MAY I ASK A FAVOR OF YOU?
繁忙、と言う言葉は、間違いなく今の自分のために作られたのだと、ミシェル・シナモンは強く確信していた。
「シナモン補佐官! パウロ司教が祝賀の打ち合わせにお見えです」
「あーっと、それはザダック補佐官が兼任してらっしゃるから、そちらに通して! 第5会議室」
「シナモン補佐官、来賓の方々のご宿泊について、2、3確認したいことがあると管理官の方から要請が」
「えぇ? んー、じゃあ君、ちょっとお話だけ伺ってあとで報告して! 資料は熟読したね?」
「はい」
「問題点があれば速やかに照らし合わせて。あっ、それから、キスレブの来賓数に変動があった旨は、管理官の方に報告は済んでるから、あわせて確認よろしく」
「承知しました」
「補佐官、当日パレードの警備の件で、警邏長から確認要請があります」
「それはラウル長官に一任してるから! 今の時間だと第三会議室で正教担当と打ち合わせしてると思う、お通ししてっ」
くるくると忙しなく立ち動きながら、ミシェルが的確な指示を飛ばして行く。両手では足りないほどの様々な質問や確認が迫る中、小作りな頭脳は驚くほど正確な対応を返すため、ついつい誰もが彼を頼ってしまい、結果委細構わず全ての情報と決定権が彼の元に集う。
そんな生活を、一月近くも続けていれば、必然彼の有能ぶりは人の口の端にのぼり、着実にキャリアとなることを、果たして無我夢中のミシェル青年が気づいているかは定かではない。
彼はただ、与えられた仕事と、何故だか押し付けられる雑事と、人々の様々な要望や懇願や相談や不満を、着実にこつこつとこなしていく事だけに従事していた。
その状況を、呑気に高みの見物を決め込む人物は、やれやれと肩を竦めた。
「つまらんな…多少蒙昧する方がしごきがいがあるというのに」
「お兄さま、人非人ですわね、相変わらず」
宮廷仕様の卒のない優雅さで、兄の執務机にことりと紅茶を供した少女が、軽くため息をつく。実際は、少女というには少々薹の立った年齢なのだが、小柄で華奢な作りや、あどけない悪戯っぽさの勝る幼い容貌から、まだ十代の半ばにすら見える愛らしい妹を冷めた目で見やり、艶やかな黒髪をかきあげながら彼は答えた。
「『ミシェルはあたふたしているくらいが可愛くてイイ、お兄さまもっといぢめてさしあげて』と、臆面もなくのたまった女の言とは思えんな、シャンティ」
「あら、だって本当に、ミシェルってば混乱するとすごくキュートな顔になるのよ? なんていうか…ついつい、足でも引っ掛けて転がしてあげたくなっちゃうわ」
途端、優雅と上品が裸足で逃げ出す。自分の執務室だからと、油断して地を出した妹を眺めやり、アレクシス・レブルックはふうん、と呟く。
「わからなくはないが、シャンティ。俺なら転がした上に踏み潰してやりたくなるよ、あの女じみた可愛い顔をな」
「兄さまってばほんっとう~~にいぢめっ子ねえ。そう思わない?」
「…こちらに振らないでいただける? ミス・シャンティ」
兄妹の不穏当な会話を、極力意識の外に押しやろうとしていた女性が、水を向けられて不機嫌そうにため息をつく。
アレクシス・レブルック官房長官の執務室を、丁寧に揃えられた資料を手に訪れていた、ニサン正教アヴェ国支部ウェルス対策室副室長の任にある彼女は、品の良い姿勢で紅茶のカップを傾け、唇を潤してから再び視線を兄妹に向けた。
「でも、本当に余裕でいらっしゃいますね、長官。記念式典は明日に迫っているというのに」
「お言葉だがね、シスターヒューイット。私が為すべき職務は完遂しているのだよ。責任者は責任をとるためにいる。その他の雑事は、私の有能な部下たちに一任される。正しいヒエラルキーではないかな?」
「ミシェルは、あなたの直轄部下じゃないでしょう。なのになんで、あいつがあなたの尻拭いに奔走してるわけ?」
再び、優雅が逃げ出した。
かちゃん、と紅茶のカップをソーサーに戻し、キュラン・ヒューイットが深緑の瞳をきつく眇める。その視線に、アレクシスが声もなく笑った。
「これは心外。別に俺の尻拭いをさせているわけじゃないが」
「なら、官房はよっぽどぼんくら揃いなのね。自分達の仕事も満足に出来ないで、補佐官にそのしわ寄せが来てるんだから」
「補佐官僚に仕事を押し付けた事実はないぜ」
「じゃあ、ミシェルのあの忙殺ぶりは何なの? あれほとんど、補佐官職務じゃないでしょ、知ってるのよ」
「ほう。それはまた事情通なことだな。大方ミシェルが泣きついたか?」
にやりと酷薄に笑うアレクシスに、キュランはますます眦を吊り上げた。それからばん、と手にしていた資料をテーブルに叩きつける。
「馬鹿にしないで! そんなことするわけないでしょ、ミシェルが!」
「だろうな。泣きつこうにもシスターヒューイット、君も随分と過重労働だと聞くぞ。先日は倒れたって?」
「っ」
唐突に、痛いところを突かれた。キュランは思わず絶句して、大きく瞳を見開く。勝ち誇ったアレクシスの憎らしい微笑みの隣で、シャンティが軽く「ゴメン」と言うように手を合わせていた。その瞬間、ニュース・ソースが明らかになり、溜め息が出る。
「…大したことないわよ、倒れたなんて大げさ。ただちょっと立ちくらみを起こしただけじゃない」
「ただちょっと…ね。おかげで聖堂のオブジェが道連れになり、数箇所破損されたという報告があるが?」
「何で聖堂の破損報告があんたのところにくるのよっ!?」
「蛇の道は蛇。ニサン正教アヴェ国支部の動向は、細大漏らさず承知するのも官房長官の仕事でね」
「…っ、相変わらず、いい性格だわあんたって」
「お互い様と言っておくよ」
軽口を叩き合ったあと、アレクシスの紫紺の瞳がすいと細められた。
「それで。医師には診せたのか」
「…だから、大げさにしないで。本当に大したことないんだから。余計なことは言わないでよ」
誰に、とは言わず、キュランは強気に結んで立ち上がる。清楚な僧服の裾をさばき、軽く睨むようにアレクシスに対峙した。
「それからね、アレク。あんまりミシェルを苛めるもんじゃないわよ。あいつ、逆境に強いのがとりえなんだから、どんどん実力つけちゃうだけよ。お生憎様ね」
「…ご忠告痛みいるよ」
「それはよかった。では、ご機嫌よう」
にっこりと、対外的な営業スマイルを浮かべて、キュランは颯爽と執務室を出て行く。パタン、と軽い音を立てて扉が閉まると、アレクシスが椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。
「俺はすっかり悪者だな」
「お似合いよ、兄さま」
