MAY I ASK A FAVOR OF YOU?
基本的に、現在のアヴェ国の中枢である国会議事堂兼大統領官邸は、旧アヴェ王朝における王宮の、破損・倒壊を免れた部分を主として構成されている。
何百年と言う歴史を誇る旧王宮は、陰惨な大戦を経てなお堂々たる威風を誇り、それはアヴェが他国より先んじて復興を遂げた要因の一つでもあった。人々はアヴェの未来を、その頑健な宮殿に見ることで、悲惨な現実を手を取り合って乗り越えている。
そんな旧王城であるが、もちろんそもそもの敷地は広い。砂漠の楼閣であるから、外見は若干威圧的で、無骨な印象は否めないが、一歩中に足を踏み入れると、精緻な細工の施された趣味の良い建築美と、時代に沿って手を加えられた近代的な部分とが、不思議な調和で広がっている。
一時期は、その本来の主たる一族より一切を簒奪した下賎の者たちに蹂躙され、王宮本来の威厳も美しさも絶えて失われたかと人々が嘆いたことが嘘のように、再び荘厳な美観を取り戻したその宮殿内を、いま険しい表情でひた歩く二人の青年がいた。
「ア、アレ…アレクシス長官! どちらへ?」
颯爽とした足取りで、風を切って歩く後ろ姿に、ミシェルは上ずった声で問い掛けた。
ミシェルとしては、一刻も早くキュランを捜したくて気も狂わんばかりなのだが、アレクシスはただ黙ってついて来い、の一点張りで、広大な広さを誇る建物を突き進んでいる。
「アレク長官! 僕は、一刻も早く行かなくてはならないんですよっ!」
焦りと苛立ちで、刺々しい声を上げるミシェルに、アレクシスは立ち止まらずに返した。
「ほう。どこに行くって?」
「だから! キュランのところへ…」
「彼女が今、どこにいるのか知っているのか?」
「それは…っ、でも、だから早く捜さないとっ」
「物事にはな、小僧。手順と言うものがあるんだ」
「っ」
不意に、アレクシスが立ち止まる。ミシェルは慌ててそれに倣い、アレクシスの背にぶつかる寸前でなんとか停止した。アレクシスはにこりともしない無表情のまま、ミシェルを振り返る。
「キュランを捜すと言って、何をどう捜す? お前の鈍足でアヴェ中を走り回ったあげく、見つけた時にはもう手遅れでした、じゃ洒落にならんだろう」
「て、手遅れ…って」
「お前の遺伝子がこの世に伝わるかどうかは、今のお前の判断にかかってるんだ。自覚しろ、馬鹿が」
アレクシスの言葉に、ミシェルは呆然と押し黙った。
混乱している風の歳若い彼を尻目に、アレクシスは立ち止まった先の扉を軽く殴打する。中から気だるい返答が返って来て、ためらいなく扉を開く彼を追い、ミシェルも慌ててそれに倣った。
「邪魔するぞ、藪医者」
「…非番だよ、おととい来な、洟垂れ」
薄暗い室内から、うっそりと不機嫌な声が返る。その段に至って、ようやくミシェルは、そこが医療班の休憩室であることに気づいた。
部屋の隅にあるソファに、両手両足を投げ出して、ぐったりと横になっていた白衣の女性が、皺っぽい目元を細めてこちらを眺める。
「おやま。シナモン補佐官までどうした? 今日はシスターヒューイットは担ぎこまれてないはずだよ」
「医療長…」
相変わらず人を喰ったような言葉に、先日の醜態を思い出してミシェルが赤くなる。アレクシスはさっさと部屋を横断し、医療長の横たわるソファの傍らに立った。
「ライアン、シスターヒューイットはどこだ」
「あん?」
きょとんと目を丸くして、医療長リィ・ライアンが身を起こす。赤茶けた癖の強い髪をばさりとかきあげて、珍妙な動物でも見るように、アレクシスを眺めた。
「何の話だよ?」
「どの医者を、シスターに勧めたのか聞いてる」
冷静なアレクシスの問いに、ライアンはことりと首を傾げた。彼らの後ろで、ミシェルは事の成り行きが解らずに、ただまんじりともしない思いで沈黙している。
「だから、何の話だってのよレブルック。意味がわかんないね」
「とぼけるな。妊娠を知った女にお前がまず勧めるのは、堕胎を得手とする闇医者だろうが」
「!?」
アレクシスの言葉に、ミシェルが愕然と目を見開いた。ソファの上では、ライアンが顔色も変えずにのんびりと欠伸をしている。気づいた時、ミシェルは彼女につめよるように歩を進めていた。
「それ、本当ですか、医療長!? 何で…どうしてそんなことっ!」
怒鳴るミシェルをつらりと眺めて、ライアンはソファから立ち上がった。長身の彼女は、そうするとミシェルとほぼ同じ目線になる。歳のわりには皺っぽい目元を細めて、ライアンはつい、と人差し指をミシェルの胸に突き当てた。
「どうして? 理由は簡単さ。産んで不幸になる女を減らすため」
「なっ…」
「不幸な女の末路は悲惨だよね。でももっと悲惨なのは、そんな女が産んだ子供だ。ひとつの命がふたつになっても、不幸はその何倍も膨れ上がる。複雑な掛け算だね」
白衣のポケットに手を突っ込んで、医療長は気だるげに笑った。絶句するミシェルの背後で、アレクシスが冷たい視線を投げる。
「幸せになるか不幸になるか、それを決めるのはお前じゃない、思い上がるなライアン」
