It's time to wake up, Honey?



 朝起きてから夜眠るまで

 幸せすぎてなんだか怖い

 夢も見ないで夢見てる

 そんな気になる一週間




 -XAS-SERIES-
 It's time to wake up, Honey?




 あのね、と、柔らかく掠れた声で囁かれたのは、ちょうどうとうとと、まどろみかけた時だった。
 まだ、腕に馴染んだとはいえない新鮮な重みを伝える暖かな肌。自分の右腕を枕にしていた頭が、くすぐったい動きで身じろぐ。
「…ん~…?」
 半分夢心地のまま唸るように答えると、ちゃんと聞いてよ、と、小さく抗議された。
「何だよ…」
 仕方なく、うっすらと瞳を開いたバルトは、見えないのを承知で薄闇に目を凝らした。案の定、腕に抱いた小さな身体は、距離が近すぎることもあってまったく見られない。ただ伝わるのはその柔らかさと、花のような香りと、僅かに湿った肌の感触。
 それだけで、世界を掌握したような充足感を味わえる。
「あのね…お願い、じゃない、相談があるんだ」
「そうだん…」
「うん。あのね…って、若! ちょっと起きて、ねえ起きてよ~」
 ぺちぺち、と、軽く頬がはたかれる。その小さな指をうるさそうに掴んで、丁寧に、一本一本くちづけを落とした。
「っだ、だから起きてってばぁ~~」
「起きてる…」
 ちゅ。
 暗闇の中、互いのぬくもりだけがそこにある空間。
 もう少しだけその空気に浸っていたくて、バルトは瞳を瞑ったまま、手にした細い指に順番にくちづける。平素なら決して出来ない甘ったるい愛撫も、今が夜で、場所が寝台で、相手が新妻ならば、許されることだと思う。
「やっ…もう~、若、くすぐったいってば…」
 困ったように震える、甘い吐息。幼い頃からともに育った、この世で一番分かり合えると思っていた従妹の全てに、翻弄され続けての一週間は、まだ終わる気配さえ見えない。
 このまま一生ずっと、こんな風に振り回され続けるのもいい。いつかはそれが当然と思える日が来るんだろう。すぐそばにあるこのぬくもりを、肌を、当然と思える日が、いつか…来るだろうか。
「ねえ…ねえ若、聞いてる? 寝ちゃった?」
「…ん、聞いてる」
 くぐもった声で答えると、マルーはほっとしたように、あのね、と続けた。
「実は…その、明日から、少しの間、ニサンに行かなきゃいけなくなったんだけど」
「あ?」
 微温湯にたゆたうようだった意識が、一気に覚醒する。冷や水を浴びせられたような衝撃に、冗談ではなく青筋が立った。
 その空気を肌越しに感じて、マルーは先手を打つように言葉を募る。
「えと、しばらくは、アヴェを基盤に展開するはずだった改革がね、ちょっと、うまくいかないみたいで…」
「そんなもん、シスターたちでなんとかなるだろ」
「そういうわけにもいかないの。大教母が主なんだから」
「アヴェで采配振るえば」
「ニサンの司祭たちと、折衝しなきゃいけないことが多いの。ね、お願い、5日…4日で戻るから」
「………」
 哀願するような声音に、バルトは不機嫌にため息をついた。
 まだ、一週間だ。自分たちが結婚して、同じ部屋で起居するようになって、朝起きて夜寝るまで、絶えずお互いの傍に居られるという、目の眩むような日常を手に入れて、まだ一週間。
 それなのにもう、一時たりとも手放したくなくなっている、自分の色ボケ加減に、嫌気がさす。
「わかぁ…」
 その不機嫌さを、自分に向けられた不興と受け取って、マルーの声音が暗く沈んだ。泣き出す前の、甘えるような、こちらの骨を全て抜き取るようなその声に、バルトは脊髄反射でなんでもしたくなる。
「3日で帰って来い」
 気づいた時には、そう言っていた。存外あっさりと承服した夫に、マルーは軽い驚きと、確かな喜びにはしゃいだ声を上げる。
「ありがとう、若!」
「………」
 嬉しそうなマルーとは裏腹に、バルトの機嫌は当然よろしくない。仕方がないこととはいえ、この濃密で然るべき時期に、3日…72時間もの間、離れて暮らさなければならないなんて。
 不条理だ。
「んっ…や、わか」
 不機嫌な男の機嫌の良い指先が、湿った夜気の中蠢いた。形ばかりの抵抗を示しながら、ようやっとコツを掴み始めた初々しい花嫁の身体が、しっとりと温度を高める。
 眠気はとうに消え去っていた。バルトは、がっついていると自覚しながらも、このとろけるような幸福感に、がむしゃらに手を伸ばす。
 何しろ明日…否もう今日から、72時間。望むものを手に入れられない底無き渇望を少しでも癒せるよう、愛妻のすべてをこの身に叩き込む必要があったのだ。