「フン…それよりも、アレはほっといていいのか、シャンティ」
くすくすと笑う妹に、アレクシスはじろりと視線を向ける。華奢な肩を滑る黒髪を背に払い、シャンティは大人びた微笑みを浮かべた。
「今のところは大丈夫だと思うけど、念のためあとで医者に連れて行くわ。あの子ったら、忙しいとろくに食事もとらないんだもの、不摂生がたたったのよ」
「健康管理も仕事のうちだと、そうだな…大教母あたりに説教してもらえ。一番効果的だろう」
「そうね。兄さまが親切ごかして言うよりよっぽど効果ありだわ。それよりも、ミシェルの方は平気なの? あっちだって過重労働もいいところでしょう」
過労死なんて洒落にならないわよ、と軽口を叩く妹に、アレクシスは薄い唇を笑みの形に歪めながら呟いた。
「あれくらいで音を上げるようなら、お呼びでないんだよ。まあそれを、あいつが望もうが望むまいが、知ったこっちゃないがな…」
その笑みに、シャンティは肩を竦めた。本当に、これほど悪役が似合う兄を持つと、苦労するわ…と、他人事のように思いながら。
砂漠の大国アヴェの初代大統領と、ニサン正教大教母が無事に華燭の典をあげてから、一年の月日が経とうとしていた。
その間、両国が総力をあげて取り組んだウェルス種への対応制度も軌道に乗り、世界復興の速度は目覚しい進化を遂げた。遅れをとりつつあったキスレブ、シェバト等諸外国の国情も落ち着き始め、世界崩壊寸前という悪夢から数年とは思えないほどの順調な流れが生まれている。
そういう背景から、世界的な関心を集める行事として、バルトロメイ・マルグレーテ夫妻の結婚一周年の記念式典が催される事になったのは、ごく自然な成り行きであるといえた。
それはあくまでもささやかであるが、けれど国をあげての一大イベントでもある。アヴェ、ニサン両国の首脳陣は一丸となってその晴れがましいイベントに臨む体制を作り上げた。
そうなってくると、当然個々へ課せられる仕事の量も多くなる。
立場が重要になればなるほど、課せられた責任も大きい。それは、すでに見習いの立場から正式な大統領補佐官に抜擢されていたミシェルが痛感する事実であり、また望むところでもあった。
「ふう…」
ようやく、引きも切らない雑事から解放されて、ミシェルはため息をつく。明日へと迫った式典の、大まかな段取りは水も漏らさぬ周到さで進められているが、その他細々とした諸準備は、刻一刻と増える一方だ。
不測の事態に対応できる、臨機応変の決断力。ミシェルが補佐官として頭角を表し始めた頃から、この能力に対する評価は高かった。だからこそ、今回の式典における事前準備の統括を任されたのだ。
大統領、直々に。
便宜上の執務室として与えられた個室で、ミシェルはごりごりと嫌な音を響かせながら肩を回す。ここ一ヶ月、ほとんど机にかじりつきっぱなしであり、官邸敷地内にある独身寮にすらまともに帰っていない現状だ。
当然、プライベートの時間など一切ない。ゆえに、もちろん会っていない。
一ヶ月以上。
ちらりとも。
「…はァ」
先ほど以上に重苦しいため息をつきながら、ミシェルはそろりと執務机の上の引出しを開けた。普段は施錠できるそこには、綺麗好きで整頓上手のミシェルとは思えないほど書類が散乱した机上とは打って変わって、たった一枚のポートレートだけが上品に納められている。
そこに映るブロンズグレイの髪に指を滑らせ、ミシェルは疲労で霞む視界を瞬かせた。
とりあえず今は、温度も感触も匂いも音も一切ない、平面状の彼女を見つめるだけで我慢する。
この繁忙の嵐が過ぎるのは、もう目の前のはずだから。
「キュウ…元気かなぁ…会いたいなあ…」
厳密に言えば、キュランもミシェルも、同じ敷地内に起居している。と言っても、それぞれの居住区も職場も、広大な面積の両端にあるため、会おうと思って気軽に会えるわけでもなかったが、少なくとも遠い異国の地に離れ離れになっていた過去を思えば、なんと近しい距離であろうか。
ミシェルが式典の準備を任された大任に就くまでは、それでも週に一度は時間を作り、お互い多忙であるから、蜜月とまではいかないが、ミシェルが清水の舞台から飛び降りるような覚悟で発展させた関係は、一歩一歩確実に、幸せへ向かって進んでいる気がする。
ミシェルはもう一度、ポートレートを慈しむように眺めた。半ば無理やり写し取った彼女は、気の強い瞳を僅かに反らして、細い眉を軽く寄せている。薄桃の唇を尖らせ、子供のように不機嫌を露にしている愛しい恋人に、疲れきったミシェルの神経がやわやわと癒される。
なんとお手軽なことだと、恐らくその場に誰かがいたら感心するであろうミシェルの純情な所作は、こんこん、と軽快に響いたノックの音で統制を欠いた。
「ぅわっ? はははっい!!」
慌てて、ミシェルはポートレートを引き出しに仕舞う。その際、誤って指を強く挟んでしまって涙が出たが、辛うじて扉が開く前に体裁は整えた。
「失礼します」
入室してきたのは、今年官邸入りしたばかりの若い女性官僚。短く切り揃えられた髪は、耳の辺りだけやや長めに伸ばされ、すらりとした長身とスマートな物腰から、まるで美少年と言っても差支えがない。
「お休み中のところ失礼いたします、シナモン補佐官」
「いや…大丈夫だよ、ナシュカ調査官」
慎重に引出しに鍵をかけながら、ミシェルが答える。ナシュカと呼ばれた女性官僚は、無駄を感じさせない動きで数歩前に出た。軍人のような足取りだった。
「先ほどの件、管理官との調整が取れました。シナモン補佐官の示唆した通り、やはり余分に部屋を確保した方が確実とのことです。宿泊施設との連携は、ナサニエル管理官に一任いたしました」
「ありがとう」
「それから、ニサン法王府より要請がありまして、今回お迎えするキスレブ共和国議長との会談の場を、近く持ちたいとのことでしたが」
「えぇ? あーっと、それは官房の管轄だなあ…長官に報告してくれる?」
さすがに、何でも屋といえ越権行為であると苦笑したミシェルに、ナシュカは顔色を変えず即答した。
「これはレブルック長官より直接の通達です」
「はぁ?! って、まさかまたこっちに押し付けるつもりなわけ!? ちょっと待ってよ、アレク長官~…」
ずるずる、と執務机に突っ伏して、ミシェルが情けない声をあげた。仮にも上司であるミシェルの子供じみた様子は歯牙にもかけず、ナシュカが冷たいアイスブルーの瞳を手にした紙面に向ける。
「委細はこちらに。後ほど、ニサンより担当者がお越しになるとのことです」
「後ほど? って、待ってよ、今はそれどころじゃ…」
「夕食前のご休憩を、打ち合わせに当てております」
「…僕に過労死しろっての?」