「そうだよ。だからあたしは強制はしない。こういう方法もあるよ、不幸は免れるんだよって事を教えてあげるだけ」
に、とかさついた唇を曲げるライアンに、ミシェルは激しい憤りをぶつけるように拳を握った。
「キュランは、絶対不幸になんかさせない! お腹の子だって、僕の子だ! 必ず幸せにしてみせる!!」
叫ぶミシェルを眩しそうに見やって、ライアンは笑った。
「うん、いいんじゃない、それで。あんたががんばりゃいいってことだよ」
「え?」
晴れ晴れとしたライアンの表情に、ミシェルは毒気を抜かれたようにきょとんとした。子供っぽい彼の表情を面白そうに眺めて、ライアンはわざとらしく眉根を寄せる。
「だからさ、別にあたしは、世の中の子供はすべからく堕ろされりゃーいいとか思ってるわけじゃないって。なんだかねー、言い方ってあるじゃん、レブルック。あんた問題だよ、ホント」
ライアンの言葉に、アレクシスはぴくりとも表情を変えずに沈黙する。腕を組み、憮然とした面持ちでいる彼に、ライアンは大仰に肩を竦めた。
「やだねー。大昔の事をまだ根に持ってんの。肝っ玉の小さい男だ」
「根になどもっていないし、事実お前は堕胎を勧めるだろう」
「だからさ、一つの方法論として、言うこた言うよ。そこでホントに堕胎を決めるかどうかは、そいつらの問題だ。レブルック、あんたらみたいにね」
「え?」
驚いて、ミシェルは思わずアレクシスを振り返る。アレクシスは黙って腕を組んだまま、その視線を撥ね付けるように、冷たくライアンを見据えた。
「それで、キュランにはどこの医者を勧めたんだ」
「何で? もしかして、ヒューイット行っちゃったの? そこに?」
そう言って、ライアンは心底呆れたようにミシェルを見やる。
「あんた何やってんの、シナモン。子供要らないの?」
「なっ…そんなわけないでしょう!! 大体、元はと言えばあん、あなたが、キュウに余計なこと…」
「シナモン、堂々巡りだ。何を言ってもこの女には通じない」
冷たく言い放つアレクシスに、ライアンはぴくり、と眉を上げる。
「ちょっと、言うねえ。大体、女に一度だって堕胎を考えさせるような甲斐性無しに、何だかんだ言われたかないよ。男がしっかり女を見てりゃ、こんなことにはならないんだ。自分の監督不行き届きを棚に上げて、医者に説教するなんざ十年早いよ、洟垂れ」
その言葉に、アレクシスの瞳が始めて揺らいだ。静かな怒りを湛える彼の眼差しの先で、ライアンも敢然と立ち向かう。
その間隙を縫って、ミシェルがはっきりと言い放った。
「誰だって不安ですよ、医療長」
「ん?」
低く震える声で、ミシェルが言うのに、ライアンが怪訝そうな顔を向ける。ミシェルは強い視線をライアンに向けながら、淡々と言葉を紡いだ。
「自分の中に、新しい命を宿す人に、不安がないわけありません。それは、父親となる人への不安もあるだろうけど、それだけじゃなく、未知への体験の不安や、自分自身への不安もある。最初から、完全に何の憂いもなく、命を育てられる人なんていない」
「…それで?」
「そう言う状態の人に、簡単に堕胎なんて勧めちゃいけないんです、やっぱり。そこで迷いが生じるのは…確かに、色々問題があるからでしょうけど、でも、人として仕方のない弱い部分でもあるんです。一概に、責められない、絶対」
「……」
ミシェルの言葉に、ライアンは僅かに笑みを浮かべながら沈黙した。アレクシスは憮然と瞳を閉じたまま、腕を組んで微動だにしない。
ミシェルは改めて、ライアンを真っ直ぐ見据えた。
「あなたがキュランに堕胎を勧めた真意は問いません。だけど、僕にはそれを阻止する権利がある。義務もある。だから、彼女に勧めた医者を教えてください」
するとライアンは、ぷっと軽く噴出し、けらけらと笑った。その反応に、ミシェルが唖然としていると、ライアンが震えた声で言う。
「あ…あんたら、ナニ、兄弟?」
「は?」
「どーして、レブルックとそっくり同じこと言うわけよ。あーおかしい」
「えっ!?」
がばり、とミシェルがアレクシスを振り返る。アレクシスは忌々しそうにライアンを睨んで、細く舌打った。
「余計なことを」
「あは…なんだよ、今更。それに黴の生えた昔話じゃないか、だぁれも覚えちゃいないよ、あたし以外はね」
「…え、あの、アレクシス長官…?」
「なんだ」
ミシェルの呟きに、アレクシスはわざと真っ向から問い返した。その有無をも言わせない眼差しにまごついていると、その傍らでライアンが言う。
「知りたい? シナモン。この冷酷非道な官房長官の、人には言えない若気のイタリ」
「ライアン」
「ふっふっふ、あんたがまさかこんなネタでうろたえるとはね」
「うろたえる? 馬鹿か、お前は。そんなくだらない話はいつでもいいだろう、今がどんな時か覚えているのか?」
そう言って、アレクシスはミシェルを睨んだ。ミシェルははっとして、ライアンをふり仰ぐ。
ライアンはやれやれと肩を竦めて、ちらりとアレクシスを見やった。
「あんたん時と一緒だよ。ジョゼットは大戦でもくたばらなかった悪運だから、今も荒稼ぎしてるんじゃないの」
