MAY I ASK A FAVOR OF YOU?

 地に足がつかないような気分とは、このことだ。ミシェルは頭のどこかで冷静に、そんなことを考えながら、大統領官邸の良く磨かれた回廊を歩いていた。
 大統領の執務室から退出し、落ち着いて考える時間を与えられると、次に浮かぶのはキュランの顔。
 そんなことを言ったら、公私混同するなと、また叱られるかもしれないが、ミシェルにとっては、自分の将来に関することは、全てキュランに繋がっているのだ。
 キスレブに、少なくとも三年も出向することを告げたら、自分達の関係は、大なり小なり変化するだろう。それを思うと何となく、面映いような気になる。
 幼い頃別れて、二年前再会して、今日までつかず離れずやってきた。今更数年離れたところで、自分達の気持ちは変わらない。それだけは確信があった。
 だから、この別離が自分達にもたらすものは、より一層の絆。もしくは、言葉と気持ち以上の確かな繋がり…。
「…婚約、か」
 ぽつりと呟いて、ミシェルは石柱にもたれた。大窓から一望できる中庭の光景に、しみじみと目を細める。
 自分達の未来に、結婚と言うビジョンは確かにあった。互いに改めて口にはしていないが、もう少し、アヴェとニサンが落ち着き、自分達も身辺整理がついたら…と、ミシェルは漠然と考えていた。
 幼馴染として生まれ、再会して後も、恋人らしい甘やかな雰囲気とはあまり縁のない、姉弟のように近しい立場で過ごしてきた手前、それはひどく今更のような気がして照れ臭いのだが、同時に心底幸せな気分になる。
 キスレブで三年間、自分の官僚としての才覚を磨き、またアヴェへ戻って来る頃。その時はきっと、誰にも文句は言わせない、キュランに相応しい男になっている自信がある。
 だから、三年後の自分の隣に立って欲しいと、今夜はっきり告げよう。
 ミシェルはようよう自分の気持ちを整理して、硬く拳を握り締めた。
 そうと決まれば話は早い。そろそろ業務終了の時間でもあるし、久しぶりにキュランとゆっくり過ごすべく、約束は取り付けてある。アヴェで最近評判のいい、海鮮料理を扱うレストランに予約も入れた。逸る気持ちを抑えつつ、ミシェルは足早に、残務処理のために自分にあてがわれている執務室へ向かった。
 途中、その部屋から出てくるナシュカを発見して、声をかける。
「あ、ナシュカ。何か用だったかい?」
 相変わらず表情の乏しい美少年じみた部下の顔を見ながら、ミシェルは頭の中で幾通りものパターンを組み立てた。今日だけは、どんなに切羽詰った仕事だろうとも一切断り、さっさと退邸すると決めている。
 けれど物憂いアイスブルーの瞳は、ただ冷静に、事実だけを告げた。
「先程から、シスターヒューイットがお待ちです」
「えっ?! …あ、そう。じゃあ、君はもういいよ、お疲れさま」
 一瞬、あからさまに嬉しい顔をしておいてから、しかつめらしく言い置くミシェルに、ナシュカは卒のない礼を返して、すれ違いざまに呟く。
「…ご健闘をお祈りいたします」
「え?」
「いえ、失礼いたします」
 そのまま振り返りもせず歩き去るナシュカに二秒ほど視線を向けてから、ミシェルはさっさと気持ちを切り替えた。足早に執務室の扉へ向かい、勢いよくそれを開け放つ。
「キュラン! ごめんね、待たせたかな」
 すると、室内の簡素なソファに落ち着いていたキュランが、恐らくナシュカに供されたのだろうティーカップを傾けつつ、やや驚いたような顔でこちらを仰いだ。
「待たせた…って、別にあたしがここに来るって、知らなかったでしょ?」
「そうだけどね。で、どうしたの? 官邸から一緒に街に出るの、嫌がってたのに」
 今用意するから、ちょっと待ってて、と言いながら忙しなく執務机に向かうミシェルに、キュランが落ち着いた声を返す。