「長官が、シナモン補佐官ならできると、胸を張っておられました」
「無責任過ぎるよッ!!」
「そのように報告しておきます」
「…ナシュカ、もうイイ、もういいから…ちょっと独りにしてくれる?」
「それでは、打ち合わせの時間になり次第お迎えに上がります」
理想的な角度で頭を下げて、ナシュカはつかつかと退出した。その卒のない背中を呆然と眺めやって、ミシェルは独りごちる。
「…やっぱ、似てるなぁ…血も涙もない仕事っぷりとか…」
微かなミシェルの呟きに、扉を閉めかけたナシュカが「何か?」と問いかける。ミシェルは慌てて首を振り、ご苦労さま、と笑った。ナシュカは一礼して、静かに扉は閉まる。
彼女のいなくなった空間に目を向けて、ミシェルはため息をついた。
怒涛のような忙しさを見越してか、ミシェルが式典準備の統括に据えられると同時に、彼の補佐にと抜擢されたのが、ナシュカ・バークレー調査官だった。
元は、ウェルス種管轄の調査室に配属されていた彼女は、その高いポテンシャルを認められ、僅か一年足らずで今回の大任をもぎ取った実力者であり、しかも若干十八歳という若さに似合わぬ冷静な仕事振りと端正な容姿から、官僚内では二代目クールビューティーとの呼び声も高い。
そんな事を思いながら、ミシェルは栄えある『初代クールビューティー』と称された恋人の事を思って、再び表情を緩めさせた。
今のナシュカは、丁度二年程前のキュランを思わせる。勤勉で、有能で、少し融通が利かないところまでそっくりだ。
だからというわけではないが、ミシェルはナシュカを気に入っていた。彼女は本当に有能だったし、そんな彼女を自分の下につけたアレクシスの思惑も何となく想像ができる。
着実に人材が育っていくのは、政権が安定している証拠であり、国が潤う前兆だと、大統領が嬉しそうに語った事を思い出して、ミシェルは面映いような苦笑を浮かべた。
一歩一歩確実に、ミシェルは官僚としての力をつけていった。三年前、右も左も解らずに、ただ大統領を慕って、彼の手足となるため無謀にも官邸に乗りこんできた少年は、いつしか国の要に近い位置まで登り付めてきている。
それは彼の若さの賜物でもあり、天性の才覚の発芽ともいえた。ミシェルの昇進が目覚しければ目覚しいほど、彼を抜擢した大統領の先見の明も賞賛される事となり、ますますミシェルのやる気に火がつく。
所詮、何年経っても大統領フリークである事実は変わらないのが、ミシェルの長所であり短所でもあった。
何故ならば、彼は盲目的に大統領に従うあまり、大切な恋人との時間さえも、やむなく犠牲にしてしまえるのだから。
とは言えそれは、当の恋人も同じことであり、彼らは結局のところ、甘い恋愛とは無縁の生活に慣れきっているのであった。
「…それも問題だと思うけど…」
ふと呟き、ミシェルは椅子の背もたれに体重を預ける。柱時計を確認すると、恐らく打ち合わせの時間まであと数十分はあるはずだ。
その短い時間に、ミシェルは思う存分恋人の事を思う。思春期の子供じみた恋愛の仕方に、彼は自分たちらしいなと苦笑するしかなかった。
と、その時、再び扉が殴打された。思い描いたキュランの残像を打ち消すように、ミシェルは背もたれから起き上がり、どうぞ、と答える。また何か、ナシュカが雑務を押し付けに来たとばかり思っていたので、それは酷く無愛想に響いてしまった。
すると、ゆっくりと開かれた扉の向こうから、苦笑じみた声が届いた。
「…お邪魔します、ミシェル。今いいかな?」
「……っ!? だ、大教母様!?」
思いもよらない来客に、ミシェルは慌てて立ち上がる。あまりに驚いてしまって、そのまま椅子は背後に蹴倒されてしまい、耳障りな音が響いた。
「あっ…」
「あーあ、大丈夫? そんなに驚くとは思わなかった…ごめんね?」
くす、と苦笑して、まるで少女のように可憐に小首を傾げる。出会った頃からなにも変わらない、そのもの柔らかな仕草に、ミシェルは今更ながら緊張していた。
「い、いえ…。こちらにお渡りとは珍しいですね、何かありましたでしょうか?」
動揺を収めるために、思わず格式ばった言葉を出せば、案の定マルーは少しむくれる。
「ミシェルってば、ちょっと会わないうちにすっかり官僚っぽくなったね? …じゃあ私も、大教母として楚々たる言葉を用いなければなりませんか?」
後半は、わざと『大教母仕立て』の優雅さでからかったマルーに、ミシェルは決まり悪げに頭をかいた。
「あ、いえ…どうかいつも通りでお願いします。すみません、なんだか久しぶりだったので、緊張しました」
「ふふっ、でも本当、久しぶり。今回の式典準備は、ほとんどミシェルが仕切ってるって聞いたけど…大丈夫? 無理してるんじゃない?」
言いながら、マルーが心配そうにこちらにやって来る。ミシェルは慌てて執務机から回り込み、略式のソファへ促した。
「いいえ、大丈夫です。こんなところじゃ、大したお持て成しも出来ませんが…どうぞかけてください。コーヒーとか、あったかな…」
「あ、いいの。すぐに戻らなくちゃいけないから…この階の端で、今、ボクたちも打ち合わせしていたの。若がごねて休憩になったから、丁度いいと思って様子を見に来たんだ」
あっけらかんと言いながら、マルーは手をかざしてミシェルを向かいのソファに促す。
「ちょっと、ミシェルとお話したいことがあって」
「はあ…」
訝しむようにしながら、ミシェルは素直にソファに座った。思えば、大教母様だって明日の式典に向けて目の回る忙しさのはず。そんな中、わざわざ時間を見つけて自分に会いに来るなど、何か重要な用事でもあるのだろうか。
そんな事を思って身構えたミシェルに、けれどマルーはもの柔らかく微笑んだ。
「そんなにかしこまらなくていいよ。これは多分、おせっかいに近いと思うから」
「え?」
「あのね、ミシェル、最近キュランと会ってる?」
「は!?」
思いがけない単語に、ミシェルは高い声を上げる。はっとして口を押さえた彼に、マルーは僅かに肩を竦めた。
「ボクが言うのもなんだけどさ…なんだか二人とも、大分忙しくしてるみたいだから、心配になっちゃって。ふたりが仕事に追われてる元凶は、ボクたちのせいなんだけどね」
「い、いえ、そんな…僕もキュランも、大教母様たちのために働く事が本望なんですから、お気遣いはいりません」
きっぱりと答えて、ミシェルが眉を下げる。
「確かに今、あまり会う時間は取れてませんけど…でも、ひと段落つくまでの事です。僕もキュランも、自分達の優先事項はわきまえてますから、本当に心配しないで下さい」
「優先事項…か」