「まだ死なないのか、あの業突く爺」
「あんたが行けば、涙流して喜ぶんじゃない?」
「冗談じゃない、二度とごめんだ」
舌打ちをして踵を返すアレクシスを、ミシェルが慌てて追いかける。その後ろ姿に、ライアンが明るい声をかけた。
「シナモン」
「えっ?」
「頑張りな」
にやりと笑う女性医師に、ミシェルは僅かに逡巡してから、力強く頷いた。
「カールヴィン・ジョゼット。その道では知られた権威だったが、何しろ変人。旧王朝時代に定められていた医師法に楯突いて、資格を剥奪された後は、怪しい闇医者として暗躍している爺だ」
足早に回廊を進む途中で、アレクシスが振り返らずに言う。ミシェルはそれについていきながら、一度逡巡した後、あの、と口を開いた。
「長官…あの、長官も、お子さんを」
「知りたいか」
真っ直ぐ視線を前に向けたまま、アレクシスは簡潔に問う。ミシェルはすぐに困惑したように眉根を寄せ、それから素直に頷いた。
「はい」
「…プライバシーの侵害だ」
「いつも、長官がなさっていることです」
「…言うじゃないか」
ちら、と紫紺の瞳を流して、アレクシスは酷薄な笑みを浮かべた。ミシェルはひるみそうになる口元を笑みの形に曲げて、強く上官を見つめる。
進む足は止めずに、アレクシスは囁くように言った。
「昔の話だ。俺の子供を宿した女が、ライアンに診察され、キュランと同じように堕胎の医者を勧められた」
「ど、どうして…そもそも、ライアン医療長は、何故すぐに堕胎なんかを勧めるんです?」
「そういう時代だった」
言って、アレクシスは僅かに歩調を緩めた。すれ違う官僚たちに見咎められぬよう、泰然を装うアレクシスの傍らで、ミシェルが真剣な面持ちを返す。
「あの頃は、アヴェに巨大な鼠が蔓延っていた、最悪な時期でな。俺は、レブルック家でも鼻摘みの異端児だったから、政敵も多くてね。俺だけじゃない、あの時期宰相に逆らおうものなら、一族郎党なぶり殺しだ」
「宰相…シャーカーン…」
すでに遠い、大戦前の悪夢。現在、アヴェを豊かに正しく一途に導いている、正当な王位継承者であった大統領の、家族も、生活も、何もかもを奪った簒奪者。
その頃自分は、何も知らない、何も出来ない子供だった。キスレブとの戦争も膠着状態を保ち、戦渦に巻き込まれると言うことこそなかったけれど、国の中枢は荒れに荒れ、その癒しようもない歪みが、少しづつ少しづつ、アヴェと言う国を蝕んでいた、そんな時期。
その過酷な時に、術中権謀渦巻く王宮内で青春時代を過ごしたアレクシスは、僅かに瞳を細めるようにして、視線を斜めに向ける。そこには、その頃から変わらぬ風情の、美しい中庭が見えた。
「俺は、宰相連中の小汚いやり方に心底嫌気がさしていた。かといって、レブルックの家名を継ぐ身だ。浅慮な行動は一族の滅亡を意味する。そして…許婚の一族の命運もな」
「許婚…」
はっとして、ミシェルが呟いた。
もう、随分昔のことのようだが、ミシェルが初めてアレクシスの内面に踏み込み、彼の知られざる過去を知ってから、二年が経つ。その時、否が応でも耳にした、彼の悲しい顛末。失われた大切な人。
「親同士の決めた、いわゆる政略結婚の相手だったがな。まあこれが…とんでもないじゃじゃ馬でね。おかげでこちらは、青痣の絶えない日々だ」
「えぇっ!? ま、まさか…」
苦笑のようなものを浮かべるアレクシスに、ミシェルが大げさに驚く。現在の、嫌味なほど冷静で、隙のない官僚然としたアレクシスからして、許婚に黙って殴られる図など想像しがたいものがある。
「まさかもなにも…。まあ、キュランの尻に敷かれているお前ほどじゃあなかったがな」
皮肉っぽく笑うアレクシスだったが、ミシェルは口答えをしなかった。軽い言葉や嫌味な態度で隠そうとしつつも、今彼が、初めて自分の過去を、真っ直ぐミシェルに打ち明けようとしていることを、ミシェルも気づいていた。
回廊を曲がりながら、アレクシスは続ける。
「ともかく、そう言う時代、そう言う男の許婚になった気の強い女が、ある日身体に異変を感じた。そして、周りの人間が気づかないうちに、ライアンのところへ行って、診察を受けた」
「気づかなかったんですか?」
僅かに驚いて、ミシェルが目を見張る。今回、キュランの体調不良にすらいち早く気づいていたアレクシスが、自分の許婚の異変に気づかいなどと言うことがあるのだろうか。
するとアレクシスは、いつもの皮肉な笑みを返しながら答えた。
「ああ、気づかなかった。何しろその時は、宰相が討たれ、アヴェの中枢は麻のように乱れていたからな。こんな反抗的な男でも、政治力は買われていたから、その頃の俺は昼も夜もない繁忙ぶりだった」
宰相が討たれた。記憶に新しいその革命的な報せは、確か、あの忌まわしい惨劇の、僅か数週間前だった…。
ミシェルが暗い瞳を向けると、アレクシスは真っ直ぐ前を見据えながら表情を変えずに続ける。
「仕事に忙殺されていた俺に、あいつはなにも言わなかった。あれだけ歯に衣着せない生意気な女が…一人で、全てを決めたんだ」
「そ、それってまさか…」