 2日後。
「…はぁ…」
 すでに決裁の下っている書類を悪戯に弄びながら、バルトは沈鬱なため息をついた。傍らで几帳面に書面をそろえていた補佐官が、またか、という表情を巧みに隠しながら手早に動く。
「お疲れ様でございました、大統領。本日の御政務は、これで終了です」
 軟体動物のようにぐねぐねと机に突っ伏すバルトの金の髪に、労いの声をかけると、補佐官はさっさと退出を決め込む。無情なようだが、昨夜など、身体の具合でも悪いのかと忠義な心配が仇となり、延々八つ当たりされた前例を鑑みれば、下手な同情はわが身を滅ぼしかねない。
 独りになった執務室で、バルトは再び、特大のため息をついた。
「…はぁ…」
 机に額を着けているため、その声音は低くくぐもっている。そのいかにも惨めったらしい響きに、バルトは虚勢を張って頭を上げかけ、そして誰もいない現実に甘え、再び撃沈した。
 どうせもうバレている。官邸内に余すことなく、大統領不調の報は知れ渡っているだろう。
 そしてその原因も。…大教母のニサン帰都は、何しろ公式行事であるから。
 結婚前は、様々な事情により、ともにいる時間よりも離れている時の方が膨大に勝っていた大統領夫妻は、けれど無事に華燭の典を挙げて以降は、世間一般で言うところの蜜月をこれ以上なく満喫していた。それぞれの政務の許す限り、一分一秒も無駄にせず、お互いの傍にいたものだ。
 だから、数えで丸2日、こんなに長く離れているのは、結婚後初めてのことなのである。
 今までの不遇を思えば、たかが2日…と、思うかもしれない。けれど、一度心底からの幸福を味わってしまった者にとって、その時間は決して短いものとは言えない。
 どこかの天才科学者が小難しい理論を用いなくとも、その長さは平素の何百倍にも膨れ上がって、バルトの機嫌を急降下させていた。
 胃の腑の底からせり出すような、長い長いため息をついて、バルトはのそりと起き上がる。
 言っても栓ないことだとわかっていても、これから一人寝の居室に戻るのはいかにも惨めだった。
 がりがりと、腑抜けた頭を掻き毟り、ここ数年であがったはずの男振りを情けなく歪ませて、執務室を後にする。毛足の長い絨毯を踏みしめ歩くと、後方から声がかかった。
「大統領」
 バルトの機嫌を熟知している部下たちは、執務時間外は極力彼に近づこうとしない。であるのに、私室に戻ろうとしていた背中を呼び止めたのは、先ほど足早に執務室を出て行ったはずの補佐官だった。
「ンだよ」
 暗く応えたバルトに、補佐官は狼の鼻面に引き倒された哀れな子羊さながら、青白い顔でもじもじと口ごもった。
「あっあのですね…その」
 明瞭簡潔を美徳とする補佐官にあるまじき動揺に、バルトが苛立ったように視線を鋭くさせる。短気この上ない上司の様子に、若い補佐官は自棄になったように上ずった声を上げた。
「今しがた、ニサンから通信が入りまして」
「早く言えよ!」
 補佐官の言葉をろくに聞きもせず、バルトは吠えて踵を返した。通信室に駆け込もうとした彼の背に、再び、補佐官の悲痛な自棄声が響く。
「いえその実は大教母様ご帰還が延期されたとの報告でッ」
「………あ?」
 ドスドスと足音荒く駆け出していたバルトが、ぴたりと止まる。ゆらりと振り返った彼の、そのあまりの形相に恐れをなした補佐官の寿命が、確実に1年すり減った。
「どーゆーことだ」
 低い低いバルトの声音。縮み上がった補佐官に当たっても仕方がないと、わかってはいる。
 けれど、告げられた事実のあまりの不条理さに、なんでもいいから手当たり次第、破壊して回りたい危険な衝動を抑えきることは、一国を治めるよりも難しい話だった。