ぽつり、とマルーが呟く。それから、肩口を滑る茶褐色の髪をやんわりと背に払い、ひとつ吐息を漏らした。
「ねえ、ミシェル…。確かに、自分たちに任せられた責任や仕事は大事だよ。だけど、それを免罪符にしちゃいけないんじゃないかな」
「え…?」
「お互いの事を信頼しあうのは素敵なことだよね。だけど、全部が全部予定調和で、分かり合える関係なんて、ありえないよ」
「……」
マルーの言葉に、ミシェルは少し、返す言葉を失った。
マルーの言いたいことはわかる。けれど、他の誰でもない、目の前の彼女こそが、互いに信頼し合い、完璧に分かり合える相手と結ばれているはずではないのだろうか。
そんな疑問が顔に出たのか、マルーはミシェルを見つめたまま、苦笑じみた笑みを浮かべた。
「…あのね、ボクと若だって、完璧にお互いをわかってるわけじゃないんだよ?」
「え? でも…」
今では、アヴェ国いちの鴛鴦夫婦と賞される大統領夫妻の絆は、恐らく他の追随を許さないほど揺ぎ無いものであると、ミシェルは確信する。そこに至るまでの、決して平坦ではない道程などおくびにも出さないように、彼らは確実に幸せの道を選び進んでいた。
するとマルーは、大きな碧玉の瞳をやんわりと細めて、まるで子供を諭すような仕草で、ミシェルの瞳を見つめて言った。
「確かに、普通の人よりは、分かり合えてるかもしれない。でも、それでも、やっぱり言葉って欲しいよ。いつも会いたいって思う。どんなに近づいたって、所詮違う人間同士なんだもの。ここまでわかってればもういい、なんて、満足出来ないよ、きっと死ぬまで」
「…大教母様でも、そんなこと思うんですか…」
何となく、彼女と大統領の間に流れる空気は独特で、すでにそんな願いをかけなくとも、充分に繋がりあえていると思っていたために、その言葉には純粋に驚いた。マルーは悪戯っぽく笑って、ぽかんとしているミシェルを軽く睨む。
「ボクでもって、なに? あのね、ミシェル。どんなに物分りのいい人間でも、ひとつだけ、仕方がないことがあるって言ったのは、ミシェルでしょ?」
「え?」
「好きな人には好きでいて欲しい…それと同じ。好きな人のことだもん、どこまでわかってたってまだ足りない。言葉がなくたって信頼し合えるけど、言葉があったらなお嬉しい。…違う?」
「…ハイ」
微かに、頬を染めて。二年前とは見違えるほど、大人びた表情でミシェルが頷いた。
マルーは満足そうに頷いて、時計を見やる。いっけない、と少女のように舌を出し、優雅に立ち上がった。
「そろそろ戻らなきゃ、若に怒られちゃう。じゃあね、ミシェル。忙しいところに来てごめんなさい、でも、ホントに無理しないでね」
「はい、ありがとうございました、大教母様」
立ち上がり、爽やかに笑うミシェルを見上げて、マルーはふと沈黙する。真っ直ぐに、その大きな碧玉に見据えられて、ミシェルは条件反射で赤くなった。
「あ…あの? 何か…」
その好もしい純真さに、マルーの表情が和らぐ。彼女は何かを確信するように、軽く頷いた。
「…ミシェル、キュランをお願いね?」
「え? …はい、お任せください」
僅かに照れ臭そうに、けれどミシェルは胸を張って頷いた。マルーは嬉しそうにそれを受けて微笑む。花のように穏やかで、慈愛に満ちた眼差しだった。
そのまま退室したマルーの余韻に浸るように、ミシェルは長い吐息をつく。何がどう変わったわけではないのだけど、まるで自分が大層な偉業を成し遂げたような充足感があった。
そのまま機嫌よく柱時計を眺めやれば、そろそろ打ち合わせの時間であると気づき、やにわにやる気が出る。我ながら単純すぎるかと苦笑していたところへ、ちょうどよいタイミングのノックが響いた。
「ああ、今行くよ、ナシュカ」
そう返すと、扉は一瞬躊躇したように間を空けて、次いでゆっくりと開かれた。そこに立っていたのは、卒のない有能な部下ではなく、初めて見る顔の、小柄なシスターだった。
「あの、失礼いたします…っ」
「あ…失礼、お客様でしたか。何かご用ですか?」
早合点を苦笑しながら、ミシェルが穏やかに問い掛ける。執務室の扉を開けたはいいけれど、どうにも緊張しているような初々しいシスターの様子に、数年前の自分と重なる部分を見つけて、微笑が浮かんだ。
けれどシスターは、小作りな童顔を僅かに強張らせて、あの、と声を震わせる。
「私は、ニサン正教アヴェ支部ウェルス対策室所属の、シスター・エセル・モーガンと申します。あの、実はこの後、シナモン補佐官との打ち合わせを予定しておりましたシスターが、急に来られなくなってしまいまして、そのご連絡に窺いました…」
子供の遣いのようなたどたどしさに苦笑を覚えながら、ミシェルはそうですか、と鷹揚に頷く。
「解りました。では、後日改めて機会を設けましょう。担当シスターのお名前は?」
穏やかなミシェルの様子に、シスターモーガンは目に見えてほっとしていた。淡い微笑さえ返しながら、ミシェルを見上げて素直に答える。
「はい、ウェルス対策室副室長の、シスターヒューイットです」
「え?」
途端、ミシェルの顔色が変わる。その変化に、シスターモーガンは再び、愛らしい顔を引きつらせた。
「あのっ、あの、なにか?」
「いや…それで、シスターヒューイットは何故、打ち合わせに来られなくなったのですか?」
表面上は穏やかに、けれど真っ直ぐシスターモーガンを見据える瞳には、先ほどまでの優雅な様子は見当たらない。シスターモーガンは条件反射的に謝った。
「す、すみません、詳しいことは私にも…あの、シスターヒューイットがお倒れになって、すぐにこちらに遣わされたもので…」
「倒れた? 倒れたって、キュランが!? …っそれで、今どこに!?」
「えっ、あの、あの、すみませ~~ん、案内してくださった女性の方にお任せしてきましたので、私にも…」
ほとんど掴みかからんばかりのミシェルの様相に、シスターモーガンは子供のように泣き出してしまった。それにはっと我に返って、ミシェルはああ、と自分の前髪をかきあげる。
「ごめん、君のせいじゃない! 案内してくれた女性…ナシュカ調査員だね、彼女に?」
「は…はい…あの、私、まだ見習で、今日はシスターヒューイットのお手伝いのためにご一緒させていただいてて、それで…」
「うん、うん。わかった。じゃあ、君はこのまま支部へ戻って、室長に報告して。シスターヒューイットは、アヴェの医療班が預かりますって。出来るね?」
「は、はいっ…」
シスターモーガンが頷くのを確認するや否や、ミシェルは風のように彼女をすり抜け、部屋を出て行った。その後ろ姿を泣きべそをかきながら見送って、シスターモーガンは気合を入れなおしたように涙を拭い、パタパタとニサン正教アヴェ支部へと急いだ。