「ライアンの勧めに従って、ジョゼットのところへ堕ろしに行った」
「どうして!? 許婚なら…結婚を前提としている二人に子供が出来て、何の問題が…」
声を張り上げたミシェルに、アレクシスはことさら低く囁く。
「問題は時代だ。あの頃のアヴェは、お前も知っての通り滅茶苦茶だった。それに加えて、俺はこんな性格で、誰にどう恨みを買ってるかわからん男だ。子供ができたことで、事態が悪い方へ転がらないと言い切れない」
「そんな…」
「…と、あの馬鹿な女は本気で考えていたようだな」
ふ、とアレクシスの口調が物柔らかになった。紫紺の瞳は細められ、まるでその視線の先に、在りし日の婚約者の姿を捉えるように、ゆっくりと息をつき、続ける。
「女は浅はかだな、シナモン。浅はかに、恐ろしいことを平気でしようとする。目が離せたものじゃない」
「そ…それで…長官の、子供は…」
恐る恐るミシェルが問い掛けると、アレクシスはぴたりと歩を止めて、くるりとミシェルを振り返った。
「シナモン、お前、ジョゼットのところでキュランを捕まえたら、どうするつもりだ?」
「えっ?」
唐突に聞かれて、ミシェルは目を白黒させた。それから細い眉を寄せ、それは…と口篭もる。
もし、キュランが本当に、子供を堕ろそうとしていたら…僕は、なにをどうすべきなんだろう。ふと浮かんだ疑問に、ミシェルは沈黙するしかなかった。
気持ちは、先へ先へと逸っている。まずは、キュランを捕まえて、馬鹿な真似はやめさせて、それから…? それからどうする。
キュランがどうして、自分達の子供を堕ろそうとしたのか。自分はどうして、キュランに子供を産ませたいのか。子供が生まれることで、自分達はどうなるのか。
考えているうちに解らなくなって、ミシェルは考えるのをやめた。その代わり、多分、キュランの姿を見た瞬間、自分が間違いなく起こすであろう行動を確信して、口を開く。
「抱きしめます」
それだけは、間違いない。そう、堂々と答えたミシェルに、アレクシスは一瞬沈黙し、それからはあ、と溜息をついた。
「…シナモン」
「はい」
「認めたくはないが、俺とお前は確かに兄弟だ」
「は?」
意味不明な呟きに、ミシェルが混乱しているのをよそに、アレクシスは立ち止まった先の扉を叩いた。
「失礼。バイクを貸してくれ」
「あ、レブルック長官、お疲れ様です」
車両管理室の担当が、突如表れた上官に敬礼を返す。手渡された鍵に礼を言うと、アレクシスはさっと部屋を出た。その場に立ち尽くしていたミシェルに、ちゃり、と軽い音を立てて鍵を投げる。
「ジョゼットのあばら家は、大戦前と変わらなければ、東の外れだ。先月、現存保護法に新たに加えられた区画があるだろう。あのブロックの、一番北、日の当たらない道の先だ」
「あ…ありがとうございますっ!」
鍵を受け取り、取って返したミシェルの背中に、アレクシスが声をかける。
「ジョゼットに会ったら言っておけ。どうせ商売するなら、得意な方にしてくれと」
「え?」
「あいつはあれで、妊婦の健康管理にかけては一流だ」
ちらりと笑って、アレクシスは踵を返した。片手をしなやかに上げて合図する彼に、ミシェルは深々と頭を下げて、再び走り出す。
回廊を抜け、長い階段を下り切り、再び回廊を駆ける。その間、何人もの官僚たちをやり過ごしながら、ミシェルは一心に、キュランの顔を思い浮かべていた。
会ってまず、何を言おう。何を語り、何を願い、何をすべきか。
考えたところで、やっぱり結論は出ない。だからあれこれ思うのはやめて、とにかく顔を見て、この腕に抱き、その体温を実感することだけを念じて、ひたすら走った。
そんなミシェルに、その時、吹き抜けの回廊の対岸から、甲高い声がかかった。
「ミシェル!」
切り裂くような勢いに、ミシェルがはっと顔を向けると、そちらに立っていたのは、黒髪の美少女。幼い顔に真剣な表情を浮かべ、淑女らしからぬ勢いでこちらに駆け寄ってくる。
シャンティの剣幕に、思わずミシェルは足を止めていた。
「シャンティ、どうしたの!?」
「どうしたの、じゃ、ないわよっ! ミシェル、あなたキュランに何を言ったの!?」
「キュラン!? キュランがどうしたの!? シャンティ、君はキュウの居所を知っているの!? 今彼女はどこに!?」
食って掛かったシャンティに、ミシェルが逆に詰め寄る。彼女の薄い肩を掴んで、語気を荒げるミシェルに、シャンティはその大きな猫目を見開いて、それからなお興奮したように怒鳴った。
「どこにって、決まってるでしょ! 大教母様のところよっ」
「へっ…? ど、どういうこと??」
唖然としたミシェルに、シャンティは涙さえ浮かべて、彼の胸を叩いた。
「キュランはシスターよ、全てを大教母様に報告する義務があるわ…っ、とにかく、あの子を止めてっ! 早くしないと、手遅れになっちゃう…っ」
「手遅れ…? じゃあ、やっぱりキュウは!」
吼えて、ミシェルはばっとシャンティから離れた。そのまま踵を返す彼に、シャンティが再び怒鳴る。
「大教母様は、今、大統領とご一緒に別館の私室にいらっしゃるわ! とにかく絶対、キュランを止めてよ!」