 ニサンの簡素な執務室に、カリカリとペンの流れる音が響いていた。
 何枚かのそれなりに重要な報告書に目を通し、適正な署名を入れ終えた後、ふう、と軽く嘆息をつく。無意識に流した視線が、柱時計の無機質な硝子面に跳ね返された。
 時刻はとうに夜半過ぎ。多忙な大教母としては、明日に備えて早めに就寝するべきだった。
 明日は、無理やりメンバー入りした視察の予定が立っている。本来であれば、アヴェへの帰途に着くはずだった方舟は、大きく進路を違え、ニサンの北西に位置するウェルス種保護区に旅立つ手はずだ。
 その視察には、一週間かかる。ゆえに、アヴェへの帰還も、7日後…本来の予定の倍以上延期されたその報告を、バルトはどんな思いで聞いただろう?
「……」
 かつん、と、ペン先が震えた。はっとして目を開けると、もう少しでインク壷を倒してしまうところだった。慌てて手を離し、書面を机の隅に移動させる。
 これ以上、ミスをしてシスターたちの手を煩わせては、何のためにニサンにやってきたかわからない。
 それでなくとも、マルーがこの3日でやり遂げたことは、単純なミスを繰り返し、心ここにあらずの風情を何度も指摘され、言外に、何故今時期わざわざニサンにやってきたのか…早めにアヴェに戻り、大統領の傍らに居てもらった方が、ニサン政府としても都合がいい、というような、司教たちの苦笑を買うことだけだった。
「…みんなに迷惑かけてるなあ…」
 ふう、と重くため息をつき、マルーが机に額を預ける。身体が重く、息が浅い。
 体調は悪くはないはずなのに、呼吸をすることすら不自由だ。そんな自分に小さく舌打ちして、マルーは意識的に姿勢を正す。まるで、毅然と前を向いていれば、望む自分になれるよう。
 けれどその瞬間、同時に襲った耐え難い胸の痛みにぐっと瞳を瞑り、それから微かに首を振った。
 ……まだ、だめ。でももう少し、もう少しだけがんばらせて……お願い。
 苦しむように息を詰め、マルーはそっと瞳を開いた。
 その時、正面の扉が勢いよく開かれて、正真正銘驚いた彼女が、思わず椅子から3センチほど浮き上がる。
「っ!」
 息を飲んだその先に立っていた、愛しい男の形相に、二度目の驚きで目が回りそうだった。
「わ、わ、わか?」
 唐突に現れた夫に、マルーは反応できずに喘いだ。夜半、先触れもなく訪れた男が、本当に、何千キロも離れている国に居るはずの、夫だろうか? 疑っても仕方がないようなことを疑い、信じても信じられない現実に再び喘ぐ。
 そんな彼女の正面で、ずかずかと歩を進めたバルトが、ばしん! と勢いよく執務机を引っ叩いた。
「帰るぞ」
「っ???」
 簡潔に告げられた言葉に、マルーが口をパクパクとさせる。可哀想なほど混乱している妻に、けれどバルトは優しい言葉ひとつかけず、強引としか言いようのない腕を伸ばして、細い身体を抱き寄せた。
「あっ」
 ぐい、と腕を引かれて、思わず机にぶつかったマルーが、短く悲鳴を上げる。インク壷は見事に倒れ、幸い書面に被害は及ぼさなかったが、机上に黒い湖が広がった。
「ま、ま、待って若、インクが」
「しゃらくせえ、黙ってろ」
 欠片も取り合わず、バルトはずんずんと歩を進めた。ほとんど横抱きにされた荷物のように、決定権も拒否権も奪われた状態で、マルーが悲鳴のような声を上げる。
「待って若待って若! せめてインクを拭かせて、書類が汚れちゃうよ!」
「……」
 その言葉に、バルトは音を立てるほどきつく奥歯を噛み締めた。そのまま無言で踵を返し、執務机にたどり着くと、適当にその辺にあった布でインクをふき取ろうとする。マルーが慌てて抗議した。
「だ、だめだめだめ! それはだめ、お気に入りのハンカチだからっ」
「………」
「だめっ、それもだめ、ああっ、そっちもだめだったら~!」
「だあああああッッッ!!」
 とうとう、業を煮やしたバルトが、乱暴にマルーから手を離す。ようやくまともに地面に足をつけたマルーが、手早く戸棚を漁り、ペーパータオルで黒い湖を拭った。量が少なかったのが幸いして、何度か作業を繰り返すと、一応机上は美しくなった。
 ほっとしたのもつかの間、マルーの細腰が、再びバルトの熱い手に掴まれる。ぎょっとして思わず飛びのいたマルーが、再びがつんとぶつかった先は、応接用のソファセットだった。
「あっ」
