェストの置時計に目を走らせると、そろそろ朝食の時間である。特に急かして起こすのも可哀想かとも思ったが、今日は珍しく、バルトもマルーも休暇が重なっているため、のんびりと一緒に休日を過ごすことの少ない新妻(結婚一周年を過ぎても新妻と言い張りたい)としては、やはり寝姿よりも起きた相手と話がしたい。
 胸に抱き伏されたまま、マルーはぐい、と腕を突っ張った。バルトの上に馬乗りになると、近くに転がっていた手触りのいいクッション枕を引き寄せて、おもむろに夫の顔面を塞ぐ。
 こんな場面を誰かに見られたら、殺人未遂に見られても仕方ないなあと呑気に構えながら待つこと数十秒。自分の下で微動だにしなかったバルトの身体が、だんだん小刻みに震えてくる。
 ぴく、と腕が震え、次の瞬間がば! と勢いよくクッションが跳ね飛ばされた。
「だぁぁあっ!! はぁっ、はぁっ、はぁっ!!」
 全力疾走した後のように、真っ赤な顔で呼吸を繰り返すバルトが上半身をはね起こすと同時に、マルーも上手に体重をずらし、彼の腿の上に移動した。あえぎながら息を整えたバルトは、布団の上から自分に乗り上げ、真正面で笑っている妻に、きつい睨みをきかせる。
「マルー!!!」
「おはよう、若」
 上機嫌に挨拶するマルーに、バルトはバカヤロウ、と吐き捨てた。
「おはようじゃねーよ、殺す気か!? 人間、息が出来なきゃ死ぬんだぞ!!」
「死なない死なない、若じょーぶ」
「丈夫じゃねえ!! お前、ちったぁお疲れモードの夫を優しく寝かせてやろうとかいう心遣い…は…」
 憤然とまくし立てていたバルトの首に、マルーがするりと腕を伸ばした。近づいてきた妻の、小作りな白い顔中に柔らかな笑みが広がっているのを間近に見て、バルトはぐうの音も出ずに口を閉ざす。
 閉ざした唇に、マルーが羽根のように軽く口付けを落とした。
「だって、早く起きて欲しかったんだもん」
 珍しく、可愛らしい事を言うマルーの態度に、バルトの機嫌は急速に上向いた。まったく、何回同じ手で懐柔されれば気が済むのかと、僅かに浮かんだ情けない独白すら、再び唇を覆う柔らかな感触に太刀打ちできるわけもなく。
 結局は、朝の挨拶と言うには濃厚なくちづけの後、バルトのもつれた金髪を指ですくマルーの温もりを抱いて、バルトは何事もなかったかのようにその耳に囁いた。
「そんで? 今日はどうするんだっけ、奥さん」
「あれ、覚えてたの? お出かけの約束」
 心底驚いた風に、その碧玉の瞳を丸くするマルーに、バルトは不機嫌そうに唇を尖らせた。
「あのな。昨夜、寝る寸前まで念仏みてーにひとの耳元で『お出かけお出かけ』言われりゃ、忘れられねえだろ普通」
「あは。そうだっけ?」
「そうだよ。ちなみに、……して……してた時もお前、うわごとみてーに…」
 不意に、夜の雰囲気を髣髴とさせる低音で、耳朶を甘噛みするように囁かれた言葉に、マルーの白い肌が一気に赤く染まった。
「やっ…もう! アタマ切り替えて、若! 今は朝、もう朝だよ!」
「あぁん? イイじゃねェかよ別に…なにイマサラ」
 誰はばかることなく夫婦となって、人並みにはお互いのアレやコレやを知り尽くしている間柄だと言うのに、マルーの反応は無垢な少女のようであり、それがまたバルトの果てない欲求を刺激する。
 ちらりと視線を時計にやれば、さすがに朝食には間に合わないだろうが、ブランチを奮発すれば機嫌が直るかも…等々、時間と機嫌の計算を瞬時に終わらせて、バルトはがらりと気持ちを切り替え、本格的に妻の陥落を試みようと、無骨な手を滑らせた。
「きゃっ! ちょ、ちょっと若、どこさわっ…」
「まぁまぁ」
「じゃなくって! あっ、ダメ、絶対ダメ、今日はお出かけ!」
「するよ。するから…二時間後にな」
「そんなのやっ…もう、若…」
 じたばたともがいていた獲物を黙らせるツボなど、バルトはすでに承知している。観念したのか呆れ果てたのか、徐々に力を抜いたマルーの柔らかな重みが胸にかかり、そのままベッドの中に引きずりこもうかと腕が動いた、まさにその時。
 