「わかってる!」
答えながらも、ミシェルの足は弾丸のように、別館への道を目指していた。
何百年と言う歴史を誇る旧王宮は、陰惨な大戦を経てなお堂々たる威風を誇り、それはアヴェが他国より先んじて復興を遂げた要因の一つでもあった。人々はアヴェの未来を、その頑健な宮殿に見ることで、悲惨な現実を手を取り合って乗り越えている。
そんな旧王城であるが、もちろんそもそもの敷地は広い。砂漠の楼閣であるから、外見は若干威圧的で、無骨な印象は否めないが、一歩中に足を踏み入れると、精緻な細工の施された趣味の良い建築美と、時代に沿って手を加えられた近代的な部分とが、不思議な調和で広がっている。
一時期は、その本来の主たる一族より一切を簒奪した下賎の者たちに蹂躙され、王宮本来の威厳も美しさも絶えて失われたかと人々が嘆いたことが嘘のように、再び荘厳な美観を取り戻したその宮殿内を、いま険しい表情でひた歩く二人の青年がいた。
「ア、アレ…アレクシス長官! どちらへ?」
颯爽とした足取りで、風を切って歩く後ろ姿に、ミシェルは上ずった声で問い掛けた。
ミシェルとしては、一刻も早くキュランを捜したくて気も狂わんばかりなのだが、アレクシスはただ黙ってついて来い、の一点張りで、広大な広さを誇る建物を突き進んでいる。
「アレク長官! 僕は、一刻も早く行かなくてはならないんですよっ!」
焦りと苛立ちで、刺々しい声を上げるミシェルに、アレクシスは立ち止まらずに返した。
「ほう。どこに行くって?」
「だから! キュランのところへ…」
「彼女が今、どこにいるのか知っているのか?」
「それは…っ、でも、だから早く捜さないとっ」
「物事にはな、小僧。手順と言うものがあるんだ」
「っ」
不意に、アレクシスが立ち止まる。ミシェルは慌ててそれに倣い、アレクシスの背にぶつかる寸前でなんとか停止した。アレクシスはにこりともしない無表情のまま、ミシェルを振り返る。
「キュランを捜すと言って、何をどう捜す? お前の鈍足でアヴェ中を走り回ったあげく、見つけた時にはもう手遅れでした、じゃ洒落にならんだろう」
「て、手遅れ…って」
「お前の遺伝子がこの世に伝わるかどうかは、今のお前の判断にかかってるんだ。自覚しろ、馬鹿が」
アレクシスの言葉に、ミシェルは呆然と押し黙った。
混乱している風の歳若い彼を尻目に、アレクシスは立ち止まった先の扉を軽く殴打する。中から気だるい返答が返って来て、ためらいなく扉を開く彼を追い、ミシェルも慌ててそれに倣った。
「邪魔するぞ、藪医者」
「…非番だよ、おととい来な、洟垂れ」
薄暗い室内から、うっそりと不機嫌な声が返る。その段に至って、ようやくミシェルは、そこが医療班の休憩室であることに気づいた。
部屋の隅にあるソファに、両手両足を投げ出して、ぐったりと横になっていた白衣の女性が、皺っぽい目元を細めてこちらを眺める。
「おやま。シナモン補佐官までどうした? 今日はシスターヒューイットは担ぎこまれてないはずだよ」
「医療長…」
相変わらず人を喰ったような言葉に、先日の醜態を思い出してミシェルが赤くなる。アレクシスはさっさと部屋を横断し、医療長の横たわるソファの傍らに立った。
「ライアン、シスターヒューイットはどこだ」
「あん?」
きょとんと目を丸くして、医療長リィ・ライアンが身を起こす。赤茶けた癖の強い髪をばさりとかきあげて、珍妙な動物でも見るように、アレクシスを眺めた。
「何の話だよ?」
「どの医者を、シスターに勧めたのか聞いてる」
冷静なアレクシスの問いに、ライアンはことりと首を傾げた。彼らの後ろで、ミシェルは事の成り行きが解らずに、ただまんじりともしない思いで沈黙している。
「だから、何の話だってのよレブルック。意味がわかんないね」
「とぼけるな。妊娠を知った女にお前がまず勧めるのは、堕胎を得手とする闇医者だろうが」
「!?」
アレクシスの言葉に、ミシェルが愕然と目を見開いた。ソファの上では、ライアンが顔色も変えずにのんびりと欠伸をしている。気づいた時、ミシェルは彼女につめよるように歩を進めていた。
「それ、本当ですか、医療長!? 何で…どうしてそんなことっ!」
怒鳴るミシェルをつらりと眺めて、ライアンはソファから立ち上がった。長身の彼女は、そうするとミシェルとほぼ同じ目線になる。歳のわりには皺っぽい目元を細めて、ライアンはつい、と人差し指をミシェルの胸に突き当てた。
「どうして? 理由は簡単さ。産んで不幸になる女を減らすため」
「なっ…」
「不幸な女の末路は悲惨だよね。でももっと悲惨なのは、そんな女が産んだ子供だ。ひとつの命がふたつになっても、不幸はその何倍も膨れ上がる。複雑な掛け算だね」
白衣のポケットに手を突っ込んで、医療長は気だるげに笑った。絶句するミシェルの背後で、アレクシスが冷たい視線を投げる。
「幸せになるか不幸になるか、それを決めるのはお前じゃない、思い上がるなライアン」
「そうだよ。だからあたしは強制はしない。こういう方法もあるよ、不幸は免れるんだよって事を教えてあげるだけ」