「…あのね、ミシェル。ちょっと話があるんだけど…」
「ん?」
 キュランの言葉に、ミシェルがきょとんと振り返る。僧服から私服に着替え、長いブロンズ・グレイの髪も素直に下ろしているキュランの様子が、どことなく気落ちしている風に見えて、ミシェルは訝しげに眉を寄せた。
「どうかしたの…?」
「…うん、ちょっと…」
 いつになく歯切れの悪いキュランに、ミシェルはますます小首を傾げた。それからはっとしたように、目を見開く。
「何、もしかしてまた、具合が悪くなったとか…!?」
 慌ててソファに駆け寄り、キュランの傍らに膝をついたミシェルが、そっとその頬に触れる。柔らかな体温に、特に異常は感じられなかったが、すぐ近くにある顔色が、余り冴えないような気がした。
「無理しないで、今日は寮に帰ろうか? 食事なら、またいつだってできるんだし…」
「…ううん、具合は悪くない…」
 答えながらも、自分の頬に添えられたミシェルの手に恐る恐る手を重ね、キュランが瞳を伏せた。彼女らしからぬ殊勝な様子に、思わずミシェルの頬に朱が走る。
「…ね、ホントにどうしたの? 元気ないね…」
 労わるように、そう言って下から覗き込むと、キュランの深緑の瞳がゆっくり開いた。真っ直ぐに視線が合うと、本当に今更のことながら、自分の恋人はなんて綺麗な人なんだろうと、ミシェルはわけもなく狼狽する。
「あ…そう、そうだ。僕も、キュウに話があったんだよ」
「話?」
 少し慌てて話題を変えなければ、久しぶりに会う恋人に、思いの丈を押し付けてしまいそうな気がして、ミシェルはわざと力をこめてそう言って、素早くキュランの隣に座る。キュランは不思議そうにこちらを仰ぎ、小首を傾げた。
「なに?」
「あー…うん。えぇと…あ、キュウからどうぞ?」
 元気よく言ったはいいが、何をどう切り出すかまだ決めかねていたので、曖昧に笑いながらキュランを促す。するとキュランは、少し考えるようにしてから、決然と首を振った。
「そっちの話を先にして。察するに、何かいいこと?」
「いいことって言うか…う~ん…多分、ね」
「じゃあ、そっちから聞きたい」
「何でさ。キュウの話はいいの?」
「うん。…いい話を聞いてからにする」
 その言葉に、ミシェルはなにやら不安を煽られたが、すぐ傍らに座るキュランが、変わらずこちらを見つめていることに勇気付けられて、あのね、と口を開いた。
「実は…さっき、大統領に呼ばれたんだ」
「ああ、あんたの部下に聞いたわ。あの子、良い子ね。若いのにしっかりしてるし」
「ナシュカ? うん、かなり有能だよ。アレク長官も目をかけててね、将来的には官房に引き抜かれるんじゃないかな」
「へえ…それで?」
「え? あー…、それで、ね。実は、出向命令が出たんだ」
「出向命令?」
 ミシェルの言葉に、キュランが鸚鵡返しに呟く。ミシェルは一旦言葉を区切り、それから身体を捻らせて、隣に座るキュランを真正面に見据えた。そのまま、彼女の膝にあった柔らかな手をぎゅっと握り、真剣な表情で双眸を覗き込む。
「うん。実は、キスレブに三年、出向してみないかって言われた」
「…キスレブ…?」
「恐らく、先ごろキスレブで新開発された燃料を巡っての、外交的な分野を任されると思う」
「……」
「僕としては、アヴェでまだまだ学びたいことはあるけど…大統領が、行けと仰るなら、行こうと思う。それで…それでね、キュウ…」
 ひとつ、言葉を区切り、ミシェルはさらに言葉を募ろうと、キュランの手をぎゅっと握った。
「三年経ったら…僕が、アヴェに帰ってきたら、その、必ず出世して、君に相応しい男になって戻ってくるって、約束する。だから、その時は、僕と」
 結婚、の、けの字も言わないうちに、キュランの手が無情にも、ミシェルのそれを振り払った。
