MAY I ASK A FAVOR OF YOU?
医療室の清潔な室内に、派手な物音が響いた。
「キュウっ…!! キュラン!!」
ノックもなく現れた青年に、医療班の視線が集中する。医師団の長である医療長が、呆れたように声を張り上げた。
「馬鹿者!! ここは遊び場じゃないんだよ! 出直して来な!」
「す、すみませんでもドクター! ここにシスターキュ、キュラン・ヒューイット…」
「落ち着けっての。あんたはもー…」
溜息混じりに、医療長がベッドを指差す。天井から吊るされた白いカーテンの向こうから、ひょいと顔を出してきたのは、無表情のナシュカだった。
「シナモン補佐官、シスターよりのご伝言です」
「えっ!?」
「『今すぐその口を閉じて深呼吸三回、周りに音と色が戻ってきたら、こちらに来ても良し』…だそうです」
「はあ? …あぁ、はい…」
言われたとおり、すーはーすーはーと、子供のように深呼吸をする青年を、医療班が見てみぬふりをする。一人苦笑していた医療長が、やれやれと肩を竦めた。
「確か…あんた達の関係は、他言無用の方向じゃなかったかね?」
「えっ? …あぁっ! そうだった…あの、皆さん、今見たことは…」
「補佐官。シスターが『いいからさっさと来なさい』と」
「あ、はいっ」
ナシュカの声に、ミシェルは慌てて振り返る。男としてかなり情けのない状況だと言うのに、彼は部下にまったく悪びれることなく、いそいそとカーテンをまくった。
白い空間の真中で、小さな頭を枕に沈ませたキュランが、何とも言えない呆れたような表情で、ミシェルを迎えた。
「…あんたってほんっと~~~~に、馬鹿ねっ」
約一ヶ月ぶりに耳にする、正真正銘の愛しい恋人の第一声は、けれどミシェルを打ちのめすどころか、ほーっとその場に脱力させるほど、心地よく耳朶に響いた。
「よ、良かったァ…キュウ、いきなり倒れたなんて言うから、心配しちゃったよ…」
「…それは、ごめんね」
飾り気のないミシェルの言葉に、キュランは気の強い瞳を和らげて、素直に謝る。それからゆっくりと身を起こそうとしたところを、慌ててミシェルが止めた。
「ま、まだ無理しちゃだめだよっ」
「大丈夫…ちょっと、貧血起こしただけだから。もう行かなきゃいけない時間だし」
「あのねえ! そんな顔色で何言ってんの、しまいには僕も怒るよ?」
起き上がろうとしたキュランの薄い肩を、ミシェルは力をこめて押し戻した。どさりと枕に頭を戻して、キュランは恨みがましそうにミシェルを見上げる。
「もう…大丈夫だって言ってるでしょ? 自分の身体くらい自分で解るんだから」
「ダメなものは駄目! それに、もう支部の方には連絡済だよ。シスターヒューイットは、アヴェの医療班でお預かりしますって」
「えぇっ!? ちょっと、待ってよ…」
「問答無用。大体、きみのこれからの予定は、僕との打ち合わせだったんだろ? そんな身体で無理したって、僕は一切聞いてやらないからね」
「馬鹿、それは完全に公私混同でしょ!」
「馬鹿で結構です。言うこと聞いて、キュウ…」
白いシーツから見える、キュランのほっそりと冷たい手の平を、ミシェルはぎゅっと力をこめて握った。それに、一瞬でキュランの瞳から険が消えて、代わりに何だか困ったように細い眉が寄る。
「…わかったわよ…もう、あんたってほんっとタチ悪いんだから…」
「ありがとう。キュウ」
にっこりと微笑んで、ミシェルがキュランの手を握ったまま、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
「ところで…久しぶりだね。出来ればもっと違う形で会いたかったけど、何にせよ会えて嬉しいよ」
囁くミシェルに、キュランは心持ち顔を赤くさせて、ちらりと視線をカーテンに向ける。
「…あのねぇ。開き直るんじゃないわよ、約束を忘れたの?」
「う…いや、だって、キュウが倒れたって聞いたらいてもたってもいられなくて…他の事はみんな、頭から消えてたんだよ…」
「それであの派手なご登場? まったく、これじゃ明日には官邸中に知れ渡ってるわ…」
溜息をついたキュランに、ミシェルは叱られた犬のように眉を下げる。
「ごめん。…でも、それならそれで僕は別に…」
言いかけて、ミシェルは強い視線に射すくめられた。キュランは大きな深緑の瞳をどっかりと据わらせ、ことさら低い声音で釘を刺す。
「あのね、ミシェル…。あたしも、あんたも、官邸内ではそれなりの立場ってものがあるでしょ? プライベートな関係は、出来るだけ隠しておいた方がいいの。ただでさえ今は、ニサンもアヴェも色々と慌しい時期なんだから、余計なことで大教母様や大統領にご迷惑がかかったらどうするのよ」
「は…はい…」
素直に頷いたミシェルに、キュランはよし、と頷いた。それから、しゅんとしてしまったミシェルに軽く苦笑して、握られていた指に力をこめる。
「でも…ありがと、駆けつけてくれて。嬉しかった」
そう言って、にっこりと柔らかく微笑むキュランに、ミシェルは急激に満たされるものを感じた。
これは、大教母様の慈愛に満ちた微笑でも、ナシュカの凛とした受け答えでも、満たされなかった大切なもの。
「キュウ…」
引き寄せられるように、ミシェルの上身が傾ぐ。キュランが驚いたように目を見張り、それからやや困った風に視線を泳がせて、観念したのか瞳を閉じた。長い睫毛が白い頬に影を落としたのを確認すると、ミシェルは改めて照準を合わせるように、彼女の薄桃の唇に目をやる。
それからゆっくりと、久しぶりに感じられる恋人の、柔らかく暖かな感触を楽しむべく、さらに斜めに傾いた時。
「シスターヒューイット、いらっしゃいます?」
突如、カーテンの向こうから響いた優雅な声に、キュランとミシェルの全身が固まった。
「こちら? ああ、お構いなく…シスター? シスターヒューイット、いらっしゃいますね。失礼いたします」
恐らく、近くに控えていたのであろうナシュカの応対をやんわりと返して、遠慮のない勢いでカーテンを開いたのは、さらりとした黒髪の、幼さを残す美貌の少女。彼女の出現に、ミシェルは慌てて身を起こし、キュランもがばりと上半身を起こした。
「シャンティっ? どうして、ここに…」