に、とかさついた唇を曲げるライアンに、ミシェルは激しい憤りをぶつけるように拳を握った。
「キュランは、絶対不幸になんかさせない! お腹の子だって、僕の子だ! 必ず幸せにしてみせる!!」
叫ぶミシェルを眩しそうに見やって、ライアンは笑った。
「うん、いいんじゃない、それで。あんたががんばりゃいいってことだよ」
「え?」
晴れ晴れとしたライアンの表情に、ミシェルは毒気を抜かれたようにきょとんとした。子供っぽい彼の表情を面白そうに眺めて、ライアンはわざとらしく眉根を寄せる。
「だからさ、別にあたしは、世の中の子供はすべからく堕ろされりゃーいいとか思ってるわけじゃないって。なんだかねー、言い方ってあるじゃん、レブルック。あんた問題だよ、ホント」
ライアンの言葉に、アレクシスはぴくりとも表情を変えずに沈黙する。腕を組み、憮然とした面持ちでいる彼に、ライアンは大仰に肩を竦めた。
「やだねー。大昔の事をまだ根に持ってんの。肝っ玉の小さい男だ」
「根になどもっていないし、事実お前は堕胎を勧めるだろう」
「だからさ、一つの方法論として、言うこた言うよ。そこでホントに堕胎を決めるかどうかは、そいつらの問題だ。レブルック、あんたらみたいにね」
「え?」
驚いて、ミシェルは思わずアレクシスを振り返る。アレクシスは黙って腕を組んだまま、その視線を撥ね付けるように、冷たくライアンを見据えた。
「それで、キュランにはどこの医者を勧めたんだ」
「何で? もしかして、ヒューイット行っちゃったの? そこに?」
そう言って、ライアンは心底呆れたようにミシェルを見やる。
「あんた何やってんの、シナモン。子供要らないの?」
「なっ…そんなわけないでしょう!! 大体、元はと言えばあん、あなたが、キュウに余計なこと…」
「シナモン、堂々巡りだ。何を言ってもこの女には通じない」
冷たく言い放つアレクシスに、ライアンはぴくり、と眉を上げる。
「ちょっと、言うねえ。大体、女に一度だって堕胎を考えさせるような甲斐性無しに、何だかんだ言われたかないよ。男がしっかり女を見てりゃ、こんなことにはならないんだ。自分の監督不行き届きを棚に上げて、医者に説教するなんざ十年早いよ、洟垂れ」
その言葉に、アレクシスの瞳が始めて揺らいだ。静かな怒りを湛える彼の眼差しの先で、ライアンも敢然と立ち向かう。
その間隙を縫って、ミシェルがはっきりと言い放った。
「誰だって不安ですよ、医療長」
「ん?」
低く震える声で、ミシェルが言うのに、ライアンが怪訝そうな顔を向ける。ミシェルは強い視線をライアンに向けながら、淡々と言葉を紡いだ。
「自分の中に、新しい命を宿す人に、不安がないわけありません。それは、父親となる人への不安もあるだろうけど、それだけじゃなく、未知への体験の不安や、自分自身への不安もある。最初から、完全に何の憂いもなく、命を育てられる人なんていない」
「…それで?」
「そう言う状態の人に、簡単に堕胎なんて勧めちゃいけないんです、やっぱり。そこで迷いが生じるのは…確かに、色々問題があるからでしょうけど、でも、人として仕方のない弱い部分でもあるんです。一概に、責められない、絶対」
「……」
ミシェルの言葉に、ライアンは僅かに笑みを浮かべながら沈黙した。アレクシスは憮然と瞳を閉じたまま、腕を組んで微動だにしない。
ミシェルは改めて、ライアンを真っ直ぐ見据えた。
「あなたがキュランに堕胎を勧めた真意は問いません。だけど、僕にはそれを阻止する権利がある。義務もある。だから、彼女に勧めた医者を教えてください」
するとライアンは、ぷっと軽く噴出し、けらけらと笑った。その反応に、ミシェルが唖然としていると、ライアンが震えた声で言う。
「あ…あんたら、ナニ、兄弟?」
「は?」
「どーして、レブルックとそっくり同じこと言うわけよ。あーおかしい」
「えっ!?」
がばり、とミシェルがアレクシスを振り返る。アレクシスは忌々しそうにライアンを睨んで、細く舌打った。
「余計なことを」
「あは…なんだよ、今更。それに黴の生えた昔話じゃないか、だぁれも覚えちゃいないよ、あたし以外はね」
「…え、あの、アレクシス長官…?」
「なんだ」
ミシェルの呟きに、アレクシスはわざと真っ向から問い返した。その有無をも言わせない眼差しにまごついていると、その傍らでライアンが言う。
「知りたい? シナモン。この冷酷非道な官房長官の、人には言えない若気のイタリ」
「ライアン」
「ふっふっふ、あんたがまさかこんなネタでうろたえるとはね」
「うろたえる? 馬鹿か、お前は。そんなくだらない話はいつでもいいだろう、今がどんな時か覚えているのか?」
そう言って、アレクシスはミシェルを睨んだ。ミシェルははっとして、ライアンをふり仰ぐ。
ライアンはやれやれと肩を竦めて、ちらりとアレクシスを見やった。
「あんたん時と一緒だよ。ジョゼットは大戦でもくたばらなかった悪運だから、今も荒稼ぎしてるんじゃないの」
「まだ死なないのか、あの業突く爺」
「あんたが行けば、涙流して喜ぶんじゃない?」
「冗談じゃない、二度とごめんだ」