 りりーん、りりーん、りりーん
 
 ベッドサイドに設置した、内線電話が軽やかに鳴った。
「あぁ…?」
 不機嫌さを隠しもせず、バルトがそちらを睨む。これが、朝食の準備を知らせる私的回線ならば無視もできるが、鳴っているのは大統領、大教母の執務に関する連絡回線だ。
「誰だ、こんな朝っぱらから…」
「だぁから、もう、みんな爽やかに起きて活動している時間なのっ!」
 電話の音に我に返ったのか、マルーは赤い顔を膨らませて、バルトの腕の中からもがき出ようと奮闘する。それを片手で抑えつつ、盛大な舌打ちをして、バルトは反対の腕を伸ばした。
「なんだ」
 ドスのきいた低い声で、簡潔に訊ねる。無愛想なんだから! とマルーが呆れる隣で、受話器を耳にしたバルトが怪訝そうに眉を寄せた。
「あァ? …あぁ、…はぁ?? …で? …ああ、じゃあ…そうだな、そうしてくれ、すぐに行く…ああ」
 要領を得ない会話の後、バルトは受話器をフックに戻してマルーを見やった。
「マルー、キュランが来てるとよ」
「え?」
 きょとん、と目を丸くしたマルーに、バルトは腑に落ちないような顔で首を傾げた。
「アポナシで、私室の方に乗り込んできたらしい。珍しいな、あいつにしちゃそう言うの」
「私室に…執務室じゃなく?」
「ああ。とりあえず取り次いだ警備兵からシグに連絡行って、そういうことにしたらしい。なんか、様子が変だって言ってたな…」
 バルトの言葉に、マルーは眉根を寄せて、それから慌しくベッドを降りた。
「何かあったのかも。ボク、行ってくるね」
「待てよ、俺も行く」
 そう言って身を起こしたバルトに、マルーはその場で軽く足踏みをする。
「早く、若! 先行ってるよ、心配だから」
「まあ待てって。お前、そのまんま行く気か?」
「え?」
 意味不明の言葉にきょとんとしたマルーの、大きく開いた襟ぐりに指を向け、バルトは少々すまなそうに片頬を上げる。
「ワリ。今日は、首の詰まった服にしとけ」
「え? …あーーー!!! ちょっと若、こっ、こんなとこにっ…」
 先ほどのじゃれあいで、いつのまにか隠しようもない場所に鬱血の跡を残されて、マルーは真っ赤になったままドレスルームに駆け込んだ。
「もうっ! あったまきた、今日はいーーーっぱいお買い物に付き合ってもらうからね、覚悟しててよ、若!!」
「ハイハイ、なんでも好きなもん買ってやるよ」
 そのくらいで機嫌が直るなら安いものだ、と、まったく反省していない夫は心の中で嘯いた。



 時は少々さかのぼる。
 ニサン正教アヴェ国支部ウェルス種対策室副室長、シスター・キュラン・ヒューイットは、いつもの身形正しい僧服ではなく、趣味の良い仕立てのすっきりした私服に身を包んで、普段余り訪れることの少ない、大統領・大教母夫妻が起居する棟へと足を運んでいた。
 玄関口となる真珠色のホールには、常時警備の者が詰めている。警邏隊の隊服に身を包んだ青年が、キュランを認めてこちらへ寄ってきた。
「失礼。こちらにはどんな御用ですか」
「ニサン正教のシスター・ヒューイットと申します。大教母様に折り入ってお話があって参りました」
「大教母様は、本日は休暇を取られております。お約束はなさっていますか」
「いいえ、事前連絡はしておりません。お時間は取らせませんので、どうか5分間だけ、お目通り頂きたいとお伝えください」
「…少々、お待ちください」
 キュランの言葉に、青年隊員は踵を返して、壁にかかった内線電話の受話器を取った。
「…あ、正面警邏第3班カティーグです。実は今、正面玄関の方にニサン正教のシスターヒューイットと名乗る方がいらっしゃってて…ええ、いえ教母庁の方には…はい、お願いします」
 それからしばし、確認を取っているらしい時間が流れ、再びカティーグ青年は、受話器に向かってこう言った。