 唖然としたミシェルの眼前で、キュランが俯いている。心なしか、その細い肩が震えているような気がして、ミシェルは恐る恐る、恋人を窺った。
「キュウ…?」
「…そっか…。良かったね、ミシェル」
 ぱっと顔を上げて、キュランが笑った。その鮮やかな表情に、ミシェルがほっとする。けれど、拭えない違和感が付きまとった。キュランはどうして、笑っているのに泣きそうなのだろう。
「ありがとう。それで、ここからが本題なんだ、キュラン。その、三年後、僕がアヴェに帰ってきたら、僕と、…僕と、結婚、してほしい」
 声音を震わせないよう、ゆっくりと言い切ったミシェルに、キュランは一瞬大きく瞳を開いて硬直した。そのまま、沈黙が流れる。
 真剣な表情のミシェルの眼前で、キュランの唇が僅かに震え、それから小さく答えが返った。
「…ごめんなさい…」
「…へ?」
 瞬間、ミシェルの思考が真っ白になる。完全に虚を突かれたような彼の視線から逃げるように、キュランは急いで立ち上がった。
「…ごめんね、ミシェル。今日は…帰るわ」
「あ…あの、キュラン? …あ…」
 呆然としているミシェルが、言葉を返せずにいるうちに、キュランは颯爽と踵を返して、扉に向かう。そのすらりとした後ろ姿に手を伸ばしかけ、ミシェルは彼女のはっきりとした返答に胸を塞いだ。
 ごめんなさい。
 ミシェルの足を止め声を奪う、これ以上の呪文があるだろうか。
 硬直したミシェルの視界で、扉が静かに閉められた。微かに残る、キュランの愛用している香りが鼻腔をくすぐり、今ここにいた彼女が、夢幻ではないことをはっきりと伝える。
 いっそ夢や幻ならば、どんなにかよかったろう。ミシェルは痺れるような思考の隅でそんなことを考えながら、とっぷりと日が暮れるまで、その場を動くことが出来なかった。



 翌日。透き通る清水のように爽やかな雰囲気のナシュカが、いつものように定刻時きっかりにミシェルの執務室を訪れると、泥のような顔色と、今にも死にそうなほど悲壮な表情の青年が、一睡もしていませんと言う風情で彼女を出迎えた。
「おはようございます、シナモン補佐官」
 それでも、ナシュカは何の感慨も見せることなくきびきびと動く。執務机に身を預けるミシェルの傍らまで寄ると、手にした資料を数枚めくった。
「本日の予定は、昨日に引き続いての式典残務処理になりますが、なにか特筆事項はありますか」
「…ねえ、ナシュカ…」
「はい」
「…ごめんなさいって、どういう意味だと思う?」
 椅子に深く体重を預け、どこか遠くを見るような視線を執務机の端に向けながら、ミシェルが茫洋と問い掛ける。ナシュカは一瞬沈黙し、それから涼しげなアイスブルーの目元を僅かに細めた。
「謝罪の意味であると思われます。もしくは、否定」
「…否定…」
「相手の要求に応えられない場合の常套句でもあります」
「………」
 押し黙ったミシェルに、ナシュカがほんの僅か、苦笑じみたものを浮かべる。表情に乏しい彼女のその珍しい変化を、けれど自分のことでいっぱいいっぱいのミシェルが気づくことはなかった。
「…先日、ニサン正教より申請された、キスレブ議会との会談の打ち合わせですが、先方よりこちらの日程に合わせるとの申し出がありましたので、本日ニサン正教担当者をお招きすることも出来ますが、いかがいたしますか」
 ナシュカの問いかけに、ミシェルがはっとしたように身じろいだ。それからしばし黙考し、こくん、と頷く。
「そうしてくれるかい。正教担当者は…」
「シスターヒューイットですね。心得ました。それでは、先方に確認を取ってまいります」
 卒なく答えて、ナシュカはさっさと執務室を後にした。彼女の後ろ姿を見るとはなしに見送って、ミシェルはまだぼんやりとする頭を二、三度振る。