舌打ちをして踵を返すアレクシスを、ミシェルが慌てて追いかける。その後ろ姿に、ライアンが明るい声をかけた。
「シナモン」
「えっ?」
「頑張りな」
にやりと笑う女性医師に、ミシェルは僅かに逡巡してから、力強く頷いた。
「カールヴィン・ジョゼット。その道では知られた権威だったが、何しろ変人。旧王朝時代に定められていた医師法に楯突いて、資格を剥奪された後は、怪しい闇医者として暗躍している爺だ」
足早に回廊を進む途中で、アレクシスが振り返らずに言う。ミシェルはそれについていきながら、一度逡巡した後、あの、と口を開いた。
「長官…あの、長官も、お子さんを」
「知りたいか」
真っ直ぐ視線を前に向けたまま、アレクシスは簡潔に問う。ミシェルはすぐに困惑したように眉根を寄せ、それから素直に頷いた。
「はい」
「…プライバシーの侵害だ」
「いつも、長官がなさっていることです」
「…言うじゃないか」
ちら、と紫紺の瞳を流して、アレクシスは酷薄な笑みを浮かべた。ミシェルはひるみそうになる口元を笑みの形に曲げて、強く上官を見つめる。
進む足は止めずに、アレクシスは囁くように言った。
「昔の話だ。俺の子供を宿した女が、ライアンに診察され、キュランと同じように堕胎の医者を勧められた」
「ど、どうして…そもそも、ライアン医療長は、何故すぐに堕胎なんかを勧めるんです?」
「そういう時代だった」
言って、アレクシスは僅かに歩調を緩めた。すれ違う官僚たちに見咎められぬよう、泰然を装うアレクシスの傍らで、ミシェルが真剣な面持ちを返す。
「あの頃は、アヴェに巨大な鼠が蔓延っていた、最悪な時期でな。俺は、レブルック家でも鼻摘みの異端児だったから、政敵も多くてね。俺だけじゃない、あの時期宰相に逆らおうものなら、一族郎党なぶり殺しだ」
「宰相…シャーカーン…」
すでに遠い、大戦前の悪夢。現在、アヴェを豊かに正しく一途に導いている、正当な王位継承者であった大統領の、家族も、生活も、何もかもを奪った簒奪者。
その頃自分は、何も知らない、何も出来ない子供だった。キスレブとの戦争も膠着状態を保ち、戦渦に巻き込まれると言うことこそなかったけれど、国の中枢は荒れに荒れ、その癒しようもない歪みが、少しづつ少しづつ、アヴェと言う国を蝕んでいた、そんな時期。
その過酷な時に、術中権謀渦巻く王宮内で青春時代を過ごしたアレクシスは、僅かに瞳を細めるようにして、視線を斜めに向ける。そこには、その頃から変わらぬ風情の、美しい中庭が見えた。
「俺は、宰相連中の小汚いやり方に心底嫌気がさしていた。かといって、レブルックの家名を継ぐ身だ。浅慮な行動は一族の滅亡を意味する。そして…許婚の一族の命運もな」
「許婚…」
はっとして、ミシェルが呟いた。
もう、随分昔のことのようだが、ミシェルが初めてアレクシスの内面に踏み込み、彼の知られざる過去を知ってから、二年が経つ。その時、否が応でも耳にした、彼の悲しい顛末。失われた大切な人。
「親同士の決めた、いわゆる政略結婚の相手だったがな。まあこれが…とんでもないじゃじゃ馬でね。おかげでこちらは、青痣の絶えない日々だ」
「えぇっ!? ま、まさか…」
苦笑のようなものを浮かべるアレクシスに、ミシェルが大げさに驚く。現在の、嫌味なほど冷静で、隙のない官僚然としたアレクシスからして、許婚に黙って殴られる図など想像しがたいものがある。
「まさかもなにも…。まあ、キュランの尻に敷かれているお前ほどじゃあなかったがな」
皮肉っぽく笑うアレクシスだったが、ミシェルは口答えをしなかった。軽い言葉や嫌味な態度で隠そうとしつつも、今彼が、初めて自分の過去を、真っ直ぐミシェルに打ち明けようとしていることを、ミシェルも気づいていた。
回廊を曲がりながら、アレクシスは続ける。
「ともかく、そう言う時代、そう言う男の許婚になった気の強い女が、ある日身体に異変を感じた。そして、周りの人間が気づかないうちに、ライアンのところへ行って、診察を受けた」
「気づかなかったんですか?」
僅かに驚いて、ミシェルが目を見張る。今回、キュランの体調不良にすらいち早く気づいていたアレクシスが、自分の許婚の異変に気づかいなどと言うことがあるのだろうか。
するとアレクシスは、いつもの皮肉な笑みを返しながら答えた。
「ああ、気づかなかった。何しろその時は、宰相が討たれ、アヴェの中枢は麻のように乱れていたからな。こんな反抗的な男でも、政治力は買われていたから、その頃の俺は昼も夜もない繁忙ぶりだった」
宰相が討たれた。記憶に新しいその革命的な報せは、確か、あの忌まわしい惨劇の、僅か数週間前だった…。
ミシェルが暗い瞳を向けると、アレクシスは真っ直ぐ前を見据えながら表情を変えずに続ける。
「仕事に忙殺されていた俺に、あいつはなにも言わなかった。あれだけ歯に衣着せない生意気な女が…一人で、全てを決めたんだ」
「そ、それってまさか…」
「ライアンの勧めに従って、ジョゼットのところへ堕ろしに行った」
「どうして!? 許婚なら…結婚を前提としている二人に子供が出来て、何の問題が…」