「あぁら。お友達が倒れたと耳にしましたもので、気を利かせて見舞ったつもりが…お邪魔でしたかしら?」
くすり、とオレンジがかった唇が微笑む。ミシェルは真っ赤になってうろたえ、キュランも頬を染めながらきつくシャンティを睨んだ。
「馬鹿なこと言わないでよっ」
小声で抗議してきた親友に、シャンティも小声で返す。
「だったら、その顔色戻しておきなさいよ。貧血で倒れた触れ込みの人が、健康極まりない真っ赤な顔してたら、あたしじゃなくたって勘繰っちゃうわよ」
「っ…」
「ところで、ミシェル?」
つい、と細い顎を反らして、シャンティがにっこりと微笑む。ミシェルは条件反射的に身構えて、自分の天敵とも言える男の妹を見つめた。
「こんなところで油を売っている時間はないんじゃなくて? もうそろそろ、官房との最終打ち合わせの時間だけど…」
「え? あっ、やば…ッ」
懐中時計を開けば、予定の時間まで後少しもない。ミシェルは慌てて立ち上がり、ベッドの上のキュランを振り返った。
「あ…キュウ、今日は本当に無理しないで…」
「わかってる。急ぎなさい、遅れたらまた嫌味言われるわよ」
追い立てるキュランに、ミシェルは子供のように苦笑した。
「もう慣れっこだよ」
「可哀想にね。安心して、ミシェル、このお馬鹿さんのお世話は、私が責任をもってしておくから」
「ちょっと、シャンティ! 馬鹿って何よ、馬鹿って…」
「あーら。短い期間に何度も倒れるほど自己管理の出来てない人間を馬鹿と呼ぶと、レブルック家訓に記されているの、ご存知じゃなくて?」
しれっと返すシャンティの言葉に、ミシェルがぎょっとして目を剥く。キュランは頭を抱えるようにして、シャンティを睨んだ。
「ちょっと、キュウ? 何度もって…きみ、何回倒れてるの?!」
「あーもう、いいからあんたはさっさと行く!」
「いいって、よくないだろ全然!」
珍しく語気を荒げたミシェルに、けれどシャンティが割って入る。
「ミシェル、詳しいことは後から教えてあげるわ。とにかく今は急がないと。仕事でしょ?」
「…ッ…。わかった、シャンティ、キュランをよろしくね。キュウ? 後できっちり話をつけよう」
完全に立場が逆転したミシェルに、キュランは居心地が悪そうに明後日を向く。その様子に嘆息してから、ミシェルは一度シャンティに目配せし、颯爽とカーテンを開いた。
「待たせたね。行こうか、ナシュカ」
「はい」
そのまま医療室を出て行くミシェルの気配に、キュランは再び枕に頭を戻しながら、ふうと溜息をつく。ミシェルが座っていた椅子に腰を下ろし、シャンティが突き刺さるような眼差しを親友に向けた。
「無様ね、キュラン・ヒューイット。これがあの、有能で知られたニサン正教期待のホープ? 呆れるわ」
「……耳が痛い」
「反省してる? 先日の今日で、一体何度あなたは私の肝を冷やせば気が済むのかしら」
「…面目ないわ…」
「おざなりの謝罪なら真っ平よ」
ぴしゃりと言って、シャンティは強くキュランを睨む。歯に衣着せない物言いながら、心底自分を思ってくれている親友の言葉に、キュランはただ真摯に受け止めるしか出来ない。
「…ごめんなさい…」
小さく口にした言葉に、シャンティがふうと溜息をつく。それから幼い外見には似合わない、歳相応の大人びた笑みを浮かべた。
「もっと自分を大事にして。あたしがあなたを好きなくらい、自分を好きでいてくれたら、こんなことはもうないはずよ?」
「わかった…ありがとう、シャンティ」
にっこりと微笑んで、キュランがシャンティを見上げる。シャンティは満足そうに頷くと、それで、と膝を詰めた。
「どこか悪いんじゃないでしょうね? きちんと検査は受けた?」
「……」
不意に口を閉ざし、キュランが視線をそらせる。シャンティは怪訝そうに眉根を寄せ、キュランの枕辺に身を乗り出した。
「ちょっと…何よ、それ。まさか、悪い…病気じゃ…」
声を震わせたシャンティに、キュランは首を振る。ゆっくりと肘をつき、再びベッドの上に身を起こすと、優しく親友に囁いた。
「大丈夫。身体はどこも悪くないから、心配しないでね」
「なんだ…良かった…。もう、それならそうとはっきり言いなさいよ。びっくりするじゃない…」
ほっとしたシャンティだったが、キュランの表情が今ひとつさえないことに気づき、眉根を寄せる。キュランが沈黙していると、カーテンの向こうから声がかかった。
「シスター。先ほどの件で、詳しい話がしたいんだけど、今いいかい?」
医療長の言葉に、キュランが顔を上げる。
「はい。…シャンティ、あなたも一緒にいてくれる?」
「え?」
目を丸くしたシャンティに、キュランは淡く微笑んだ。
「それから…少し、相談に乗って欲しいの」
アヴェ国を上げて執り行われた一周年記念式典は、つつがなく大成功を収めた。
復興の要であるアヴェが、ささやかとは言え祝い事を行うということは、そのまま世界情勢の勢いともなる。各国の首脳陣が列席し、互いの情報交換や復興速度の見直しなど、外交的意義も大きい行事を、裏方とは言え見事に取り仕切ったミシェル・シナモン大統領補佐官の評価も、これを機に一気に急上昇することとなった。
「…ってなわけで、でかした、ミシェル」
「ありがとうございます」
式典を終えて三日後、滞在していた諸外国要人との会談も一通り終えて、国に再び落ち着きが取り戻された頃合を見計らい、残務処理に奔走していたミシェルが、恭しく大統領の元へ呼び出されての一言。
歳若き首領は、ますます精悍になった男らしい美貌に、公務で見せる顔とはまったく別物の悪戯っぽい笑みを乗せて、気の置けない部下を上機嫌に出迎えた。
アヴェ国大統領バルトロメイ・ファティマの傍らで、彼の右腕であると同時に、アヴェの懐刀でもある、有能な筆頭補佐官が苦笑した。
「若、いえ大統領、その言いようはあまりに気安いのでは…」
「あぁ? つったってミシェルだろー? 今更かしこまってどうすんだよ、なぁミシェル?」
そう言って笑い飛ばすバルトに、ミシェルが困ったように苦笑した。確かに、今更他人行儀に『大統領』の顔をされても、この『素』の顔を知っている以上あまり意味はない…と思う。
「ま、何にせよ、今回は本当に、よくやった。俺の大抜擢に、議会のじじいどもも唸ってるぜきっと」