 これは完璧に、公私混同だ。キュランの最も嫌悪する手段であると解っていても、今のミシェルには、他にどうすることも出来なかった。
 もう一度、きちんと話し合わなくては、こちらがもたない。情けないことこの上ないが、キュランは少し、ミシェルにとっての自分の価値を、測り違っているように思う。
 ミシェルにとってキュランとは、もうなくてはならないものなのだ。人が空気を乞うように、花が降雨を望むように。生きていく上で、必要不可欠な人だからこそ、みっともないと言われても、こればかりは譲れない。
 ここで諦められるくらいなら、とうの昔に忘れている。
 ミシェルは、頭を切り替えるように椅子から立ち上がると、琥珀の髪をかきあげた。
 昨夜のキュランの言葉の意味は、一晩考えても解らなかった。
 ミシェルの求婚に対して、たった一言「ごめんなさい」と返した真意に、ナシュカが言うような否定や謝罪の意味があったならば、ミシェルはこんなに悩まなかったかもしれない。
 自惚れではないが、ミシェルには確信があった。
 あの瞬間のキュランの瞳には、謝罪や否定の欠片もなかった。
 ただ酷く。酷く、悲しそうだった。
「…キュウ…」
彼女の真意が見えないことよりも、今も恐らく、ひとりその胸を痛めているであろう恋人の心情を思うと、矢も楯も堪らない。自分はそんなに頼りない男のかと、八つ当たりじみた憤りすら覚える。
 どんな些細なことでも、キュランを悲しませることは全て、引き受けて彼女を守る覚悟は、とうに出来ているのに。
 その時、再び執務室の扉が殴打された。返事をすると、案の定ナシュカがきびきびと室内に入り、ミシェルを見やって淡々と告げた。
「残念ですが、聞き入れられませんでした」
「そう。…ナシュカ、少し出てくるよ」
 半ば予測していた返事に、ミシェルの腹が決まった。こうなったら、無理やりにでもキュランに会いに行く。拒絶されたことで逆に迷いのなくなったミシェルに、けれどナシュカが意外なことを告げた。
「何でも、担当シスターが今朝から姿を消しているとのことでした」
「…なんだって?」
 余りに驚きすぎて、ミシェルが唖然とナシュカを見やる。
「担当シスター…シスターヒューイットが?」
「はい。すぐそこで、先日シスターヒューイットに同行されていたシスターモーガンに行き会いまして、彼女から伺った話です」
 その瞬間、ミシェルが放たれた矢のように素早く、扉に向かった。ナシュカが何か言ったような気がするが、それに一切振り返らず、ミシェルは回廊の向こうをパタパタと足早に進んでいた小柄なシスターの後ろ姿に叫んだ。
「シスターモーガンッ!!」
「っ!? はは、はいっ!!」
 華奢な肩を思い切りびくつかせて、シスターモーガンは床から十センチほど跳ね上がりながら振り返った。ミシェルは、鬼気迫る表情のまま荒々しく彼女に駆け寄ると、自分の顎までしかないシスターモーガンに視線を合わせるべく、彼女の両肩を掴んで身を屈める。
「キュラン…シスターヒューイットがいないって、どういうこと!?」
 噛み付かんばかりのミシェルの迫力に、シスターモーガンは完全に怯え切ったように、真っ青のまま声を震わせた。
「ああ、あの、あの、わたくしもよく…ご、ごめんなさい、あの、すみません~~」
「姿を消したって…言ったよね?! もうちょっと、詳しく教えて欲しいんだよ」
「く、詳しくと言われても…朝起きて、いつものようにシスターのお部屋に参りましたら、キュラン姉さまがいらっしゃらなくて、それで…それで……っ」
 とうとう、くしゃりと顔を歪めて泣き出してしまったシスターモーガンに、ミシェルは今更のようにはっとして、慌てて腕を引っ込めた。無意識に力が入っていたのか、彼女の僧服の肩口には、くっきりとした皺が寄っている。