声を張り上げたミシェルに、アレクシスはことさら低く囁く。
「問題は時代だ。あの頃のアヴェは、お前も知っての通り滅茶苦茶だった。それに加えて、俺はこんな性格で、誰にどう恨みを買ってるかわからん男だ。子供ができたことで、事態が悪い方へ転がらないと言い切れない」
「そんな…」
「…と、あの馬鹿な女は本気で考えていたようだな」
ふ、とアレクシスの口調が物柔らかになった。紫紺の瞳は細められ、まるでその視線の先に、在りし日の婚約者の姿を捉えるように、ゆっくりと息をつき、続ける。
「女は浅はかだな、シナモン。浅はかに、恐ろしいことを平気でしようとする。目が離せたものじゃない」
「そ…それで…長官の、子供は…」
恐る恐るミシェルが問い掛けると、アレクシスはぴたりと歩を止めて、くるりとミシェルを振り返った。
「シナモン、お前、ジョゼットのところでキュランを捕まえたら、どうするつもりだ?」
「えっ?」
唐突に聞かれて、ミシェルは目を白黒させた。それから細い眉を寄せ、それは…と口篭もる。
もし、キュランが本当に、子供を堕ろそうとしていたら…僕は、なにをどうすべきなんだろう。ふと浮かんだ疑問に、ミシェルは沈黙するしかなかった。
気持ちは、先へ先へと逸っている。まずは、キュランを捕まえて、馬鹿な真似はやめさせて、それから…? それからどうする。
キュランがどうして、自分達の子供を堕ろそうとしたのか。自分はどうして、キュランに子供を産ませたいのか。子供が生まれることで、自分達はどうなるのか。
考えているうちに解らなくなって、ミシェルは考えるのをやめた。その代わり、多分、キュランの姿を見た瞬間、自分が間違いなく起こすであろう行動を確信して、口を開く。
「抱きしめます」
それだけは、間違いない。そう、堂々と答えたミシェルに、アレクシスは一瞬沈黙し、それからはあ、と溜息をついた。
「…シナモン」
「はい」
「認めたくはないが、俺とお前は確かに兄弟だ」
「は?」
意味不明な呟きに、ミシェルが混乱しているのをよそに、アレクシスは立ち止まった先の扉を叩いた。
「失礼。バイクを貸してくれ」
「あ、レブルック長官、お疲れ様です」
車両管理室の担当が、突如表れた上官に敬礼を返す。手渡された鍵に礼を言うと、アレクシスはさっと部屋を出た。その場に立ち尽くしていたミシェルに、ちゃり、と軽い音を立てて鍵を投げる。
「ジョゼットのあばら家は、大戦前と変わらなければ、東の外れだ。先月、現存保護法に新たに加えられた区画があるだろう。あのブロックの、一番北、日の当たらない道の先だ」
「あ…ありがとうございますっ!」
鍵を受け取り、取って返したミシェルの背中に、アレクシスが声をかける。
「ジョゼットに会ったら言っておけ。どうせ商売するなら、得意な方にしてくれと」
「え?」
「あいつはあれで、妊婦の健康管理にかけては一流だ」
ちらりと笑って、アレクシスは踵を返した。片手をしなやかに上げて合図する彼に、ミシェルは深々と頭を下げて、再び走り出す。
回廊を抜け、長い階段を下り切り、再び回廊を駆ける。その間、何人もの官僚たちをやり過ごしながら、ミシェルは一心に、キュランの顔を思い浮かべていた。
会ってまず、何を言おう。何を語り、何を願い、何をすべきか。
考えたところで、やっぱり結論は出ない。だからあれこれ思うのはやめて、とにかく顔を見て、この腕に抱き、その体温を実感することだけを念じて、ひたすら走った。
そんなミシェルに、その時、吹き抜けの回廊の対岸から、甲高い声がかかった。
「ミシェル!」
切り裂くような勢いに、ミシェルがはっと顔を向けると、そちらに立っていたのは、黒髪の美少女。幼い顔に真剣な表情を浮かべ、淑女らしからぬ勢いでこちらに駆け寄ってくる。
シャンティの剣幕に、思わずミシェルは足を止めていた。
「シャンティ、どうしたの!?」
「どうしたの、じゃ、ないわよっ! ミシェル、あなたキュランに何を言ったの!?」
「キュラン!? キュランがどうしたの!? シャンティ、君はキュウの居所を知っているの!? 今彼女はどこに!?」
食って掛かったシャンティに、ミシェルが逆に詰め寄る。彼女の薄い肩を掴んで、語気を荒げるミシェルに、シャンティはその大きな猫目を見開いて、それからなお興奮したように怒鳴った。
「どこにって、決まってるでしょ! 大教母様のところよっ」
「へっ…? ど、どういうこと??」
唖然としたミシェルに、シャンティは涙さえ浮かべて、彼の胸を叩いた。
「キュランはシスターよ、全てを大教母様に報告する義務があるわ…っ、とにかく、あの子を止めてっ! 早くしないと、手遅れになっちゃう…っ」
「手遅れ…? じゃあ、やっぱりキュウは!」
吼えて、ミシェルはばっとシャンティから離れた。そのまま踵を返す彼に、シャンティが再び怒鳴る。
「大教母様は、今、大統領とご一緒に別館の私室にいらっしゃるわ! とにかく絶対、キュランを止めてよ!」
「わかってる!」
答えながらも、ミシェルの足は弾丸のように、別館への道を目指していた。