「若…」
普段から、歳若いというだけでバルトが目をかけている人材を認めたがらない保守的な先達たちをこき下ろすバルトに、シグルドが嘆息する。しかし、すぐに彼も誇らしそうに直属の部下を見やった。
「だが、本当にミシェルの働きには目を見張るものがあった。元々才覚はあると思っていたが、これほどとは思わなかったよ。頼もしい限りだな」
「い、いえ、そんなっ! そこまで言って頂けると、かえって申し訳ないです…今回のことにしたって、下慣らしは筆頭を始め、補佐室や官房で整えて下さっていて、僕、私はただ、その他の細々とした雑事をこなしただけですから」
出会った頃と変わらぬ謙虚さに、シグルドは好ましいものを感じて言う。
「いや、自分に自信を持て。今回の仕事は、仮に若にやらせていたら到底こなせなかった難関だ」
「そうそう、…ってシグ! いちーち人を引き合いに出すなよっ」
「出されたくなければ、ミシェル程度とは言いませんから、もう少し真面目に執務に取り組んでください、大統領」
憤慨するバルトに、しれっと答えるシグルド。こちらもまた、何年経っても変わらぬやり取りに、ミシェルは思わず吹き出した。
それに、バルトは一瞬居心地悪く眉を顰めて、それから気を取り直したように咳払いをする。
「と、あー…ところでミシェル、ここに呼び出したのは他でもないんだがな」
「あ、はい」
ひとしきり主従漫才を終えると、途端に『大統領』の顔になる。バルトの怜悧な視線の先で、ミシェルも気持ちを切り替えて居住まいを正した。
ここに呼ばれた時から、ある程度覚悟はしてきた。本来であれば、ここ数週間の多忙の『ご褒美』に(と、官房長官自らが言っておられた)まとまった休暇が与えられるはずだったのだが、恐らくそれが流れたのであろう。
ミシェルとしては、休暇が取れ次第キュランと予定を合わせ、離れていた分少しのんびりと、二人で過ごせればいいなあ、などと甘い夢を描いていたのだが、大体において仕事の鬼であるキュランが、ミシェルに合わせて休暇を取るかどうかははなはだ怪しい上に、曲がりなりとも国の中枢で働く立場上、何もかも忘れてプライベートに浸る、など、まだ十年くらいは無理だろうと、諦めきっている。
だからこそ、次にどんな過酷なスケジュールを言われたとしても、耐えて頷く心積もりがミシェルにはあった。
けれど、次にバルトが耳に心地よい美声でもって放った言葉は、ミシェルが想像していたどのシュミレーションをもはるかに凌駕する、まったくもって想像もつかない台詞だった。
「お前、少しの間キスレブに行く気はないか?」
「…は?」
ぽかん、と口を開けて、ミシェルが固まった。バルトの口調は、まるで『ちょっとそこまでお使いに行って来い』と言うような気安さであったけれど、残念ながらミシェルの有能な耳は、事実を事実として正しく受け止める訓練を施されていた。
リアクションに窮している部下に、シグルドが助け舟を出航させる。
「つまり、キスレブのアヴェ大使館内に、空席が出来てね。大使に次ぐ重責でもあり、こちらとしても人選には慎重にいきたかったのだが…ミシェルなら大丈夫だろうと、大統領はお考えなんだ。もちろん、私にも異論はない」
「え…いや、ですけど…」
「もちろん、すぐに返答しろとは言わない。こちらとしても、考えあぐねているような状態でね…と言うのも、確かにキスレブにミシェルを出向させれば、キスレブ情勢との関係は円滑になるだろうが、それに伴いアヴェでの人事が心許なくなる。君の後釜に据えるほど有能な人材が、まだ育っていないような現状だからな」
半分以上リップサービスだろうと思いながらも、憧れている上司からそこまで言って貰える事に、ミシェルは感動していた。けれどやはり、目の前に提示された将来図は唐突に過ぎて、的確な判断が下せそうもない。
「よく考えて欲しい。キスレブに行くならば、間違いなく君のスキルアップにはなる。だが、アヴェでもまだ、君という人材を必要としていることは事実だ。全ては君の判断に任せるよ」
「は…はい…」
胡乱に頷くと、ミシェルは細い面を僅かに俯かせて黙考した。そんな彼に、バルトがところで、と切りかかる。
「もし、キスレブに行くとしたらな、ミシェル」
「え?」
きょとん、と顔を上げた青年に、バルトは遠慮なく爆弾を投下した。
「ちゃんと、キュランとの関係を大っぴらにして、熱愛宣言の一つや二つブチかましてけよ」
「は…はぁあ!?」
「当たり前だろ。何年帰ってこれねえと思ってんだ、馬鹿」
呆れたようなバルトの言葉に、ミシェルは目を白黒させる。それからは、と我に返った。
「な、何年ですか?」
「少なく見積もって、3年」
「さ…」
「せっかくキュランがアヴェに来たってのに、また遠距離ってのも気の毒だがな。そのためにも、ここらでお前、腹くくれ」
ぽん、と手渡された決定権に、ミシェルは慌てる。
「は、腹くくれって…な、何をですか?」
ほとんど言わずもがなのミシェルの問いかけを、バルトはふっ、と鼻で笑う。意地の悪い彼の余裕に、ミシェルは瞬く間に耳まで赤く染め上げた。
「あぁ? 何を? 何をってお前…まさか取る責任も取らねぇで、バックれようってんじゃねぇよな?」
「あ、あの…」
「若、それでは単なるチンピラです」
冷静に突っ込んで、シグルドが咳払いをする。悪乗りする主を嗜めるかと思いきや、こちらもまた、男性的な美貌を優雅に笑ませて追い討ちをかけてきた。
「だが、若の言うことも一理。ちょうど良い機会と言うのは多少不謹慎かもしれんが、このあたりで自分の身の振り方を考えるのも悪くはないぞ」
「はあ…」
「まどろっこしいな。つまりあれだよ、お前、さっさとキュランと婚約しちまえ」
「っ!」
まったくためらいなくバルトが言い切ると、途端ミシェルの顔面が硬直した。14・5の子供ですら、ここまで初々しい反応は返さねえぞオイ、と、バルトは無言で頬杖をつく。
「あ、あの…その、えぇと…」
もぞもぞと不明瞭な呟きを返しながら、冷や汗をかくミシェルに、アヴェ主従はちらりと隻眼を見合わせた。
「…なあ、ミシェル。お前ら、ホントのところはどうなってんだよ」
「え?」
「つまり、自分達の将来について、明確なビジョンを話し合う機会などはあるのか?」