「あ、ご、ごめん…泣かないで、怒ってるわけじゃないから」
「ふっふぇっ、ふぇぇ~~」
「あ~~~~~、ほんっとごめんなさい!!」
ぺこぺこと平謝るミシェルの背後から、その時呆れたような声がかかった。
「何をしているんですか、シナモン補佐官」
「な、ナシュカ…」
 狼狽したミシェルが振り返ると、ナシュカはつかつかとこちらに歩みより、べそをかくシスターモーガンの蜂蜜色の髪をくしゃくしゃと撫でた。
「ほら、きみも泣かない。ちょっとくらい脅されたからって、ピィピィ泣いてちゃダメよ、つけこまれるでしょう」
「つ、付け込む!? ナシュカ、僕はそんなっ…」
 慌ててミシェルが叫ぶと、ナシュカはしれっと嘯く。
「あなたが、じゃありません、私が、です」
「…へ?」
「とにかく、シスターモーガンは私に任せて、お早くシスターヒューイットを探しにいかれたらいかがですか? 手遅れになる前に」
 言いながら、ナシュカが優雅な仕草でシスターモーガンの肩を抱き、歩き出す。シスターモーガンは小さな子供のようにしゃくりあげながら、何の疑いもなくナシュカの服の端を掴んでいた。
「す、す、すみませ…わた、わたし、ダメなんです、べそで…」
「いいから…お話は後よ。まずはその可愛い顔を、ちゃんと洗ってからね」
 いつもの毅然とした雰囲気とは若干違う、甘さを含んだナシュカの声が遠ざかる中、ミシェルは半ば呆然とそれを見送る。何だかよく解らないが、余り深く考えるのはよそうと、本能的に思った。
 それからはっと我に返り、慌ててニサン正教支部のある別棟へと身を翻す。今の時間ならば、簡単な礼拝が行われているだろうから、そのまま馴染みのシスターでも捕まえて、状況を詳しく調べて…
「そんなに慌ててどうした、ミシェル・シナモン」
 その時、回廊の向こうから矢のように届くテノールが響いた。反射的に振り返り、ミシェルは複雑な表情を返す。
「アレクシス長官…」
「何か不祥事か? せっかくこれも、押し付けようと思ったんだがな…」
 冗談のように嘯いて、アレクシスは手にした書類でぽんぽんと自分の肩を叩く。泰然とした彼の様子に、けれどミシェルは構ってはいられない、とばかりに早口で答えた。
「これ以上の激務は命に関わりますッ! そんなことより、急いでますので失礼!」
「まあ待て、俺の方でも話がある。キュランのことだ」
 キュラン、の一言に、ミシェルの身体が180度反転した。そのまま一直線にアレクシスに向かい、胸倉を掴みかからんばかりに叫ぶ。
「どこだ!?」
「は?」
 吼えたミシェルに、アレクシスは唖然と目を見開いた。常に飄然とした彼のそんな表情に、ミシェルはあれ、と力を抜く。
「キュウの居場所、知ってるんじゃないんですか?」
「居場所? 何の話だ? 俺は、ここ数日のキュランの病状が気になって、少し調べたんだが…」
「病状?」
 さっと、ミシェルの顔が青くなる。そのまま再び、アレクシスの官服の喉元を握り締め、詰め寄るように叫んだ。
「病状って、やっぱり何か、悪い病気じゃ…」
「落ち着け、馬鹿者が。こんなところでヒートアップしてると、いらん噂が立つぞ」
 ぱん、とミシェルの手を振り払い、アレクシスは冷静に言って喉元を緩めた。ミシェルははっとしたように周囲を見回し、遠巻きにこちらを眺める官僚たちの存在に今更気づく。
「す…すいません…」
「白昼堂々、官房長官と大統領補佐官がつかみ合いはまずいだろう。来い」
 ぐい、とミシェルの後ろ首を掴み、アレクシスは適当な部屋の扉を開いた。小ぢんまりとした小会議室はおあつらえむきに無人で、ミシェルを突き飛ばして乱暴に入室させると、アレクシスは扉を閉めて腕を組んだ。