「はい、では、私室の…ええ、確認します。女官をお願いいたします、はい」
 やがて、こちらに戻ってきたカティーグ青年は、生真面目な調子でキュランの顔を見やった。
「すみません、規則で、身分を明らかにするものを提示していただくことになっているのですが」
「では、これを」
 言って、キュランは懐からニサン正教のロザリオと、写真付の身分証明書を渡す。ロザリオの裏面には姓名が彫られており、それが確かに正教関係者の所有物だと言うことは、その見事な意匠から見て取れた。
「確かに。では、しばしお待ちください、今、案内の者が…」
 カティーグが言うと同時に、玄関ホールの先から女官がやってきた。大統領たちが住まう私邸に詰める女官は、キュランの姿を認めてにっこりと微笑むと、そのままカティーグに一礼してキュランを促す。
「どうぞ、こちらへ」
 キュランは言われるまま、私邸内へと足を進めた。
 別館と言っても、旧王城において王族がプライベートで使用した棟をそのまま流用しており、本館へと続く出入り口はまだ数箇所ある。もちろんそちらにも警備兵が配置されていたり、厳重な施錠が施されていたり、安全対策は万全なのだが、キュランのように正教関係者であれば、正教支部に面した別棟の出入り口がないわけではない。
 それを踏まえて、静々とキュランの先に立って案内する女官が、僅かに振り返るように気さくに声をかけてきた。
「シスター、わざわざ正面玄関の方に回られるのは珍しいですね。正教方面の出入り口もありましたのに」
 するとキュランは僅かに微笑んで、ええ、と頷く。
「けじめ…のようなものかもしれません」
「けじめ、ですか?」
「はい」
 穏やかに頷き、それきり口を閉ざしたキュランの様子に、女官は何かを察したように、また前を向いて沈黙した。そのまま、とある部屋の前で立ち止まると、どうぞこちらへ、とキュランを促す。
「大教母様がいらっしゃるまで、こちらでお待ちください」
「ありがとうございました」
 穏やかに微笑んで、キュランは女官に丁寧に礼をした。そしてそのまま、通された応接室の中央へと進む。
 女官が扉を閉めると、中はしんとした静けさに包まれた。華美を嫌う上品な調度品に包まれたその空間は、まるで大教母その人のひととなりを映すように、落ち着いた優しい雰囲気に満ちている。
 静かに、ソファに腰を落ち着けて。キュランは瞳を閉じながら、その空気に浸った。
 もしかして、これが最後になるかもしれない。
 キュランが、身を呈してでも護りたかった、愛すべきニサンの大教母。今だって、ずっとその気持ちはある。叶うなら、いつだって彼女の役に立ちたい。護っていきたい。
だけど。
「……」
 そっと、キュランがその掌を自らの下腹部にあてた。苦しげに寄せられていた眉根をそっと解き、ほうとため息をつく。
 もう、決めた事だから。
 キュランは、きゅっと瞼を閉じ、再び眼差しを上げた。誰もいない応接室のソファで、ピンと背筋を正して端然と座る彼女の耳が、その時微かな違和感を感じて、震える。
「……?」
 静謐とした穏やかな私邸の気配が、乱れたような気がした。じっと耳を澄ませると、どこかで人の声がする。キュランは怪訝な顔で立ち上がり、戸口を振り仰いだ。
 果たして、話し声はまっすぐこちらに向かって来る。大教母の声とは違う、どこか切羽詰ったような応酬に、キュランは僅かに緊張したように、身体全体でそちらを向いた。
 やがて扉の向こうで、ひときわ大きな声があがった。
「あのっ、困ります、ホントに…っ」
「いいから、責任は僕が取る! …ここ?! キュウ!!」
 言うと同時に、応接室の扉が荒々しく開かれた。
「ミシェル!?」
 飛び込んできた青年と、自分を案内してくれた女官の顔とを、キュランは同時に視界に映して叫んだ。女官は心底困り果てたように、ミシェルの背後でおろおろとしている。