「要するに、結婚しようぜ、って感じの流れとか、あるんだろ?」
畳み掛けるような主従の問いかけに、ミシェルは困ったように眉を寄せた。それから、いささか少女めいた長い睫毛を伏せて、う~んと黙考する。
その反応に、バルトが盛大な溜息をついた。
「まぁじかよ? お前なあ…イイ歳こいて、何ちんたらやってんだ。んなことじゃ、トンビにアブラゲ掻っ攫われるぞ」
「トンビ…?」
ふと顔を上げたミシェルに、バルトはこの上なく意地悪く笑う。
「キュランがアヴェに来て一年…官邸内の独身男の間じゃ、エライ人気だって話じゃねえか。あれだけ仕事が出来て、しかも美人で、さらに気立てもいいってなりゃ、ほっとく馬鹿はいねぇよな」
「若…」
嗜めるシグルドの声が震えている。煽るようなバルトの言葉に、ミシェルの顔色がまるでリトマス試験紙のように青く染まっていく様を見て、彼は笑いを堪えるので精一杯だった。
ここまで正直な反応は、官僚してはどうかと思うが、彼の憧れの上司である大統領その人だとて、プライベートのこととなるとまるで本心垂れ流し状態なのだから、もはやこれはアヴェのお家芸かと諦めつつ、シグルドは苦笑じみた笑みを向けた。
「聞けば、二人の関係はあまり公になっていないようじゃないか。宣伝して歩けと言うわけじゃないが、牽制の必要がないほど、彼女が魅力的ではないとは思えないがね」
「はあ…その、ぼ、私としては、別に誰にはばかる必要もないって思っているんですけど、キュラン…彼女の言い分としては、やっぱり同じ官邸内で仕事をする上で、プライベートはプライベートとして割り切るためにも、出来るだけ大っぴらにせずにいた方がいいという考えで…」
ぼそぼそと答えるミシェルに、バルトは軽く溜息をついた。彼の金の髪が、ゆったりと頬の傍で揺れる。
「その気持ちもわからねぇじゃねえけどなあ。今更、お前らがデキてようがいまいが、仕事に支障をきたすようなタマじゃねぇだろ、キュランも、お前も」
「恐らく、彼女なりのけじめか…もしくは、照れ隠しかもしれませんね」
クス、と苦笑して、シグルドが呟く。ミシェルも肩を竦めるように、柔らかく微笑んだ。
「だと思います」
「それをすんなり受け入れてる、お前もお前だぜ。とことんキュランに勝てねえな」
改めてしみじみ言われて、ミシェルは乾いた笑いを浮かべる。その辺は、あまり人のことを言えないような気がするんですけど…などとは、大統領フリークのミシェルには口が裂けても言えない台詞だ。
「まあ何にせよ、だ」
和みかけた場を引き締めるように、バルトはことさらしかつめらしく、ミシェルを見やって言い放った。
「よくよく、キュランとも相談するんだな、今回の件。いつまでもうやむやにしてんじゃねえぞ」
「は、はい」
頷いて、ミシェルは自分が今置かれている立場を改めて思った。それからゆっくりと、バルトとシグルドを見やる。
「どうした?」
「いえ…なんでもありません。それでは、私はこれで」
小さく首を振り、ミシェルは一礼した。そのまま退出する細身の彼を見送り、バルトは執務机に肘をついて眉根を寄せる。
「…どう出るかな」
「さあ…。どちらにせよ、彼にとっては正念場ですね」
銀の髪をさらりと流し、シグルドが主を見やった。ここ数年、大統領と言う重責が引き締めた彼の精悍の横顔が、子供じみた寂寥を浮かべているのに気づき、微苦笑する。
「キスレブへの出向は、間違いなくミシェルのためになりますよ」
「…なこた、わかってる」
低く答えたバルトに、シグルドがやれやれと肩を竦めた。拗ねた主をどう宥めようかと思案する前に、執務室の扉が軽く殴打されて、返答を待たずにするりと扉が開く。
「今、ミシェルが出て行くのが見えたよ」
柔らかな笑みを浮かべながら、マルーがこちらへやってきた。彼女自身、大教母としての政務から戻って早々らしい、僅かに疲労の色を見せる表情で、夫の顔色を伺う。
「若? どうしたの、機嫌悪いの?」
頬杖をつくバルトの元にやってくると、苦笑しているシグルドと彼を交互に見やって、軽く肩を竦めた。
「…例の話、したんだ? それでどうしてむくれてるのさ」
「むくれてなんかいねえよ」
「嘘ばっかり」
苦笑するマルーに、シグルドが下駄を預ける。
「それでは、マルー様、若の事をよろしくお願いいたします。充分慰めてさしあげて下さい」
「あのなあ、シグ。俺は別に、なんも落ち込んでなんか」
言いさしたバルトには構わず、シグルドは優雅に一礼して部屋を辞した。聡すぎる右腕の配慮に、バルトは子供のような不機嫌さを隠しもせず、舌を打つ。
そんなバルトを傍らから覗き込むようにして、マルーはくすくすと小さく笑った。
「寂しい気持ちもわかるけどさ、シグに当たったって仕方ないよ」
「寂しくなんかねーっつーの」
「そーお?」
小首を傾げて、マルーはバルトを窺う。椅子の背もたれに体重を預け、肘掛に肘をついてぶすくれる夫に、マルーはしょうがないなあと肩を竦めた。そしてそのまま、ひょいとスカートの裾を払い、バルトの足の上に横乗りになる。
ちらりと自分を眺めたバルトの、よく日に焼けた顎をついとこちらに向けて、マルーは優しい唇を、その頬と瞼に数度寄せた。慰めるようなその温もりに、バルトは悪い気がせずされるがままになる。
夫の首に腕を絡ませて、マルーが悪戯っぽく囁いた。
「機嫌直った?」
「…だーから。なんも機嫌悪くねーってのに」
「じゃあ、やめる?」
「……」
くすくすと笑うマルーの腰を引き寄せ、バルトはぶっきらぼうに唇を合わせた。何度か啄ばむようにその柔らかさを堪能すると、こつんと額を合わせて、静かに囁く。
「…あいつは俺にとっちゃ、弟みたいなもんだからよ」
「…うん」
優しく、マルーがバルトの後頭部を撫でた。ゆっくりと、かさついた金の髪を労わるように上下する手の平に、バルトは心底から安堵する。
「寂しくなるね」
「…そうだな」
素直に答えたバルトに、マルーは再び唇を寄せた。
「…じゃあ、寂しくないようにする?」
「ん?」
至近距離で、互いの碧玉を覗き込み。
「二人で寂しいなら、三人になろうか…?」
そう言って嫣然と微笑む妻に、バルトは一瞬虚を突かれたようになり、それから柔らかいその身体を抱き寄せて、イイ考えだ、と囁いた。