「まったく…。お前は相変わらず、キュランのことになると見境がなくなるな」
「す、すみません…」
 呆れたような声に、ミシェルは悄然と肩を落とした。それから恐る恐る、アレクシスを見やる。
「それで、キュウの病気って、何なんですか? む、難しい病気なんですか…?」
 視線の先で、アレクシスの紫紺の瞳がすうと細まった。鋭利なナイフのような美貌が、何か重大な宣誓をするようなもったいぶりを見せ、ミシェルは知らず知らずのうちに全身を硬直させながら、ひたすらにアレクシスの薄い唇を凝視した。
「…確証はないが」
「…はい…」
「…余命幾ばくもない」
「…ッッ…!!」
 重々しく呟かれた言葉に、ミシェルは糸の切れた操り人形のように、がくりとその場に膝を落とした。
 その瞬間、頭の中に走馬灯のように、キュランとの思い出が駆け巡る。幼い頃遊んだ風景や、数年前に再会した時の驚き、思いを遂げた後の感激…日常に彩られた、キュランの様々な表情。温もり。彼女の全てが。
 全身の血が凍るような感覚に、ミシェルは呆然と浅い息を繰り返す。
 その彼の眼前で、アレクシスはいっそ清々しいほど爽やかに言った。
「…と言うのはまったくの嘘で」
「……はあ!?」
 思わず、ミシェルは涙目になってアレクシスを振り仰いだ。腕を組み、悪巧みが成功したような薄い笑みを浮かべながら、アレクシスは尊大にミシェルを見下ろしている。
 ミシェルの中で、何かが音を立てて弾けた。
「っ…ンの、悪徳官僚が!! 言っていいことと悪いことがあるだろうー!!」
「許せ」
「アホーーーーー!!!!」
 再びアレクシスの胸倉に掴みかかるミシェルに、アレクシスはまったく悪びれず笑う。憤りをぶつけるように、ミシェルは乱暴にその胸を突き飛ばした。
「ほんッと…! あんたは最悪だ!! もういい、金輪際僕はあんたの言葉は信じない!!」
「そうか。じゃあ言うが、キュランは妊娠してるぞ」
「だからなんだ! そんなの僕に関係な…」
 瞬間、ミシェルが阿呆のように口を開けた。
 乱れた官服の襟を直しつつ、アレクシスは薄く微笑みながら視線を向けてくる。切れ長の瞳がすいと細まり、言葉もなく立ち尽くすミシェルの頬を軽く叩いた。
「お前、無関係だったのか? それは意外」
「……え?」
 痺れるような舌を動かし、ミシェルは今度こそ正真正銘、縋るような眼差しをアレクシスに向けた。もしまた、この男が人の悪い『冗談』で片付けようとしたら、ためらいなくその頬をぶん殴れるぐらいの勢いが、あった。
 しかしミシェルの懸念に反して、アレクシスは呆れたように肩を竦めるだけで、訂正も揶揄もよこさない。
 ミシェルの全身に、事実が浸透した。
「…ほ。ほんとに…?」
 それでも、用心深くそう問うて来るミシェルに、アレクシスはさも嫌そうな眉根を寄せて言う。
「だから、確証はない。彼女のプライベートを暴くわけにはいかんだろう。ただ、医療班にちょいと圧力をかけて、彼女が倒れた際の症状や、その後の処置を調べたら、そう言う仮説に至っただけだ」
「……」
 ろくでもないことで胸を張るアレクシスに、突っ込む余裕がミシェルにはなかった。まじまじとアレクシスの顔を凝視したかと思うと、その場にへなへなと膝をつく。
「…っや…」
「おい」
 呆れたアレクシスが声をかけると、ミシェルは一拍の後、気が狂ったような咆哮を上げた。
「やったーーーーッッッ!!!!!」
 その大声に、さすがにアレクシスが一歩退く。ミシェルは絶叫したまま瘧のように身体を震わせ、そのまま身を折って地べたに這いつくばった。
 ぶるぶると震えるミシェルの背中に、アレクシスが怪訝に声をかける。
「…おい、シナモン?」
「…っ、ふ、ふ、ふふふ…ッあは、あはははっ!」
「シナモン!」