 当のミシェルは、キュランの姿を認めると、大股でこちらへやってきた。その迫力に、キュランがぎょっとして目を見張る。
「ちょ、ミシェル? あんた、何…」
「キュラン!」
 有無をも言わさずに、ミシェルがキュランの腕を引いて、自分の胸にかき抱いた。キュランは一瞬酷く緊張したが、ミシェルが勢いのわりには力任せでなかったことに安堵したのか、とりあえず暴れたり突き飛ばしたりせずに、目をまん丸にする。
 一方、ようやくの事でキュランを捕まえたミシェルは、彼女の細い身体を念願通り抱き締めて、ほーっとため息をついた。
 その音を背中で聞いて、キュランははっと我に返る。
「ミ…ミーシュ! あんた、ねえ、ちょっと何考えてんの!? ここをどこだと思ってんのよ! もうすぐ、大教母様だって来られ…」
「大教母様に、なにを言うつもりだったんだ!?」
 ぐい、とキュランの薄い肩を掴んで、ミシェルは改めて彼女と正面から向き合う。キュランは驚いたように硬直し、それからはっと息を飲んだ。
「まさか…! ミーシュ、知って…」
「医療長から、全部聞いたよ! ここに君がいるってことは、シャンティに…」
「シャンティまで!?」
 ぎょっとしたように目を丸くするキュランが何かを言う前に、真剣な表情のミシェルが厳しい声音で断言する。
「キュラン! 何て馬鹿なことを…どうして僕に相談しなかったんだ!?」
 その言葉に、キュランは一瞬酷く傷ついたような顔を見せ、それからだって、と震えた声で呟く。
「だって…これしか、方法が思いつかなかったんだもん…」
「そんなことないだろ!? 他にいくらだって方法は…」
「ないわよっ! ないから、あたしはここにいるんじゃない、あたしだっていっぱい悩んだの!」
「これは、君と僕との問題だ! 僕にだって、悩む権利はある!」
「だって! …だって、あたし、絶対あんたの足かせになんかなりたくないもの! 困らせたり、苦しませたり、したくないよ! そんなだったら、あんたにはなにも知らせずにいた方がよっぽど…」
 そう、キュランが言った瞬間。ミシェルの全身が緊張し、彼の腕が斜めに上がった。
 殴られる、と、一瞬で悟ったキュランが、ぎゅっと目を瞑り身を固くしたと同時に、ぱぁん! と肌を打つ乾いた衝撃音が響く。
 キュランが歯を食いしばった。けれど、耳に聞こえた高い音とともに訪れるはずの痛みは一向に感じない。恐る恐る目を開けると、自分で自分の頬を打ったまま、じっと俯いているミシェルがいた。
「…ミ…ミシェ…ル…?」
 酷く力をこめたのか、ミシェルの右頬は赤く染まっている。長い彼の琥珀の髪が、それを大分覆い隠し、彼の表情をも見えなくさせていた。
 ただ、キュランの位置からも垣間見えるのは、きつく噛み締めた彼の唇。細かく震えたそこから、肉を裂いて細い血の糸が流れた瞬間、キュランは小さく悲鳴をあげた。
「ミシェ…ばか、なにやって…」
 キュランの白い指が、ミシェルの口元を伝う血痕を拭う。すると、彼は素早くその手を掴み、びくりと全身を震わせたキュランは、次の瞬間目を見張った。
「……」
 キュランの小さな掌を包み、そこに唇を寄せながら、ミシェルの双眸から透明な涙が幾筋も流れていた。苦しそうに眉根を寄せ、何度もキュランの掌にくちづけ、そのままその手を額にあてる。
 ぽろぽろと流れる涙に、キュランは声を出せずにいた。自分の手に縋るように、じっと俯くミシェルの、嗚咽さえ漏れない静かな嘆きに、キュランの胸の内から猛烈な後悔が湧き上がる。
 困らせたかったわけじゃない。
 苦しめたくなかった。
 悩んで欲しくない。
 護りたかった。
 だけど…目の前で、静かに涙を流す彼の心を、一番残酷な形で切り裂いたのは、間違いなく、自分。
 好きで、愛していて、大切にしたくて。とった行動は彼を苛むだけだった。
「…ミー…シュ…」
 声が、喉にひっかかって、かすれたようにしか響かない。その微かな震動に、ミシェルの腕がぴくりと震えて、キュランの掌に額を擦り寄らせたまま、静かにその、明るい水色の瞳が開いた。