「キュウっ…!! キュラン!!」
ノックもなく現れた青年に、医療班の視線が集中する。医師団の長である医療長が、呆れたように声を張り上げた。
「馬鹿者!! ここは遊び場じゃないんだよ! 出直して来な!」
「す、すみませんでもドクター! ここにシスターキュ、キュラン・ヒューイット…」
「落ち着けっての。あんたはもー…」
溜息混じりに、医療長がベッドを指差す。天井から吊るされた白いカーテンの向こうから、ひょいと顔を出してきたのは、無表情のナシュカだった。
「シナモン補佐官、シスターよりのご伝言です」
「えっ!?」
「『今すぐその口を閉じて深呼吸三回、周りに音と色が戻ってきたら、こちらに来ても良し』…だそうです」
「はあ? …あぁ、はい…」
言われたとおり、すーはーすーはーと、子供のように深呼吸をする青年を、医療班が見てみぬふりをする。一人苦笑していた医療長が、やれやれと肩を竦めた。
「確か…あんた達の関係は、他言無用の方向じゃなかったかね?」
「えっ? …あぁっ! そうだった…あの、皆さん、今見たことは…」
「補佐官。シスターが『いいからさっさと来なさい』と」
「あ、はいっ」
ナシュカの声に、ミシェルは慌てて振り返る。男としてかなり情けのない状況だと言うのに、彼は部下にまったく悪びれることなく、いそいそとカーテンをまくった。
白い空間の真中で、小さな頭を枕に沈ませたキュランが、何とも言えない呆れたような表情で、ミシェルを迎えた。
「…あんたってほんっと~~~~に、馬鹿ねっ」
約一ヶ月ぶりに耳にする、正真正銘の愛しい恋人の第一声は、けれどミシェルを打ちのめすどころか、ほーっとその場に脱力させるほど、心地よく耳朶に響いた。
「よ、良かったァ…キュウ、いきなり倒れたなんて言うから、心配しちゃったよ…」
「…それは、ごめんね」
飾り気のないミシェルの言葉に、キュランは気の強い瞳を和らげて、素直に謝る。それからゆっくりと身を起こそうとしたところを、慌ててミシェルが止めた。
「ま、まだ無理しちゃだめだよっ」
「大丈夫…ちょっと、貧血起こしただけだから。もう行かなきゃいけない時間だし」
「あのねえ! そんな顔色で何言ってんの、しまいには僕も怒るよ?」
起き上がろうとしたキュランの薄い肩を、ミシェルは力をこめて押し戻した。どさりと枕に頭を戻して、キュランは恨みがましそうにミシェルを見上げる。
「もう…大丈夫だって言ってるでしょ? 自分の身体くらい自分で解るんだから」
「ダメなものは駄目! それに、もう支部の方には連絡済だよ。シスターヒューイットは、アヴェの医療班でお預かりしますって」
「えぇっ!? ちょっと、待ってよ…」
「問答無用。大体、きみのこれからの予定は、僕との打ち合わせだったんだろ? そんな身体で無理したって、僕は一切聞いてやらないからね」
「馬鹿、それは完全に公私混同でしょ!」
「馬鹿で結構です。言うこと聞いて、キュウ…」
白いシーツから見える、キュランのほっそりと冷たい手の平を、ミシェルはぎゅっと力をこめて握った。それに、一瞬でキュランの瞳から険が消えて、代わりに何だか困ったように細い眉が寄る。
「…わかったわよ…もう、あんたってほんっとタチ悪いんだから…」
「ありがとう。キュウ」
にっこりと微笑んで、ミシェルがキュランの手を握ったまま、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
「ところで…久しぶりだね。出来ればもっと違う形で会いたかったけど、何にせよ会えて嬉しいよ」
囁くミシェルに、キュランは心持ち顔を赤くさせて、ちらりと視線をカーテンに向ける。
「…あのねぇ。開き直るんじゃないわよ、約束を忘れたの?」
「う…いや、だって、キュウが倒れたって聞いたらいてもたってもいられなくて…他の事はみんな、頭から消えてたんだよ…」
「それであの派手なご登場? まったく、これじゃ明日には官邸中に知れ渡ってるわ…」
溜息をついたキュランに、ミシェルは叱られた犬のように眉を下げる。
「ごめん。…でも、それならそれで僕は別に…」
言いかけて、ミシェルは強い視線に射すくめられた。キュランは大きな深緑の瞳をどっかりと据わらせ、ことさら低い声音で釘を刺す。
「あのね、ミシェル…。あたしも、あんたも、官邸内ではそれなりの立場ってものがあるでしょ? プライベートな関係は、出来るだけ隠しておいた方がいいの。ただでさえ今は、ニサンもアヴェも色々と慌しい時期なんだから、余計なことで大教母様や大統領にご迷惑がかかったらどうするのよ」
「は…はい…」
素直に頷いたミシェルに、キュランはよし、と頷いた。それから、しゅんとしてしまったミシェルに軽く苦笑して、握られていた指に力をこめる。
「でも…ありがと、駆けつけてくれて。嬉しかった」
そう言って、にっこりと柔らかく微笑むキュランに、ミシェルは急激に満たされるものを感じた。
これは、大教母様の慈愛に満ちた微笑でも、ナシュカの凛とした受け答えでも、満たされなかった大切なもの。
「キュウ…」
引き寄せられるように、ミシェルの上身が傾ぐ。キュランが驚いたように目を見張り、それからやや困った風に視線を泳がせて、観念したのか瞳を閉じた。長い睫毛が白い頬に影を落としたのを確認すると、ミシェルは改めて照準を合わせるように、彼女の薄桃の唇に目をやる。
それからゆっくりと、久しぶりに感じられる恋人の、柔らかく暖かな感触を楽しむべく、さらに斜めに傾いた時。
「シスターヒューイット、いらっしゃいます?」
突如、カーテンの向こうから響いた優雅な声に、キュランとミシェルの全身が固まった。
「こちら? ああ、お構いなく…シスター? シスターヒューイット、いらっしゃいますね。失礼いたします」
恐らく、近くに控えていたのであろうナシュカの応対をやんわりと返して、遠慮のない勢いでカーテンを開いたのは、さらりとした黒髪の、幼さを残す美貌の少女。彼女の出現に、ミシェルは慌てて身を起こし、キュランもがばりと上半身を起こした。
「シャンティっ? どうして、ここに…」
「あぁら。お友達が倒れたと耳にしましたもので、気を利かせて見舞ったつもりが…お邪魔でしたかしら?」