 けたけたと笑いながら、ミシェルが腹を抱える。柄にもなく狼狽し、ミシェルの傍らに膝をついたアレクシスに、ミシェルはようよう息をしているような状態で、涙の滲んだ顔を上げた。
「アレク…っ長官…、やった…すごい、本当ですか? や、もう…っ嬉しくて気が狂う!!」
「…狂えばいいだろう、馬鹿者が」
 世の中で、これほど素直に真っ直ぐに、馬鹿みたいにてらいなく喜びを表現できる成人男性がどれくらいいるだろう。アレクシスは冷静にそんなことを考えながらも、もはや泣き笑いのように顔を真っ赤にしている部下を眺めて、ふう、と力を抜いた。
 そして、彼にしては珍しい、穏やかで優しい笑みを向ける。
「良かったな」
「……はい、ありがとうございます…!」
 はー、と大きく息をついて、ミシェルはようやく身体を起こした。くしゃくしゃになった琥珀の髪の下で、子供のように笑う彼に、アレクシスがまた溜息をつく。
「しかし…。普通、ここまで喜ぶとは思わなかったぞ。大体において、順序が逆だろうが。お前、結婚してないって自覚あるのか?」
 呆れたようなアレクシスの言葉に、ミシェルはああ、と、興奮の過ぎ去った上機嫌さで頷いた。
「て言いますか、最初からこの展開狙いでしたから」
「は?」
「だって、あのキュランですよ? 仕事熱心で有能な、シスターヒューイットと結婚しようって思ったら、まずは外堀から埋めなきゃ。結婚せざるを得ないような状況、作るのが先かなって」
 無邪気に告白するミシェルに、アレクシスは都合何度目かの呆気に取られた。目を点にした彼は、さらに呆れたように続ける。
「じゃあ、お前、計画的…?」
「はい! あ、でも、何ていうかその、あんまり効率的じゃなかったみたいですねー。意外と時間がかかりました。あはは」
「………」
 もはや何から、どこから、どうやって突っ込めばいいのか。アレクシス・レブルックとあろうものが、すぐには二の句が継げずに、白い頬を染めて少女のようにはにかむ部下を凝視し続けた。
 やがて疲れたように、アレクシスが肩を落として呟く。
「…俺はお前と言う男を、少し見くびっていたような気がするよ…」
 それからふう、と息をつき、改めてミシェルを見やった。
「ところで、狂喜乱舞しているところ悪いが、さっきも言った通りこれは俺の仮説だ。確証もない。お前、キュランから何も言われていないのか?」
「え?」
 ふと、ミシェルが大きく瞳を見開く。ますます幼く見える優しげな風貌が瞬間固まり、それから、ああっ! と大きな叫びが飛び出した。
「そっ、そういえば、キュ、キュランが今朝から、行方不明だってさっき…」
「はあ? なんだ、それは」
 ぎょっとして目をむいたアレクシスが、訝しそうに眉根を寄せる。ミシェルは喜色満面だった表情を一転して青く染め、不安げに口元を覆った。
「僕にもよく…実は昨夜、ちょっと気まずい別れ方しちゃったんで、心配だったんですけど…」
「気まずい?」
 アレクシスが促すと、ミシェルは昨夜の顛末を、かいつまんで説明した。さすがに求婚を保留された(ミシェルとしては、断られた、という結論は納得できない)くだりは気恥ずかしい思いもあったが、話を聞き終えたアレクシスは、揶揄するでもなく至極真面目に冷静な言葉を返す。
「昨夜の段階だと、キュランは確実に、自分の妊娠を知っていたはずだな。それでその反応…つまり、お腹の子の父親は、お前以外というオチじゃないか?」
「あり得ません」 
 きっぱりと、寸分のためらいもなく言い切るミシェルに、アレクシスはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「お前は、キュランのことになるとどうしてそう、盲目的に自信家になるんだ」
「自信じゃなくて、事実ですから」