「シナモン補佐官! パウロ司教が祝賀の打ち合わせにお見えです」
「あーっと、それはザダック補佐官が兼任してらっしゃるから、そちらに通して! 第5会議室」
「シナモン補佐官、来賓の方々のご宿泊について、2、3確認したいことがあると管理官の方から要請が」
「えぇ? んー、じゃあ君、ちょっとお話だけ伺ってあとで報告して! 資料は熟読したね?」
「はい」
「問題点があれば速やかに照らし合わせて。あっ、それから、キスレブの来賓数に変動があった旨は、管理官の方に報告は済んでるから、あわせて確認よろしく」
「承知しました」
「補佐官、当日パレードの警備の件で、警邏長から確認要請があります」
「それはラウル長官に一任してるから! 今の時間だと第三会議室で正教担当と打ち合わせしてると思う、お通ししてっ」
くるくると忙しなく立ち動きながら、ミシェルが的確な指示を飛ばして行く。両手では足りないほどの様々な質問や確認が迫る中、小作りな頭脳は驚くほど正確な対応を返すため、ついつい誰もが彼を頼ってしまい、結果委細構わず全ての情報と決定権が彼の元に集う。
そんな生活を、一月近くも続けていれば、必然彼の有能ぶりは人の口の端にのぼり、着実にキャリアとなることを、果たして無我夢中のミシェル青年が気づいているかは定かではない。
彼はただ、与えられた仕事と、何故だか押し付けられる雑事と、人々の様々な要望や懇願や相談や不満を、着実にこつこつとこなしていく事だけに従事していた。
その状況を、呑気に高みの見物を決め込む人物は、やれやれと肩を竦めた。
「つまらんな…多少蒙昧する方がしごきがいがあるというのに」
「お兄さま、人非人ですわね、相変わらず」
宮廷仕様の卒のない優雅さで、兄の執務机にことりと紅茶を供した少女が、軽くため息をつく。実際は、少女というには少々薹の立った年齢なのだが、小柄で華奢な作りや、あどけない悪戯っぽさの勝る幼い容貌から、まだ十代の半ばにすら見える愛らしい妹を冷めた目で見やり、艶やかな黒髪をかきあげながら彼は答えた。
「『ミシェルはあたふたしているくらいが可愛くてイイ、お兄さまもっといぢめてさしあげて』と、臆面もなくのたまった女の言とは思えんな、シャンティ」
「あら、だって本当に、ミシェルってば混乱するとすごくキュートな顔になるのよ? なんていうか…ついつい、足でも引っ掛けて転がしてあげたくなっちゃうわ」
途端、優雅と上品が裸足で逃げ出す。自分の執務室だからと、油断して地を出した妹を眺めやり、アレクシス・レブルックはふうん、と呟く。
「わからなくはないが、シャンティ。俺なら転がした上に踏み潰してやりたくなるよ、あの女じみた可愛い顔をな」
「兄さまってばほんっとう~~にいぢめっ子ねえ。そう思わない?」
「…こちらに振らないでいただける? ミス・シャンティ」
兄妹の不穏当な会話を、極力意識の外に押しやろうとしていた女性が、水を向けられて不機嫌そうにため息をつく。
アレクシス・レブルック官房長官の執務室を、丁寧に揃えられた資料を手に訪れていた、ニサン正教アヴェ国支部ウェルス対策室副室長の任にある彼女は、品の良い姿勢で紅茶のカップを傾け、唇を潤してから再び視線を兄妹に向けた。
「でも、本当に余裕でいらっしゃいますね、長官。記念式典は明日に迫っているというのに」
「お言葉だがね、シスターヒューイット。私が為すべき職務は完遂しているのだよ。責任者は責任をとるためにいる。その他の雑事は、私の有能な部下たちに一任される。正しいヒエラルキーではないかな?」
「ミシェルは、あなたの直轄部下じゃないでしょう。なのになんで、あいつがあなたの尻拭いに奔走してるわけ?」
再び、優雅が逃げ出した。
かちゃん、と紅茶のカップをソーサーに戻し、キュラン・ヒューイットが深緑の瞳をきつく眇める。その視線に、アレクシスが声もなく笑った。
「これは心外。別に俺の尻拭いをさせているわけじゃないが」
「なら、官房はよっぽどぼんくら揃いなのね。自分達の仕事も満足に出来ないで、補佐官にそのしわ寄せが来てるんだから」
「補佐官僚に仕事を押し付けた事実はないぜ」
「じゃあ、ミシェルのあの忙殺ぶりは何なの? あれほとんど、補佐官職務じゃないでしょ、知ってるのよ」
「ほう。それはまた事情通なことだな。大方ミシェルが泣きついたか?」
にやりと酷薄に笑うアレクシスに、キュランはますます眦を吊り上げた。それからばん、と手にしていた資料をテーブルに叩きつける。
「馬鹿にしないで! そんなことするわけないでしょ、ミシェルが!」
「だろうな。泣きつこうにもシスターヒューイット、君も随分と過重労働だと聞くぞ。先日は倒れたって?」
「っ」
唐突に、痛いところを突かれた。キュランは思わず絶句して、大きく瞳を見開く。勝ち誇ったアレクシスの憎らしい微笑みの隣で、シャンティが軽く「ゴメン」と言うように手を合わせていた。その瞬間、ニュース・ソースが明らかになり、溜め息が出る。
「…大したことないわよ、倒れたなんて大げさ。ただちょっと立ちくらみを起こしただけじゃない」
「ただちょっと…ね。おかげで聖堂のオブジェが道連れになり、数箇所破損されたという報告があるが?」
「何で聖堂の破損報告があんたのところにくるのよっ!?」
「蛇の道は蛇。ニサン正教アヴェ国支部の動向は、細大漏らさず承知するのも官房長官の仕事でね」
「…っ、相変わらず、いい性格だわあんたって」
「お互い様と言っておくよ」
軽口を叩き合ったあと、アレクシスの紫紺の瞳がすいと細められた。
「それで。医師には診せたのか」
「…だから、大げさにしないで。本当に大したことないんだから。余計なことは言わないでよ」
誰に、とは言わず、キュランは強気に結んで立ち上がる。清楚な僧服の裾をさばき、軽く睨むようにアレクシスに対峙した。
「それからね、アレク。あんまりミシェルを苛めるもんじゃないわよ。あいつ、逆境に強いのがとりえなんだから、どんどん実力つけちゃうだけよ。お生憎様ね」
「…ご忠告痛みいるよ」
「それはよかった。では、ご機嫌よう」
にっこりと、対外的な営業スマイルを浮かべて、キュランは颯爽と執務室を出て行く。パタン、と軽い音を立てて扉が閉まると、アレクシスが椅子の背もたれに体重を預け、天井を仰いだ。
「俺はすっかり悪者だな」
「お似合いよ、兄さま」
「フン…それよりも、アレはほっといていいのか、シャンティ」
くすくすと笑う妹に、アレクシスはじろりと視線を向ける。華奢な肩を滑る黒髪を背に払い、シャンティは大人びた微笑みを浮かべた。