くすり、とオレンジがかった唇が微笑む。ミシェルは真っ赤になってうろたえ、キュランも頬を染めながらきつくシャンティを睨んだ。
「馬鹿なこと言わないでよっ」
小声で抗議してきた親友に、シャンティも小声で返す。
「だったら、その顔色戻しておきなさいよ。貧血で倒れた触れ込みの人が、健康極まりない真っ赤な顔してたら、あたしじゃなくたって勘繰っちゃうわよ」
「っ…」
「ところで、ミシェル?」
つい、と細い顎を反らして、シャンティがにっこりと微笑む。ミシェルは条件反射的に身構えて、自分の天敵とも言える男の妹を見つめた。
「こんなところで油を売っている時間はないんじゃなくて? もうそろそろ、官房との最終打ち合わせの時間だけど…」
「え? あっ、やば…ッ」
懐中時計を開けば、予定の時間まで後少しもない。ミシェルは慌てて立ち上がり、ベッドの上のキュランを振り返った。
「あ…キュウ、今日は本当に無理しないで…」
「わかってる。急ぎなさい、遅れたらまた嫌味言われるわよ」
追い立てるキュランに、ミシェルは子供のように苦笑した。
「もう慣れっこだよ」
「可哀想にね。安心して、ミシェル、このお馬鹿さんのお世話は、私が責任をもってしておくから」
「ちょっと、シャンティ! 馬鹿って何よ、馬鹿って…」
「あーら。短い期間に何度も倒れるほど自己管理の出来てない人間を馬鹿と呼ぶと、レブルック家訓に記されているの、ご存知じゃなくて?」
しれっと返すシャンティの言葉に、ミシェルがぎょっとして目を剥く。キュランは頭を抱えるようにして、シャンティを睨んだ。
「ちょっと、キュウ? 何度もって…きみ、何回倒れてるの?!」
「あーもう、いいからあんたはさっさと行く!」
「いいって、よくないだろ全然!」
珍しく語気を荒げたミシェルに、けれどシャンティが割って入る。
「ミシェル、詳しいことは後から教えてあげるわ。とにかく今は急がないと。仕事でしょ?」
「…ッ…。わかった、シャンティ、キュランをよろしくね。キュウ? 後できっちり話をつけよう」
完全に立場が逆転したミシェルに、キュランは居心地が悪そうに明後日を向く。その様子に嘆息してから、ミシェルは一度シャンティに目配せし、颯爽とカーテンを開いた。
「待たせたね。行こうか、ナシュカ」
「はい」
そのまま医療室を出て行くミシェルの気配に、キュランは再び枕に頭を戻しながら、ふうと溜息をつく。ミシェルが座っていた椅子に腰を下ろし、シャンティが突き刺さるような眼差しを親友に向けた。
「無様ね、キュラン・ヒューイット。これがあの、有能で知られたニサン正教期待のホープ? 呆れるわ」
「……耳が痛い」
「反省してる? 先日の今日で、一体何度あなたは私の肝を冷やせば気が済むのかしら」
「…面目ないわ…」
「おざなりの謝罪なら真っ平よ」
ぴしゃりと言って、シャンティは強くキュランを睨む。歯に衣着せない物言いながら、心底自分を思ってくれている親友の言葉に、キュランはただ真摯に受け止めるしか出来ない。
「…ごめんなさい…」
小さく口にした言葉に、シャンティがふうと溜息をつく。それから幼い外見には似合わない、歳相応の大人びた笑みを浮かべた。
「もっと自分を大事にして。あたしがあなたを好きなくらい、自分を好きでいてくれたら、こんなことはもうないはずよ?」
「わかった…ありがとう、シャンティ」
にっこりと微笑んで、キュランがシャンティを見上げる。シャンティは満足そうに頷くと、それで、と膝を詰めた。
「どこか悪いんじゃないでしょうね? きちんと検査は受けた?」
「……」
不意に口を閉ざし、キュランが視線をそらせる。シャンティは怪訝そうに眉根を寄せ、キュランの枕辺に身を乗り出した。
「ちょっと…何よ、それ。まさか、悪い…病気じゃ…」
声を震わせたシャンティに、キュランは首を振る。ゆっくりと肘をつき、再びベッドの上に身を起こすと、優しく親友に囁いた。
「大丈夫。身体はどこも悪くないから、心配しないでね」
「なんだ…良かった…。もう、それならそうとはっきり言いなさいよ。びっくりするじゃない…」
ほっとしたシャンティだったが、キュランの表情が今ひとつさえないことに気づき、眉根を寄せる。キュランが沈黙していると、カーテンの向こうから声がかかった。
「シスター。先ほどの件で、詳しい話がしたいんだけど、今いいかい?」
医療長の言葉に、キュランが顔を上げる。
「はい。…シャンティ、あなたも一緒にいてくれる?」
「え?」
目を丸くしたシャンティに、キュランは淡く微笑んだ。
「それから…少し、相談に乗って欲しいの」
アヴェ国を上げて執り行われた一周年記念式典は、つつがなく大成功を収めた。
復興の要であるアヴェが、ささやかとは言え祝い事を行うということは、そのまま世界情勢の勢いともなる。各国の首脳陣が列席し、互いの情報交換や復興速度の見直しなど、外交的意義も大きい行事を、裏方とは言え見事に取り仕切ったミシェル・シナモン大統領補佐官の評価も、これを機に一気に急上昇することとなった。
「…ってなわけで、でかした、ミシェル」
「ありがとうございます」
式典を終えて三日後、滞在していた諸外国要人との会談も一通り終えて、国に再び落ち着きが取り戻された頃合を見計らい、残務処理に奔走していたミシェルが、恭しく大統領の元へ呼び出されての一言。
歳若き首領は、ますます精悍になった男らしい美貌に、公務で見せる顔とはまったく別物の悪戯っぽい笑みを乗せて、気の置けない部下を上機嫌に出迎えた。
アヴェ国大統領バルトロメイ・ファティマの傍らで、彼の右腕であると同時に、アヴェの懐刀でもある、有能な筆頭補佐官が苦笑した。
「若、いえ大統領、その言いようはあまりに気安いのでは…」
「あぁ? つったってミシェルだろー? 今更かしこまってどうすんだよ、なぁミシェル?」
そう言って笑い飛ばすバルトに、ミシェルが困ったように苦笑した。確かに、今更他人行儀に『大統領』の顔をされても、この『素』の顔を知っている以上あまり意味はない…と思う。
「ま、何にせよ、今回は本当に、よくやった。俺の大抜擢に、議会のじじいどもも唸ってるぜきっと」
「若…」