 涙で濡れる、宝石のように美しいそれに、自分の苦しそうな表情が映っている。キュランはたまらなくなって、掴まれていない方の腕を一杯に伸ばし、ミシェルの首に抱きついた。縋るように、包むように、慰めてあげたい。
「ごめん…ごめんなさい、ミーシュ…」
「……」
 キュランの腕を離し、ミシェルもキュランを抱き締めた。押し潰してしまいそうなほど、酷く力を入れたい衝動をギリギリの理性で押さえ、彼女の負担にならないように、柔らかな綿のように繊細に、その身体を包み込む。
 トン、とキュランの背を叩いて、ミシェルがゆっくりと身体を離した。涙の跡を軽く拭いて、じっとまっすぐ彼女を見つめる。
「…キュラン。僕は、君にとってまだまだ、頼りないかもしれない…だけど、これだけは言えるよ」
 そのまま、キュランの両頬をそっと掌で包み、こつん、と額を合わせる。
「お腹の子供は、僕の子供だ。僕の全てを賭けて愛したい」
「……」
 キュランの瞳が、すっと閉ざされる。ミシェルは、だから、と続けた。
「だから、絶対に、堕ろすなんて許さないよ」
 一番、言いたかった一言。それを、万感の思いをこめて、噛み締めるように呟いた。
 ……ら。

「……………はあ!?」

 思い切り、キュランが素っ頓狂な声を上げた。
 ミシェルはぱちくりと目を見開き、合わせていた額を離す。至近距離で、キュランが心の底から怪訝そうな顔で眉根を寄せ、口をぽかんと開けたままミシェルを見上げていた。
「キュウ? …あれ? なんか…どうした、の??」
 キュランの反応に、ミシェルは慌てて首を傾げる。そんなミシェルに、キュランはあっという間に鬼神のように険しい表情に転じて、額に大きな青筋を浮かせた。
「ちょっと…! それ、どーいう意味なわけ!? あんた、まさか、あたしがこの子を堕胎するとでも…」
「えっ!? ちっ、違うの!?」
「やっぱり思ってたのね!? ふッ…ふざけるんじゃないわよ―――ッッ!!!!」
 叫んだ瞬間、キュランの完璧に体重の乗った強烈な右ストレートが、ミシェルの左頬に炸裂した。思わずたたらを踏み、膝の裏に当たったソファに倒れこんだミシェルが、頬を押さえて目を白黒させる。
 はあ、はあ、と荒い呼吸を繰り返し、キュランは悔し涙さえ浮かべてミシェルを見下ろした。
「最低っっ!! あんた、あたしがそんなことする人間だと、思ってたわけ!?」
「い、いやッ!! そうじゃなくて、だって、い、医療長が…」
「確かに、ライアン医療長はそう言う話も教えてくれたけど、あたしはその場で、きっぱり必要ありませんって言ったわよ!! あたり前でしょう!?」
「えっ!? そ、そうなの!!?」
「…ッひ、人の気も知らないで…! あんたって男は―――!!!」
「わ―――!! ちょ、ちょっとキュウ、待って、あんまり暴れたらお腹の…っ僕の子が!」
「うるっっっさい!!! あんたみたいな薄情な父親、こっちから願い下げよ! この子はあたしが、一人で立派に育ててみせるんだからっ」
「キュラン! それは絶対ダメ!! 僕の遺伝子でしょ!?」
「やっかましい!!」
 キュランの、芸術的に素晴らしい黄金の踵落としが、まさに炸裂せんとした瞬間。
「キュランっ! だめだよ、暴れたらお腹の赤ちゃんがびっくりしちゃう!」
「っ!!」
 高い制止の声に、キュランは上げかけていた足をぴたりと止めて、慌てて戸口を振り返った。ソファに撃沈していたミシェルも、跳ね上がるようにして身を起こす。
 果たしてそこには、大統領、大教母、案内の女官に、警備の隊員数名が、鈴生りになってこちらを眺める光景があった。
「あ……」
 今更のように、キュランとミシェルが真っ赤になって絶句した。
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