「あぁそうかわかった。おめでたいお前の鼻っ柱をへし折ってやりたいところだが、生憎俺も、キュランのあの性格を知っていてなお、下らん勘繰りができるほど馬鹿じゃない。子供は確かにお前の種だろうよ」
 上品な顔で品のないことをのたまいつつ、アレクシスはふと難しげに眉を寄せ、ぱっと表情を引き締めた。
「おい…待てよ、シナモン。お前、これは計画的だ…と言ったな」
「え? あ、はい…」
「それは、彼女のあの性格も計算に入れたのか?」
 不意に、ミシェルの表情が固まる。怪訝そうに眉を寄せ、彼はええと、と胡乱に答えた。
「どういう意味ですか?」
「つまり、あの気丈で責任感の強いキュランが、結婚もしていないうちから子供が出来た、なんて事実を、受け入れるかどうかってことだ」
「受け入れるか…って、だって、事実は事実ですよ? 妊娠した以上、産むでしょう? 産む以上、結婚でしょう?」
 至極当然のように言うミシェルに、アレクシスは凍りつくほど冷たい視線を向ける。
「そこがお前の短絡結論だ。いいか、結婚とは何だ? 子供が出来たために生じる義務か? 違うだろう。ことに、キュランのように手に職を持つ有能な女性が、子供が出来たことで自分の人生を簡単に変えられると思うか?」
「……それって…」
 呆然と、ミシェルが呟いた。今の今まで、考えもしなかったある仮設が、一点浮かんだ黒い染みのように、じわじわとその思考を侵食していく。
「…それって、キュランが子供を…堕ろすかも知れない、ってことですか…?」
 全身の血液が、すうっと足元に落ちていくような気がした。顔面蒼白になって、強張った視線を向けてくるミシェルに、アレクシスは艶やかな黒髪をかきあげて言う。
「解らん。…キュランに限って、そう短絡的なことはしないだろうが…二つ身になった女は不安定だ。こちらが思いもかけないことをしでかす…」
 その、実感のこもった言い方に気づく余裕もなく、ミシェルは震える指先で自分の額を覆った。そのまま、泣きそうな声でうめく。
「まさか…そんな、馬鹿なことって…キュウに限って、そんな酷いことするはずない」
「酷い? …確かに宿った命には酷かもしれんが、今生きている自分たちにしてみれば、どうだ?」
「え?」
 胡乱な瞳を返すミシェルに、アレクシスは酷薄な印象を受ける美貌から表情を無くし、つまらなそうに言う。
「三年。キスレブに出向すると言ったのだろう? お前。仮に、キュランが妊娠していたと知ってなお、そう言えたか?」
「……!」
 はっと雷に打たれたように、ミシェルが顔を上げる。そのまま、震える唇を引き結び、彼の愛すべき恋人の心情を思った。
 彼自身、いまだ不安定な情勢である故国の歯車として働く一人であるが、仮に、仕事とキュランと、どちらかを選べと言われたら、迷わずに彼女を選ぶであろう事を、他の誰よりも知っているのは、キュランその人で。
人一倍、仕事に対して責任感を持つキュラン。そして、自分をここまで育ててくれた、大教母を始めとするニサン正教、さらには故郷アヴェへの感謝の念は何よりも強い。
 そんな彼女が、妊娠と言う個人的な理由で、ミシェルを拘束することも、アヴェやニサンに迷惑をかけることも、潔しとするはずがない。
 今更のようにそれに思い立って、ミシェルは血を吐くような思いで呟いた。
「僕のせいだ…僕が、もっとキュウのことを考えてたら……っ」
「…今更言っても仕方がないだろう。とにかく、今は一刻も早くキュランを見つけ出して、馬鹿な考えを改めさせるのが先決だ。…手遅れにならないうちに」
 決然と言い放って、アレクシスは颯爽と身を翻す。彼の後ろ姿を追って、まるで自分のものではないように、一向言うことを聞かない足をもどかしく動かして、ミシェルも執務室を後にした。
3/6ページ