「今のところは大丈夫だと思うけど、念のためあとで医者に連れて行くわ。あの子ったら、忙しいとろくに食事もとらないんだもの、不摂生がたたったのよ」
「健康管理も仕事のうちだと、そうだな…大教母あたりに説教してもらえ。一番効果的だろう」
「そうね。兄さまが親切ごかして言うよりよっぽど効果ありだわ。それよりも、ミシェルの方は平気なの? あっちだって過重労働もいいところでしょう」
過労死なんて洒落にならないわよ、と軽口を叩く妹に、アレクシスは薄い唇を笑みの形に歪めながら呟いた。
「あれくらいで音を上げるようなら、お呼びでないんだよ。まあそれを、あいつが望もうが望むまいが、知ったこっちゃないがな…」
その笑みに、シャンティは肩を竦めた。本当に、これほど悪役が似合う兄を持つと、苦労するわ…と、他人事のように思いながら。
砂漠の大国アヴェの初代大統領と、ニサン正教大教母が無事に華燭の典をあげてから、一年の月日が経とうとしていた。
その間、両国が総力をあげて取り組んだウェルス種への対応制度も軌道に乗り、世界復興の速度は目覚しい進化を遂げた。遅れをとりつつあったキスレブ、シェバト等諸外国の国情も落ち着き始め、世界崩壊寸前という悪夢から数年とは思えないほどの順調な流れが生まれている。
そういう背景から、世界的な関心を集める行事として、バルトロメイ・マルグレーテ夫妻の結婚一周年の記念式典が催される事になったのは、ごく自然な成り行きであるといえた。
それはあくまでもささやかであるが、けれど国をあげての一大イベントでもある。アヴェ、ニサン両国の首脳陣は一丸となってその晴れがましいイベントに臨む体制を作り上げた。
そうなってくると、当然個々へ課せられる仕事の量も多くなる。
立場が重要になればなるほど、課せられた責任も大きい。それは、すでに見習いの立場から正式な大統領補佐官に抜擢されていたミシェルが痛感する事実であり、また望むところでもあった。
「ふう…」
ようやく、引きも切らない雑事から解放されて、ミシェルはため息をつく。明日へと迫った式典の、大まかな段取りは水も漏らさぬ周到さで進められているが、その他細々とした諸準備は、刻一刻と増える一方だ。
不測の事態に対応できる、臨機応変の決断力。ミシェルが補佐官として頭角を表し始めた頃から、この能力に対する評価は高かった。だからこそ、今回の式典における事前準備の統括を任されたのだ。
大統領、直々に。
便宜上の執務室として与えられた個室で、ミシェルはごりごりと嫌な音を響かせながら肩を回す。ここ一ヶ月、ほとんど机にかじりつきっぱなしであり、官邸敷地内にある独身寮にすらまともに帰っていない現状だ。
当然、プライベートの時間など一切ない。ゆえに、もちろん会っていない。
一ヶ月以上。
ちらりとも。
「…はァ」
先ほど以上に重苦しいため息をつきながら、ミシェルはそろりと執務机の上の引出しを開けた。普段は施錠できるそこには、綺麗好きで整頓上手のミシェルとは思えないほど書類が散乱した机上とは打って変わって、たった一枚のポートレートだけが上品に納められている。
そこに映るブロンズグレイの髪に指を滑らせ、ミシェルは疲労で霞む視界を瞬かせた。
とりあえず今は、温度も感触も匂いも音も一切ない、平面状の彼女を見つめるだけで我慢する。
この繁忙の嵐が過ぎるのは、もう目の前のはずだから。
「キュウ…元気かなぁ…会いたいなあ…」
厳密に言えば、キュランもミシェルも、同じ敷地内に起居している。と言っても、それぞれの居住区も職場も、広大な面積の両端にあるため、会おうと思って気軽に会えるわけでもなかったが、少なくとも遠い異国の地に離れ離れになっていた過去を思えば、なんと近しい距離であろうか。
ミシェルが式典の準備を任された大任に就くまでは、それでも週に一度は時間を作り、お互い多忙であるから、蜜月とまではいかないが、ミシェルが清水の舞台から飛び降りるような覚悟で発展させた関係は、一歩一歩確実に、幸せへ向かって進んでいる気がする。
ミシェルはもう一度、ポートレートを慈しむように眺めた。半ば無理やり写し取った彼女は、気の強い瞳を僅かに反らして、細い眉を軽く寄せている。薄桃の唇を尖らせ、子供のように不機嫌を露にしている愛しい恋人に、疲れきったミシェルの神経がやわやわと癒される。
なんとお手軽なことだと、恐らくその場に誰かがいたら感心するであろうミシェルの純情な所作は、こんこん、と軽快に響いたノックの音で統制を欠いた。
「ぅわっ? はははっい!!」
慌てて、ミシェルはポートレートを引き出しに仕舞う。その際、誤って指を強く挟んでしまって涙が出たが、辛うじて扉が開く前に体裁は整えた。
「失礼します」
入室してきたのは、今年官邸入りしたばかりの若い女性官僚。短く切り揃えられた髪は、耳の辺りだけやや長めに伸ばされ、すらりとした長身とスマートな物腰から、まるで美少年と言っても差支えがない。
「お休み中のところ失礼いたします、シナモン補佐官」
「いや…大丈夫だよ、ナシュカ調査官」
慎重に引出しに鍵をかけながら、ミシェルが答える。ナシュカと呼ばれた女性官僚は、無駄を感じさせない動きで数歩前に出た。軍人のような足取りだった。
「先ほどの件、管理官との調整が取れました。シナモン補佐官の示唆した通り、やはり余分に部屋を確保した方が確実とのことです。宿泊施設との連携は、ナサニエル管理官に一任いたしました」
「ありがとう」
「それから、ニサン法王府より要請がありまして、今回お迎えするキスレブ共和国議長との会談の場を、近く持ちたいとのことでしたが」
「えぇ? あーっと、それは官房の管轄だなあ…長官に報告してくれる?」
さすがに、何でも屋といえ越権行為であると苦笑したミシェルに、ナシュカは顔色を変えず即答した。
「これはレブルック長官より直接の通達です」
「はぁ?! って、まさかまたこっちに押し付けるつもりなわけ!? ちょっと待ってよ、アレク長官~…」
ずるずる、と執務机に突っ伏して、ミシェルが情けない声をあげた。仮にも上司であるミシェルの子供じみた様子は歯牙にもかけず、ナシュカが冷たいアイスブルーの瞳を手にした紙面に向ける。
「委細はこちらに。後ほど、ニサンより担当者がお越しになるとのことです」
「後ほど? って、待ってよ、今はそれどころじゃ…」
「夕食前のご休憩を、打ち合わせに当てております」
「…僕に過労死しろっての?」
「長官が、シナモン補佐官ならできると、胸を張っておられました」
「無責任過ぎるよッ!!」
「そのように報告しておきます」