 バランスを崩したマルーが後ろ向きに倒れるのを、バルトは止めるでもなく、あろうことかそのまま重力に従って身を倒してくる。衝撃を覚悟して目を瞑ったマルーは、けれどソファに倒れこむはずの後頭部や背が、力強い腕に守られたことに気づいた。それと同時に、胸の上に、苦しいほどの熱と重みを感じて、息を止める。
 マルーに覆い被さり、全身で彼女を閉じ込めたまま、バルトは沈黙した。
「………わ…か…?」
 潰されない程度の重量をかけられて、身動ぎ一つ出来ないまま、マルーは恐る恐る夫を呼んだ。自分の上で沈黙する、その身体からひしひしと感じる圧力。冷たいそれに、今更のように胃の辺りが苦しくなる。
 唯一自由になる両手を、恐る恐る、彼の背に滑らせた。かさついた金の髪が指に絡むと、ぴくり、と大きな身体が震える。マルーの喉下に埋まっていた唇が、小さく何か、呟いた。
「若…」
 そっと、囁いて。明るい天井を見据えながら、マルーは、自分に覆い被さる男の熱を愛撫した。この2日、どれほど求めていたか知れない、恋しい男の背を撫でていると、彼の全身から、緊張と怒気が薄れていくのが直に伝わってきた。
「…なんで…」
「え?」
 喉元で、くぐもった低い声が響く。その微妙な刺激に、震えそうになる喉を叱咤して、マルーが穏やかに問い返した。
「何で、約束を破った」
 はっきりとした声音に、マルーの言葉が詰まった。その動揺は直に伝わり、彼女を押しつぶしていた圧力が、ぐ、と力を増す。
 彼の怒りの波動に、マルーは泣きそうになった自分を叱咤した。怒られるのも、責められるのも、覚悟していたじゃないか。
 そう、こんな場面は予想のうちだ。ちゃんと、上手い説明も考えている…今こそそれが、役に立つのに。
 たった2日、離れていただけで、完璧な理論も冷静な対処も、宇宙の彼方へ飛んでいってしまう。
 こんなことじゃいけないと、そう思ったから、この手を離したのに。
「マルー」
 沈黙に焦れたのか、バルトがそっと問い重ねた。先ほどまでとぐろを巻いていた怒りの空気は払拭され、限りなく優しい、穏やかな声音が耳朶に響く。
「ちゃんと説明すれば、俺は聞くんだぜ?」
 まるで子供が拗ねるように、バルトが言った。まるでそう言い訳すれば、自分の持てる権限を総動員して、遠い異国に駆けつけた、この傍迷惑な顛末を、不問に伏せるというように。
 マルーはそれに、完全に白旗をあげるよう、幸せなため息をついた。
「…ゴメンね」
「それはいいから…理由を言えよ。じゃねえと、このまま軟禁するぞ。アヴェの奴らは諸手を上げて協力するぜ」
 二度とこんな、馬鹿なことを起こさないように。いくらなんでも、二度も三度も大陸横断の強行軍など、軽々しくできるものじゃない。そんなことをさせるくらいなら、大教母軟禁の片棒を担ぐことくらい、造作もないことなのだ、アヴェ国官吏一同としては。
 そんな、冗談だか脅しだかわからないようなことを呟く夫に、マルーは思わず笑ってしまう。
「それは、困るなぁ…これ以上、使い物にならなくなっちゃったら、本気で大教母失格だ」
「は?」
 くすくすと、自分の下で震えるマルーの言葉に、バルトは大仰に眉根を寄せた。
「どういう意味だよ、それ?」
「そのまんまの意味。もし、軟禁なんて言う、若の傍にずっといられる公明正大…でもないかな? とにかく、そんな理由が手に入ったら、ボクは多分もう絶対、若から離れられなくなっちゃうから…」
 そんなことを囁いて、甘い微笑を浮かべるはずの碧玉の瞳は、なぜか憂いを含んでいた。
「おい…それって、どう解釈すればいいんだ? 俺の傍にいたくないって話か?」
 言外に、まさかな、なんて、自信たっぷりな響きを匂わせたくせに、やけに心細げにこちらを覗き込む片粒の蒼さに、マルーは限りなく優しい笑みを返す。
「まさか。そうじゃなくて…逆。今だって、たった2日でもうダメなのに、これ以上幸せになっちゃったら…どうすればいいの」
「どうすればって…」
 マルーにしては珍しいほどの、甘い甘い戯言。会えなかった2日間を穴埋めして余りあるその美味しいシチュエーションに、危うくやに下がりかけたバルトの眼前で、けれどマルーはくすくすと、泣きそうな顔で笑っている。
 情緒不安定な新妻の真意を探る前に、バルトはぎゅっと、優しい力で彼女を抱き直した。
「なあ。たった2日でもうダメって、どういう意味だ? お前も、俺に会いたかったってこと?」
「…そうだよ」