普段から、歳若いというだけでバルトが目をかけている人材を認めたがらない保守的な先達たちをこき下ろすバルトに、シグルドが嘆息する。しかし、すぐに彼も誇らしそうに直属の部下を見やった。
「だが、本当にミシェルの働きには目を見張るものがあった。元々才覚はあると思っていたが、これほどとは思わなかったよ。頼もしい限りだな」
「い、いえ、そんなっ! そこまで言って頂けると、かえって申し訳ないです…今回のことにしたって、下慣らしは筆頭を始め、補佐室や官房で整えて下さっていて、僕、私はただ、その他の細々とした雑事をこなしただけですから」
出会った頃と変わらぬ謙虚さに、シグルドは好ましいものを感じて言う。
「いや、自分に自信を持て。今回の仕事は、仮に若にやらせていたら到底こなせなかった難関だ」
「そうそう、…ってシグ! いちーち人を引き合いに出すなよっ」
「出されたくなければ、ミシェル程度とは言いませんから、もう少し真面目に執務に取り組んでください、大統領」
憤慨するバルトに、しれっと答えるシグルド。こちらもまた、何年経っても変わらぬやり取りに、ミシェルは思わず吹き出した。
それに、バルトは一瞬居心地悪く眉を顰めて、それから気を取り直したように咳払いをする。
「と、あー…ところでミシェル、ここに呼び出したのは他でもないんだがな」
「あ、はい」
ひとしきり主従漫才を終えると、途端に『大統領』の顔になる。バルトの怜悧な視線の先で、ミシェルも気持ちを切り替えて居住まいを正した。
ここに呼ばれた時から、ある程度覚悟はしてきた。本来であれば、ここ数週間の多忙の『ご褒美』に(と、官房長官自らが言っておられた)まとまった休暇が与えられるはずだったのだが、恐らくそれが流れたのであろう。
ミシェルとしては、休暇が取れ次第キュランと予定を合わせ、離れていた分少しのんびりと、二人で過ごせればいいなあ、などと甘い夢を描いていたのだが、大体において仕事の鬼であるキュランが、ミシェルに合わせて休暇を取るかどうかははなはだ怪しい上に、曲がりなりとも国の中枢で働く立場上、何もかも忘れてプライベートに浸る、など、まだ十年くらいは無理だろうと、諦めきっている。
だからこそ、次にどんな過酷なスケジュールを言われたとしても、耐えて頷く心積もりがミシェルにはあった。
けれど、次にバルトが耳に心地よい美声でもって放った言葉は、ミシェルが想像していたどのシュミレーションをもはるかに凌駕する、まったくもって想像もつかない台詞だった。
「お前、少しの間キスレブに行く気はないか?」
「…は?」
ぽかん、と口を開けて、ミシェルが固まった。バルトの口調は、まるで『ちょっとそこまでお使いに行って来い』と言うような気安さであったけれど、残念ながらミシェルの有能な耳は、事実を事実として正しく受け止める訓練を施されていた。
リアクションに窮している部下に、シグルドが助け舟を出航させる。
「つまり、キスレブのアヴェ大使館内に、空席が出来てね。大使に次ぐ重責でもあり、こちらとしても人選には慎重にいきたかったのだが…ミシェルなら大丈夫だろうと、大統領はお考えなんだ。もちろん、私にも異論はない」
「え…いや、ですけど…」
「もちろん、すぐに返答しろとは言わない。こちらとしても、考えあぐねているような状態でね…と言うのも、確かにキスレブにミシェルを出向させれば、キスレブ情勢との関係は円滑になるだろうが、それに伴いアヴェでの人事が心許なくなる。君の後釜に据えるほど有能な人材が、まだ育っていないような現状だからな」
半分以上リップサービスだろうと思いながらも、憧れている上司からそこまで言って貰える事に、ミシェルは感動していた。けれどやはり、目の前に提示された将来図は唐突に過ぎて、的確な判断が下せそうもない。
「よく考えて欲しい。キスレブに行くならば、間違いなく君のスキルアップにはなる。だが、アヴェでもまだ、君という人材を必要としていることは事実だ。全ては君の判断に任せるよ」
「は…はい…」
胡乱に頷くと、ミシェルは細い面を僅かに俯かせて黙考した。そんな彼に、バルトがところで、と切りかかる。
「もし、キスレブに行くとしたらな、ミシェル」
「え?」
きょとん、と顔を上げた青年に、バルトは遠慮なく爆弾を投下した。
「ちゃんと、キュランとの関係を大っぴらにして、熱愛宣言の一つや二つブチかましてけよ」
「は…はぁあ!?」
「当たり前だろ。何年帰ってこれねえと思ってんだ、馬鹿」
呆れたようなバルトの言葉に、ミシェルは目を白黒させる。それからは、と我に返った。
「な、何年ですか?」
「少なく見積もって、3年」
「さ…」
「せっかくキュランがアヴェに来たってのに、また遠距離ってのも気の毒だがな。そのためにも、ここらでお前、腹くくれ」
ぽん、と手渡された決定権に、ミシェルは慌てる。
「は、腹くくれって…な、何をですか?」
ほとんど言わずもがなのミシェルの問いかけを、バルトはふっ、と鼻で笑う。意地の悪い彼の余裕に、ミシェルは瞬く間に耳まで赤く染め上げた。
「あぁ? 何を? 何をってお前…まさか取る責任も取らねぇで、バックれようってんじゃねぇよな?」
「あ、あの…」
「若、それでは単なるチンピラです」
冷静に突っ込んで、シグルドが咳払いをする。悪乗りする主を嗜めるかと思いきや、こちらもまた、男性的な美貌を優雅に笑ませて追い討ちをかけてきた。
「だが、若の言うことも一理。ちょうど良い機会と言うのは多少不謹慎かもしれんが、このあたりで自分の身の振り方を考えるのも悪くはないぞ」
「はあ…」
「まどろっこしいな。つまりあれだよ、お前、さっさとキュランと婚約しちまえ」
「っ!」
まったくためらいなくバルトが言い切ると、途端ミシェルの顔面が硬直した。14・5の子供ですら、ここまで初々しい反応は返さねえぞオイ、と、バルトは無言で頬杖をつく。
「あ、あの…その、えぇと…」
もぞもぞと不明瞭な呟きを返しながら、冷や汗をかくミシェルに、アヴェ主従はちらりと隻眼を見合わせた。
「…なあ、ミシェル。お前ら、ホントのところはどうなってんだよ」
「え?」
「つまり、自分達の将来について、明確なビジョンを話し合う機会などはあるのか?」