「…ナシュカ、もうイイ、もういいから…ちょっと独りにしてくれる?」
「それでは、打ち合わせの時間になり次第お迎えに上がります」
理想的な角度で頭を下げて、ナシュカはつかつかと退出した。その卒のない背中を呆然と眺めやって、ミシェルは独りごちる。
「…やっぱ、似てるなぁ…血も涙もない仕事っぷりとか…」
微かなミシェルの呟きに、扉を閉めかけたナシュカが「何か?」と問いかける。ミシェルは慌てて首を振り、ご苦労さま、と笑った。ナシュカは一礼して、静かに扉は閉まる。
彼女のいなくなった空間に目を向けて、ミシェルはため息をついた。
怒涛のような忙しさを見越してか、ミシェルが式典準備の統括に据えられると同時に、彼の補佐にと抜擢されたのが、ナシュカ・バークレー調査官だった。
元は、ウェルス種管轄の調査室に配属されていた彼女は、その高いポテンシャルを認められ、僅か一年足らずで今回の大任をもぎ取った実力者であり、しかも若干十八歳という若さに似合わぬ冷静な仕事振りと端正な容姿から、官僚内では二代目クールビューティーとの呼び声も高い。
そんな事を思いながら、ミシェルは栄えある『初代クールビューティー』と称された恋人の事を思って、再び表情を緩めさせた。
今のナシュカは、丁度二年程前のキュランを思わせる。勤勉で、有能で、少し融通が利かないところまでそっくりだ。
だからというわけではないが、ミシェルはナシュカを気に入っていた。彼女は本当に有能だったし、そんな彼女を自分の下につけたアレクシスの思惑も何となく想像ができる。
着実に人材が育っていくのは、政権が安定している証拠であり、国が潤う前兆だと、大統領が嬉しそうに語った事を思い出して、ミシェルは面映いような苦笑を浮かべた。
一歩一歩確実に、ミシェルは官僚としての力をつけていった。三年前、右も左も解らずに、ただ大統領を慕って、彼の手足となるため無謀にも官邸に乗りこんできた少年は、いつしか国の要に近い位置まで登り付めてきている。
それは彼の若さの賜物でもあり、天性の才覚の発芽ともいえた。ミシェルの昇進が目覚しければ目覚しいほど、彼を抜擢した大統領の先見の明も賞賛される事となり、ますますミシェルのやる気に火がつく。
所詮、何年経っても大統領フリークである事実は変わらないのが、ミシェルの長所であり短所でもあった。
何故ならば、彼は盲目的に大統領に従うあまり、大切な恋人との時間さえも、やむなく犠牲にしてしまえるのだから。
とは言えそれは、当の恋人も同じことであり、彼らは結局のところ、甘い恋愛とは無縁の生活に慣れきっているのであった。
「…それも問題だと思うけど…」
ふと呟き、ミシェルは椅子の背もたれに体重を預ける。柱時計を確認すると、恐らく打ち合わせの時間まであと数十分はあるはずだ。
その短い時間に、ミシェルは思う存分恋人の事を思う。思春期の子供じみた恋愛の仕方に、彼は自分たちらしいなと苦笑するしかなかった。
と、その時、再び扉が殴打された。思い描いたキュランの残像を打ち消すように、ミシェルは背もたれから起き上がり、どうぞ、と答える。また何か、ナシュカが雑務を押し付けに来たとばかり思っていたので、それは酷く無愛想に響いてしまった。
すると、ゆっくりと開かれた扉の向こうから、苦笑じみた声が届いた。
「…お邪魔します、ミシェル。今いいかな?」
「……っ!? だ、大教母様!?」
思いもよらない来客に、ミシェルは慌てて立ち上がる。あまりに驚いてしまって、そのまま椅子は背後に蹴倒されてしまい、耳障りな音が響いた。
「あっ…」
「あーあ、大丈夫? そんなに驚くとは思わなかった…ごめんね?」
くす、と苦笑して、まるで少女のように可憐に小首を傾げる。出会った頃からなにも変わらない、そのもの柔らかな仕草に、ミシェルは今更ながら緊張していた。
「い、いえ…。こちらにお渡りとは珍しいですね、何かありましたでしょうか?」
動揺を収めるために、思わず格式ばった言葉を出せば、案の定マルーは少しむくれる。
「ミシェルってば、ちょっと会わないうちにすっかり官僚っぽくなったね? …じゃあ私も、大教母として楚々たる言葉を用いなければなりませんか?」
後半は、わざと『大教母仕立て』の優雅さでからかったマルーに、ミシェルは決まり悪げに頭をかいた。
「あ、いえ…どうかいつも通りでお願いします。すみません、なんだか久しぶりだったので、緊張しました」
「ふふっ、でも本当、久しぶり。今回の式典準備は、ほとんどミシェルが仕切ってるって聞いたけど…大丈夫? 無理してるんじゃない?」
言いながら、マルーが心配そうにこちらにやって来る。ミシェルは慌てて執務机から回り込み、略式のソファへ促した。
「いいえ、大丈夫です。こんなところじゃ、大したお持て成しも出来ませんが…どうぞかけてください。コーヒーとか、あったかな…」
「あ、いいの。すぐに戻らなくちゃいけないから…この階の端で、今、ボクたちも打ち合わせしていたの。若がごねて休憩になったから、丁度いいと思って様子を見に来たんだ」
あっけらかんと言いながら、マルーは手をかざしてミシェルを向かいのソファに促す。
「ちょっと、ミシェルとお話したいことがあって」
「はあ…」
訝しむようにしながら、ミシェルは素直にソファに座った。思えば、大教母様だって明日の式典に向けて目の回る忙しさのはず。そんな中、わざわざ時間を見つけて自分に会いに来るなど、何か重要な用事でもあるのだろうか。
そんな事を思って身構えたミシェルに、けれどマルーはもの柔らかく微笑んだ。
「そんなにかしこまらなくていいよ。これは多分、おせっかいに近いと思うから」
「え?」
「あのね、ミシェル、最近キュランと会ってる?」
「は!?」
思いがけない単語に、ミシェルは高い声を上げる。はっとして口を押さえた彼に、マルーは僅かに肩を竦めた。
「ボクが言うのもなんだけどさ…なんだか二人とも、大分忙しくしてるみたいだから、心配になっちゃって。ふたりが仕事に追われてる元凶は、ボクたちのせいなんだけどね」
「い、いえ、そんな…僕もキュランも、大教母様たちのために働く事が本望なんですから、お気遣いはいりません」
きっぱりと答えて、ミシェルが眉を下げる。
「確かに今、あまり会う時間は取れてませんけど…でも、ひと段落つくまでの事です。僕もキュランも、自分達の優先事項はわきまえてますから、本当に心配しないで下さい」
「優先事項…か」
ぽつり、とマルーが呟く。それから、肩口を滑る茶褐色の髪をやんわりと背に払い、ひとつ吐息を漏らした。
「ねえ、ミシェル…。確かに、自分たちに任せられた責任や仕事は大事だよ。だけど、それを免罪符にしちゃいけないんじゃないかな」