「だったらなんで、約束の3日を破って、一週間の視察なんて組んだんだよ。しかも、無理やりスケジュール合わせたって? 大教母随行なんて、急遽決められるもんじゃねえだろ。お前らしくもねえ、無茶しやがって」
「………」
「…俺は、今更お前になに言われたって、驚かねえし怒らねえぞ。ちゃんと理由を言えば、どんなスケジュールだって飲んでやる。いや…別に、無理して仕事を入れなくたって、ちゃんと距離くらいあけてやれる。舐めんなよ」
「っ!」
 腕の中で、マルーの身体がびくんと震えた。図星をさされたらしいその反応に、バルトはふう、とため息をつく。
「あのなあ、俺たち何年の付き合いだと思ってんだよ? 他の奴らはごまかせたって、お互いを出し抜こうなんて不可能に近いぜ」
「…わか…」
「…ま、付き合いが長いから、逆に言いにくいこともあるだろうけどな。けど、言わなきゃわかんねえこともあるだろ? 俺らは違う人間なんだし…男と女、なワケだし。イロイロ、気付かねえことってあるんだ。そんな時、いちいち理由つけて逃げられたんじゃ、俺だって情けねえよ」
 ふ、と、男臭い苦笑を浮かべて、まるで小さな子供をあやすように、優しく髪を撫でる腕に、マルーは思わず、喉を震わせた。
「そうじゃないよっ」
 叫ぶように言って、マルーがバルトの首に手を伸ばす。ぶつけるように重なった唇は、どこかぎこちなくて、技巧も情緒もまるでなくて、夫婦というよりは、付き合い始めの恋人同士のような、甘酸っぱい味がした。
「そうじゃ、ないよう…」
 唇が触れるほどの至近距離で、マルーが滲んだ声で呟く。今すぐそれを塞いで埋めて、ぎこちないくちづけではどうにもできないジレンマを果たしたいと、バルトの本能は叫ぶのだけれど、それをどうにか押し留めながら、ぎりぎりの理性で囁いた。
「じゃあ、なんだよ。言えよ、聞いてやるから」
「……だって……」
「うん」
「だって、このままじゃボク、幸せすぎてダメになっちゃうと思うんだ…」
「…は?」
 思わず、呆れた声が出る。そんなバルトを、マルーは赤い目元でキッと睨み、正真正銘真剣な面持ちで言った。
「ホントだよ! その証拠に、たった2日離れてただけで、もう、全然ダメだもん。話は聞き逃すし、経典は落っことしちゃうし、階段で躓いて助けられたのなんか、3回もあったし…」
「………」
「いつでも、どこでも、若のことばっかり考えちゃって…なんかもうこれって中毒? って感じで…このままじゃまずいって、真剣に思ったんだよ。だから、少し距離を置こうって思ったんだ。せめて、昔みたいに、多少離れていたって、まともに生活できるくらいになるまでは…って」
「………」
「でも、だからって、若になんにも言わないでゴメンね。なんだか、相談しちゃったら…ボクばっかりそんな、めろめろになっちゃってるって言うか、新婚ボケしちゃってるのって、カッコ悪いなあ、とか…見栄張っちゃって…」
「………」
「なんかもう…恥ずかしいなあ……」
 そう言って、真っ赤な顔を隠すように、バルトの胸に顔を埋めるマルーに、バルトは当然、咄嗟には反応できずに固まっていた。
 それでも、じんわりと胸に広がるマルーの台詞に、どうしようもないほど歓喜する心臓が、ばくばくと血気盛んに血液を送り出して、多分、マルーと同じくらい、真っ赤になった顔のまま、まるで恋愛の初心者のように、不器用なくちづけで答えを返した。
 多分今はそれどころじゃないから、明日、朝起きたら一番に伝えなければ。
 真剣に、幸せすぎて毎日怖いって思っていたのは、一緒なんだって。
 2日どころか1日だって、傍にいられないことが堪えていたのは、俺も同じ。
 だけどそこで開き直って、どうせ幸せなら、この幸せがスタンダードになるくらい、思い切り満喫してやろうと思えたポジティブさを、長い時間をかけてでも、可愛い新妻に教え込まなくてはいけない。
 どうしたって最終的には、自分に課せられた責任やらなにやらを、忘れることなんて不可能なんだから、許されている間くらいは大っぴらに、幸せに浸るのも大切な。
 大切な、大統領と大教母の、務めなのだと。


 でも今くらいは、ただの男とただの女に戻ったって構わない。
 そうだろ? という問いの代わりに、夢にまで見た肌に溺れた。
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