「要するに、結婚しようぜ、って感じの流れとか、あるんだろ?」
畳み掛けるような主従の問いかけに、ミシェルは困ったように眉を寄せた。それから、いささか少女めいた長い睫毛を伏せて、う~んと黙考する。
その反応に、バルトが盛大な溜息をついた。
「まぁじかよ? お前なあ…イイ歳こいて、何ちんたらやってんだ。んなことじゃ、トンビにアブラゲ掻っ攫われるぞ」
「トンビ…?」
ふと顔を上げたミシェルに、バルトはこの上なく意地悪く笑う。
「キュランがアヴェに来て一年…官邸内の独身男の間じゃ、エライ人気だって話じゃねえか。あれだけ仕事が出来て、しかも美人で、さらに気立てもいいってなりゃ、ほっとく馬鹿はいねぇよな」
「若…」
嗜めるシグルドの声が震えている。煽るようなバルトの言葉に、ミシェルの顔色がまるでリトマス試験紙のように青く染まっていく様を見て、彼は笑いを堪えるので精一杯だった。
ここまで正直な反応は、官僚してはどうかと思うが、彼の憧れの上司である大統領その人だとて、プライベートのこととなるとまるで本心垂れ流し状態なのだから、もはやこれはアヴェのお家芸かと諦めつつ、シグルドは苦笑じみた笑みを向けた。
「聞けば、二人の関係はあまり公になっていないようじゃないか。宣伝して歩けと言うわけじゃないが、牽制の必要がないほど、彼女が魅力的ではないとは思えないがね」
「はあ…その、ぼ、私としては、別に誰にはばかる必要もないって思っているんですけど、キュラン…彼女の言い分としては、やっぱり同じ官邸内で仕事をする上で、プライベートはプライベートとして割り切るためにも、出来るだけ大っぴらにせずにいた方がいいという考えで…」
ぼそぼそと答えるミシェルに、バルトは軽く溜息をついた。彼の金の髪が、ゆったりと頬の傍で揺れる。
「その気持ちもわからねぇじゃねえけどなあ。今更、お前らがデキてようがいまいが、仕事に支障をきたすようなタマじゃねぇだろ、キュランも、お前も」
「恐らく、彼女なりのけじめか…もしくは、照れ隠しかもしれませんね」
クス、と苦笑して、シグルドが呟く。ミシェルも肩を竦めるように、柔らかく微笑んだ。
「だと思います」
「それをすんなり受け入れてる、お前もお前だぜ。とことんキュランに勝てねえな」
改めてしみじみ言われて、ミシェルは乾いた笑いを浮かべる。その辺は、あまり人のことを言えないような気がするんですけど…などとは、大統領フリークのミシェルには口が裂けても言えない台詞だ。
「まあ何にせよ、だ」
和みかけた場を引き締めるように、バルトはことさらしかつめらしく、ミシェルを見やって言い放った。
「よくよく、キュランとも相談するんだな、今回の件。いつまでもうやむやにしてんじゃねえぞ」
「は、はい」
頷いて、ミシェルは自分が今置かれている立場を改めて思った。それからゆっくりと、バルトとシグルドを見やる。
「どうした?」
「いえ…なんでもありません。それでは、私はこれで」
小さく首を振り、ミシェルは一礼した。そのまま退出する細身の彼を見送り、バルトは執務机に肘をついて眉根を寄せる。
「…どう出るかな」
「さあ…。どちらにせよ、彼にとっては正念場ですね」
銀の髪をさらりと流し、シグルドが主を見やった。ここ数年、大統領と言う重責が引き締めた彼の精悍の横顔が、子供じみた寂寥を浮かべているのに気づき、微苦笑する。
「キスレブへの出向は、間違いなくミシェルのためになりますよ」
「…なこた、わかってる」
低く答えたバルトに、シグルドがやれやれと肩を竦めた。拗ねた主をどう宥めようかと思案する前に、執務室の扉が軽く殴打されて、返答を待たずにするりと扉が開く。
「今、ミシェルが出て行くのが見えたよ」
柔らかな笑みを浮かべながら、マルーがこちらへやってきた。彼女自身、大教母としての政務から戻って早々らしい、僅かに疲労の色を見せる表情で、夫の顔色を伺う。
「若? どうしたの、機嫌悪いの?」
頬杖をつくバルトの元にやってくると、苦笑しているシグルドと彼を交互に見やって、軽く肩を竦めた。
「…例の話、したんだ? それでどうしてむくれてるのさ」
「むくれてなんかいねえよ」
「嘘ばっかり」
苦笑するマルーに、シグルドが下駄を預ける。
「それでは、マルー様、若の事をよろしくお願いいたします。充分慰めてさしあげて下さい」
「あのなあ、シグ。俺は別に、なんも落ち込んでなんか」
言いさしたバルトには構わず、シグルドは優雅に一礼して部屋を辞した。聡すぎる右腕の配慮に、バルトは子供のような不機嫌さを隠しもせず、舌を打つ。
そんなバルトを傍らから覗き込むようにして、マルーはくすくすと小さく笑った。
「寂しい気持ちもわかるけどさ、シグに当たったって仕方ないよ」
「寂しくなんかねーっつーの」
「そーお?」
小首を傾げて、マルーはバルトを窺う。椅子の背もたれに体重を預け、肘掛に肘をついてぶすくれる夫に、マルーはしょうがないなあと肩を竦めた。そしてそのまま、ひょいとスカートの裾を払い、バルトの足の上に横乗りになる。
ちらりと自分を眺めたバルトの、よく日に焼けた顎をついとこちらに向けて、マルーは優しい唇を、その頬と瞼に数度寄せた。慰めるようなその温もりに、バルトは悪い気がせずされるがままになる。
夫の首に腕を絡ませて、マルーが悪戯っぽく囁いた。
「機嫌直った?」
「…だーから。なんも機嫌悪くねーってのに」
「じゃあ、やめる?」
「……」
くすくすと笑うマルーの腰を引き寄せ、バルトはぶっきらぼうに唇を合わせた。何度か啄ばむようにその柔らかさを堪能すると、こつんと額を合わせて、静かに囁く。
「…あいつは俺にとっちゃ、弟みたいなもんだからよ」
「…うん」
優しく、マルーがバルトの後頭部を撫でた。ゆっくりと、かさついた金の髪を労わるように上下する手の平に、バルトは心底から安堵する。
「寂しくなるね」
「…そうだな」
素直に答えたバルトに、マルーは再び唇を寄せた。
「…じゃあ、寂しくないようにする?」
「ん?」
至近距離で、互いの碧玉を覗き込み。
「二人で寂しいなら、三人になろうか…?」
そう言って嫣然と微笑む妻に、バルトは一瞬虚を突かれたようになり、それから柔らかいその身体を抱き寄せて、イイ考えだ、と囁いた。