「え…?」
「お互いの事を信頼しあうのは素敵なことだよね。だけど、全部が全部予定調和で、分かり合える関係なんて、ありえないよ」
「……」
マルーの言葉に、ミシェルは少し、返す言葉を失った。
マルーの言いたいことはわかる。けれど、他の誰でもない、目の前の彼女こそが、互いに信頼し合い、完璧に分かり合える相手と結ばれているはずではないのだろうか。
そんな疑問が顔に出たのか、マルーはミシェルを見つめたまま、苦笑じみた笑みを浮かべた。
「…あのね、ボクと若だって、完璧にお互いをわかってるわけじゃないんだよ?」
「え? でも…」
今では、アヴェ国いちの鴛鴦夫婦と賞される大統領夫妻の絆は、恐らく他の追随を許さないほど揺ぎ無いものであると、ミシェルは確信する。そこに至るまでの、決して平坦ではない道程などおくびにも出さないように、彼らは確実に幸せの道を選び進んでいた。
するとマルーは、大きな碧玉の瞳をやんわりと細めて、まるで子供を諭すような仕草で、ミシェルの瞳を見つめて言った。
「確かに、普通の人よりは、分かり合えてるかもしれない。でも、それでも、やっぱり言葉って欲しいよ。いつも会いたいって思う。どんなに近づいたって、所詮違う人間同士なんだもの。ここまでわかってればもういい、なんて、満足出来ないよ、きっと死ぬまで」
「…大教母様でも、そんなこと思うんですか…」
何となく、彼女と大統領の間に流れる空気は独特で、すでにそんな願いをかけなくとも、充分に繋がりあえていると思っていたために、その言葉には純粋に驚いた。マルーは悪戯っぽく笑って、ぽかんとしているミシェルを軽く睨む。
「ボクでもって、なに? あのね、ミシェル。どんなに物分りのいい人間でも、ひとつだけ、仕方がないことがあるって言ったのは、ミシェルでしょ?」
「え?」
「好きな人には好きでいて欲しい…それと同じ。好きな人のことだもん、どこまでわかってたってまだ足りない。言葉がなくたって信頼し合えるけど、言葉があったらなお嬉しい。…違う?」
「…ハイ」
微かに、頬を染めて。二年前とは見違えるほど、大人びた表情でミシェルが頷いた。
マルーは満足そうに頷いて、時計を見やる。いっけない、と少女のように舌を出し、優雅に立ち上がった。
「そろそろ戻らなきゃ、若に怒られちゃう。じゃあね、ミシェル。忙しいところに来てごめんなさい、でも、ホントに無理しないでね」
「はい、ありがとうございました、大教母様」
立ち上がり、爽やかに笑うミシェルを見上げて、マルーはふと沈黙する。真っ直ぐに、その大きな碧玉に見据えられて、ミシェルは条件反射で赤くなった。
「あ…あの? 何か…」
その好もしい純真さに、マルーの表情が和らぐ。彼女は何かを確信するように、軽く頷いた。
「…ミシェル、キュランをお願いね?」
「え? …はい、お任せください」
僅かに照れ臭そうに、けれどミシェルは胸を張って頷いた。マルーは嬉しそうにそれを受けて微笑む。花のように穏やかで、慈愛に満ちた眼差しだった。
そのまま退室したマルーの余韻に浸るように、ミシェルは長い吐息をつく。何がどう変わったわけではないのだけど、まるで自分が大層な偉業を成し遂げたような充足感があった。
そのまま機嫌よく柱時計を眺めやれば、そろそろ打ち合わせの時間であると気づき、やにわにやる気が出る。我ながら単純すぎるかと苦笑していたところへ、ちょうどよいタイミングのノックが響いた。
「ああ、今行くよ、ナシュカ」
そう返すと、扉は一瞬躊躇したように間を空けて、次いでゆっくりと開かれた。そこに立っていたのは、卒のない有能な部下ではなく、初めて見る顔の、小柄なシスターだった。
「あの、失礼いたします…っ」
「あ…失礼、お客様でしたか。何かご用ですか?」
早合点を苦笑しながら、ミシェルが穏やかに問い掛ける。執務室の扉を開けたはいいけれど、どうにも緊張しているような初々しいシスターの様子に、数年前の自分と重なる部分を見つけて、微笑が浮かんだ。
けれどシスターは、小作りな童顔を僅かに強張らせて、あの、と声を震わせる。
「私は、ニサン正教アヴェ支部ウェルス対策室所属の、シスター・エセル・モーガンと申します。あの、実はこの後、シナモン補佐官との打ち合わせを予定しておりましたシスターが、急に来られなくなってしまいまして、そのご連絡に窺いました…」
子供の遣いのようなたどたどしさに苦笑を覚えながら、ミシェルはそうですか、と鷹揚に頷く。
「解りました。では、後日改めて機会を設けましょう。担当シスターのお名前は?」
穏やかなミシェルの様子に、シスターモーガンは目に見えてほっとしていた。淡い微笑さえ返しながら、ミシェルを見上げて素直に答える。
「はい、ウェルス対策室副室長の、シスターヒューイットです」
「え?」
途端、ミシェルの顔色が変わる。その変化に、シスターモーガンは再び、愛らしい顔を引きつらせた。
「あのっ、あの、なにか?」
「いや…それで、シスターヒューイットは何故、打ち合わせに来られなくなったのですか?」
表面上は穏やかに、けれど真っ直ぐシスターモーガンを見据える瞳には、先ほどまでの優雅な様子は見当たらない。シスターモーガンは条件反射的に謝った。
「す、すみません、詳しいことは私にも…あの、シスターヒューイットがお倒れになって、すぐにこちらに遣わされたもので…」
「倒れた? 倒れたって、キュランが!? …っそれで、今どこに!?」
「えっ、あの、あの、すみませ~~ん、案内してくださった女性の方にお任せしてきましたので、私にも…」
ほとんど掴みかからんばかりのミシェルの様相に、シスターモーガンは子供のように泣き出してしまった。それにはっと我に返って、ミシェルはああ、と自分の前髪をかきあげる。
「ごめん、君のせいじゃない! 案内してくれた女性…ナシュカ調査員だね、彼女に?」
「は…はい…あの、私、まだ見習で、今日はシスターヒューイットのお手伝いのためにご一緒させていただいてて、それで…」
「うん、うん。わかった。じゃあ、君はこのまま支部へ戻って、室長に報告して。シスターヒューイットは、アヴェの医療班が預かりますって。出来るね?」
「は、はいっ…」
シスターモーガンが頷くのを確認するや否や、ミシェルは風のように彼女をすり抜け、部屋を出て行った。その後ろ姿を泣きべそをかきながら見送って、シスターモーガンは気合を入れなおしたように涙を拭い、パタパタとニサン正教アヴェ支部へと急いだ。
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